【207】 乗務した車両:スユニ60、スユニ61

スユニは荷物室と郵便室が半分ずつの客車で、タイトルの2形式はいずれもマニ60やマニ61同様、鋼体化客車と言われるグループです。

スユニ60は鋼体化改造で誕生した形式で、総数67両。郵便6トン、荷物4トン。
画像

スユニ61はいったん鋼体化改造されたオハニ61やオハユニ61の再改造車で、総数90両。郵便5トン、荷物5トン。
画像

このほか鋼体化と関係のないスロフ53からの改造車も5両スユニ61の300番台車として編入されていました。

私が乗務していた範囲では、長野運転所にスユニ60とスユニ61が、竜華客貨車区にスユニ61が、それぞれ配置されていましたので、中央西線~篠ノ井線及び関西本線~紀勢本線で乗務していました。長野運転所では2形式が存在していたわけですが、両形式の違いである郵便と荷物の積載重量の違いは考慮されず、共通運用されていました。積載重量の違いは、荷物室と郵便室の面積差によるものと思われ、下の写真のように、スユニ60(上)に比べ、種車のオハニ61の荷物室をそのまま利用し客室部分を郵便室に改造したスユニ61(下)の荷物室(向かって左側)は小さいのが判ります。
画像
両形式とも郵便室には鉄道郵便局員が乗務しますので、車両中央部に共用のトイレと洗面所がありました。
類似の車両として、例によって?碓氷峠鉄道文化むらのオハユニ61の荷物室の様子をご覧ください。
画像

こちらは郵便室内です。
画像

竜華客貨車区所属車両には、前述の少数派であるスロフ53からの改造のスユニ61も305号が1両だけ含まれていて、関西本線で乗務しました。下の写真がその車両です。写真では判りにくいですが、荷物室の両開き扉の後の窓が大きいので区別できました。
昭和54年1月21日 関西本線 荷4044列車です。荷扱専務車掌(通称 客専に対し荷専と呼ばれます。)が河曲駅で出発信号が変わるのを待っているところです。無人駅なので荷専が無線機で機関士に出発合図を送ります。
画像


このように、乗務掛時代には、多くの車種に乗務しましたが、その列車のなかの1両に乗務して作業をするという性格上、列車の編成を記録するということはできませんでした。乗務した車両を記録することは時折やっていたので、それを見ながら、こうして記事を書いていますが、そのとき変わった車種に乗って何か気がついたことがあるかと問われても全く憶えていないのが実態です。
しかし、乗務掛から列車掛を経て車掌になったとき、再び短区間ながら荷物列車に乗る機会を得ました。
当時、荷物の取扱が、大拠点駅では旅客と分離されつつありました。名古屋駅でも一部の新聞紙などを除き荷物の取り扱いを熱田駅に分離させたことによって、名古屋熱田間に小運転の荷物列車が運転されるようになりました。その一部列車は全部の車両が回送や締切車又はパレット車であって荷扱専務車掌が乗務しない列車でした。そのような列車には直接荷物を扱う荷扱専務車掌が乗務していないので、普通車掌が乗務したのです。このときは車掌=列車全体の責任者=であることから、(というより半分以上は趣味で)編成を記録していました。その中から参考までに一例をご覧いただきましょう。

昭和57年(1982)6月3日
東海道本線 荷2040列車
運転区間 名古屋~熱田
乗務区間 名古屋10:31~熱田10:40

DD51 1037(亀)
スユニ61   23 天リウ 天郵3(回送)
マ ニ36 2149 名ナコ 名荷23
マ ニ44 2031 名ナコ 名荷201B
マ ニ36 2136 名ナコ 名荷2 
マ ニ36 2145 長ナノ 長荷21(回送)
マ ニ60 2042 名ナコ 名荷22(回送) 
マ ニ36 2044 名ナコ 名荷21(回送)
ワ キ8963    名ナコ 名荷251(回送) 
マ ニ60 2065 名ナコ 名荷24(回送) 
マ ニ44 2030 名ナコ 名荷201A(回送) 
マ ニ60 2453 名ナコ 名荷1(回送)

この荷物列車、ご覧のようにほとんどが回送車です。
これらの回送車は熱田の荷物基地で荷物を積み込むために留置先の名古屋から出区した車両です。荷物を積載している3両のうち、「名荷23」が北長野始発で、夜行急行きそ6号からの継承車、あとの残り2両は九州からの荷物専用列車で名古屋駅で切り離されたあと、この列車に継承されて、最終目的地の熱田へ向かう車両なのです。

【追記】
このあと「乗務した車両」の記事はしばらく中断しますが、12月12日アップ分「【227】乗務した車両:マニ50、スユニ50 」から再開します。

 




この記事へのコメント

  • TOKYO WEST

    この土日は普通列車乗継で名古屋まで往復しました。熱田駅を通るたびに、いつもひっそりとしている駅の割に構内が広々としていると感じていましたが、昔は荷物の基地があったのですね。
    2011年10月04日 22:51
  • しなの7号

    TOKYO WEST様
    おはようございます。
    熱田駅はいつもひっそりしている割に構内は広く、今では日中は車両の留置に使用されていますね。

    国鉄当時はさらに駅舎の左右に広い敷地があって、荷物基地は隣接する熱田区役所や図書館があるあたり(駅舎の東京方)にあり、反対側(神戸方)のマンションが建つあたりも駅構内で、線路が敷かれていました。
    そういえば、熱田の広い遊休地を利用して、国鉄末期から九州向けのカートレイン名古屋がこの駅を始発地として乗用車の積込をしていました。
    コメントありがとうございます。
    2011年10月05日 06:23
  • hmd

    しなの7号さん、こんにちは。
    三連休に入り、今日も素晴らしい秋晴れですね。
    しかし・・・、出かけておりませんです (^_^;)

    “スユニ”ですか、更に見た事が無い合造車です(汗)
    一回だけ、八王子駅で合造車ではない郵便車を見た様な、見ていない様な記憶があります。
    それも、小学生低学年ですので、かなり記憶が曖昧で形式も不明だったりします。
    オハニからの改造車もあったとのことで、ある意味では、珍車ですね (^_^)

    ご乗務の傍ら、まめに編成の記録されていたのは驚きです。今や、こうして貴重な資料になっていますですね (^_^)  今思えば、モータリゼーションの影響に拠る、鉄道小荷物の取り扱い減少や廃止が、鉄道網末端部の国鉄ローカル線の赤字や後の廃止の大きな一因になったと感じます。
    2011年10月09日 12:17
  • しなの7号

    hmd様 こんばんは。
    コメントありがとうございました。

    そうなんです。荷物車のなかでも、スユニは主に輸送単位の小さな線区に配置された合造車ですので、一般の方にはなじみがないのも無理はありません。
    国鉄でも、関わっていたのは一部の職種の職員だけでしょう。鉄道ファン的な立場からすると、紀勢本線の夜行921、924列車に連結されていたので、ご存知の方が多いのではないかと思います。
    鉄道手小荷物は、私鉄やバス路線との連絡運輸もあって、全国津々浦々までネットワークがありました。
    2011年10月09日 21:13
  • りょう

    はじめまして。
    鉄道に関しては、最近になって興味を持った中年女性ですが、車掌車というのがあることを知り、いろいろと調べていたところ、友達が貴ブログの存在を教えてくれました。突然の、しかもド素人のコメントをお許しください。
    今は、車掌車はじめ貨物車、大物車等に興味を持っているのですが、このスユニという車両は、一般的には客車と呼ばれるのですか?
    2016年09月08日 11:50
  • しなの7号

    りょう様 ご来訪ありがとうございます。
    とっつきにくい内容で、申し訳ありません。
    「荷物輸送」は貨物とは別で、今の宅配便にあたり、荷物1個単位です。対する貨物は車両単位またはコンテナ単位です。
    【2】荷物列車
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201005article_2.html
    で、簡単に違いを書いています。荷物輸送は、旅行するお客さんの手荷物を預かって運ぶのがスタートでしたので、旅客営業の範疇となり、客車に併結していたので車両自体も客車と同じ構造になっています。
    と、いうことで、構造・用途ともにスユニは客車です。
    2016年09月08日 14:02
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    スユニのページ、思い出が多すぎて、何からコメントしようか思案してきました。関西本線で竜華のスユニ61(郵便室)に乗務したことは【476】【478】のコメントに書かせていただきました。スユニ60は福知山線のほうで出会ったかもしれませんが、どちらの形式に乗務しているか、郵便室が広いか狭いかなど、当時は意識もせず、オユ10など全室郵便車よりは区分設備が少なく、作業が大変だった記憶と、夏場に40度を超えていたサウナのような車内が懐かしいです。荷物室と郵便室を仕切る扉は閉めていましたが、荷物室にも乗務員がいて、積み降ろしと車内で仕分けをしていたことはわかっていても、荷物室からの声がほとんど聞こえないことを当時は不思議に思っていました。逆に、荷物室にいると、郵便室からはうるさい声(特に郵袋1個ごとに宛先を読み上げと復唱)が聞こえたのではないでしょうか。郵袋が積み込まれるときに宛先と個数が書かれた書類が渡され、乗務員が1個ずつ宛先を読み上げながら積み上げるのでそういう声が出ます。ほかに「奈良56丁」とか降ろす数の唱和をしました。荷物車では、積み降ろしは個数管理で、仕分けを適切にして取り降ろせば確実に送られることをしなの7号様から教わりました。両者の決定的な違いは、始発から終着まで、荷物車は積み込み総数と降ろす総数が一致するのに対して、郵便は違ってくることで、車内で郵袋を開けて在中の郵便物を区分したあと袋詰めすると、開閉数の誤差で積み降ろし総数は違ってきますので開いた数とは別に締めた数と宛先が書類に残されます。仕事のやり方が違う荷物、郵便が分け合っていた合造車は、全室車(郵政だけの世界)とは違った思いがあります。
    2020年06月04日 13:48
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    中央西線でスユニ60と61が共通で使用されていたので、両者の違いは就職前から意識はしていました。乗務したのはスユニ61がほとんどで、スユニ60は53.10時点での中央西線上り夜行「きそ6号」でしか乗務する機会がありませんでした。この時点でも長野運転所のスユニ60と61は共通で使用されていたのですが、深夜の上り列車ということもあって荷物は少なかったので、両形式の荷物室の大小で一喜一憂することは一度もありませんでした。

    スユニの乗務のうち、名古屋←→松阪と長野→名古屋の区間が郵便室扱車となりましたが、乗務員の声を気にしたことがありません。中間に便所洗面所があって、2つの引戸でそれぞれの作業スペースが仕切られている構造だったからなのでしょうか。荷物車では半車の場合2人乗務が基本でしたし、作業が終われば車端部の乗務員室にいましたから、そこにも引戸があるので、郵便室の声が届くことはないでしょう。お互いに作業をしている停車中なら声は届くでしょうが、作業中はそういうことを気にしているわけでもありませんし、列車が動いてしまえば、作業をしていても走行中の騒音で隣室の声など届かなかったでしょう。
    郵便車と違い、荷物車は個数管理でしたから単純ですが、その管理はアバウトだったなあと思います。
    前にどこかのコメント欄に書いたのですが、鉄道公報には宛先に届かない行方不明の荷物や、荷札が外れるなどして発送元も宛先もわからない迷子の荷物の外観・特徴などが定期的に掲載されていました。その数はけっこう多かったようで、職場にも鉄道公報の該当号が備え付けられ、荷扱乗務員が供覧できるようにしてありました。退職後に官報に「行旅死亡人」(行き倒れなど身元不明人)が掲載されていることを知り、それの荷物版だなあと思ったことです。
    2020年06月04日 20:13
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    荷物室に、あの大声が聞こえにくかったとすれば、引き戸2枚を閉めていたことと、郵袋読み上げの作業が、側扉付近で行われ、引き戸から少し離れていたことが理由かもしれません。逆に、郵便室が運転席と壁一枚でつながっていた電車、気動車は、読み上げどころか、郵袋の衝撃(ドスン、ドスン)さえ運転士に伝わったと思われます。
    列車内もそうですが、郵袋は投げたり投下(局の上階から下へ、ホームから線路へ)して運ぶことを前提に、小包の引受時は、局員がお客様にしっかりした荷造りを求めたわけですが、荷物にもあったように、輸送中の破損や送り先不明(宛先記載部分が破れたり…)が生じた場合は、発見局が直接、また、届かないとの申告を受けた局からも輸送ルートの調査が行われました。双方の調査ルートで申告内容と特徴が一致すれば、おわびの付箋を付けてお届けできましたが、わからずじまいもあったようです。調査の過程では鉄道郵便局も対象となり、郵袋の送達に関する書式を一定期間保存するのはそのためですが、郵袋数、宛先局の記録では不明物件の捜索は難しく、破損郵便物との対照がおもな作業だったはずです。貴重品の送付はぜひ書留で、とPRしたのはそのためでした。国鉄は公報で手配したようですが、郵政は調査専門の職員が隠密捜索という感じでした。スユニに見る車内の違いとは別の角度から両者の違いが見えてきます。
    2020年06月04日 23:40
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    停車中に郵袋を投げる音くらいは聞こえていたにしても、郵便室の声を気に留めた記憶はありません。そもそも郵便室のことは、こちらの仕事量に関係しないので、当時はまったく無関心で、隣の郵便室より積載方指定が被る他の荷物車の停車中の積込の様子のほうが気になったものです。そのうちに台車がこちらのほうに移動を始め、「もう一杯頼むわ」となります。仕事とはそういうもので、国鉄を退職してからの会社でも、同じオープンスペースにある他の部署のドタバタ劇には、何やってるのだろうくらいにしか思わなかったものです。なかには自分の仕事などそっちのけで、耳をダンボにしてそれを聞いているオバサマも居られましたが…

    国鉄の駅では、手小荷物窓口付近に、あて名書きや荷札などの発送時の注意事項とともに「荷主不明荷物のお知らせ」という掲示があり、駅には荷物事故公報が備え付けられていること、6か月経過して申し出がないと国鉄の所有に帰することなどが書かれていました。
    同じ物流に関わる業種であっても、それぞれの輸送システムに合わせるように、現場の作業内容や設備が違っていたのですね。
    2020年06月05日 20:24
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    このたびのコメントでは、同じ編成内の他の荷物車と積載方指定が同じ荷物がにわかに自分の車両にやってくる、と理解します。これも郵便車ではあり得ないので想像がつかなかったです。郵便車が2~3両連結されていても、個々の車両は「郵便局」で、台車の郵袋はそれぞれどこの車両(局)に積むものか決まっており、積載内容の書類も作られているので車内がいっぱいで飲み込めなかったときでも、いざこざはありながらも引き受けたものです。
    スユニ61などで、荷物室に郵便物を積んだ話をつけ加えます。正しくは、荷物室を使わせてもらう鉄道便が決められており、半室車運用線区で郵便輸送量が多い便にオユ10など全室車をいつも運用できないため、通年又は年末繁忙期などに、国鉄に交渉して、荷物室にも郵袋を積ませてもらうわけです。当会ホームページで福知山線を取り上げて説明しています。
     鉄道郵便車 
    4 輸送と車両需給に応じた車両使用 (1)拡張契約
      http://oyu10.web.fc2.com/yuubinsya.html
    私が初めてスユニ61の荷物室に立ち入ったのは別のケースで、敦賀から乗務した224列車(金沢大阪上り便)に連結されており、所定のオユ10が検査で使えなかったため代車で連結されていました。いい体験だとわくわくしたのもつかの間、荷物室の締切郵袋を処理中に足を救われてつまずきました。床にスノコがあったからです。また頭上に注意を怠ったため棚に頭を当て、荷物車の特徴を理解しなかったため、「痛い目」に。何より夏の日でしたから、冷房がないのがてきめんで、関西本線で経験しているとは言え、オユ10のつもりが不意打ちのスユニなので精神的には鬱です。(貸してくれた国鉄には申し訳ないですが…) でも、みんなが言うには、この列車はたまに非冷房オユ10やらスユニが代走するとのことでした。しかも隣にはもう1両の冷房オユ10(大阪富山上り護送便)が連結され、こちらは敦賀で乗務員が降りて以降は締切となるので乗せてもらえませんから、歯ぎしりしたものです。ともあれ、全国各地で全室郵便車の検査代走という役割がスユニにはあったようです。
    2020年06月05日 22:43
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    客荷分離前、旅客列車に1~2両の荷物車が連結されたころは、同じ編成内のどちらの荷物車に積むかという場面がそうそう多くはなかったのではないかと思いますが、荷物列車として輸送列車が集約されたことによって、大量の荷物を複数の荷物車に積む機会が増えたものと考えます。

    代用のオユ12かスユ13に乗ったとき、決定的に使いにくいと思ったのは、中央部の乗務員室の存在でした。それぞれの作業内容に合っていない車両に乗ったときは好奇心の度合いはかなり高いものの、作業となるとふだんと勝手が違い不便ですね。荷物車内の荷棚とか、天井灯を保護している保護棒ではよく頭を打ちました。床の桟も危ないですが、荷物の場合は、どれもないと困る施設ですからやむをえません。夏の荷物列車の乗務ではオユの冷房エンジンの音を常に恨めしく思っている立場でした。
    2020年06月06日 20:33
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様  
    荷物車代用に郵便車が使われたのは正直びっくりですが、区分室がない護送用車両だから使えたと思われます。これまでお教えいただいたことを考えますと、スノコや棚がないことは荷物には不向きで使い勝手が悪かったとお察しします。
    ここで、スユニ60、61の郵便室側貫通扉について。全室郵便車の車掌室と反対側は貫通扉に窓がないのが一般的ですが、スユニ2形式は、すべての車両かどうかはわかりませんが、窓がありました。締切郵袋で扉を塞ぐこともあるので保護棒があるのですが、郵袋が窓の高さ以下であれば、隣の車両から郵便室内がよく見えました。マニに乗っていて隣の郵便室が見えたことがおありかもしれません。私がここを長時間見たのは、すでに乗務員になってからの東北旅行で乗った磐越西線の普通列車で、スユニの隣のオハフのデッキからでした。会津若松でこの場所に陣取り、郡山まで「見学」させてもらいました。郵袋が貫通扉を埋めなかったので、3人の乗務員の作業の様子がわかり、あちらも誰か見ているとの意識はされていたようですが、ずっと見ないで車窓や客室と交互に見ていたので特に気にする様子もなく、郵便物の区分と郵袋詰めをしていました。駅ごとの受渡員とは親しげにあいさつしたり、いい感じでした。郡山の手前では10ほどの郵袋詰めをしており、やはり東北線上下便や磐越東線への積み替えがあることを想像しました。そして作業服から制服に着替えてから向かい合い、互いに一礼してのあいさつをしており、全国どこの乗務員でもするものだ、と実感しました。私も郵便車で作業すると隣の客車や並走する電車内から乗客に見られたりしましたが、郡山新潟上り一号便のみなさんを見習って「見るなよ」という態度をせず、黙々と作業するよう心がけました。ただ、この後に全国で置き換えられたスユニ50は郵便室にデッキが設けられ、仕切り扉ができたので隣の車両からは郵便室が見えなくなりました。
    2020年06月07日 00:28
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    スユニの郵便室側貫通扉にはオユにはないガラス窓がありますね。マニでもスユニでも同じですが、貫通扉のガラス窓は透明でない型ガラスや、便所に使う白い不透明なガラスの車両もありました。

    どこかの記事にも書いたことですが、
    「お母さん、檻の中に人がいるよ!」と母親に向かっていう子供。「勉強しないとああいうふうになるよ」という親。荷物車の場合は作業中は、しかたがありませんが乗務員室で休憩中や食事中の様子を覗かれたくないという意識はありました。それ以前に乗務員室付近には貴重品を保管しています。荷物室で作業中に盗難があってもいけませんから、乗客の目に触れる一般客車と荷物車の乗務員室側が向き合うときや、他の扱車の乗務員室側どうしが向きあってしまったとき、貫通扉の窓ガラスが透明な車両のときは、ガラス部分に新聞紙を貼り付けて目隠しをしました。
    2020年06月07日 21:02
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    貫通扉の窓に不透明ガラスがあったとは知りませんでした。乗務員室側も透明のガラスが多かったようですから、貴重品保管場所を見られるのは防犯上でよろしくありませんし、食事、休憩中は正直見られたくありません。スユニ車はけっこう長時間乗務が多く、食事時間帯にかかると、作業の合間に、持参した弁当やパンを区分棚の丸いすに座って食べることがあり(通称「食堂車」)、それも客車からのぞかれたかもしれません。みんな、あまり気にしなかったもので、新聞紙を貼る人は乗り合わせなかったです。郵便車窓の保護棒を「鉄格子」という乗務員はいまして、みんな最初は駅での積み降ろし(駐在員)をするので、ホームから側窓をのぞくと中の乗務員が檻の中にいるイメージで見えてしまうことから、それが日常で使われていました。ホームごしに見る人、複々線で並走する快速の車内から見る人には、実際に檻の中に人がいるように見えたでしょうが、現金書留も輸送することから、郵便車の作業が広く世間に公開されなかったことも、理解されにくい理由でした。これまで、荷物列車関連ページの車内写真を拝見しましたが、天井に扇風機が見あたりません。スユニ車の郵便室には設置されていましたが、荷物室のほうに設置はされていたでしょうか。荷物積載場所になくても、乗務員室のほうにあったかと想像します。
    2020年06月07日 23:28
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    郵便車は窓が少ないので、荷物車と比べれば外から覗かれることは少ないと思いますし、食事されるのも区分棚がある車両の中央部ですから、私どものように一服しているところや食事中を覗かれるのを、あまり気にされることはなかったかもしれません。長時間停車中に荷物車の乗務員室をホーム上の乗客が覗きこむことはよくありました。車掌補先輩の席とニレチ席の窓には日除けがあるので、食事中には目隠しができましたが、下っ端の席(席がないときは荷物室から持ってきた荷物が座席がわり)は、車端部側引戸の前でしたから日除けもなく、引戸の落とし窓・貫通扉・後方監視窓があればそこからも丸見えでした。

    乗務員室に扇風機はありました。おそらく廃車発生品だと思われます。荷物室のほうに扇風機なんて現実的ではありません。ものすごい埃をまき散らすだけでしょうし、客室と同じようなものなら、あっという間に荷物で破壊されると思います。マニ50で初めて荷物室に換気扇が付きました。
    2020年06月08日 21:00
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    郵便車での食事は区分棚の前ですから、貫通扉の隣が客車でない限り、のぞかれにくいのは確かです。側窓からは、郵袋の移動や積み上げするところを見られていました。やはり乗務員室が見えやすいのが荷物車の特徴ですね。
    郵便室の扇風機設置は、区分作業室で、郵袋室にはありませんでしたが、理由は荷物室と同じく、破損のリスクがあったからです。換気扇はマニ50で初めてとのことですが、郵便車内で付いていたのは、吸塵機というもので、開袋台の上にあり、郵袋を開く瞬間のホコリを吸い出すだけで、車内全体の換気には役立ちません。荷物から発生するホコリも多々あると思いますが、郵袋はホームや路面などあらゆるところで砂、塵が付着するので、車内で開閉すると、目に見えないホコリが舞い、乗務員はおのずと吸い込んだものです。肺疾患で入院した人を聞くと、そのせいでは…と思われ、腰痛と共に職業病だったのでしょう。ですから、非冷房車両なら、せめて換気扇くらい付けてくれてもよかったのでは、と今さらながら思います。あと、郵便室の扇風機は夏場に車内温度が40度を越えると、みんなの意見で消すことがありました。吹き付ける風がヘアドライヤーのごとく熱風になったからで、他の車種の扇風機ではあり得ない話です。
    2020年06月08日 22:20
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    そもそも列車自体が撒き散らす制輪子の鉄粉に、ディーゼルエンジンの排気ガス、さらにはいわゆる黄害もあり、それに加えて室内のホコリでしたから、お互いに労働環境は悪かったと思います。
    窓が少なく覗かれにくい代わり、非冷房の郵便車の夏の暑さは荷物車の比ではなかったことは想像できます。
    夏場には荷物車は大扉の落とし窓を開けたりしましたが、長時間停車が多い関西本線の乗務では屋根が焼けて暑かったです。
    2020年06月09日 20:51
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    同じ荷物列車ながら、関西本線に乗ると、その足どりは山陽本線の比ではなかったですね。夏場の長時間停車には参りました。車内の暑さにしても、走行中と停車中では気分が大違いです。先のコメントで、非冷房郵便車に換気扇があったら…と書きましたが、身延線でクモハユニ44を置き換えた、クモユニ143新製の諸元に、荷物室、郵便室とも換気扇装備となっています。鉄道郵便末期の新製車でも合造車は冷房が装備されなかったぶん、労働環境への配慮があったようです。いろいろご教示いただき、また勉強になりました。また別のページでおじゃまいたします。
    2020年06月09日 21:27
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    関西本線、荷43・荷44列車上下とも炎天下の亀山操で1時間以上の停車。その間、駅前の喫茶店へ避難しましたが、戻ると車内は異常な暑さになっており、走り出してもまったく温度が下がりませんでした。

    マニ50と同年代のキニ28でも換気扇がありました。車両に現場の要請が反映していった時期でしたが、いずれの車両も短命に終わり国鉄改革の犠牲車と言えそうです。
    2020年06月09日 21:56

この記事へのトラックバック

ブログ内ラベルリスト