中京地区には、大垣電車区のほかにもう1か所、神領電車区に165系が配置されていました。
私が車掌として乗務するようになった昭和56年の神領電車区では、主に中央西線用の電車を中心に受け持っていました。
ここの165系は、主に急行の「きそ」「つがいけ」用で、篠ノ井線から中央東線や飯田線北部に入る急行「天竜」にも運用されていました。
上の写真は昭和54年、まだ私が車掌になる前、列車掛の養成期間中に撮影したものです。まだサロ165にはグリーンの帯が健在です。
車掌になったとき、神領電車区の165系には、名古屋までの入出庫回送列車に乗務していました。
昭和57年9月11日
中央西線 回802M
運転区間 名古屋~春日井
乗務区間 名古屋12:30~春日井13:07
1 クモハ165- 52 名シン
2 モ ハ164-511 名シン
3 サ ロ165-109 名シン
4 サ ハ153-115 名シン
5 ク ハ165-109 名シン
6 モ ハ165- 1 名シン
7 モ ハ164-801 名シン
8 ク ハ165-176 名シン
(神664)
神領電車区の165系8両編成は急行用なので、グリーン車「サロ165」が連結されていました。この回802Mは上りの急行「きそ2号」が終点名古屋に到着後、折り返し神領電車区へ入区するための回送列車でした。
上に掲げた編成では、4号車に153系のサハが混入しています。これは神領では当たり前のようになっていて、165系のサハが足らなかったものと思われます。所定の編成では5号車もサハが入るところですが、代わりにクハ165が使用されています。
2号車のモハ164は簡易運転台付きの500番台。6号車のモハ165はトップナンバー。ペアになっている7号車モハ164は低屋根車800番台のトップナンバー。なかなか役者が揃っていますね。
昭和56年9月24日
中央西線 回880M
運転区間 春日井~名古屋
乗務区間 春日井20:11~名古屋20:30
8 ク ハ165-110 名シン
7 モ ハ164-804 名シン
6 モ ハ165- 4 名シン
5 ク ハ165-113 名シン
4 サ ハ153-101 名シン
3 サ ロ165-106 名シン
2 モ ハ164-510 名シン
1 クモハ165- 51 名シン
(神661)
こちらは夜、神領を出区して名古屋へ向かう上りの回送列車で、翌朝、名古屋から中央西線経由で大糸線に直通する急行「つがいけ」になる車両です。前日夜に名古屋まで回送し、急行運用の前に名古屋から前夜の普通列車で米原まで行って留置。翌朝名古屋まで普通列車で戻ってから本番の急行運用になるのです。この当時間合運用の普通列車ではグリーン車が「ハ代用」と言われ普通車として開放されていました。
この編成も、前述の編成と似たものですが、この編成中のサロ165-106にご着目ください。
この車両は、その後昭和57年秋、中央本線の急行列車のほとんどが特急化されたことによって不要となり、大垣電車区に転属し、急行東海や大垣夜行に活躍します。分割民営化後に静岡へ転属し、最後の急行東海に組み込まれてグリーン車の緑色帯を復活させました。Nゲージでも「165系さようなら急行東海」限定セットで模型化されました。実車はその活躍後も他車が解体される中で1両のみ生き残り、現在は名古屋の「リニア・鉄道館」に展示保存されている幸運な車両です。




この記事へのコメント
中央西線
京阪快急3000
最初に掲げられた列車の編成の内容は、「みごと」だと思いました。
それから、「サロ165-106」は、こういった形で保存されて、「幸運な車両」だと思いました。
中央西線
勝川7時40分頃で2ドアはかなり厳しく遅れが生じてました。その後上記のように東海道線に移りました。これに懲りず赤倉電車化後再び165系10連の間合いが復活しました。
中央西線
関東の田町電車区(南チタ)でした。
しなの7号
おはようございます。
ご覧いただきありがとうございます。
サハが153なのが、ちょっと気になりますが・・・
人にも車両にも運不運があるので、車両たちに対してもつい擬人化して考えてしまいます(^_^;)
しなの7号
補足ありがとうございました。
くろしお1号
165系も思い出の多い車です。くろしお時代末期のダイヤ改正で、崇めていた921列車は廃止、924列車は電車化され、紀勢線に165系がやって来ました。これによって、電気機関車の免許がなければお呼びでなかった「南紀」「はやたま」の末裔に乗務することができました。
その後は、しなの7号様のバトンをいただき、しばらく関西線専属で毎日165系とお付き合いしました。大目玉のクモハ165-108は、サロ165-106同様、幸運にも保存されているそうですね(まだ鉄道館に行ったことがなく…)。この車はクセがなくて扱いやすかったです。
また、一時期375Mを担当したこともありました。さすが11連!国鉄時代を彷彿とさせました。でも、後ろの方に目をやって、不細工な整形失敗サロが入っていると、執刀医のあまりのセンスのなさにやる気が失せました(笑)
そう言えば、クハ165の先頭側の2人席は前を向いていて、でも運転席が高いので見晴らしが良いわけでもなく…一方、運転していると背中が気になって、不思議なS席でした。確か、クモハは通気口の関係で違ったような…そう、キハ58ではS席は後ろ向きでしたよね。ただ、いずれもお二人様専用といったムードでした。
グリーン車と言えば、高校時代375Mで乗ったのが、サロ163という車でした。後で知ったのですが、165系の暖地向け163系唯一の形式だったとか…
中央西線様のコメントも合わせて拝読すると、この電車の汎用性と奥深さを改めて感じます。
しなの7号
鉄道関係の方々の、この時期の雪と寒さに対するご心労お察し申し上げます。
特に運転関係の方は緊張の場面が連続するものと思います。ご苦労様です。
165系は紀勢線でも乗務されていたとのこと。921~924列車への思い入れがおありでしょうから、その乗務の際のお気持ちもよくわかります。JR化後に私も青春18での紀勢線1周旅行で165系に乗ったことがありました。海と165系に癒される旅でした。
クモハとクハではS席の向きが異なり、クハだけ運転室側を向いて座るようになっていてご丁寧?に窓までありましたね。車掌から見ても、お互いに目が合うと気になる座席配置でした。サロ163も大垣に配置されていましたが、私は乗務したことはありません。こんどNゲージで模型化されるようです。
大垣夜行も運転されていたのですか。
長大編成グリーン車2両という165系全盛期を彷彿させる列車でした。そのなかで田の字窓のサロは幻滅でした。
すべてがくろしお1号さんと同じ感覚で見ていたと感じました。
トシ@グッズマニア
たまたま調べ事でググッていて当ブログに出会いました。
1972年生まれの私が撮り鉄を始めたのは1981年。
家の「バカチョン(懐かしい響きですが)」カメラを卒業し、一眼デビューするまでの5年間は名古屋駅での撮影ばかりでしたが、
しなの7号様の乗務された車両たちの話を読んでいると、当時の事を思い出します。
中学生の頃、当時の家の最寄り駅である大曽根と名古屋の往復は、共に「赤倉」間合いのサロ165に乗ってました。
今考えると、たった20分足らずでしたが往復グリーン車利用で何とも贅沢だったと思います。
ちなみに現在は春日井市内に保存されているD51 792号機から3ブロック程の近所に住んでます。
しなの7号
ご覧いただきありがとうございます。
赤倉間合い普通列車のユーザー様でしたか!
私の乗務列車のお客様でいらっしゃった可能性が大ですね!?
私の場合、赤倉間合い編成は夕方の下りだけの乗務でしたけど。
開放されたグリーン車は、常連さんが多かったようですね。来週の更新記事でその列車の編成記録をご披露したいと思います。
春日井にお住まいですか。昨日はシキ800の写真を撮るため、私はそのあたりをうろついていたんですよ^^;
トシ@グッズマニア
私も昨日、シキが駅に引き出された直後に駅の東側をウロウロしてました。
シキ800Cもヨ8625も全検から日が浅く、ピカピカでしたね。
しなの7号
私がうろついていたのはお昼休み中で、シキが、まだ駅まで引き出される前でした(^_^;)
toseibom
こちらの記事も面白いですね。私は中学に入ると東信に家族が引っ越したため、南木曽に行く機会は減りました。以降はもっぱら碓氷峠に魅かれていくのですが、私にとって165系急行「きそ」というと、堂々12両編成の電化直後の編成です。長編成なのに中は空いていていつも好きなところに座れるので好きでした。この記事の上から2番目の編成の画像はそのころのものでしょうか?幼いころの記憶にあるのは、急行アルプスが端から3両目、4両目がグリーン車なのに対して4両目1両がグリーン車だということ、そして、サハシがないことでした。急行「佐渡」に2両もサハシが入ることがあるのになぜ「きそ」にサハシがないのか、非常に不満に思ったことを思い出しました。
しなの7号
2番目の写真は、おっしゃるように12両時代の急行きそです。たしかに高速のしなの号主体のダイヤに紛れた12両長大編成の急行は輸送力過剰であったように思います。私もサハシもなくグリーン車1両だけの西線の地位は、いつでも東線より下位なのだと思ったものです。
c-view
もしご存じなら教えていただきたいのですが、この、サハ153が混じった編成は抑速ブレーキを使えたのでしょうか?
しなの7号
私も疑問に思ったことがありますが、Web上に「165系と153系の混結について」https://okwave.jp/qa/q7688475.html
というQ&Aがあり、その内容から抑速ブレーキ使用可だと思っています。
c-view
説得力のある回答が掲載されていますね。
実は、FB上でちょっと話題になり、両説出ていたものですから。
ありがとうございました。
この編成、Nゲージで再現したいな~と思っています。
しなの7号
この編成は、赤倉号のようにオーソドックスな?McM'Tcの連続でなく、しかもモハには500番代とか800番台が混在するなど、模型で再現したくなる編成ですね。
toseibom
同じ記事に、13年ぶりに再投稿させていただきます。
現在、1974年頃の802M「きそ1号」名古屋行きを模型で再現しようと試みております。
当初は、小学生時代の記憶を頼りに、低屋根のないモハ164-0番台を中心とした12両編成を想定していたのですが、改めて1974年当時の神領電車区の165系配置をウィキペディアで調べたところ、山陽地区からモハ164-500番台が5両も転属してきていたことが判明し、非常に驚きました。
また、サロ165の運転台が名古屋方を向いていたのか、塩尻方だったのか判断がつかず、Web上で情報を探していたところ、再びしなの7号様の記事に辿り着きました。
記事中、上から2枚目の12両編成の写真を拝見すると、名古屋方に向いているように見受けられ、私自身の記事内で描いた編成図に誤りがあったことに気づき、大変助かりました。
もし802Mに関する追加情報などございましたら、ぜひ記事にてご紹介いただけますと幸いです。今後とも貴重なご発信を楽しみにしております。
しなの7号
お久しぶりです。多少なりとも参考にしていただけてうれしく思います。
掲載の画像は小さく不鮮明でしたので、この画像のほかにも他記事に掲載したその当時の165系の画像も念のため元画像で確認したところ、名シンのサロ165の簡易運転台は名古屋方を向いてました。
しかし、当時の中央西線の165系の編成や仕様については、これまで書いたこと以外わかりかねますのでご容赦くださいませ。1974年前後の中央西線と言えば、D51が引退したあとで話題性に乏しい時期だったので、雑誌やWeb上での記録自体が少ないんでしょうね。
貴ブログは夏以降、連日更新されておられるんですね。順に拝見させていただきます。
toseibom
こんばんは。ご丁寧なご返信、誠にありがとうございます。また、私のブログをご覧いただき、さらに写真のご確認までしてくださり、心より感謝申し上げます。
おかげさまで、サロ165の連結方向について確信を持つことができました。最近は165系の模型を手に取る機会が増え、実車への愛着も一層深まっております。
昔の記憶をたどりながら、802M「きそ1号」の12両編成を再現してみたいと思っております。本当にありがとうございました。
しなの7号
昨日サロ165の向きを確認した画像は、拙ブログ
【961】中央西線を走った車両18:153系・165系電車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201902article_6.html
に掲載した「きそ1号」の画像3枚です。すべて名古屋方から撮影しました。そのなかで1973年の全線電化直後の2枚のうち、1973年7月21日恵那駅撮影のほうは、名古屋方指定席車が非冷房で、サロの前はクモハ165が連結されています。1973年7月30日美乃坂本~恵那で撮影したほうは、冷房車で先頭がクハ164。サロの前はモハ165になっています。その翌々年1975年3月9日美乃坂本~恵那のブルーライナー色先頭の編成では、後方(塩尻方)の付属4両編成は、屋根の様子から非冷房らしく思えます。編成のバリエーションは多かったんだろうと思います。
toseibom
こんにちは。
このたびは165系に関する貴ブログのURLをご紹介いただき、誠にありがとうございました。早速拝読させていただきました。
記事を通じて、神領電車区における165系の多彩なバリエーションに改めて驚かされました。私は模型を組む際、指定席車に非冷房車が充当されることはないだろうと考え、11号車・10号車(名古屋方サロ前のM-M’ユニット)には、1973年に冷房改造を受け松本から転属したモハ164-807とクモハ165-59を配置しておりました。
しかし、貴記事により、実際の運用では指定席に非冷房車が組み込まれるケースもあったことを知り、大変驚いております(というか唖然としました)。また、名古屋方の先頭車が新快速色であったという事実も、当時の自分が目にしていたら相当な衝撃だったと思います。
貴重な情報をお寄せいただき、心より感謝申し上げます。おかげさまで、またひとつ神領電車区の奥深さに魅了され、沼の底へと一歩踏み込んでしまいました。
しなの7号
さすがに自分が乗務するようになった1981年には神領の165系の冷房化は完了していましたが、58系DC時代の赤倉号は165系化される1982年11月まで自由席は全車非冷房のままで、国鉄時代の西線はどこまでも時代の流れに取り残された線区だったと思います。
でも、快適な今よりもずっとずうっと当時のほうがおもしろかった・・・