【313】 思い出の乗務列車4:直行貨5850列車・5852列車

直行貨物列車とは、当時の貨物列車の区分のひとつです。
当時の貨物列車は、従来からあった一般貨物列車(ヤード方式の普通貨物列車と解結貨物列車)のほかに、特定の使命を持つ使命貨物列車とがありました。使命貨物列車には、高速貨物列車(時速95㎞と100㎞に分類される)直行貨物列車(時速85㎞)・快速貨物列車(時速75㎞)・専用貨物列車とがありました。それぞれ、使用される貨車が、その最高速度に耐えうる車両に限定されました。
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今回紹介する列車は、直行貨物列車です。この5850列車の使命は愛知県内のトヨタ自動車で製造した自動車を九州へ輸送した空車貨車の返送でした。人間は目的地まで行ったら必ず帰ってくるものです。しかし貨物というのは、輸送したら帰ってきません。他の貨物を積んで帰ってくればいいのですが、特に自動車を運ぶ貨車(車運車といいます)をはじめとするタンク車やホッパ車など「物資別適合貨車」は帰路を空車で走らせるしかありませんでした。無駄なようですが、これはやむを得ません。
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この5850列車は九州の香椎線の貨物支線志免を始発駅として、岡多線の北野桝塚終着の列車でした。志免駅は国鉄時代に廃止となり、一方の北野桝塚駅は現在第三セクター鉄道である愛知環状鉄道の駅ですが、こちらも現在貨物営業は行っていません。
私はこの列車の運転区間のうち吹田操~北野桝塚間を乗務しました。この列車の写真は撮ったことがありませんが、その折り返しで自動車を積載している列車の写真がありますので、お目にかけましょう。
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深夜の吹田で、一番眠い時間に乗務員宿泊所で起こされて大阪車掌区吹田派出所に出勤し、西から乗務してきた列車掛から引き継いで発車するのが深夜の2時33分。直行貨物というだけに足は速くて、途中の停車駅は野洲、米原(操)、稲沢、岡崎だけでした。
これらの停車駅でも貨車の解結はなく、停車の目的は乗務員交代だったり、寝台特急列車などさらに高速の列車の待避でした。時間帯が九州から上ってくる寝台特急群の時刻と競合していましたので、最高時速85キロの貨物列車であっても、途中で追い抜かれるわけです。
岡崎では進行方向が変わるため、機関車を反対側に付け替える(機回り)作業のため39分も停車しました。ここが朝食タイムに都合がよかったので、列車を降りて食堂か喫茶店へ出かけました。火曜日運休という列車でしたが、九州を出るのは前日の月曜日、その前日は日曜日でトヨタ自動車の発送が休みだということであれば納得できる話です。
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私が乗務していた時期は1979~1980年(昭和54~55年)で、牽引機関車は広島区のEF60でした。貨車の編成は自動車輸送の専用貨車「ク5000」が十数両、その両端に車掌車「ヨ」が付くといった編成でした。前述のように直行貨物列車は最高時速85㎞でしたから一般貨物列車のようにヨの代わりにワフで代用することはできず、ワフ同様に最高時速75㎞しか出せない旧式のヨ2000は充当されませんでした。あいにく、この列車の編成の記録をしておりませんので、別に機会に乗務した姉妹列車ともいうべき5852列車の記録を掲載しておきましょう。

1980年(昭和55年)12月19日
東海道本線 5852列車
運転区間 岡山操~北野桝塚
乗務区間 吹田操~稲沢

EF65 106(稲二)
 ヨ 5059  南トメ   (車票なし)
 ク 5917  南チサ 西岡山~北野枡塚
 ク 5419  高ラノ   (車票なし)
 ク 5570  静ヌマ   (車票なし)
 ク 5102  南チサ   (車票なし)
 ク 5589  静ヌマ   (車票なし)
 ク 5890  静ハツ   (車票なし)
 ク 5257  北オオ   (車票なし)
 ク 5881  金サワ 西岡山~北野枡塚
 ク 5656  南チサ 水島 ~仙台港
 ヨ 6229  高タソ   (車票なし)

11車 延長換算25.1 換算22.9

こちらの列車の牽引機は稲沢機関区のEF65で、この日は、先週のブログ記事でご紹介した5799列車と同じ「EF65 106」でした。分割民営化の際にJR東海へ引き継がれ、のちにユーロライナー塗装になった機関車であることは、その記事中でも記しました。

5850列車が九州からの列車であったのに対し、こちらは岡山操始発の列車でした。
この列車もほとんどがトヨタ自動車出荷基地であった北野桝塚行の空車で組成されていましたが、最後部ヨの直前の仙台港行のみ積車で、これは北野枡塚から別の直行貨物列車に継送となったものと思われます。
水島は三菱自動車の出荷基地であったと思われますので、北野桝塚以東の継走列車は、トヨタ車積載車と三菱車積載車の混成になったものと思われます。輸送中はパンタグラフの擦り粉やブレーキの鉄粉が積荷の自動車に付着したりするので、車両によってはビニールカバーを自動車にかけていましたが、カバーをかけずそのまま積載されている場合もありました。
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乗務していた頃、自動車輸送は衰退期で、のちに車掌として岡多線の乗務した際には、使用されなくなったク5000形式車が北野桝塚駅から次の三河上郷駅の近くまで、側線上に延々と連なって放置されているのをいつも見ることになりました。

鉄道貨物で自動車輸送をするために、国鉄は車両や設備にかなりの資金を投入したと思われますが、長続きせず、このへんが国鉄らしいというのか、お役所仕事的なところでありましょう。ク5000もカートレインへの転用などに発展するとよかったのですが、このあと国鉄末期から始まったトラックのピギーバック輸送さえも今では過去のものとなってしまいました。鉄道と自動車が共存共栄する時代は来ないのでしょうか。

この記事へのコメント

  • うさお

    しなの7号様 こんにちは
    ク5000ネタありがとうございます。
    子供向け教育番組でも車の製造→出荷で積み込みの様子を見た記憶があります。
    東北線でも日産車出荷のためJR後暫く走っていましたが、これも既になくなってしまいました。
    宇都宮貨物ターミナルの高架下に様々な貨車と一緒に留置されているのを見たことがありましたが、今はどうなっているのか気になります。
    吹田操も貨物ターミナル駅への工事が着々と進んでいます。
    梅田貨物の大きな上屋も記念物ものですが・・・・
    2012年09月17日 11:59
  • デキ501

    こんばんは、しなの7号様
    最近は貨物関連のブログが多く
    早く更新されないかと楽しみにしております。
    今回はク5000の話題ですね。
    ク5000と言えば、当時入れ換えの主流であった
    突放が出来ない貨車で有名でした。が、それは
    形式上だけの話、平気でブレーキ代用の貨車を
    付け蹴っていました。ある時切り番の手違い
    で、クだけが蹴られあっけにとられ見ていると
    年配の方がサイドにしがみ付き、両足で器用に
    ハンドルを廻し、無事制動したのを何回か見ま
    した、まさに職人技そのものでした。
    また、ボギー車でも軸重が相当軽く自動車満載
    で延ばし定数一杯持っても比較的軽い列車で
    した、末期湘南貨物駅に役目を終えた彼らが
    大量に放置された姿は、朱色とカラフルだった
    だけに今でも思い出されます。
    2012年09月17日 23:39
  • しなの7号

    うさお様 おはようございます。
    日産車の輸送風景は、昭和53年ころに新鶴見で見たことがあります。当時の私は荷物列車の乗務掛でしたが、乗務列車は新鶴見で長時間停車がありました。その時間帯に入ってくるのですが、その間には別の貨物列車が居座っていて、編成全容を見ることは叶いませんでした。輸出仕様車を積載していましたので印象に残っています。

    宇都宮貨物ターミナル保管車も某所で保存し、いずれ公開されるような話を聞きます。
    2012年09月18日 06:01
  • しなの7号

    デキ501様 おはようございます。
    ク5000の制動技、初耳です(゜o゜)
    そのような荒業があったとはオドロキです。
    突放禁止車が突放されたときのマニュアルなどないでしょうから、公式としては言えない高度な技術ですね。

    子供の頃はボギー貨車はみんな「トキ」「ワキ」「ホキ」のように「キ」が付されると思っていたので、「クキ」にならないのが不思議で、納得するまでかなり時間がかかりました^^;
    貨車の話はこれでいったん打ち切りになりますので、悪しからず御了承願いますm(__)m
    2012年09月18日 06:42
  • 野良太郎

    かなりのお久しぶりです(^^)/僕にとっての思い出の列車と言えば、日本食堂バイト時代の乗務列車では無く、境線原木貨物の5681レと5684レですね!チキを18両~24両にしんがりにワフを連ねた編成は、圧倒的でした!僕は中学生の時に毎日学校で見ていました!ないにせ学校のずく横が、境線の線路でした!み
    2012年09月20日 19:04
  • しなの7号

    野良太郎様
    線区ごとに特徴ある編成が国鉄時代の貨物列車では見られました。チキを連ねた編成もそんな一例ですね。
    2012年09月20日 21:26
  • 貨車区一貧乏

    こんばんは
    列車掛時代、旅客駅で通過監視をすると、ホームで列車待ちのお客さまの冷たい「なんだよ貨物かよ」視線…。
     これが無かったのが盈車の車運車でした。
    珍しがってくれて、特に子供達には人気があり、こちらが最後に手を振ると皆喜んでくれました。
     そのほか甲種車両や野良太郎さまのおっしゃるロングレール輸送のチキ編成なども「おぉ」という感嘆が聞こえてくる珍しい編成で通過監視もちょっとだけ楽しみでした。

    それから、日産車の輸出列車のしんがりは、私たちの区で担当していました^^。
    2012年09月21日 00:09
  • しなの7号

    貨車区一貧乏様 おはようございます。
    「なんだよ貨物かよ視線」体験しましたねえ。
    私が乗務していた自動車輸送列車は空車主体の列車ばかりでしたし、中京圏は貨物列車が深夜に集中しましたので、列車掛時代に珍しい列車として注目される編成に乗務したことははあんまりないような…

    日産の輸出車は、当時の日本車がフェンダーミラー仕様だったので、ドアミラー装備であったことと、左ハンドル車も混じっていたりしているのが珍しくて、その列車を、隣に居座る貨車の連結部を通して、荷物車内から覗いてました。
    2012年09月21日 07:28
  • 海太

    はじめまして
    私が幼少の頃、香椎線のすぐそばに住んでいまして、この貨物列車を毎日みていました。どこから来ていたのかなと疑問でしたが、愛知県からですか?私が鉄道マニアになるきっかけ」になった列車です。感動的です。
    2015年12月07日 00:52
  • しなの7号

    海太様 はじめまして。
    志免へは、トヨタ車以外の着発もありましたので、よそから来た列車もあったはずです。トヨタ車と三菱車は愛知県からですね。
    2015年12月07日 11:24

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