【255】 武豊駅の高橋駅手

武豊駅の写真です。画面右端、駅前に建っている胸像がおわかりでしょうか。
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武豊駅の駅手「高橋 熙」の胸像です。「駅手」とは駅務係のことです。
私が生まれる前に建てられたもので、常滑焼の陶製だそうです。
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台座裏面には以下のように記されています。

高橋熙君顕彰記
昭和二十八年九月二十五日襲来した十三号台風により、武豊町塩田地区の護岸堤防が決潰し、高潮の浸水によって鉄道線路が洗われたので列車の運行が危険な状態となった。この時旅客列車が東成岩駅を発車したことを知った武豊駅駅手高橋君は、荒れ狂う濁流と暴風雨とをおかして発煙筒を打ち振って危険信号を送った。このため列車は危機寸前に停車して、多くの生命は救われたのである。然し、高橋君は哀れにも怒涛にのまれ、悲壮な殉職をとげてしまった。その尊い犠牲的行為に感激し、有志が相談して君の胸像を建て、その功績を永遠に伝える。
昭和二十九年九月 愛知県知事 桑原幹根撰 志芳書






私が生まれる前、そんなことがあったのだと、乗務中にも、次の東成岩駅との間に考えることがありました。
いまさら私がコメントするようなことでもなく、この文面を見れば、多くの人命を預かる国鉄職員が職責を全うした、若い駅員の行動を思うにつけ、在職中の私は恥ずかしい思いばかりしていたと反省せざるを得ません。

ところで以前の拙ブログ記事「【153】長野県西部地震があった日「しなの7号 春日井行」」に「くろしお1号」様がこの区間で災害に遭遇したときの様子をコメントいただいたことがありますので、勝手ながら、関係する部分のみここに再録させていただきます。

2000年9月の東海豪雨に遭遇してしまいました。
 経験したことのない大雨の中、何とか武豊に到着し、もう折り返しは不可能だろうと思っていたら出発信号機が青で、渋々発車しましたが案の定一駅でアウト、無人駅の東成岩で2晩泊まりとなりました。「こんな大雨だから、列車の中で待たせてもらうのが一番安全でいい」とおっしゃるお客様はじめ、本当に平穏な車内でありがたかった思い出があります。


以上のとおりですが、この「くろしお1号」様のコメントで、昨年公開された映画「RAILWAYS ~愛を伝えられない大人たちへ~」のワンシーンを思い出しました。(映画に関する拙ブログ記事はこちら
映画の中で、電車は落雷で停電して山間部で立ち往生します。主人公の電車運転士が乗客に詰め寄られ、無線で、復旧見込不明としか答えない運転指令に向かって「復旧の目安だけでも教えてくれ!お客さんが困ってるんだ!」と強い語調で通話し、おろおろする同乗の見習運転士に「こっちが不安になれば乗客も不安になる。」と小声で告げる場面です。

災害時の乗務員は孤独なものです。特にワンマン列車が多い昨今、乗務員のみなさんの苦労は並大抵ではなかろうとお察しします。

ところで、武豊の高橋駅手は当時23歳、胸像は募金によって建てられたもので、募金者は職員だけでなく児童が小遣いを差し出す例もあったと聞きます。
                                    合掌

この記事へのコメント

  • 貨車区一貧乏

    こんばんは 
    武豊線にも殉職に関係した悲劇があったんですね

    過去に明治後期になりますが、北海道の宗谷本線「塩狩」付近にて列車分離が起こり、客車が暴走。
    たまたま乗り合わせていた鉄道職員の長野氏が、身を挺して暴走を食い止めて殉職されたということがあったそうです。

    列車無線防護無線、TE、貫通ブレーキ、携帯電話などなど通信手段や保安装置が改善されている現代、このような事故は防げているでしょうね。

    短絡器や雷管、信号炎管や沿線電話で防護、連絡を教わった時代の私たちの世代と現代とも隔たりがあり安全面も進歩しているものと思います。

    おっしゃるとおりワンマン運転士諸氏は ひとたび事故が起きると一人で対応、本当に大変ですね 祈 安全運行
    2012年03月11日 00:57
  • hmd

    しなの7号さん、おはようございます。
    天気も不安定ですね、春も近いと言えるのですが・・・。

    武豊線にも、殉職された方がいらっしゃたのですか・・・。
    どの路線にも、何かしらの原因で殉職された方が、一名はいらっしゃる様な気がします。
    特に、物資が不足し、人、車両共に鉄道の安全運行に不安が大きかった戦中と終戦直後の混乱期に、今では考えられない様な状況や事故が多数発生した事は、鉄道関係者の方々や鉄道史を少しかじった鉄道愛好家の間で、周知の事実だと思います。
    今日の安全運行は、過去の経験と教訓から成り立っているものであり、最大の敬意とご冥福をお祈りしたいと思います。
    鉄道関係者ではない鉄道ファンも、趣味としての追いかけや楽しみだけではなく、この様な事実もよく知るべきですね。
    ワンマン運転の怖さ・・・実は、ヒヤリですが、旅行中に一回経験しています。事無きをえましたので、大丈夫でしたが・・・。詳細をここに記すのは、某鉄道にご迷惑がかかるので差し控えますが、運転士一人での運転は、大変負担が大きいと感じた次第です。
    また参ります。
    2012年03月11日 08:08
  • しなの7号

    貨車区一貧乏様 おはようございます。
    塩狩峠の件は小説になっていて、一般の方でもご存知の方が多いかもしれませんね。私も一度だけ塩狩峠を列車で越えたことがありますが、そこの碑には気付かずに通り過ぎてしまいました。どうやら反対側だったようです。
    通信手段や保安装置の進化で、鉄道の安全性は向上していますが、それに関わる方々の責任は重くなるばかりなのでしょう。

    いつもご覧いただきありがとうございます。
    2012年03月11日 08:24
  • しなの7号

    hmd様 おはようございます。
    こちらは良い天気になってます。

    鉄道現場というのは、昔から危険なところで、安全に関する教育もかなりの時間を割いて行われていました。それでも殉職者や現場に復帰できないような重傷者は出てきてしまいます。私も単純な不注意が原因でひやりとしたことが何度もあります。
    人間の不注意をバックアップする機器類が充実している今の鉄道は安全性が増したのでしょうが、異常時の対応には、そうした機器類だけでは対応しきれないものであろうかと思います。
    折しも、今日で東日本大震災から1年が経ちます。あの日、列車の安否すら列車指令にさえ判らない状況のなか、乗客の避難誘導に関与された現場の皆さんに心からご苦労様でしたと讃えたい気持ちです。
    2012年03月11日 08:41
  • 野良太郎

    なるほど
    殉職された方の胸像あるのは名古屋管理局の有志のかたの素晴らしさが分かりまよ!僕の地元にも殉職された方では無いですが明治時代に山陰鉄道建設のため自分の持ってる財産を全て投げ放って、境港~御来屋間を開業されました!後藤快五郎氏です!残念な事に後藤氏の像は米子には無いです涙でも境線の後藤駅と隣接する現在の後藤車両所は後藤氏の所有地であった事から現代の今日に至るまで功績を讃え後藤の名があります!命は一代、名は末代の言葉通り、境線の後藤駅と後藤車両所がある限り後藤の名は語り継がれていかますよ!
    2012年03月11日 09:52
  • しなの7号

    野良太郎様 
    この胸像建立の発起人は、国鉄労働組合名古屋地方本部委員長、刈谷駅長、国鉄労働組合刈谷支部長ということを聞いています。組合主導だったのでしょうか。

    後藤駅の由来は存じませんでした。人名が駅名となるとは、そのこと自体が立派な記念碑と言えましょう。
    2012年03月11日 11:34
  • TOKYO WEST

    殉職といえば、「大阪車掌区史」でも紹介されていた大阪車掌区大山健一列車掛のことが印象に残っています。
    昭和50年暮に、山陽本線の普通電車に車掌として乗務していた大山列車掛が、須磨駅で退避中にホーム上から線路へ転落する旅客を発見するや、線路に飛び降りて救助しようとするも通過する新快速電車に二人とも巻き込まれ、殉職したというものです。
    須磨駅の構内には、この勇気ある行為を讃える顕彰碑が設けられています。
    2012年03月14日 00:44
  • しなの7号

    TOKYO WEST様
    須磨の「大山健一顕彰之碑」については、ぜひ一度行きたいと思っていたところです。この次のブログ記事にありますように、私ども夫婦で京都まで行ってまいりましたが、帰ってから「今度は須磨行くぞ。水族館でも行ってくるか?」と家内に話してあります。
    ご紹介いただいた顕彰碑が建立されたのは事故の翌年(昭和51年)で、自分が就職した年にあたります。大山健一氏は事故当時25歳ということで、事故がなければ今でも60代前半であられるはずで、身近に感じます。鉄道碑巡りの旅もいずれやってみたいと思っております。
    2012年03月16日 07:12

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