【229】 乗務した車両:その他の荷物車

私が乗務した荷物車は、公式(?)にはこれまでのブログ記事にしたとおりですが、非公式(?)には、他にもありますので、参考までにご紹介しておきましょう。
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「マニ37」
パレットによる新聞等の輸送用に旧型客車のスロ50、51、60、スロフ53、スロネ30、スハ32、スハフ32から改造された外部塗色が青色の荷物車です。マニ36と形態的にはよく似ているものもありましたが、茶色の外部塗色だったマニ36とは容易に見分けがつきました。新聞輸送という特殊用途ゆえに、主に夜行急行列車の編成端に連結されていることが多かったように思います。
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「パレット輸送」については、以前のブログ記事の中でもすこし触れましたが、発駅で荷物を着駅または中継駅別に決められた専用の「パレット」と呼ばれる車輪付きの台車へあらかじめ仕分けして載せ、そのパレットごと荷物や郵便を車両に積載してしまう輸送方法で、こうすれば、決められた駅以外での積卸は不可能ではあるものの乗務掛は不要なので人件費削減ができるのです。
パレットは、ホームから荷物車へ専用の鉄板で橋渡しをして駅の小荷物係が人力で積込みました。積みこまれたパレットは着駅または中継駅別に指定された位置へ固定され、輸送中は無人になる関係上、扉はすべて封印されたうえで輸送されました。そのためパレットの車輪が抵抗なく回転するように、マニ37の荷物室内は凹凸がなく通勤電車の床のように平滑になっていました。一方、一般の荷物車の荷物室内は写真(マニ60)のように通路以外は桟木があってでこぼこになっています。
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これもかつての記事で述べましたが、水物の荷物(魚類など液体の入っている荷物)の水分が漏れた場合に他の荷物への濡損被害を防ぐための設備です。
外観は似ているマニ36と37ですが、この用途による区別のために外部塗色を変えていたのかもしれません。実際のところ、私はその理由を知らないのですが、そんな気がします。それでもマニ36にも青色の車両がわずかながら存在したという話を聞きますので、それは推測の域を出ません。ちなみに私はマニ36の青色塗装車を見たことが一度もありません。見ていれば絶対に強烈に記憶に残るはずですが、まったく見た記憶がないのです。

私が乗務でマニ37に出会ったのは、繁忙期の臨時運用のときでした。自分の交番上の乗務列車に臨時運用の荷物車が増結され、その増結車両がマニ37でした。その臨時運用の増結車の乗務員も同じ職場の担当車両だったので、自分の担当車両の仕事を片付けてから、作業の手伝いに行ったときに、乗ったのです。本来の担当車両での出会いではないので、「非公式」というわけです。
荷物車の臨時運用は、年末のお歳暮や夏のお中元の時期のほか、秋口の鳥取からの梨の輸送(梨臨と呼ばれた臨時列車もあった。)時などにもありました。そういう時期には荷物車が総動員で運用されるので、普段はパレット輸送用のマニ37もこうした一般輸送にもかり出されることがあったのです。設備上、このマニ37が運用された場合は「水物積載禁止」と乗務員に伝達されましたが、何両かで運用が回っている中の1組だけがマニ37だったりするわけなので、臨時運用の中でも常に出会えるとは限りませんでした。

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「郵便車」
これと同様に郵便車にもマニ37と全くおなじ状況でお手伝いで乗ったことがありました。形式はオユ12かスユ13のいずれかでした。両形式ともも「護送便」用郵便車といって、室内で郵便を仕訳する設備はなく、郵袋をそのまま目的地に輸送するタイプで、電気暖房の有無による重量の違いだけでしたので、乗ったのがどちらの形式だったかは記録をしていないのでわかりません。
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構造的にはマニ37同様平滑な床でしたから、荷物車として代用する場合にはマニ37同様、「水物積載禁止」の制限付きで運用されていました。構造的に車掌室は車端部にあるのですが、車掌1人用のスペースしかないので、荷扱乗務員は鉄道郵便局員用に車体中央部に設けられた乗務員室を使用しました。

《2021.12.10追記》
2021年12月8日に、昔鉄道ファン様より、1977年の「梨臨」東海道本線荷9044列車の編成記録をご投稿いただきました。編成中に、本来は新聞輸送用パレット車マニ37や、荷物車代用スユ15が組成されていたことがわかります。下のページから昔鉄道ファン様からの2021年12月8日付コメント欄にお進みください。
【1391】私の鉄道模型遍歴18: Bトレインショーティー



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パレット用の車両としては荷貨両用車として貨車としての籍を持ちながら、実質荷物列車として活躍していたワサフ8000にも乗ったことがあります。コキフの車掌室に似た外観を持ちながら、乗務員室内は荷物車のそれに近い設備でした。暖房はストーブではなく蒸気暖房、車両によっては電気暖房併設の車両があり、車両番号で区分されてました。
この車両はずいぶん前、 「 【103】 乗務中見えるもの 」で書きました荷41列車にも常に連結されていました。その記事をご覧いただくと判りますが、乗務掛は途中駅の積卸がないと、勤務時間中でも荷物室内で平気で仮眠していた時代です。夏場は荷物室内で寝そべっていたのですが、冬場は暖房もなく隙間風が冷たい荷物室内ではとても居られません。乗務員室は荷扱専務車掌と先輩の乗務掛が乗っていて、横になるには狭すぎますので、2人が楽なスペースで横になれるよう、私が他の車両に移って寝るというわけです。その時にパレット輸送用であるワサフの乗務員室は無人でコンパクトでしたから熟睡できました。自分が乗務すべき車両は名古屋に着く前、熱田で大量に積卸があるので、その時点で作業ができるように、その手前の停車駅、刈谷で所定の乗務車両に戻るべきところが、熟睡してしまい熱田で飛び起きて、ホームを走って乗務すべき車両へ戻ったこともありました。

乗務していた荷物列車には、他にもいろいろな車種が連結されていました。乗務員室がないパレット輸送用のワキ8000(この記事の最初の写真↑に1両連結されているのがわかります。)スニ40、スユ44には物理的に乗車することは不可能でしたし、そのほかオユ10、11といった鉄道郵便局員が乗務していた郵便車、パレット用で乗務員室付のスニ41、マニ44が連結されていました。

この記事へのコメント

  • 京阪快急3000

    こんばんは。
    「荷物車」の中で「仮眠」できるとは、正直驚きました。
    リンク先の記事も拝見しましたが、こういった事は、「乗務掛」の人しかできない「裏技」のようなものなのでしょうか・・・?
    2011年12月19日 19:14
  • しなの7号

    京阪快急3000様 こんばんは。
    仮眠も車掌として列車の運行に責任がある職種の場合はともかく、そうでない職種なら深夜で荷物の積卸のない場合はあった時代でした。もう35年も前の出来事になります。
    2011年12月19日 21:00
  • 突放職人

    こんばんわ。私も荷物車、列車掛全盛期の時代に働いてみたかったです。無論、苦労も多いかもしれませんが。個人的には荷物車に乗るより緩急車に乗る仕事がしてみたかったです
    2011年12月19日 22:27
  • しなの7号

    突放職人様 おはようございます。

    荷物列車も貨物列車も一般の目に触れにくい職種ですね。特に荷物列車の乗務掛は直接運転業務に携わらないことと複数人乗務であったことで一種の気楽さを感じました。
    しかしこうして乗務しながら運転兼掌時の荷扱専務車掌の仕事ぶりを見ながら、自然と運転業務の安全に対する重要さと責任感が養われていったように思います。

    列車掛になると列車の運転責任者としての自覚はありましたし、1人だけであることに加え現在のように無線機が何処でも送受信できるような環境になかったので緊張感がありました。
    2011年12月20日 06:28
  • 元二乗

    初めてコメントいたします。荷物車への乗務について大変興味深く拝読しました。私は鉄道郵便車に乗務したことがあります。郵便車オユ12が荷物車に代用されたことを知り驚きました。郵政省所有車両だったので考えられないと思っていました。逆に荷物車の郵便車代用もありまして、構造が郵便車向きでないので手こずったこともあります。
    現在、オユ10の保存活動を行っていますのでホームページ
      http://www2u.biglobe.ne.jp/~YAMACAT/FRPS/hokuriku/hokuriku.htm
    もご覧下さい。
    2012年01月22日 19:30
  • しなの7号

    元二乗様 はじめまして。
    郵便車乗務員の方からは初めてコメントをいただきました。ありがとうございます。

    郵便車の荷物車代用もあったのですか。私は護送用スユ43がオユ10の代用で運用されているのを見た記憶がございますが、荷物車代用は見たことがありません。このようなときは可搬式の区分棚を使用すると聞いたことがあります。
    オユ10は甲駅に保存されている頃に列車から見ました。
    HPも拝見しました。精力的な保存活動、本当にご苦労様です。
    米原の分室も数年前に見てきましたが、解体されてしまいましたか(-_-;)
    大阪駅のホーム荷扱風景もたいへん懐かしく拝見しました。
    2012年01月22日 21:13
  • 元二乗

    しなの7号様。ご返信を拝読しました。オユ10の保存活動にご声援をありがとうございます。
    代用車ですが、
    ①郵便車、郵便合造車が全検等で不足した際に、荷物車、座席車で代用
    ②全室郵便車が使用できないときにスユニ等の半室郵便車で代用
    が典型的な形態でした。②は締め切った郵袋の保管場所として荷物室を使用しますが、慣れないとすのこに足を取られたり、荷棚に頭をぶつけたりしました。それでも大して不自由はなかったものです。対しましてオユ12を荷物車代用にするとき水もの厳禁とは納得です。床はつるつるでしたけど郵袋には適していたということですね。
    ①ですが、規程により郵便表示(画用紙に赤色〒マーク程度)を窓から出す、簡易区分棚、客室と半々の場合はカーテン等で仕切る、側扉を含め窓を開けない、等決められてまして、作業は不便なものでした。
    東京門司線では代用といっても予備扱い車(非冷房オユ10、スユ42等)で充足してましたが大阪青森線の普通列車なんかはよく②のようにスユニ60、61、50が使用されました。いちど224レに乗ろうとすると、オユ10の代用で今回ご紹介の護送用オユ12が使われており、区分棚などが全くない荷物車に近いものですから、設備がことごとく外から持ち込まれた、見るもすさまじい車内で作業も筆舌に尽くしがたいものでした。オユ12を見ると護送便で糸崎まで奮闘したこと、そしてこのウルトラ代用車を思い出します。
    2012年01月22日 22:27
  • しなの7号

    元二乗様 
    ご返信ありがとうございます。 郵便車代用車もいろんな形態があったのですね。ちなみに私がスユ43の代用を見たのは昭和40年代末期で中央西線でした。名古屋客貨車区の車両だったと記憶しております。
    荷物車のスノコ状の床は足元が安定せず危険ですね。低い荷棚に頭をぶつけることも私は1度や2度ではありませんでしたが、その荷棚の高さまで積まれた荷物の上で仕事をしたこともあって、その場合は天井に頭をぶつけることになります。
    詳細のご教示ありがとうございました。
    2012年01月23日 07:03
  • 元二乗

    しなの7号様。スユ43は旧式の護送専用車で、急行阿蘇にも連結していたと記憶していますが、乗務し始めた時には廃車されていたようで乗る機会はありませんでした。中央西線(郵便では名長線)でオユ10代用に使ったとすると、片方の郵袋室にビニールの簡易区分棚を吊り、折りたたみ郵袋掛けと事務机などを持ち込んだというところで、私が経験したオユ12の代用と同じ状況で作業は大変だったと思われます。
    あと代用車で典型的なのが、地方線区で半室郵便車の代用で座席車が登場するケースで、ボックス席だと非常にやりづらく窓から郵袋を出し入れしました。その点ではロングシートの方がましだったかと。キハ25なんか荷物郵便代用に際して真ん中にアコーデオンカーテンがある車種もありますが、そうでないものは郵便室表示カーテン、はたまたロープ1本だけというものありまして、たまたま出くわして客室からしっかり見学させてもらったものでした。
    さて、年末繁忙期は郵袋も激増していましたが、小荷物も同様の増加だったと思われます。東京門司臨時便に乗ったことがありますが。名古屋周辺で荷物車の臨時増結、乗務回数増加などはあったのでしょうか?
    2012年01月23日 16:22
  • しなの7号

    元二乗様
    座席車が代用となるケースは、気動車には多くなるのは荷物車も郵便車と同じようです。自分の場合はマニのような客車では座席車を代用とするケースには出会ったことがありませんでした。

    年末は最繁忙期でした。臨時列車に臨時増結、コンテナ貨車やトラック代行便による総力輸送でした。
    2012年01月23日 21:42
  • 元二乗

    しなの7号様
    年末繁忙期ですが、大阪鉄郵では平素からコンテナ便、有蓋貨車締切便により普通小包など輸送していまして、そちらも増強したようですが、東京門司線、大阪青森線に臨時護送便を走らせてました。
    また、代用車とは違いますが「拡張契約」とか言って、平素の郵荷合造車を荷物室も使わせてもらうよう国鉄と契約して荷物室に締切郵袋を積んで実質オユの輸送量とすることなど、そこに臨時自動車便も加わって構内に山積みの郵袋をさばいていましたね。
    さて、年末に限ったことではないですが、託送便と言いまして、郵便車以外の乗物に郵袋を小荷物として預け運んでもらう制度がありまして、最も多かったのが国鉄小荷物でした。郵便車の便数が多くないのをカバーするために天王寺~新宮や大阪~三田で行っていましたが、しなの7号様が名古屋発着の荷物車内で託送郵袋を扱ったことがありましたか? あれば区間がどこであったかご教示下さい。
    2012年01月24日 21:35
  • しなの7号

    元二乗様
    私どもの乗務列車のなかでは、有名な名古屋発天王寺行き921列車で、途中の松阪で毎日郵袋が積みこまれました。
    名古屋から松阪まではスユニのユ室には鉄道郵便局員の方が乗務されましたが、この列車の場合は郵便扱いは松阪までで、その後は鉄道小荷物として他の荷物と一緒に荷物室で輸送していました。ただし私どもは新宮で他区乗務員と交代しましたので、新宮以遠の状況は存じません。
    このほかの区間では託送の郵袋は見かけませんでした。
    2012年01月24日 22:05
  • 元二乗

    しなの7号様
    託送が松阪新宮間であったとは予想もしませんでした。
    実は郵便路線名(便名も)は晩年は名古屋和歌山線と呼んでいたのですが、それ以前は名古屋松阪、松阪和歌山と別れてまして、郵便車は連結替えしていたようです。
    おそらくは、一部の郵便物(優先的輸送)だけは託送として荷物車に積み替えたと思われます。
    名古屋鉄郵の乗務員は新宮で交替したので荷物車と同じだったのですね。乗務区間を拝読しますと、郵便車と比べてずいぶん広範囲です。
    あと、託送郵袋について、小荷物の一部ですから個数や積み降ろしの記録書類に記載をしたと思われますが、記録は荷物札記載の発駅、着駅だけを記載したのか、郵袋についている標札(ベルトについていた金属のわくに入れているトランプ大の紙)の内容も記載していたのか、その点はいかがでしょうか。
    2012年01月25日 02:01
  • しなの7号

    元二乗様
    紀勢本線にはこの他にもスユニ連結列車がありました。しかし松阪以南における他列車の郵便輸送の実態は存じておりません。
    小荷物としての郵袋には一般の荷物同様に小荷物切符をくくりつけてありましたので、標札での管理はしませんでした。駅側との荷物授受は手小荷物授受証によりますのでこれも一般荷物と変わりませんでした。授受証は専務車掌(荷扱)が駅側から受け取り、駅側への授受証作成交付も同様に専務車掌(荷扱)の仕事でした。当時の私は乗務掛でしたから授受証の記載内容に郵便物であることや、郵便物の標札内容についての記載があったかどうかは見たことがなく不明です。
    なおこれまでの記述については私が乗務していた昭和51年~53年当時のことです。その前後のことは直接郵便輸送との接点がないので全くわかりません。
    2012年01月25日 06:37
  • 元二乗

    しなの7号様。ご回答ありがとうございます。
    また別のところから質問させていただきますので、よろしくお願いいたします。
    2012年01月25日 20:11
  • しなの7号

    元二乗様
    私は鉄道郵便については素人ですが、よろしくお願いいたします。
    2012年01月25日 21:53

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