【204】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(1):日本橋~新町宿

最初に申し上げますが、このタイトルのブログ記事では、特に中山道を歩く方や歴史を訪ねようとされる目的で検索エンジンからお越しの方には申し訳ありませんが、まったく参考になりません。
鉄道好きなオッサンが鉄道に乗るために、その目的を無理やり作って列車に乗り歩き、撮り歩いただけの内容だからです。
その辺をご理解の上で、ご覧ください。

今回は、日本橋から中山道を順に訪れたときの行程と、そのときに出会った列車の写真などを紹介することにします。
【202】 中山道宿場巡りの旅:はじめにの続きになります。

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【第一日】2005年5月27日
日本橋~1.板橋宿~2.蕨宿~3.浦和宿~4.大宮宿~5.上尾宿~6.桶川宿

東海道新幹線で東京駅へ。八重洲口から出て、日本橋まで歩いて起点である日本橋へと向かいました。
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重厚な日本橋は1911年(明治44年)に造られた石造2連のアーチ橋で19代目に当たるそうです。
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ここから中山道が始まりました。神田駅まで中山道を歩いて、神田からは中央快速線で新宿に向かいました。
この後池袋で成田エクスプレス253系に出会いました。
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現在成田エクスプレスは後継車E259 系によって運転されていますが、自分の中では253系はJR化後の「新しい」車両と思っています。

埼京線で板橋駅下車。1キロくらい離れたところが板橋宿なので歩いて宿場へ行った後は板橋駅に戻らず十条駅へと歩きました。埼京線で赤羽、ここで京浜東北線に乗換え、蕨駅、浦和駅、大宮駅、高崎線に入って上尾駅、桶川駅と乗り降りして駅名と同名の各宿場へ行ってきました。
この日はこの桶川から歩いて行けるビジホで1泊でした。

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【第2日】2005年5月28日
7.鴻巣宿~8.熊谷宿~9.深谷宿~10.本庄宿~11.新町宿

桶川駅での211系。異郷で東海地区と同じ顔の電車が走っていると国鉄の名残のような気がします。
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高崎線で鴻巣駅、熊谷駅、深谷駅と乗り降りして、駅名と同名の宿場へ行きました。
深谷駅の東京駅もどきの造りは立派ですが、本物のレンガではなくレンガ調外装材が使ってあるのだそうです。
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このあと、本庄駅、新町駅で乗り降りして、本庄宿と新町宿へ行って今回の中山道宿場巡りは終了とします。時間はまだ早いのですが、実はこれから行くところがあるのです。

その行き先はここです(^_^;)

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この日は「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」開催日でした。
はやい話が、この日に合わせて中山道宿場巡りの旅をスタートさせたというだけのことでした。
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中山道に名を借りた今回の鉄分補給の旅は終わりです(^_^)/~

このあとは【206】 中山道宿場巡りで見た鉄道風景(2):倉賀野宿~追分宿へ続きます。

この記事へのコメント

  • 京阪快急3000

    おはようございます。
    「中仙道宿場巡りの旅」、いよいよスタートですね。
    今回の記事では、最後の2枚の写真(ディーゼル機関車(DD51?)と2両のEF58)が、自分としては印象に残りました。
    2011年09月22日 06:50
  • しなの7号

    京阪快急3000様 こんばんは。
    どうでもいい用事ながら首都圏へ行く用事も滅多にないので、いろいろな目的を兼ねて出かけました。どちらがメインの目的かわからないですね(^_^;)
    2011年09月22日 22:36
  • 貨車区一貧乏

    熊谷までは馴染み深いところですが、今後の行程が楽しみです^^
     旧大宮工場でもイベントが開催されているんですね
    ふだん見ることができないところですので、鉄分補給には最適なところですね^^
     民営化前後には私たち客貨車に携わる者が仕事が無くなり、貨物の機関区、貨車区(後に統合)旅客の電車区、車掌区、或いは工場へと転勤していきました。
    工場は本社直轄なので、管理局下の現場からはほとんど異動が無理な所なので、民営化がもたらした副産物と言えましょう
     当時首都圏の工場は 大船、大井、新小岩車セ、大宮など車種別に全般検査をしていました。
    いまの車両では以前のように、何十年も使用するといったコンセプトではなくなっていますので、工場のあり方も徐々に変わってきてるんでしょうね。
    2011年09月23日 01:52
  • しなの7号

    貨車区一貧乏様 おはようございます。
    JRおおみや鉄道ふれあいフェアは十数年前から開催されているようですね。中京圏ではこうした大規模の恒例イベントはないので、人込みは嫌いですが大宮には何回か行ったことがあります。

    そういえば身近な場所にあった国鉄名古屋工場には列車掛の養成期間中に鉄道学園から見学に行ったことがありました。また、貨車区にも出向いて実習がありました。それらの現場も私の現役時代とはおおきく変わっているだけでなく、統合や廃止で、そこに働いていた職員ともども跡形もなくなっているところが目立ち、時の流れを感じます。
    2011年09月23日 06:54
  • hmd

    しなの7号さん、こんばんは。
    台風も通り過ぎて、一気に秋の風情になりました。

    早速、中山道鉄道行脚ですね (^_^)/ 鉄道利用ですと早いです。宿場間を観光しながら歩くと、一日最大三宿が限界だと思います(10~15km程度)。徒歩時代は、夜明け前に出発し、成人大人は八里から十里(約40km)歩いたそうですので、今の人よりも小さい体格であるに関わらず、遥かに健脚だったと感じる所です(女性子供は、五里から八里との事です)。
    大宮にも見学されたそうで、鉄分込みですね(笑)
    2011年09月23日 19:51
  • しなの7号

    hmd様 こんばんは。
    鉄道の力を借りてのスタートでしたが、鉄道が中山道から少し離れて敷設されている宿場が多くて、駅から中山道までの連絡道路が駅前商店街に発展したというパターンが多かったように思います。そうした駅前通りから中山道へ出て宿場を隅から隅まで見てまた駅へ戻るという繰り返し。実は意外に歩行距離が多くなってしまいました(^_^;)
    昔の人は健脚だったんですね。
    いつもコメントありがとうございます。
    2011年09月23日 21:55

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