1915D急行「紀州5号」に連結されていた荷物車はキニ26という気動車でした。
この形式は全国で4両しかなかった珍車で、そのうちキニ26 3とキニ26 4の2両が名古屋第一機関区に所属していました。キニ26は旧準急形キハ26の改造車でした。1と2はもともとキロハ25だったキハ26の300番台車を改造した車両だったのに対し、3と4は0番台車の改造だったので、形状や車内配置が異なりました。名古屋第一機関区所属車は、荷物車にありがちな1両単独運用ではなく、他のキハ3両とキロ1両とで編成された「名13」という運用番の5両編成で、主に急行運用に就いていたのでした。
(上の画像は当時の名古屋鉄道管理局発行のポケット時刻表から一部を転載したものです。)
ところで、上のキニ26の画像は模型であることはお判りだと思いますが、実はNゲージ模型でのプラ製品は発売されていません。自作するとよいのですが、そんな技術はありませんので、模型画像の加工で再現してみました。実車とは異なるところもあって突っ込みどころ満載ですが、ご容赦ください(^_^.)
ちなみにTOMIXキハ26、キハユニ26、キユニ17、キユニ26の画像を使用しています。
実車のキニ26は改造前のキハ26時代は国鉄準急色~急行色だったはずですが、キニに改造後の名古屋第一機関区時代には、この急行用編成にしか組み込まれない運用形態だったのに、なぜか国鉄一般色に塗られていました。すれ違いざまに正面から見ると「ああキハ20の普通列車か」と思うのですが、通過していく2両目以降に急行色の側面が連続し、グリーン車まであるのを見たところで、ああ急行だったのかと初めてわかったりするわけです。
これに対して当時は天王寺鉄道管理局管内だった伊勢運転区に配置されていた類似のキユニ26(元キロハ25からの改造車)は、改造後も国鉄急行色のままでした。
逆にこちらは、キハ35や45などと併結され普通列車として運用されている姿をよく見かけましたので、こちらのキユニこそ一般色にするべきではないかと思ったものです。こちらの国鉄急行色キユニ26の模型は製品化されているので、掲載した模型の画像は加工したものではありません。
ところでキユニ26は名古屋鉄道管理局の美濃太田機関区にも配置があって高山本線で活躍していました。こちらは、キニ26と同じく国鉄一般色でした。下の写真は高山本線の普通列車で活躍する姿です。夜行急行のりくら編成にも組み込まれていました。
国鉄時代の気動車列車では、急行色と一般色の混結編成があちこちで見られたので、これはこれで模型で再現するのは面白いところでもあります。
実際にいすみ鉄道では、キハ52とキハ28による混結編成が見られるようになると報道されています。往年の国鉄の日常が再現されることに感謝です。
話を戻します。
名古屋第一機関区のキニ26の3と4には、運転室の反対側車端部に荷扱乗務員室がありました。乗務員室には空調設備などはなく、冬場も温気暖房の効きがよくなく、荷物の仕分けが終わってしまえば、走行中は隣のキハに避難?することも多々ありました。そこは指定席車両でしたが、よほどの多客期でもない限り、その車両が乗客で埋まることはなく、いつも数人程度しか乗っておらず、回送状態でした。
最初に多数の新聞の取り卸しするのが亀山でした。ここで5分の1程度の数の新聞を卸しました。亀山到着時刻は1時24分。朝の配達時刻まで時間があり過ぎるような時刻に亀山で卸す新聞というのは、亀山からさらに別の列車や自動車便で、伊賀地方の山間部まで輸送されるものでした。紀州5号に積載された新聞も、この亀山を過ぎると、次の大量取り卸し駅は3時38分着の紀伊長島までありませんでした。その手前の停車駅である津や松阪のような大駅での取り卸しはわずかで、むしろこれら両駅では逆に地方紙である伊勢新聞や関西方面から輸送されてきた新聞の積み込みがありました。要するに紀州5号に積載された新聞のほとんどは、交通不便な東紀州地区向けということになります。
亀山では30分以上の停車時間がありました。名古屋駅で新聞の積み込みや、新幹線の接続待ちで少々遅れたとしても、ここで遅れを回復できました。ここから列車の進行方向が逆になるのでキニが先頭になりました。運転士もここで交代しました。ここからは通票閉そく式で、通票の授受がありました。そのため交代した運転士は2人乗務でした。運転士氏も発車時刻まで暇なので、停車中に「新聞見せてくれへんか?」と荷扱乗務員室へ来たりします。私どもは名古屋からの乗務中にいろいろ読んできていましたから、もういらないので「どれでも好きなの持ってって!」というと、「おおきに!」と言って、たいていスポーツ紙を持って運転室へ帰っていかれました。
亀山の発車は1時58分。ここからが眠くなる時間帯ですが、約15分おきに津、松阪と停車して、前述のように積み込みがありますから、睡魔との闘いも、どうにか持ちこたえますが、松阪を出て多気、三瀬谷は停車するものの積み卸しはないので、どうにも眠い時間帯でもあり、キハ58の避難場所でウトウトしてしまいます。一番つらいのは紀伊長島でした。
一度だけ、避難先のキハで2人とも寝込んでしまって、紀伊長島駅の人が窓をドンドン叩くのであわてて飛び起きたことがありました。荷物室内も乗務員室も無人にして、客室で寝そべっているのを起こされるのも、かっこ悪いので、寝ていることには変わりがないですが、陽気が良いときは荷物室内に新聞の束を並べて簡易ベッドを作って、その上に寝たりもしました。
近年の写真になりますが、紀伊長島駅に停車中の特急南紀です。あのころ未明のホームで駅員と新聞屋が競うように新聞を卸していったわずかなひと時がここにあったとは思えないほどひっそりとしていたのでした。
尾鷲を出ると、九鬼、二木島、新鹿、大泊、熊野市と海がすぐそばに見える小駅にも、こまめに停車していきました。
これは新聞取り卸しの便宜を図った結果か、釣り人のためか、またはその両方の理由だと思うのですが、夏場ですと外も明るくなりますので、ちょっとは目が覚めるのでした。
乗務が終了する新宮には5時17分に着きました。






この記事へのコメント
うさお
こんにちは
名古屋第一区のキニ26はなぜ一般色だったのかは、気になりますね。改造後の配属が敦賀とありますから当初は小浜線用として考えていたのかとも思いますがどうなんでしょう。
乗務員室は夏も暑かったことと思います。
トンネル内で窓を開ければ、気動車の排煙が入ってきますし。
運転士さんにとって、夜間のタブレット通過授受は昼と違って大変だったのだろうと想像してしまいました。
しなの7号さんの頃はタブレット、DF50が現役だったのですね。
今は登山列車や釣り列車のようなものは見かけなくなりました。
しなの7号
名古屋鉄道管理局では、荷物車については種車はどんな車種でも一般色と決められていたのかもしれないですね。
この夜行の紀州5号の乗客は釣り好きな方が多かったようで、JRに移行後、臨時快速スターライトという夜行気動車が運転され、紀州5号の復活かと思わせたものですが、その運行期間は短期間で終わってしまいました。
紀勢本線には当時DF50も活躍していたのですが、その話はまたいつかにします。