1976年(昭和51年)に国鉄に就職した私は、約3年にわたっていつも荷物車に乗務していました。
その職名は「乗務掛(荷扱)」で、途中からは「車掌補(荷扱)」でした。その仕事内容は乗務掛も車掌補も変わるところはありませんでした。作業内容は以前の拙ブログ記事の、
【16】 乗務掛1:乗務範囲など
【17】 乗務掛2:荷物車について
【18】 乗務掛3:荷物車の中は…
の、3回に分けて概要を記しましたので、ご参考にしてください。
その乗務掛として乗務していた列車は、荷物専用列車が多かったのですが、中には客車と併結された列車もありました。今回ご紹介する急行「紀州5号」は、その乗務行路の中でも特異な存在でした。
どのへんが特異かというと機関車が牽く客車列車ではなく気動車列車で、併結された荷物車は「キニ」という荷物気動車であったことです。
もう一つの特異な点は、積載された荷物は一般荷物ではなく、特殊な荷物に限定されていたことでした。この列車の積載方は「新聞紙・名古屋鉄道管理局発新宮までの映画用フィルム及び血液に限る」と定められていました。
紀勢本線の場合、通常の荷物はのんびり普通列車に併結された荷物車に揺られて運ばれたのですが、この急行「紀州5号」は夜行急行でしたから、乗客を輸送する以外に、主に名古屋で印刷された朝刊を深夜のうちに目的地に運んでしまうという使命があったのです。映画用フィルムは、都市圏で公開された映画が、翌日の地方都市での上映に間に合う必要がありましたし、血液はやはり翌日の手術に確実に間に合わせる必要があったのでしょう。しかし、映画用フィルムと血液の輸送については需要が多いわけではなく、常に積載していたわけではなかったので、実質的にこの紀州5号の「キニ」は「新聞列車」でありました。
1976年(昭和51年)当時の急行紀州5号は列車番号が1915Dでした。
車両は名古屋第一機関区所属のキハ58、28、65、キロ28、キニ26で組成された8両編成でした。
この列車には車掌長(客扱)・専務車掌(客扱)・専務車掌(荷扱)・乗務掛(荷扱)の4人が乗務し、専務車掌(荷扱)・乗務掛(荷扱)の2人は最後尾のキニが執務場所でした。
名古屋の発車時刻は23時58分。停車駅は桑名・富田・四日市・(河曲*運転停車)・亀山・津・松阪・多気・三瀬谷・紀伊長島・尾鷲・九鬼・二木島・新鹿・大泊・熊野市・新宮でした。
すでに伊勢線(現伊勢鉄道)が開通しており、名古屋発着の紀勢本線直通列車の多くは現在のように伊勢線経由で運転されていましたが、一部の列車は関西本線奈良方面の列車(急行かすが他)と併結していたため、伊勢線を経由せず、従来どおり亀山経由のまま残され、亀山駅で分割併合作業を行っていました。
この列車も亀山経由でしたが、分割併合を行うわけでもなく、亀山経由とする理由は伊賀地区向けの朝刊を輸送する使命があったからだと思われます。
そのほかにも理由があったとすれば、名古屋発の普通亀山行きの終列車が早い時刻(名古屋発21時12分)だったので、ホームライナー的需要(当時の国鉄にはホームライナーなど存在しませんでしたが…)もあったのかもしれませんし、比較的短い距離を走る夜行列車ゆえに時間調節の意味合いもあったのかもしれません。
荷物面での時間調節的意味合いを言えば、亀山の先に停車する津・松阪でも朝刊の積込があったことでしょうか。地方紙(伊勢新聞)の印刷発送締切時刻に合わせる必要性や、関西地区から松阪まで別途輸送されてくる大阪印刷の新聞が到着する時刻まで、この列車の松阪着時刻を引き延ばす必要があったものとも考えられますが、これらは私の個人的推定にすぎません。
当時は新宮へ5時過ぎの到着でしたが、後寄りのキハ3両(亀山で進行方向が変わっているので、名古屋発時の前寄り3両)を切り離した後、列車はそのまま普通列車925Dとして紀伊勝浦まで運転されていました。荷扱の2人は新宮で乗務終了となり、キニは新宮以南は切り離されることもなく回送となりました。
専務車掌(荷扱)・乗務掛(荷扱)の2人は帰路に乗務すべき列車はなかったので、急行列車に便乗して名古屋まで戻るだけの行路でした。




この記事へのコメント
うさ
こんにちは
数十年前まで、夜行列車には新聞輸送の使命を持っていましたね。
名古屋本社で刷った色々な新聞が輸送され、着駅ごとに小分けされた新聞を降ろしていたのでしょうね。
夜行「のりくら」もそのような使命を持っていたという雑誌記事を読んだことがあります。
今や新聞はトラック輸送ですが、名鉄名古屋ではお昼すぎから降車、特急用ホームで新聞輸送を行っている風景を見て懐かしんでしまいます。
キニ26の車内でのお話などもお聞かせください。
しなの7号
当時は、名古屋から深夜に東海道・中央・高山・関西・紀勢各線で新聞輸送が行われていました。
夕刊の輸送はJRでも一部で継続されているようです。
キニ26紀州の話はあと3回ほど続きますので、よろしくお願いします。
うさお
お返事ありがとうございました。
続編楽しみにしています。
1点お教えください。
紀州5号の運転扱いは乗客専務が行っていたのでしょうか?
「キニ26 紀州」で検索すると当時の写真や編成図がありますね。当然、写真は新宮からの帰り便ですが。
新宮から名古屋までの便乗は違う意味で疲れたのでは、無いかと思います。
しなの7号
一般に旅客列車併結列車の運転扱は客扱の専務車掌が兼掌しました。
さきほど「キニ26 紀州」で検索してみました。東紀州路を行くキニ26の画像、初めて見ました。すっごく懐かしいです。帰路の便乗はこの編成ではなかったのですが、帰路のお話も少し交えて続けることとします。
うさお
色々とありがとうございます。
キニ26の名ナコ一時代は短かったようですね。
貴重なお話楽しみにしています。
しなの7号
キニ26の名古屋第一機関区時代は4年程度のようですね。私はそのうちの3年間、月に1度程度キニ26と付き合ってきたことになります。
野良太郎
キニ26に乗務されてのですかしかも夜行紀州は物凄く羨ましです(ノ-o-)ノ┫地元の伯備線、電化前にはキユニ18、キユニ19が普通列車のしんがりに連結されていましたo(*⌒―⌒*)o急行伯耆には連結されることはほとんど無く、荷物乗務は依託の鉄道荷物会社がしてまたね(^_^)/
しなの7号
荷物車の乗務員が業務委託化されたのは中京地区では昭和57年5月のダイヤ改正時でした。この紀州5号はこのダイヤ改正時にキニのみならず列車ごと廃止されてしまいました。
ハッシー
お久しぶりですm(_ _)m
こちらで乗務したのは確かキハユニ?とキハを連結していたと思います。
昭和50年代に普通列車で豊肥線の大分まで普通車掌の時に荷専と一緒に乗務した覚えがあります。
荷専は仕事が終わればゆっくりとしていましたが、こちらは客扱い、運転扱いで大分まで忙しく走り回っていた記憶があります。
しなの7号
荷物の仕事と比べると、ずいぶん忙しかったのが客扱だったですね。あえて客扱を希望しなかった方がおられたのですが、その気持ちもわかります。
私の父親もその一人です。