先週に引き続き、乗務した車両165系の続きです。
引き続き神領電車区の運用に乗務した時の記録から始めます。
昭和56年10月25日~26日
中央西線 回842M
運転区間 中津川~神領
乗務区間 中津川23:16~神領0:07
クハ165-6 名シン
モハ164-84 名シン
モハ165-21 名シン
クハ165-3 名シン
(神676)
中央西線の4両編成です。
車両を見ても別に変わったところもありませんが、この列車は長野県域の急行列車「天竜」関連の運用で、この回送列車は中津川から所属区の神領電車区まで毎日回送するための列車でした。
この編成は長野を19時07分、508M急行天竜8号として12両もの長い編成で発車します。行先は、上諏訪・天竜峡・中津川行。
途中の松本で中津川行が切り離されます。松本から普通列車842Mとなって中津川には23:11着。ここからこの回842Mとなるのです。この当時、急行天竜号との切り離しは分岐駅の塩尻でなく、松本で行われていました。
一方、松本で中津川行4両を切り離し8両で発車した天竜8号は、辰野で上諏訪行508M4両と天竜峡行2808M4両に切り離されます。上諏訪着は21時32分。天竜峡着は23時32分(飯田から普通列車2828M)。
ずいぶんのんびりした急行列車でしたが、当時の中央東線は辰野経由で、みどり湖経由の新線は未開通でした。県都長野から乗り換えなしで木曽、伊那、諏訪地方へ行けるということに大きな意義があったものと思われます。
写真は日中の急行天竜号。東塩尻信号場を通過中の様子です。
昭和57年秋のダイヤ改正で、中央本線の昼行の急行列車のほとんどが特急に格上げされ、381系しなのに置換えられました。神領電車区の165系電車は大垣電車区などへ転属するなどして、配置がなくなり、代わりに長野運転所から381系特急電車が配置されました。天竜系統の165系運用はこのとき松本運転所に移管されました。
そんな急行列車縮小の中央西線に、このダイヤ改正で165系として新たに登場したのが、それまで長らく架線下の気動車編成だった急行赤倉号でした。そしてその165系は新潟運転所上沼垂支所の編成が使用されました。
この赤倉号、新潟から名古屋へ着くと、折り返しの間合い運用で、高蔵寺まで普通列車で運用され乗務しておりました。この列車もグリーン車を「ハ代用」で開放していました。中京地区へは初めて進出した新潟鉄道管理局の電車に乗務できるとあって、うれしく思いました。
昭和57年12月23日
中央西線 675M
運転区間 名古屋~高蔵寺
乗務区間 名古屋18:23~高蔵寺18:56
10 クモハ165- 24 新ニイ
9 モ ハ164- 24 新ニイ
8 ク ハ165- 27 新ニイ
7 クモハ165- 14 新ニイ
6 モ ハ164- 14 新ニイ
5 ク ハ165-108 新ニイ
4 サ ロ165- 80 新ニイ
3 クモハ165-101 新ニイ
2 モ ハ164- 65 新ニイ
1 ク ハ165- 85 新ニイ
(上沼83)
このように3両編成を3つ組み合わせ、サロを1両加えたという、これまでの神領や大垣にはない整った編成でした。
雪国の編成だけあって、運転室には、床下の着雪を落とすための木製の棒状の器具や、長靴が装備されているのが目新しく思いました。
また、上の写真でもわかりますが、外観上は冬装備として防雪用の連結器カバーがかかり、タイフォンにも白いカバーを装備していまして、いつも乗務する165系でありながら異国情緒?を感じたものです。
この下り間合いの普通列車には何度か乗務したのですが、昭和59年に専務車掌(客扱)になった折には、1度だけ、線路見習としてではありましたが、急行「赤倉」号で新潟まで1往復乗務する機会がありました。
急行赤倉号は名古屋を9時02分に発車し、長野、直江津を経て新潟には16時23分に着くという、当時の私どもが所属する車掌区の受持ち列車では最長距離列車でしたが165系としての期間は短く、昭和60年3月のダイヤ改正で廃止となってしまいました。
一方で、この昭和60年3月のダイヤ改正では、新たに関西本線名古屋口で、それまで神領電車区の113系4両で運用されていたローカル列車がすべて大垣電車区の165系3両に置き換えられ、引き続き乗務することになりました。
昭和60年9月22日
関西本線 253M
運転区間 名古屋~亀山
乗務区間 名古屋10:14~亀山11:32
(折り返し240M)
3 クモハ165- 50 名カキ
2 モ ハ164-509 名カキ
1 ク ハ165-128 名カキ
(垣306)
113系4両編成を165系3両編成化したことによって、輸送量に見合った編成に置き換えたということなのでしょう。
(上の写真は分割民営化後、中央西線の普通列車に運用されていた3両編成で、記事とは関係がありません。)
165系の運転室は冷房が全く効きませんでした。これは分散式冷房装置が客室にしかないからで、夏場には辛い思いをしました。対して113系は集中クーラーから冷房のダクトが乗務員室まで来ているので、多少は涼しかったものです。
車掌にとっては、無人駅が多い関西本線では車内での切符発行のために車内へ出入りする機会がたいへん多く、それだけで重労働でした。165系はデッキ付のため、車内に入るたびにいくつもの間仕切りドアを開閉する必要があるので面倒で、しかも乗務員室は夏暑いわけで、165系は必ずしも歓迎とは言えませんでした。
こうして、私にとって165系は、電化された乗務範囲のほとんどの線区で乗務していたことに加え、やはり国鉄の代表的な形式でもあり愛着がある電車でした。以前にもブログ記事「【10】最後の乗務」で少し書きましたが、退職を控え最後の乗務を終えた日に、無料パスを返納する前に、この関西本線の165系に乗りに行ってから職場を後にしたのでした。
(165系についてはこれで終わりです。)
この記事へのコメント
中央西線
しなの7号
赤倉号は気動車時代から話題性のある列車で、雑誌に取り上げられたりしましたね。先輩の車掌長や専務車掌の写真やコメントが載っていたりしましたので読んだことがあります。
京阪快急3000
現在、JR線で165系の姿を見ることができませんが、「急行東海」などは自分にとって、「あこがれの列車」でした。
本記事の最後の方の、165系の常務体験談は、自分のような「乗客」の立場にいるものにとっては、知られざる事で、さぞかし大変だったと感じました。
貴重な常務記録、ありがとうございました。
ラモス
私は高校が新潟だったので『赤倉』で長野まで大学受験に行った事があります。
確かその時は長野止まりだったような…しかも割とハデなカラーだったと記憶しています。
国鉄時代はこの名古屋まで走っていたなんて驚きですね。
通学も越後線というローカル線だったのですが、時々この165系が来てたので昔を思い出しました(^^)
出口が遠くて混んでいるとすごく降りにくいですよね。
しなの7号
急行東海は最後まで国鉄の急行らしい列車でした。
そのルーツはモハ80系準急で、中京地区から東京へ走っていました。のちに153系に置き換えられますが、この湘南色は165系までずっと受け継がれ、いまでもJR東海の211系を始めとする列車の帯色として残されていますね。
165系は3両で短編成を組めるのでローカル輸送にも重宝されたようですが、2ドアデッキ付きの構造は、なにかと無理がありましたね。
しなの7号
訪問いただきありがとうございます。
赤倉号は、特急「しなの」と急行「南越後」に分離することによって廃止されたあと、その名称が一時期名古屋から妙高高原への臨時列車として使用されました。その後JRになって定期列車として「南越後」系統に名称が復活使用されていました。そのころは新潟~長野間の運転で、そのまま松本まで普通列車として運転されていたと記憶しています。車両は主にムーンライト用だったグリーン車の座席に換装した165系が使用されていました。ラモス様が乗車されたのはその頃の車両だと思います。
トシ@グッズマニア
113系と165系の乗務員目線での違い、とても興味深く感じました。
急行型の通勤列車への間合い使用は、上尾事件の遠因になってしまうなど利用者からは必ずしも歓迎されるものではなかったようですが、休日だけ赤倉間合いで名駅通いをしていた当時中学生だった私には、そんな事情など考える由もありませんでした。
あの頃は経営上の事情など何も知らず、改正の度に何でもかんでも「しなの」に吸収してしまう方針に非常に反感を持ってました。
白いタイフォンカバーにオレンジ色のビニールが無造作に掛けられた連結器カバー、そして名古屋に到着すると少し間を開けて側面行先サボ差し替えの為にホームの反対側の乗降扉を開ける姿、全てが懐かしいです。
中央西線
長野間1往復の旧みすずですね。長野駅で西線を経由しない313系が見られるのは不思議です。
赤倉の間合いの朝の上りは多治見発でしたね。
しなの7号
このころは急行は廃止され特急しなのに統一されつつあった時期でしたが、ついに定期急行列車「きたぐに」も春のダイヤ改正で臨時化されることになりました。
「国鉄時代から運転されてきた」定期急行は消滅です。
時代は変わりましたね。
しなの7号
115系時代を含めてみすず系の東海車を信州の地で見るのは違和感ありですね。
朝の多治見始発の赤倉間合い使用列車は専務車掌の乗務列車でしたので、私は乗務経験がありません。
早通団地
貴ブログを偶然見つけ、それまでROM専だったのですが、急行赤倉のお話など、新潟に住む者にとっていつかはコメントをしたい。そう思ってました。
気動車時代の1980年8月。親戚一同でこの列車に乗ったことがあります。当時、小学校3年生でした。
乗車区間は新潟~妙高高原でしたが、それまで長距離の列車に乗ったことはほとんどなく、妙高高原駅に降り立ったときはホントにここも新潟県なの??と疑問に思うくらいでした。
私が乗ったのは何号車だったのか覚えてませんが、扇風機があったのは覚えてます。小学生ですから、誰よりも早く回したい。そんな勢いでスイッチを入れたら、車掌さんに冷房が効いてるから要らないよー。そんなことを言われた記憶が。冷房車でも、扇風機が残っていた車両があったのかはわかりませんが(笑)。
続きます。
早通団地
その年の夏ごろから鉄道写真を撮るようになりました。身延線から流れてきたクモユニ143も撮りましたが、湘南色でしたので143-1ではないことは確実です(笑)。
165系ももちろん撮りましたがまだ中学生で適当な撮り方。ほとんどがオデコのみ。今思えば、形式も写せばよかったと後悔してます(笑)
形式は写さなかったものの、中には初期車もありました。先頭車の雨どいが短かったので、すぐにそれとわかる車両でした。
初書き込みで長々と語ってしまい、大変失礼しました。
これからもちょくちょく拝見させていただきます。
しなの7号
ご覧いただきありがとうございます。
赤倉号、それも気動車時代の乗車経験をお持ちとは(゜o゜)
気動車時代の赤倉号の普通車はすべてキハ58でしたから、走行用に2エンジンを装備という構造上、冷房電源を持たず、他車から給電を受けていました。その関係上(冷房装置を装備していても冷房できない場合に備え)キハ58の冷房車には扇風機が残されました。赤倉号の冷房電源はキロ28にしかありませんでしたので、そのキロと隣接する普通車指定席車だけが冷房車として機能していました。察するに早通団地様が乗車されたのは指定席車両であったのでしょう。
扇風機のスイッチを押したいという気持ち、たいへんよくわかります。私も同じでした。私の場合は近代化改造の旧型客車でありましたが(^^ゞ
国鉄末期には、各地で不要となった車両群が留置されている光景を見ましたが、新潟でも同じだったようですね。一部のサロ165からもクハ455への改造が行われたと記憶しておりますが、多くはそのまま廃車となったのでしょう。この時期のサロ455からクハ455への改造タネ車の回送について拙ブログ「【175】臨時列車の乗務(10):455系回送電車」で紹介していますので、よろしければご覧ください。
私も中学生からカメラを持ち始めたのですが、なんともならない写真の多さには情けない限りです(T_T)
南駒ケ岳
しなの7号
「赤倉」の上り最終列車に乗られたですか。私は残念ながら乗客としては一度も乗る機会がありませんでした。海あり山ありの沿線を一日見て過ごせる列車でしたね。
おっしゃるように冬場は雪国から来たことが一目でわかるいで立ちで名古屋へ姿を見せていました。同じ165系でも、新ニイの165系は格が違って見えたものです。
toseibom
またまた遅いレスで失礼します。
この記事も懐かしさのあまり笑みがこぼれてしまいました。そーです。急行天竜は私はとてもお世話になりました。県を横断するモノクラスの急行でした。私は下りの天竜2号を塩尻まで利用しました。登りと違って下りは塩尻で12両になったと思いますが・・・その瞬間をみた記憶がありません。急行きそが旧塩尻駅1番線に入線するシーンは昨日のことのように鮮明に思いだせますが(笑)
書いていてまた思い出しましたが、上諏訪発の朝一番の天竜は当時80系4両でした。朝早起きして見に行って「えー、いまどき80系を急行に使うの?」と驚いた記憶があります。
急行天竜も模型で再現したいですね。
しなの7号
実はこの天竜関連の記事はtoseibom様にもご覧いただければと思いながら書きました。本文には記載しませんでしたが、回842Mは車掌になって本務での初日に乗ったので思い出の列車です。(掲載した編成を記録した日とは異なります)
私は電車化前のDC時代にはときどき「きそ1号」(旧きそこま)を時々利用したことがありましたが、電車化後は乗った記憶がありません(-_-;)
写真は東塩尻信号場の様子を見ようと自動車で出かけたときのものです。それにしても鉄道雑誌で80系電車が天竜に使用されるようになったのを見たときにはちょっとびっくりでした。
コメントありがとうございました。
Aki
1970年代前半の旅行は、もっぱら学割の均一周遊券を利用していました。移動はもっぱら夜行列車と急行列車で、駅の待合室も普通に24時間開放されていました。165(153)系は最も多く利用した形式ではないかと思います。急行がなくなってからも出合わせると嬉しくなりました。気動車では、乗る機会は少なかったもののキハ65がお気に入りでした。乗降口の折戸がかっこよかったし、何より冷房がついているのがありがたかったです。当時客車では扇風機の付いていないものも当たり前でしたから。でも両形式も乗務員の方にはいまいちの評判だったのですね。
しなの7号
ブログという形式でありますが、日記のようなものではないので、古い記事こそご覧いただきたいと考えています。古い記事から順に目を通していただけていることに感謝します。
直流電化区間の定番だった165系、周遊券を使う前提なら「急行」は非常に利用価値が高い列車でしたから、利用されて思い入れをお持ちの方は多かろうと思います。
周遊券・駅寝・夜行列車、快適ではなかったにせよ思い出に残る味わい深い昭和の鉄道旅では一般的だった言葉たちも、いずれは死語となってしまうのでしょうか。
キハ65も過去記事をご覧いただいてお判りのように、困ったことはあったのですが、それでもその特徴的な折戸の動作や、加速するときのエンジン音は他形式にはない特徴を楽しみながら乗務していましたよ。