これまで「乗務した車両」というタイトルで、定期列車で乗務した車両についてあれこれ書いてまいりました。先週165系をご紹介したところで、ほぼ網羅したように思います。まだ臨時列車として乗務した車両や突発的に乗務した車両について一部書いていないものは、別の機会にご紹介することとして一旦キリをつけたいと思います。
今後は新シリーズ「思い出の乗務列車」として列車別に、主に定期列車について思い出話を綴りたいと思っています。今回はその第一回になりますが、第二回めは今のところ、アップ予定は全くの未定です。
(2012年11月23日追記:第二回目は「【309】 思い出の乗務列車2:セメント専貨5294列車」以降随時アップしております。)
***************************
東海道本線~武豊線 940D
(昭和55年10月ダイヤ改正時)
運転区間 名古屋~大府~武豊
乗務区間 名古屋14:48~大府~武豊15:53
編成 キハX3 (名51)
この列車は車掌として本務になって初めて武豊線で乗務した列車でした。
それまで乗務掛と列車掛を務めてきましたが、大府から先の武豊線は乗務範囲に入っていませんでしたので、駅順も怪しい状態での乗務でした。事前に線路見習いはありましたが、それだけでは不安でしたから、列車掛の同期で、すでに武豊線に乗務していた者がいましたので、事前に一緒に乗りに行ってから迎えた本番でした。
上の写真は武豊駅での撮影ですが、その乗務当日のものではありません。
この列車は武豊線内の夕刊輸送を主とした荷物輸送を行う列車でした。そのため車掌は2人乗務で、1人が運転業務と旅客扱い、もう1人が荷扱と担務が指定されていました。その時の私は運転業務と旅客扱いのほうの担当でした。運転業務担当は、運転上の責任者ですので、ドアの開閉と運転士へのブザーによる出発指示合図をはじめ、すべての運転上の責任を負います。同時に客扱いもありますから、車内放送、車内巡回、無人駅の集札も行います。この列車の場合は2人乗務なので、荷扱担当者がドア扱いや車内放送も手伝ってくれて、お互いが協力して乗務をしていました。
この列車を始めとして、当時の武豊線の旅客列車は、朝夕一部の列車がキハ58など急行用編成を間合いで運用されていたのを除き、すべて首都圏色のキハ35によっていました。武豊線内の一般荷物の輸送はすでにトラック輸送に切り替えられた後で、そもそも武豊線用の荷物気動車はなく、最後部のキハ35の3つのドアのうち乗務員室寄りのドアを荷物専用にして、その付近の客室を一部荷物スペースとして荷物車代わりとしていました。荷物用スペースには一般客が入ってこないよう車内に「しゃへい幕」(遮蔽幕)とよばれる布製の目隠し用の幕を取り付けました。幕には大きな字で「荷物室」と書いてありました。
始発駅名古屋では、ホーム入線時に、荷扱担当車掌は乗客より早く最後部ドアのところへ行き、乗ろうとする乗客に、ここは荷物室ですと説明し、他のドアに移ってもらい、もう1人の車掌は、それを見計らうようにドアを開けます。荷扱担当車掌はすばやくドアから乗りこんで「しゃへい幕」を左右両側の網棚のパイプに括りつけます。
名古屋駅の新聞発送係員が、そこに夕刊を積みこんでいきました。荷物は前述のように武豊線内の一般荷物の輸送はすでにトラック輸送に切り替えられた後でしたので特殊な荷物しかなく、たとえば旅客の遺失品の回送がありました。このほかこの列車は国鉄内部の「事業用品輸送列車」となっており、各駅で発行するための乗車券や職員の乗車証、掲示するポスターの類や鉄道管理局からの達示などが書かれた「局報」などの運搬もしていました。
下の写真はJR化後、211系電車による中央西線名古屋口での新聞輸送の様子です。参考に掲載しておきます。
国鉄当時に武豊線で使用していた「しゃへい幕」は、ほとんど荷物積載部分が見えないほどの大きさで、写真のような小さいものではありませんでした。新聞や荷物ももっと多く、荷物スペースも、もっとたくさん取りました。
初めての武豊線乗務でしたが、2人乗務でしたので車内巡回も落ち着いてできました。1人だと無人駅の集札などは焦ります。この時発行した乗車券は過去のブログ記事「【9】初めて発行した切符」の中でアップしてありますように今も保存しています。大府駅の停車中に、次の無人駅である尾張森岡で降りるお客さんから乗り越しの申告があったので、その差額を収受した切符でした。
***************************
冒頭に申しましたように、第二回めは今のところ、アップ予定は全くの未定です。
次週からの月曜日は、国鉄乗務員時代の思い出話を数回続ける予定です。
この記事へのコメント
ゆき
しなの7号
いつの時代も、自分があと10年、いや5年でいいから早く生まれていたら…と思うものですね。でも私は鉄道員脱落の落ちこぼれです(^_^;)
25年以上前の鉄道の様子、みなさんに思いだしていただき、ご存じない方にはぜひ知っていただきたいと思っています。今後もよろしくお願いいたしますm(__)m
貨車区一貧乏
運転士でも車掌でも本務になり、初めての単独乗務は緊張しますよね
列車掛初乗務のとき、始発時の検査で列車を一回りしたら汗だくで、へとへとになりました(汗)。
それを他から見ていた先輩が「お前の検査は、交番検査並みだよ。もっとポイントを絞って要領良くしないと発車時間に間に合わないぞ(笑)」って言われたこと、今でも鮮明に憶えてます。
当時の運教が様子をこっそり見ててくれたようです。
しなの7号さまの旅客デビューは、ちょうど31年前の56.2.14ですか?
初乗務での初発行の車補を、自身で回収できることって非常に稀ですね うらやましいです。
自分は退職する最後の乗務の車補を自爆して購入しました^^
しなの7号
初めての乗務は緊張しますね。始発検査での丹念な検査をされるとは、さすがに貨車区の列車掛さんですね。車掌区の列車掛は検査にさほど重点を置いてなかったです(^^ゞ
私の旅客デビューは、昭和56年2月14日でなく3日前の11日で中央西線ローカルでした。件の車補を書いたのは2行路目の武豊線初乗務のときで、初めての中央西線の乗務では車補の発行がありませんでした。
そちらの記事だと紛らわしい表現でしたので、さきほど修正しておきました。失礼いたしました。
今回の記事をアップするときも、べつに意識していなかったですが、言われてみると初めての車補を発行して本日で31年ですね。
最後に発行した車補は、私も「【10】最後の乗務」で書いたように自爆でした。あれからもうすぐ25年ですね。
くろしお1号
ブログを拝読し、日勤オタケワンマン4発を、今日は味わいつつやってきました。電柱がニョキニョキ立ってきましたが、この線路上をキハ35が走っていて、そしてしなの7号様が乗務されていたのか…と思うと、感慨深いものがあります。
そして、時期の巡り会わせで夢を断念されたゆき様、またしなの7号様と同じ断腸の思いで鉄道を去られた貨車区一貧乏様のコメントも合わせて拝読し、「国鉄」への想いが本当によく伝わってきます。
私も、本務初乗務のシーンは今でも鮮明に思い出されます。本審査合格後の見習乗務のある日、出勤時に辞令が出たことを知らされ、突然のデビューでした。初列車はやはり「くろしお」で(何号だったか…残してあった行路表を紛失してしまいました)、師匠のいない助士席を運転中何度も振り返っていました。
私も「くろしお1号」の携帯時刻表を、その後のダイヤ改正後に頂くことができました。本当にかけがえのない宝物ですね。
しなの7号
コメントありがとうございます。
今の乗務はきつそうですね。このときの行路でも本文中の積載方の写真下部に書き足してあるのが写っていますように、武豊到着後は乗継詰所の掃除をすることになっていました。と、いうことは1列車落としての折り返しで、もう1人の車掌がそのまま1人で折り返していきました。次の列車まで1時間ほど時間があるのでその間に掃除をするというわけで、このことからも当時は勤務時間そのものに余裕があったことがわかりますね。
武豊線はもう電化工事が本格化しているんですね。どんな感じなのかひさしぶりに武豊へいってみようかと思っています。
本務になったときのことは、みなさん、よく覚えておいでですね。就職時から乗務員ではありました私も、列車掛になる前は荷扱で複数乗務でしたからよかったのですが、本務の列車掛になって、一人でその列車をまかされる孤独な乗務になると、「自分の乗務すべき列車を間違えない」ことから始まる緊張感がありました。
野良太郎
僕も初めて車販でのやくも2号~5号~12号~15号の単独乗務は今でも鮮明に覚えています!緊張の余りに、青ざめていました!やくも2号の米子から乗務の車掌長に、野良よ~大丈夫か?いつも通りにやればいいよと言って頂いたき非常に心強かった事を今でも感謝しております!後の出雲1号、4号乗務はハードでしたが楽しんで仕事に没頭出来ましたよ!
しなの7号
2往復の振子車両での車内販売は大変だったでしょう。
連結部の凸部も381系独特の難所?でした。