貨物列車の話が続きましたので、今回は客車列車を取り上げてみましょう。
私が関西本線名古屋口にかろうじて残っていた旧型客車に車掌として乗務していたのは1981年~1982年(昭和56~57年)の間です。客車列車の乗務は今の電車列車や気動車列車とは勝手が違うことが多々ありました。その仕事内容については、拙ブログで、
【64】 乗務した車両:旧型客車(1)
【65】 乗務した車両:旧型客車(2)
【66】 乗務した車両:旧型客車(3)
で3回に分けて記しましたので、今回は仕事の内容についての詳細な記述は割愛します。
当時、関西本線名古屋口に残っていた旧型客車列車はDD51が牽引しており、使用される客車は名古屋客貨車区所属の旧型客車5両編成が基本となっていて、一部列車はその基本編成に2両の付属編成を増結して7両編成での運転されていました。付属編成は名古屋客貨車区と亀山客貨車区に1編成ずつが使用されていました。
旧型客車を使用した列車は、下りが6本、上りが5本ありました。下り列車のほうが1本多いのは、2両の付属編成だけを2組連結して運転された下り列車が1本あったからで、それがこの223列車でした。
223列車は名古屋を午前10時過ぎに亀山に向けて発車する普通列車でした。
たった4両で名古屋駅を発車するわけですが、時間帯から考えても想像がつくように、乗客はいつも少なくて、のんびりした列車でした。亀山まで1時間39分もかかりましたが、別にこの列車が特別に遅いわけではなく、普通列車はそのくらいの所要時間でした。現在ほぼ同じ時間帯に快速列車があり、その列車の所要時間は1時間2分です。これは223列車の名古屋から四日市までの所要時間とほぼ同じです。
車掌になって初めて旧型客車に乗務したのが、この列車で、その日の編成は以下のようなものでした。
昭和56年3月11日
関西本線 223列車(名古屋~亀山間乗務)
DD51 714(稲一)
オ ハ46 2669 名ナコ
オハフ45 2106 名ナコ
オ ハ46 386 天カメ
オハフ33 1527 天カメ
運用番:名ナコ=名附11
天カメ=天附5
現車=4 換算14.0
電車や気動車と違って、旧型客車は自動ドアではありません。車掌は駅に着いてもドア扱いする必要がないわけですから、無人駅の場合は、ホーム出口や跨線橋にいちばん近いドアのところで待機して、停車間際に乗客より早くホームに飛び降りれば集札は容易でした。もっとも、不正乗車をしている乗客は、ホームがない反対側から線路上に降りてしまえるので、あまり意味をなしませんでしたが・・・・。特に夜間は、跨線橋を渡らなければならない無人駅の河原田や井田川駅では、線路側への降車が横行していたようです。反対側の確認までは一人ではできませんので致しかたありません。
旧型客車列車のドアは、乗降客が駅で開けたら、そのまま開放状態で走行していることは日常茶飯のことでした。223列車には旧型客車ならではの思い出があります。
列車の終点である亀山の1つ手前に前述の無人駅井田川駅があります。この駅のホームにある跨線橋は前寄にあるので、私は到着前に集札のため、走行中に前寄の車両に移動しました。
井田川駅の1㎞くらい手前には安楽川という鈴鹿川の支流を鉄橋で渡るのですが、ちょうどそのあたりで、デッキを通って前の車両に乗り移ったときのことです。進行右側から強風が吹き抜け、私は帽子をその風に持っていかれました。そのデッキのドアは左右両側とも解放されていたのでした。あっという間の出来事でした。
帽子がない車掌というのは恰好がつきません。井田川駅では帽子なしで集札をして、次は終点亀山駅なのでそのまま乗務しました。
当時、亀山駅をはじめ亀山駅構内にあるすべての現業機関は天王寺鉄道管理局の管轄でしたから、名古屋鉄道管理局の職員である私は、そこに知人などいませんでしたが、亀山車掌区で事情を説明し、内勤の方から帽子を貸していただいたのでした。折り返し列車の乗務には、その帽子を使わせていただくことで、なんとか恰好がつきました。
自分の職場で、乗務を終えた友人にとりあえず翌日まで帽子を借りることにして、その日は再び折り返し亀山へ乗務したので、亀山でお借りした帽子はその日のうちに返却できました。翌日、職場で説明すると新品の帽子を貸与してもらえました。始末書的なものも書かされたわけでもなく、バカだなあとか、ひとこと言われただけで済みました。
関西本線が通っている三重県北部は、冬場には鈴鹿山脈から鈴鹿颪(すずかおろし)と呼ばれる強い北風が吹きます。冬場に限らず急に雨が降ったり天候も不安定な地域でありました。ちょうど現場付近はその横風を受けやすいところだったようです。
後日、忘れたころになって、私のもとに飛ばされた帽子が戻ってきました。
裏に所属と名前が書いてあったので、線路巡回中に保線区員の方が線路端に落ちているのを見つけてくれたということでした。雨に濡れたのでしょう。名前も滲んでしまってよく読み取れませんでしたが、よく戻ってきたものと驚きました。
ツバの部分も芯の厚紙が水を吸ってフニャフニャしていましたが、私はその帽子も使い続けました。(写真はその時のものではありません)
<後篇に続きます>
この記事へのコメント
野良太郎
しなの7号
ラモス
私は一身田駅の近くの小学校に通っていて、教室からも紀勢線がよく見えました。
客車が通ると通学の高校生があちこちのデッキから身を乗り出していて、国鉄をほとんど使った事のない自分はびっくりしたものです。
今だったらちょっと考えられないですよね。それだけ大らかな時代だったと言う事でしょうか☆
しなの7号
私は高校1年生のころ、3か月くらい旧型客車で通学したことがあります。今どきの多くの高校生たちがそうであるように、ドア付近にたむろするわけですが、解放状態のデッキで、学生かばんを走行中の列車から落としてしまった者がいました。探しに行ったら無事に線路端に落ちていたということでした。そういう時代だったですね。
Aki
一度駅で降りようとして、あれ?プラットホームがない!あわてて前の車両に走ったことがありました。増結があったのか、車内放送で「ホームにかからないので後部車両の方は何両目からお降りください」と案内があったようです。ホームは地上から意外と高さがありますよね。無賃乗車の人がホームと反対側に降りるのも、結構覚悟の上だったのでしょうね。
しなの7号
電化で関西本線名古屋口の旧客がなくなってから、今年でちょうど40年です。今のような暑い時期は扇風機回して窓は全開。走行中は巻上カーテンがバタバタしてました。これだけの年月が流れると、当時の日常は今になってみれば信じられないことばかりですね。旧客の話ではありませんが、ホームが短くて降りられない車両があることの注意喚起放送をしていた事例で記憶しているのは、ドアの締切扱なしで走っていた武豊線の気動車列車です。
【567】思い出の乗務列車48:武豊線922D(前篇)
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201503article_5.html
各駅の到着前に必ずホームにかからない車両があることを放送していたことを最後の方に書いています。回送でもなくドアカットもしないのに、武豊線内の駅すべてでホームにかからない車両がある列車でしたから、今では絶対通用しないです。
ホームのない場所に停まった車両から地上を見下ろすと高低差を感じますね。下のURLの画像の人物は私です。ホームがないところだと、爪先立ちでないと機関士に通知書を渡すことができませんでした。
https://shinano7gou.seesaa.net/upload/detail/01988682N000000009/143754949391499770179_A01.jpg.html