ユーロライナーは、1985年(昭和60年)に国鉄の名古屋鉄道管理局に配置された欧風客車で、いわゆるジョイフルトレインです。1983年(昭和58年)に東京南鉄道管理局に配置された「サロンエクスプレス東京」と大阪鉄道管理局に配置された「サロンカーなにわ」に次いで国鉄で3番目に登場した欧風客車でした。
写真は試乗希望者を募って運転された試乗列車です。中央西線釜戸駅に停車中の様子で、この後中津川駅まで運転され、中津川では車両の展示会がありました。
ジョイフルトレインのルーツはお座敷列車に遡ると思いますが、欧風客車は、利用年齢層を若者や女性にも広げる目的で誕生しました。先行したサロンエクスプレス東京がコンパートメント方式で、一方のサロンカーなにわがオープンスタイル方式だったのに対し、ユーロライナーでは、その双方を取り入れていました。
上の写真がコンパートメント車です。中間車ばかり4両ありました。
上の写真は展望スペース付オープンスタイル車です。編成両端の2両になります。
中間車には1両、定員外のカフェラウンジ車がありました。上の写真です。ここでは軽食の供給も行っており、ミニステージにカラオケ装置も備えたフリースペースになっていました。
このように1編成が7両で組成されていました。
明るい軽快なイメージのユーロライナーは12系座席車からの改造でしたが、特にコンパートメント車については、見るからに大改造と思われるほどの変貌ぶりで、サンルーフ付のカマボコ型屋根の車体は14系寝台車を思わせるものでした。
ユーロライナーに限らず、こうしたジョイフルトレインにはサービス機器がたくさん付属しています。ユーロライナーの場合、営業用の備品もビデオテープ、カセットテープ、カラオケ装置のマイクロホン、歌集に至るまであり、ビデオデッキやカラオケ装置などの取扱方をまとめたマニュアルが乗務員室に備え付けられていました。
**************************
来週の更新に続きます。
この記事へのトラックバック
- 【386】 思い出の乗務列車19:臨時急行「ユーロライナーのりくら」(前篇)
- Excerpt: 1985年11月は、臨時列車にはよく乗務しました。 天王寺鉄道管理局(竜華客貨車区)のお座敷列車に乗ったその日の深夜、2度目となる205系電車の新車回送列車に乗務しましたが、その行路は【293】臨時列..
- Weblog: 昭和の鉄道員ブログ
- Tracked: 2013-06-24 07:26





この記事へのコメント
デキ501
今回はユーロライナーですね。
落成を知った時一度は乗ってみたいと
思いましたが、残念ながらこちらのエリアへの
入線は少なく乗務できませんでした。
ただ当時客車に限らずトイレがまだまだ
汚物タンク無しの垂れ流し状態が多く
駅構内での停車の度、ホームの助役が
車掌さんトイレ使わんように放送しろと
よく言われ大変でした。傍から見ても
汚水管の下は見る間もなく黄色い物と
白い紙の山、駅側からの抗議?も
仕方ないと思いましたね。
くろしお1号
ユーロライナー、本当に懐かしいです!国鉄がいよいよ分割民営化される…そんな頃のデビューだったのですね。当時はこのようなジョイフルトレインの誕生が、民営化の象徴に感じられました。将来を見通すことのできなかった時代でしたが、これからはこんな独創的な車両たちが主役になっていくんだ、と。
そのユーロライナーも、もういなくなって5年。写真の手書き説明書には温かさと同時に、生まれ変わろうとする時代の意気込みも伝わってきます。末期の僅かな期間、間接的ではありますがユーロ色の電機で乗務する機会もいただき、ブログを拝読していると、しなの7号様から「○○列車発車!」と出発合図を頂き気笛を吹鳴している…そんなシーンが頭の中を駆け巡ります。
しなの7号
私どもからすれば、いちばん身近なジョイフルトレインが、このユーロライナーになります。
他局(分割民営化後は他社)のジョイフルトレインに乗務できる機会があると、鉄分がない車掌でも興味をそそられるものですね。
でも、そんな機会も少なくなってきたものと思います。
汚物処理装置などないのが当たり前の国鉄時代は、停車中のトイレ使用は問題になったのでしょうが、自分は駅側から直接苦情を言われたことがありません。もっとも、国鉄末期に名古屋駅を含む周辺住宅密集地域でのトイレ使用禁止区間がありましたが、それが浸透したとは思えませんでした。
しなの7号
おっしゃるように、デビュー当時は、これからはこういったコンセプトの車両が増えて、鉄道も新しい次元に入って行くのかと思っていましたが、分割民営化から四半世紀が過ぎた今日、すくなくともJR東海ではこうした方面からは撤退したと見てよいのでしょう。
無線機での客車乗務時の出発合図、懐かしいですねえ。
そして発車時の汽笛も。
国鉄末期は、それらの取扱変更の過渡期でした。名古屋鉄道管理局管内の東海道、中央本線で発車時の汽笛が省略されるようになったのは昭和60年3月のダイヤ改正時からでした。