前篇では旧型客車ならではの事例として、走行中のドア解放による弊害のお話をしました。
旧型客車の特徴は、ドアが非自動であること以外にもあります。その一つが蒸気による暖房で、これは50系客車も同様でした。蒸気は機関車から暖房管で供給を受けます。始発駅で機関車が連結される前には駅の地上設備から蒸気の供給を受け、予熱暖房を実施することもありました。線区によっては機関車から給電する電気暖房装置も併設している車両もあり、車両番号に2000をプラスして区別していました。
車掌室には、ブレーキ管の圧力計のほかに、暖房蒸気の圧力計があり、この223列車もDD51から蒸気を送ってもらう蒸気暖房でした。各車両ごとに通路床下のバルブと中央部の座席下にあるレバーを操作して供給蒸気量を調節して温度管理をしましたが、この加減は経験と勘によるところでした。前寄りの車両は温まりやすいですが、後ろのほうの車両ほど温まりにくくなります。蒸気が冷えぬうちに蒸気が最後部車両まで来るように、最後部車端部のバルブはほんの少し開けておくのもコツのひとつでした。冬場、旧型客車の最後部から少し蒸気が漏れているのを見かけたり写真でご覧になった方は多いかと思いますが、わざと少し開けてあるのです。暖房管に供給されるのは、もともとは水が気化した蒸気ですから、冷えてしまえば水となって管内に溜まってしまいます。そうなると暖房の効きが悪くなってしまいますので、蒸気圧が下がらない程度に最後部から放出するのです。
こうしたことは、旧型客車が少なくなっていた当時、新人で知っている人は少なかったように思いますが、私の場合は、就職後約3年間は基本的に客車と同じ構造である荷物車に乗務していたので、先輩たちがよく知っていて、その乗務中に自然と学ぶことができたのです。
さて、話題が変わりますが、この223列車には、「お楽しみ」がありました。名古屋工場から出場し所属区までの回送車両や、試運転車両の連結列車に指定されていたのです。普段は乗務できないような車両が試運転や回送で連結されると面白いものです。私の場合3回目の乗務で、名古屋工場で検査を受けたばかりのB寝台車が連結されました。
昭和56年5月8日
関西本線 223列車(名古屋~亀山間乗務)
DD51 712(稲一)
オハネフ12 37 天シク(回送)
ス ハ40 2093 名ナコ
オハフ46 2027 名ナコ
オ ハ35 610 天カメ
オハフ33 428 天カメ
運用番:名ナコ=名附11
天カメ=天附5
現車=5 換算17.5
新宮客貨車区の寝台車オハネフ12の出場回送車でした。いうまでもありませんが、これは名古屋と天王寺の間を紀勢本線経由で走っていた普通列車「はやたま」921列車924列車専用の寝台車でした。「はやたま」の寝台車連結区間は西半分の夜行区間「新宮~天王寺間」だけでしたから、関西本線上で10系寝台車を見ることは通常ありませんでした。
この日の編成を見ますと、オハフ46 2027の姿があります。この車両はJR東海へ引き継がれた数少ない旧型客車の中の1両です。
上は飯田線のトロッコファミリー号の写真です。2両の客車のうちどちらか(たぶん前)がオハフ46 2027のはずです。このころ車体はブルーで、かわいい絵が描かれていましたが、のちに茶色に戻されました。トロッコファミリーの客車が12系客車に置き換えられたあとも、下のオレンジカードのようにイベント用として活躍しました。
分割民営化後に共演したEF58157とED182はリニア鉄道館の保存車として展示されたのに対し、オハフ46 2027のほうは引退後美濃太田車両区の片隅に放置されています。
昨年美濃太田を訪問した時の様子です。ベンチレータはすべて撤去されていました。他の保存車両にパーツの提供をした結果なのでしょうか。車体色もすっかり色褪せてしまい、哀れな姿でした。ここまで生き延びたのですから、何か新たな生きる道を考えてあげたいです。






この記事へのコメント
京阪快急3000
今回の関西本線の乗務列車の記事を拝読して、自分が知らなかった旧型客車の特徴がよく分かりました。
ありがとうございました。
しなの7号
冬の大井川鉄道をお勧めします。
国鉄旧型客車が味わえますよ。
くろしお1号
223列車特集、大変懐かしく拝読させていただきました。その頃の私は就職直後で、訳もわからないまま旗を振っていました。憧れていた車両たちに囲まれていながら、その運用とかを冷静に見ておらず、30年も経ってから初めて教えていただくことになりました。
この編成、付属編成の効率的運用とのことですが、よく考えてみると、下り列車専用ですよね。客車列車は両端に必ず緩急車がつくものと思い込んでいたので、今更ながら驚いています。当時、921列車で最後部のナハフが逆向きでトイレがフィナーレになっていた時にはびっくりしたものですが、いずれもルール上の問題はない訳ですね。どうしても外見で判断してしまいがちですが、「列車」としての要件は、全く違ったところにあり、奥深さを感じます。
帽子が飛んでいったお話も、今の若い乗務員にはなかなか理解できないところでしょうね。これぞ「喝采」のサビです!
回送寝台車は私も見掛けました。左右で外観が全く異なる10系B寝台車は、とってもお洒落で大好きな車でした。一度も会うことができなかった急行「紀伊」に思いを馳せながら、その後「南紀」「はやたま」で巡り合うことができ、感動でした。
しなの7号
私としては、印象に残る列車が関西本線には多くて、それはきっと言い方がいいのか悪いのか、古き国鉄全盛期の遺物が、民営化近くまで残っていたということになるのでしょう。
旧型客車もその一つです。最後尾に緩急車があれば、その緩急車の前後の向きもお構いなしでしたね。
旧型客車の急行紀伊は自分が国鉄就職の前に特急化されてしまいました。10系寝台車は、当時名古屋にも配置があって、急行「きそ」の夜行に使用されていました。私も10系客車は子供のころから、「近代的ですごくかっこいい客車」だと思っていました。10系寝台車はなおさら好きで、小学生のころ、朝4時台に通過する急行「きそ」を見に行ったことさえありました。
いつもありがとうございます。
しげぞう@
客車といえば、ハイケンスのセレナーデのメロディですね。旧型客車で聴いた記憶はあまり無いのですが、50系や12系では沢山聴きましたし、カセットに録音もしたりしました。
ブログ内の回送車指定連結列車は、実際に見たことがなく、雑誌などで最後尾に気動車がぶら下がっているのを見たくらいです。
天王寺管理局の車両を名古屋工場で検査をしているのも初めて知りました。
窓や扉を開けたままのんびり走る旧型客車の雰囲気をまた味わいたいです。
また宜しくお願い致します_(._.)_
しなの7号
普通列車でも聞けたハイケンスは小学生のころから馴染んでいました。旧形客車にとどまらず特急形まで採用されて、いちばん聞く機会が多かった国鉄オルゴールでした。
こうした入出場回送は、線区によっては貨物列車でも行われました。貨車と客車はブレーキ装置が異なりブレーキ力に差が出てしまうため、列車掛として貨物列車に乗務する際にはブレーキ装置のコック締切確認をすることになっていました。
他の多くの工場もそうでしたが、名古屋工場は名古屋鉄道管理局の配下になるのではなく、組織上対等の地位にありましたので、管轄区域は管理局とイコールではありませんでした。
しげぞう@
いつも詳しい解説ご回答ありがとうございます。名古屋地区ではあまりに見たことのないですが、客車と貨車の混合列車などでも同じような措置がとられるのですね。
工場の立場が管理局と対等だったのは知りませんでした。普段見馴れない車両が工場に止まっていたのは、そういった理由からだったのですね。ありがとうございました_(._.)_また宜しくお願い致します。
しなの7号
規定では貨物車11両以上+旅客車で組成した場合に、旅客車の付加空気ダメコックを閉じることとされていました。混合列車には乗務したことはありませんでしたが、この規定はブレーキ力の差による衝動を軽減するという趣旨だと思われますので、混合列車の場合も適用されたのではないかと思われます。
すべての工場というわけではありませんが、組織図によると工場は、工事局や地方自動車局etc.とともに、鉄道管理局と同列に並んでいました。
私は鉄道管理局採用なので、工場に配属されることはあり得ませんでした。