マニ50は昭和52年から新製された荷物車でした。私が国鉄に就職して、荷物列車に乗務している時期で、新車が入るというので、荷扱関係乗務員の間では話題に上りました。すでに国鉄の荷物輸送はピークを過ぎていた時期ではありましたが、マニ60など旧型荷物客車を置換える目的で236両が導入されたのでした。
初めは汐留と隅田川の両客貨車区に配置され、私どもは東海道本線筋で汐留客貨車区所属の車両に乗務するようになりましたが、増備が進むと名古屋客貨車区や長野運転所にも配置されるようになっていきました。
車体は旅客用のオハ50と似ていますが、窓の構造はユニット式ではなく北海道用のオハ51に近いと思います。車体色は旅客用オハ50や51に採用された赤でなく青でした。荷物室内は蛍光灯付きになったことで明るくなり、換気扇が装備されたのも初めてでした。
デッキ部分との間が仕切られた乗務員室は隙間風が少なくなり、在来の荷物車より居住性は格段によくなりました。また、車掌室と反対側のデッキには、在来車ではこのスペースに荷物の積載ができましたが、デッキと荷物室との間は車掌室側同様、扉で仕切られてしまいデッキ部分への荷物の積込ができなくなり、荷物室の容積は事実上減少しました。その結果、荷物が多い時期にこの車両に当たると作業性は悪くなりました。両側のデッキを開放することによって、連結の際に作業員が車両の反対側へ容易に移れるように配慮されたのでしょう。
乗務員室の居住性はよくなったものの、座席は在来車マニ36のように4人分あるわけではなく2人分+補助椅子という配置でした。通常は荷扱専務車掌と乗務掛2人の計3人乗務が一般的でしたので、私ども新参者は補助椅子を使用せざるを得ませんでした。おそらく当局としては荷物車は2人乗務にするという前提での設計だったのでしょう。
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スユニ50はマニ50が誕生した翌年の昭和53年から改造名義で全部で80両製造されました。廃車となった旧型客車の台車や連結器を再利用して、車体を新製して誕生しました。
私は昭和54年に列車掛の試験を受けて荷物列車の仕事から離れました関係で、あいにくそれまでにスユニ50に乗務する機会を得ませんでした。しかし、以前のブログ記事(【207】 乗務した車両:スユニ60、スユニ61)で触れたような事情で、その後、熱田~名古屋間の小運転荷物列車に車掌としてスユニ50に乗務することになりました。最後尾にこの形式がいつも連結されているのが夜の荷2047列車でした。
昭和57年(1982年)4月24日
東海道本線 荷2047列車
運転区間 熱田~名古屋
乗務区間 熱田22:46 ~名古屋22:54
DD13 244(稲一)
マ ニ36 2130 名ナコ 名荷22(回送)
マ ニ36 2045 名ナコ 名荷24(回送)
ワ キ8963 名ナコ 名荷251(回送)
マ ニ60 2383 長ナノ 長荷21(回送)
オ ユ10 2569 長ナノ 長郵20(回送)
マ ニ60 2073 名ナコ 名荷1(回送)
スユニ50 2055 天リウ 天郵3(回送)
マ ニ50 2149 名ナコ 名荷21(回送)
マ ニ50 2029 長ナノ 長荷22
スユニ50 2028 長ナノ 長郵21
この列車の後部4両が50系荷物客車です。
熱田の荷物基地で荷物を取り卸した後、名古屋客貨車区に入区するのが前8両、最後尾2両は、このあと夜行急行きそ7号に併結されて長野まで行き、さらに長野地区の荷物拠点駅である北長野まで運用されました。
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マニ50とスユニ50が誕生してから、国鉄分割民営化の方針が決まり、荷物輸送が昭和61年にブルートレイン及び新幹線による輸送と、一部の新聞輸送を除いて廃止されたことから、それほど活躍する期間がないまま、多くの車両は廃車されました。長いものでも製造後9年、短いものだと5~6年で本来の用途がなくなってしまったことになります。一部の車両がバイクの輸送用として活躍したほか、救援車、寝台列車の電源車など他の用途について、現役の車両もわずかながら残っているようですが、不本意な生涯と言えましょう。
上の写真は、急行「八甲田」に併結して使用された「MOTOトレイン」用のマニ50です。(留置中)
本来の荷物輸送廃止後の活用策として登場したものです。
こちらの写真は同様に「日本海モトとレール」バイク輸送用に改造され特急日本海に併結されていたマニ50 5000番台車ですが、これも1998年までで終了し、翌年廃車になったとのことです。
私はバイク乗りではないですが、こうした用途がマニ50だけのこととして捉えるのでなく、鉄道の一用途として発展してゆけばうれしかったのですが、今日、カートレインも含めて自動車を輸送するという面で、道路交通との共存といった鉄道の利用方法が発展しなかったことは、たいへん残念に思います。




この記事へのコメント
京阪快急3000
自分も同感です。
これらの「荷物車」が自動車やバイク輸送として、もっと有効活用していたら・・・と思いました。
客車である50系客車も、1979(昭和54)年に鉄道友の会から「ローレル賞」を受賞したのにも関わらず、電化やディーゼル化で、早々にその役目を終えた車両が多いことが、当時の国鉄の経営状況の厳しさを、実感した次第です。
しなの7号
国鉄末期に誕生した車両の中でも50系は短命な車両が多かったです。ディーゼルカーや電車を製造するより、とりあえず機関車を有効活用しようとしたのでしょうか。中途半端な結果に終わってしまいました。
50系製造当時の国鉄の赤字は深刻でしたが、分割とか民営化とかいう具体策がまだないころではありました。
貨車区一貧乏
車両の輸送が減少廃止になるのは、やはり1067mmの壁(車幅)と乗り降りの面倒さなんでしょうか?
列車掛時代確か宇都宮?発本牧埠頭行きの車運車に乗務しましたが、こちらも廃止になってしまいました。
モトトレインやカートレインは本より本家の「日本海」まで廃止になろうとしていますね・・・。
北海道では兄弟の50系客車は、DC改造や海峡線用に改造されたり、第二の人生を過ごしていましたが、海峡は電車特急化で廃止、DCは電化でそろそろ終末を迎えようとしてます。やはりニーズの変化によるものなんでしょうね。
私の57年4月といえば、鉄道学園の教室から200系新幹線が開業前の試運転を羨望の目で眺めていたころです^^
しなの7号
おっしゃるように、狭軌では自動車輸送には困難が伴うのでしょうか。コキ71という自動車輸送用車両も現在は運用されていません。ク5000による貨物列車は東海道筋で私も乗務していました。専用列車は途中の解結がなくて楽でした。
50系客車は旧型客車の置き換えの主役でしたが、客車列車そのものが減ってくると、乗り鉄時には客車列車になるべく合わせるスケジュールを立てたものです。客車列車の加速感と乗り心地、停車時のシーンとした音がない世界、また味わいたいものですが、日本海も廃止のようで、そういう世界も過去の出来事になってしまいそうです。
くろしお1号
名鉄8500系も今回の50系も、時代に翻弄された薄幸の名車だったと思います。誕生時にあった明確な使命が、短い年月のうちになくなってしまうとは…
50系については、超老朽化した旧型客車の置き換え、何より走行中も乗り降り自由?を改善すべく、地味ながら重要な任務があったと思います。いや、もうすでに電車や気動車に置き換える時代になっていたのでしょうが、きっと諸々の事情が絡んで客車として誕生したのでしょう。おっしゃるように機関車の失業防止は大きな要因だったのだろうと察します。関わっている人々にも影響しますし…
同世代の40系気動車が今でも多数活躍中なのを見るにつけ、決してチープな作りではなかった筈の50系客車が余りにも短命だったことに、そこで働く人間さえ先がよく見えなかった時代をただ思い起こすばかりです。
しなの7号
50系客車やキハ40系が製造された当時の国鉄車両は、重厚な造りが特徴でしたね。民営化直前から今日までの、ステンレス製軽量車両とは大きな落差だったと思います。50系は荷物車しか乗務したことがありませんでしたが、乗務時に亀山に行くと赤い50系客車が見られました。紀勢本線や草津線への運用だったと思いますが、関西圏に来たなと思わせる光景でした。
50系客車に対し、キハ40系はずいぶん長きにわたって活躍していますね。キハ40系は私にとっては今や手軽に乗れる唯一の国鉄車両でもあります。
浜松機関区
東海道線沿線に生まれ育ち、よく駅に列車を見に行っていました。
日中の旅客列車は111、153、165系の湘南色ばかりだったこともあり、貨物列車や荷物列車にも興味をひかれました。
荷物列車の乗務員室の様子も記憶に残っています。
もしかしたら、昭和の鉄道員さんが乗務しているのを見ていたかもしれません。
列車に乗るのが仕事なんてうらやましいなぁと子供心に感じていました。
しなの7号
ご来訪ありがとうございます。
私は中央西線沿線で育ちましたが、東海道本線沿線のように多種多様な列車が見られるわけでもなく、東海道本線の列車群は夢の世界でした。
荷物列車乗務時代の浜松駅は地平駅で高架工事が始まった頃でした。浜松駅では「うなぎ」の積み込みが多くてひと汗かいたものです。
浜松機関区
といっても、小さかったので記憶は曖昧ですが。
ブルトレ・ブームの頃で、父親にせがんで早朝の上り列車を見に行ったことを思い出します。同じような子どもが何人もいて、機関車を覗かせてもらったりしました。
それから小荷物関係でいうと、「テルハ」と呼ぶのでしょうか? 線路をまたいで運ぶ装置は、動きといい音といい、実にユーモラスでした。
古い地平駅には、今でも上屋などに名残があるところも見かけますね。
しなの7号
地平を並行してスイッチバック式で運転されていた遠鉄が荷物列車時代の浜松の思い出風景です。
車掌になってからは国鉄駅は高架駅に変わっていましたが、浜松での泊り行路があり、退職まで何回も泊ったところです。
テルハは大きな駅で見かけましたね。そういった設備が稼働しているのを記録しておけばよかったと後悔しています。
うさ
兵庫県三田市にマニ50が保存されています。車内には休日時間限定で入ることが出来ます。
荷物室はお子様向けプレイルームになっていますが、そんなに手は加えられていません。
確かに、若い方専用?の乗務係席は折りたたみ椅子でした。横はロッカーのようなので、向かいの車掌補席のような折りたたみテーブルもなく、休憩は取りにくかったことと思います。
貴重品室もそのままでした。網格子のドアなんですね。
荷扱専務席もやや窮屈に感じました。
しなの7号
へぇ~ マニ50が保存されているんですか。
それは、見たいですねえ。
貴重品室もそのままとは(゜o゜)
そう、丈夫な細かい金網の引戸なんです。
現役時代の車内の写真は撮ってないので、興味あります。機会がありましたら出掛けてみたいものです。
ご教示ありがとうございました(^o^)丿
うさ
私も他の方のネットでマニ50の保存車がある知りました。兵庫県三田市はじかみ池公園という所にD51-25、ヨ8000と一緒に保存されています。
神戸電鉄・ウッディタウン南駅そばにあります。
マニ50は2036号車ということでピクトリアルで見ましたら昭和53年新製で宮原配置ということでした。
「大荷」や「大航」のサボを入れて運用していたんでしょうね。
マニには3月~11月の土日・10時~15時限定で車内に入れます。土足厳禁なのも車内の状態が良い一因かも知れません。
貴重品室はその性質からか形式図にも空白であったりして、情報が少ないですね。
マニ50の保存車はあんまりないんでしょうね。
ヨ8000は稲沢駅近くのショッピングセンターに2両保存してあり東海道線から見えますね。
あとは大垣駅前にも2両保存されていたりと、東海地区では目にします。
しなの7号
詳細のご教示ありがとうございました。
私も早速ネットで検索して、その保存車の情報にたどり着けました。
意外なところで意外な形で保存されているのですね。
ちょっと外部色には???でしたが、マニ50の車内に入れるというだけで存在価値は大きいです。
職場そのものであっただけに、趣味とも違った感覚で再会したいと思っております。
ヨ8000はおっしゃるような比較的自分には身近な場所で見ることができますが、いまだに現役で大物車と一緒に走っているのはうれしいです。
うさ
こんばんわ。是非、数十年ぶりのマニ50との再会報告を楽しみにしております。
はじかみ池公園のマニ50は確かに違う色に塗装されてしまております。
荷物車の車内というのは、荷物車の保存車自体があまりないですし普通は入れないだけに興味がありました。
スユニ50は北海道に保存車が幾つかあるようですね。
両者とも活躍の期間は短命でしたね。
しなの7号
このところ、休日は多忙なので、しばらく先になりそうですが、はじかみ池公園訪問しましたら、アップします。ありがとうございました。
うさ
こんばんは。スユニ50は四国・高松市の小児科病院に保存されているそうです。病院のHPには見学に来る人がいます・・・なんて書いてありました。
スユニ50は当時私の住んでいた東北本線すじでは見かけられませんでした。残念です。
しなの7号
度々の保存車についてのご教示ありがとうございました。
こちらも、ネットで場所特定できました。
ちょっと遠いので、四国に渡る機会がありましたら、見てきたいと思います。
ちゃんと保存車はあるものなのですね。座席車よりがらんどうに近い内装は、原形を残したまま、いろんな用途に使いやすいのかもしれないですね。
スユニのような合造車は幹線筋より1ランク下の線区の運用が主体でしたので、東海道本線でも本文中にご紹介したような一部の区間運転の列車でしか見かけませんでした。
大
詳しいことは分かりませんが、何かに使うために甲種回送されていたそうです
しなの7号
JR東海管内の当地では、マニ50どころか客車そのものを見ることがなくなってしまいました。
オシ17
しなの7号さまのこのブログ、昨年11月、12月頃でしたか、新規投稿が極端に減り、お具合でも悪いのかと気になっていましたが、以前のように投稿されるようになり、良かったと思っております。
さて、マニ50の前位後位の出入り台のドアの事を知りたくて検索したらしなの7号さまのこの記事に辿りつきました。
マニ50の車掌室寄りの出入り台のドアは引戸だったのでしょうか?開き戸だったのでしょうか?ドアノブの位置がふた通りあるようなので。
それと、教えて頂きたい事があります。
荷物車の向きですが、例えば東海道本線上で車掌室側は下り向きとかに揃っていたのでしょうか?理屈では前位後位や方転は理解してるつもりですが、模型を編成するとき、好み と 実際 の狭間でモヤモヤしてます。
もう一点、郵便荷物列車で機関士に出発合図を出す車掌は誰なのでしょうか?しなの7号さまの記事では荷物車には各車3名乗務と読み取れますが、各車の荷扱い終了の確認と出発合図を誰が
出すのかが分からないのです。教えて頂ければ大変ありがたいです。
ここからは余談です。
しなの7号さまのブログ、読み返し3回目に
なりました。初めは鉄濃いめに集中し、駅弁、マッチ、清酒、中山道はほぼ読み飛ばしてました。その中でも、和田峠は自分にとっても懐かしく思いました。
これからも読み返して行きますので、新規投稿もよろしくお願いします。
しなの7号
何度も記事を読み返していただき、ありがとうございます。昨年8月下旬から11月いっぱいまで、多忙により間引き運転ダイヤで運行しました。ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。支障がない限り、あと1年程度は通常ダイヤで運行したいと思っています。
マニ50の車掌室寄り出入台のドアの件ですが、開き戸でした。開く向きが2012番以降が設計変更でドアヒンジ位置が反対になったことによってドアノブの位置が変わっています。上にアフィリエイト広告がある「鉄道車輌ディテール・ファイル(018) マニ50)」にそういう記述がありました。
荷物車の向きですが、「【18】乗務掛3:荷物車の中は…」で書きましたが、決まっていませんでした。紀勢本線や中央西線のスユニは決まっていたようですが、子供のころに見た中央西線の列車でも日によってオハニやスハニ、オハフなど、同じ列車でも日によって向きが違う車両を連ねていました。
(続きます)
しなの7号
オシ17
しなの7号
いえいえ、書いた本人自身がどこに書いたか、あるいは書かなかったのか怪しい状態にありますし、継続して書くべきことを、あちこちの記事に分散して書いているので申し訳ありませんです。
マニ50が在来マニ車と大きく変わったことは、前位デッキと荷物室との間が扉で仕切られ、乗務員室側も新たに後位デッキが新設され、前位と同様に扉で仕切られたので、デッキは荷物の積卸や積載をしない前提で設計され、デッキの存在意義は解結作業員の通路を確保することだと思われ、そのため引戸にはならなかったのでしょう。連結作業で自連の下を潜って移動したり、自連の上によじ登って反対側に移動する危険な構内作業員の作業環境改善に寄与したものと思われます。マニ50には妻面に後退角を持たせたりしたのも連結作業時のことを考えてのことですし、同時期の新製車キハ40系なども高い運転台に広い乗務員室スペースを採用するなど、昭和50年前後に設計されたの国鉄車両は現場の要求を取り入れた車両が目立ちます。しかしそれによってマニ50では積載スペースの減少を招き、キハ40など多くの旅客車両では重量増とか定員減といった副作用が目立つ結果となりましたね。
うさ
現役はまだまだ救援車代用などでありますので、全滅ではありませんが。
しなの7号
情報ご提供ありがとうございました。
そうでしたか。保存車というと、いつでも行けると思い、未だに行けていませんでした。青春18きっぷが余ったときの候補地にしていましたが残念です