【321】 思い出の乗務列車8:キニ併結 急行「紀州5号」(2)

紀州5号は名古屋発23時58分で深夜の出勤でした。出勤時刻はこの列車の場合、発車時刻の55分前だったので、出勤の日はほとんど休みと同じでしたが、夜出勤しなくてはいけないと思うと、こういう日は開放感がありませんでした。本来は日中には昼寝をして休養し、深夜の勤務に備えるべきなのでしょうが、思うように昼寝などできませんし、早めに夕食を食べてから少し寝るにしても、そのまま寝てしまって出勤遅延になるほうがずっと怖いので、いつも事前に睡眠をとるようなこともなく出勤したものです。

出勤遅延になれば、深夜に代替乗務員の手配をするのは困難ですから、この行路の出勤状況は車掌区の内勤の方が常に気にされていたようでした。私の場合、そんな遅い時間、出勤に使える列車が1時間に1本しかなくて、出勤できるのは23時少し前。決められた出勤時刻ぎりぎりでした。出勤時刻に車掌区に行っているのですから、何も問題はないのですが、内勤の方が、「まだ、出勤してこないなあ。あいつはまだ新人だし、家も遠いし、ちゃんと出勤するだろうか?もし、出て来なかったら誰を乗せようかなあ」と、内心ヒヤヒヤしていたのでしょうが、そういう他人の気持ちなど考えず、申し訳なかったなあと今になって思うものです。

さて、荷物列車の仕事は、発車前から始まります。むしろ発車前に仕事が集中するのです。
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上の写真は現在における電車での新聞輸送の様子を撮影したものです。その包装は当時も似たようなものでしたが、このようにビニールでなく、厚手の紙で包まれたものがほとんどで、上面に着駅や中継駅、新聞店名などが記載されていました。また、写真は夕刊の輸送の様子なので、その一包が小さいです。朝刊の場合は、格段に数は多いだけでなく、一包当たりが大きく重かったです。途中の亀山で取り卸しとなる新聞だけは、持越し事故防止のため赤い紙で包装されていて、容易に区別できるようになっていました。このような包みが、名古屋駅で、400~500個ほどをキニに積み込まれたのです。

列車は新聞の積込のために、名古屋駅では発車の40分以上前にホームに据付られました。とりあえず、首都圏から東海道本線の荷物列車で輸送されてきた業界紙や専門紙など少量の新聞が積み込まれ、発車時刻が迫るにつれて、大手新聞各社の翌日の朝刊が、ホーム上を何台もの台車に山積みに載せられ、それらは続々とキニの大きな荷物扉に横付けされて車内に投げ込まれました。それを決められた取卸し駅ごとに車内で区分積載するのが私たちの主な作業でした。
駅順とホーム側を考慮し、車内での一番効率がよい積載位置が下の画像のように決められていたのです。
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その夜のプロ野球の試合が延長戦になったりすると、各紙とも締切時刻間際まで印刷を遅らせるので、発車直前に積込が集中しました。もちろんプロ野球に限らず、大きな事件や災害があった日も同様で、新聞社から駅まで新聞を運んでくるトラックが間に合わずに、列車の発車を遅らせることもありました。
たとえば、下の画像のようなときです。
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積込が集中すると、ほんの10~20分のことですが車内は戦場と化しました。選挙の投票日などは、新聞社も開票結果をできるだけ取り込みたいですから、発車直前に積込が集中するのは覚悟しなければなりませんでした。しかも各社とも選挙特集の増ページを組みますから、1個あたりが重くなって、大変なわけです。

ところが、そんな日でも意外な肩透かしがあって、列車の発車時刻には間に合わないと見るや、新聞社はトラック便をチャーターするらしく、少量の業界紙や専門紙を積んだだけで、朝刊は積まずに定時発車ということも、総選挙の日にはありました。
また、日刊紙の休刊日前日の乗り出しは、とても楽でした。ただっ広くガランとした荷物室内には、ごく少量の業界紙や専門紙があるくらいでしたから、空車に等しい状態でした。こういうときでもキチンと専務車掌(荷扱)と乗務掛(荷扱)は乗務しました。新聞のほか映画用フィルムと血液輸送という建前がありますから、欠行路とはならないのでした。

新聞列車に乗務すると、いつも各新聞社の発送係の方が「翌日の」朝刊をくれました。もっとも前日の早い時間に印刷された新聞ですから、すでに出勤後に車掌区のテレビで見て勝敗がわかっているプロ野球の試合が、紙面では途中までの経過しか書かれていなかったりもしました。
仕事が一段落すると、車内で各社新聞の読み比べをしていれば、亀山くらいまでは眠くもならずに過ごせました。
専務車掌(客扱)の方も、車内改札が終わると新聞を見に荷物車までやってきました。

この記事へのコメント

  • トシ@グッズマニア

    1982年のドラゴンズ優勝の時の中スポですね!
    今と違って全て1色刷りでシンプルですね。

    急行「紀州」というと、最晩年のキユニ28のイメージが強いですが、ほんの少し前までは一般型が使用されていたんですね。
    2012年10月15日 10:51
  • しなの7号

    トシ@グッズマニア様 こんばんは。
    そうです。新聞は1982年のものですが、その頃の私はこの仕事でなく、車掌をやっていました。この年の春、夜行の紀州5号は廃止されてしまい、新聞輸送も同時になくなりました。晩年の紀州ではキニ28が使用されていました。
    2012年10月15日 21:05
  • うさお

    しなの7号さん
    こんにちは
    まさに睡魔との闘いだったのですね。
    駅での降ろしの際は、間違えが無いように気を使っていたかと思います。
    ある鉄道雑誌で上野からの新聞輸送を書いたレポートを読んだことがあります。
    そこでは、車内に降ろし忘れの包みがあったと記載されていて、結局配達出来たのか?気になった事がありました。

    新潟の祖父の家では、全国紙を取っていました。本紙とは別にプロ野球の別刷りというのがあったのを覚えています。
    本紙は上野からの輸送だったのだろうと思いますが、別刷りがどこで印刷されていたのか謎です。
    2012年10月18日 11:30
  • しなの7号

    うさお様 おはようございます。
    現実に迷子になる新聞はあります。本来取卸すべき駅から、数が足らないが他の駅の分に紛れ込んでいないかと照会があったり、こちらで気が付いて反対列車で逆送ということもありました。配達は相当遅れてしまうことになるのでしょう(-_-;)

    新聞そのものの知識はないので、プロ野球面の別刷は知りませんでした。地方に印刷工場を持っていたのでしょうか。または刻々と情勢が変わるプロ野球面の締切時刻だけを本紙とずらして印刷発送の合理化を図っていただけかもしれません。
    2012年10月19日 06:25
  • うさお

    しなの7号様
    こんばんは
    持ち越してしまった新聞の逆送手配という措置もあるのですね。
    新聞配達の際は読者に怒られていたのでしょうね・・・。
    話が逸れてしまいますが、今のように列車無線が沿線で使えなかった時代、通過駅での手配時には連絡筒なるものがあったと聞いたことがありますが、しなの7号さんは使ったことはありましたか?
    2012年10月20日 00:26
  • しなの7号

    うさお様 おはようございます。
    新聞輸送の場合、本文中の荷物車内積載区分を示した写真にありますように、定期で逆送される特例がありましたが、持越した新聞は便宜列車で逆送するしかないですね。急送品の持越しは事故扱になります。

    通過駅との連絡用としては、砂袋を常備していました。底に砂を封入して錘とした布袋で、袋に手紙を入れて列車監視中の駅員にわかるよう列車から放り投げました。これを使用したことはありませんでしたが、その砂袋の代用として、同乗の車掌長がポリ製のお茶容器に手紙を入れて通信手段として使用したことがありました。通信内容は次停車駅への救急車手配の依頼でした。
    2012年10月20日 10:52
  • うさお

    しなの7号様
    こんばんは
    色々とお教えいただきありがとうございます。
    今は列車監視という言葉も聞かなくなりましたね。
    昔はホームに運転職員の方が立っていました。
    2012年10月21日 01:22
  • しなの7号

    うさお様 おはようございます。
    いずれ、こういった内容については記事としてアップする予定です…が、いつのことやら自分でもわかりません(@_@)
    2012年10月21日 06:46

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