【325】 思い出の乗務列車10:キニ併結 急行「紀州5号」(4)

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急行紀州5号は、新宮へ早朝5時過ぎに着きました。列車は約5分の停車中に後寄り3両を切り離し、そのまま紀伊勝浦まで普通列車925Dとして運転されましたが、荷物車乗務員2人[専務車掌(荷扱)と乗務掛(荷扱)]はここで乗務終了でした。
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帰路は「便乗」で、所定行路では新宮の乗務員宿泊所で仮眠ののち、新宮発9時41分の急行紀州2号に乗って名古屋まで戻ることになっていました。「便乗」なので、特に仕事をするわけではありません。要するに一般的な出張帰りと全く同じで、「出張先で仕事を終えてやれやれ・・・・あとは帰るだけ」の状態でした。ただその人たちと違うのは、自分たちが国鉄職員であり、無賃で乗っているということ。そして制服やら持ち物で、国鉄職員であることがわかってしまうことでした。どこの企業でもそれとわかるユニホームを着用したまま、客の面前で寝そべっていたり、食事をしたりはしないでしょう。まして便乗とはいえ勤務時間中ですから。

ところで、所定行路では乗務員宿泊所で少しばかりの仮眠時間が取ってあったわけですが、時間的に中途半端で、食事をしてから、うとうとしたころに起こされるわけです。そんなことなら、指定された列車で戻るよりも、その前の列車に便乗して早く名古屋まで戻りたいというのが多くの人の本音でした。この行路では、実際に新宮乗務員宿泊所で寝る人はほとんどなく、所定便乗列車の前、6時43分に新宮を発車する名古屋行急行紀州1号に便乗して帰る人が大多数でした。こうすることで、折り返す新宮では、ほどよい食事時間ができるうえ、名古屋へは所定より3時間以上早く帰ることができました。当時こういった帰路の所定列車でない便乗は黙認されていました。

早朝5時過ぎの新宮駅は、大賑わいでした。それは、まず
5時10分に天王寺からの夜行普通列車(924列車)が、
5時17分に名古屋から私どもが乗ってきた夜行急行「紀州5号」が、
5時21分に天王寺からの夜行急行「きのくに15号が、
相次いで到着するからです。
もちろん早朝ですから、これから遠方へ出かける人々や、市場で商品を仕入れた行商の人々も駅へ集まってきました。

ホーム売店はこんな早朝でも営業していましたし、改札を出ると瀞峡ジェット船の案内人が客引きをし、駅前通りにも人が行きかい、「兄ちゃん、みかん買うてって!」と甘い紀州みかんを差し出したりしていました。

帰りは前述のように、6時43分発の急行紀州1号に乗ればいいのですから、1時間以上時間がありました。駅前通りをぶらぶら歩くと、1本入った裏通りに、おじいさんがやっている小さな食堂がありました。正式な店の名前はあったのでしょうが、みんな「おじいンとこ」と呼んでいました。そこで、帰路の睡眠薬として熱燗を一杯やって、羊肉の味噌串とごはんを食べました。ぐつぐつ煮えている味噌串とコップに注がれた熱い酒。早朝の一杯が徹夜で疲労した体に沁みわたりました。こんな時間でも私どものほかにも客は多く、その多くは未明から仕事をしてきた市場関係の方たちだったのでしょう。ちなみに私はこのときは未成年でしたし、帰路は便乗とはいえ、勤務時間中であることに変わりはなく、現在の感覚とはまったく異なっています。時代が移っていったことを感じざるを得ません。酒を飲まない方と一緒だと駅裏にあった車掌区から少し歩いたところにある旅館の下の食堂で朝定食を食べることもありました。

便乗列車の車内では夏場は制服を脱ぎ、冬場はコートを着込んで、国鉄職員であることを隠すようにして自由席で寝て過ごしました。一度だけ、尾鷲で目が覚めたら、通路に立ち客が出るほど混んできたことがあって、さすがにその時は席を立って、中間車の運転室に避難しました。

このあと「53・10(ゴーサントウ)」と呼ばれる1978年10月のダイヤ改正があって、荷物関係も見直しがありました。乗務範囲や乗務列車もかなり変わりました。この1915Dも列車番号が905Dに変わりましたが、列車名は「紀州5号」のままでした。参考までに記しますと、このダイヤ改正から特急急行の愛称の後につく号数が下りが奇数、上りが偶数になりました。また紀勢本線では新宮以西の電化開業があり、名古屋・天王寺間を直通で結んでいたキハ81の特急くろしお1往復が廃止され、その代わりに紀伊勝浦以東にキハ82の特急南紀3往復が誕生したダイヤ改正でありました。

このダイヤ改正で列車番号が変わった夜行急行紀州5号905Dは改正前同様、列車そのものは紀伊勝浦行で新宮からは普通列車925Dとなっていましたが、我々の乗務区間は新宮まででなく、普通列車区間が新たに加わり、紀伊勝浦まで延長されました。
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新しく乗務区間が増え、新宮以南の朝の海を眺めながらの乗務は眠いながらも新鮮でありました。

紀伊勝浦延長後2回目の乗務の時のことでした。
車掌区へ出勤し、出発点呼の時に、「キニをキハに変更」と告げられました。
キニ26も、このころ、荷物車としてはすでに古い部類に入っていましたので、故障でもしたのでしょうか。2両の配置で1両使用という運用でしたが、残る1両は検査中とか何か理由があったのでしょうが、こんなことは初めてでした。このころは、すでにキニ28という新型荷物車の改造が進んでおり、その置き換えと関係があったのかもしれませんが真相は不明です。

その日、名古屋駅にキニ26の代わりに連結されてきたのはキハ58でした。ドアが広くロングシートのキハ35あたりのほうが作業そのものは楽だと思われ、デッキ付急行用のキハ58の狭いドアでは新聞の束を投げこむには明らかに不適でしたが、キハ35にしても、荷扱のない駅でもドアが自動で開いてしまうのも困りものです。いずれにしても、たとえ古いキニであっても、キニがいちばんよいのです。
その日は、しかたなく名古屋駅ではホーム側の窓をすべて全開にして、窓から新聞を積み込んでもらうようお願いしました。積み込まれた新聞は、4人ボックスごとに仕分けし、各駅で新聞を卸すときも同様に、その駅で卸す新聞を積んだボックスの窓からの荷卸し作業になりました。座席の下などに小さい新聞の包みが残ったりしていないか、気を遣いました。それに荷扱乗務員室がないので、隅のボックス席は空けておいて、自分たちが座りましたが、専務車掌(荷扱)の人は事務机がないので困っただろうと思います。

紀伊勝浦延長になってから、新宮で「おじいンとこ」で一杯飲んだり、朝のにぎわった商店街を歩くことが出来なくなってしまったのは、残念というより、朝食に困る結果となりました。紀伊勝浦に着くの5時46分。駅周辺の店はまだ営業していませんでした。港の魚市場まで歩いて行ったことがありますが、食事ができそうなところは見つかりませんでした。しかたなく往路の新宮停車中に駅弁を買って帰路の便乗列車の中で食べたこともありました。

この場合は任意での弁当購入でしたから、当然のことですが過去の拙ブログ記事【260】レチ弁で書いたような「レチ弁」ではなく特典はありません。それでも、駅によっては制服を着ていくと100円引きだった弁当屋さんが中にはありました。新宮駅もそんなことがあったような気もしますが、記憶があいまいです。下はその時買って食べた駅弁の掛紙です。 
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紀伊勝浦では車掌の休養場所が確保されていませんでした。所定行路では6時57分の普通列車で新宮まで戻り、新宮でほんのわずかな仮眠時間が与えられたあと、改正前とほぼ同じ時間帯に運転されていた9時45分発の紀州2号で名古屋まで便乗で帰ることになっていましたが、紀伊勝浦へ乗務が延長された分、新宮での休養時間は削られてしまいました。やはり改正前のように所定より早い便乗列車で名古屋まで帰ってきたいところでしたが、それまでいつも便乗していた紀州1号は、この時の改正で特急南紀2号に格上げされていました。時間的には特急南紀2号の紀伊勝浦発時刻は6時28分と好都合でしたが、あいにく特急列車への便乗は通常は認められていませんでした。南紀2号の車掌は天王寺鉄道管理局担当で、同じ国鉄職員同士とはいえ顔見知りはいませんが、「名古屋まで便乗お願いします」と一声かけてOKが出れば乗せてもらいました。たいていはOKでしたが、嫌な顔をする人もあれば、空いている指定席へ誘導してくれる人もありました。
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急行時代に比べ、自由席の座席数は減っており、混雑するので、デッキに立ったこともありました。急行のような中間車に組み込まれた空室の運転室もないので、避難場所もありませんでした。仕事中にキハ80系に乗れた数少ない機会ではありましたが、指定席に誘導されてもコートなどを羽織って国鉄職員だと気づかれないように小さくなって乗っているということ、徹夜で非常に眠いところに加え、乗客や車掌に気を遣いながらの長距離便乗は気持ちのいいものではありませんでした。

私はその後、列車掛の試験を受け、幸いにも合格しましたので、この荷扱の仕事から離れることとなり、紀伊勝浦延長後の紀州5号の乗務は数回だけで終了となりました。
また、キニ26もほぼ同時期に高松へ転属して行き、前述のキロ28の改造車「キニ28」が後継車として、名古屋へ2両配置され、キニ26に代わって活躍を始めたのでした。

 <<紀州5号の記事は今回で終了です。>>

この記事へのコメント

  • TOKYO WEST

    初めて紀勢本線に乗ったのが昭和53年7月末でした。天王寺から924列車(南紀)のB寝台車で新宮へ、そこから紀州1号で名古屋へ向かいました。南紀も紀州1号も車内では爆睡状態で、せっかくの紀勢本線初乗車も景色は全く覚えていませんが、活気ある朝の新宮駅の様子はしっかり覚えており、立喰いのうどんを食べました。
    平成11年の新宮夜行定期運転廃止直前に乗ったときは、朝の新宮駅の立喰いうどんは食せたものの、駅はすっかり寂しくなっていました。
    2012年10月31日 21:59
  • 北恵那デ2

    荷物気動車はあまりなじみがありませんが、この連載も全て拝見いたしました。記憶にあるのは、関西本線の蒸機撮影時の湘南顔や切妻顔のもの、高山本線から郵便・荷物が無くなるというので訪れたものくらいかな。後者は急行色でしたが、電車でも気動車でも荷物車だけ色違いなどというのはよくありましたね。今は郵便車も荷物車もないので寂しいですが。職用車さえほとんどなくなったしね。そもそも客として乗ることのできない方に興味をもつのも変人ですが。
    2012年11月06日 08:11
  • しなの7号

    TOKYO WEST様 こんばんは。
    コメントの掲載が遅れてしまって大変申し訳ありませんでした。このところウェブリブログのサーバー不具合が断続的に発生しておりまして、投稿や記事編集にかなりの支障が出ていました。このため、いただいていたコメントも掲載できずにおりました。私のこのコメントも、アップできずに遅れてしまいました。
    お詫び申し上げます。
    新規記事のアップもできませんでしたので、1週間お休みさせていただくかたちになってしまいました。

    さて、TOKYO WEST様も、早朝に異常なまでに活気があった新宮駅の状況を覚えていらっしゃるんですね。
    昭和53年の7月。ひょっとしてTOKYO WEST様と同じ日に紀州1号で自分も爆睡していたかもしれないと思い、乗務日誌をめくってみましたが、この月は中旬にこの行路に乗務しておりまして下旬は中央西線や東海道本線に乗務しておりまして、乗った日は違っていたことになります。
    2012年11月06日 18:50
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    中央西線では見られないのがキニやキユニでした。仕事上でも、荷物気動車への乗務はこの行路だけでした。
    高山本線にも急行色のキユニがありましたか。どこかからの転属車だったのでしょうかね。編成として全く統一感のない普通気動車列車とか、青と茶色の混成の旧型客車は、今となっては懐かしいです。
    2012年11月06日 22:47
  • 貨車区一貧乏

    おはようございます
    長時間、長距離の便乗はつらいものがありますね。
    私も列車掛時代には、長いもので1~2時間程度の便乗がありました。変わったものでは、列車はもとより路線バス、タクシーを使った移動もありました。
    国鉄バッシングの時世、肩身の狭い便乗が多かったですが、その中には機関士から「眠いから話し相手になってくれ!」とブルトレ機関車の運転台に誘ってくれた方もいました。
    いけない事なんでしょうが、EBの変わりになり、いい思い出になりました。

    ところで、新鶴見操車場や武蔵野操車場の移動などはマイクロバスが運行してましたが、他の地域の操車場はどうだったんでしょう?^^
    2012年11月15日 09:28
  • しなの7号

    貨車区一貧乏様 
    コメントありがとうございます。

    この行路、便乗時間の長さは異常なほどでした。これが空いた列車であれば気楽なのですが、この場合はけっこう乗車率もよくて、つらかったですね。

    私も列車掛時代には、名古屋市バスと地下鉄のほか、私鉄(近鉄)の便乗行路を経験しています。

    ブルトレの便乗は経験ないですねえ。そもそも自分は緩急車廃止後、機関車の後部運転室を執務場所とする貨物列車を経験していませんので、機関車への乗務経験がありません。でも深夜、朝の便乗列車まで間があるときに、貨物列車の機関車の後部運転室を使わせてもらって便乗したことはありました。EH10の運転台はとても広かったのを思い出します。

    旅客駅からの操車場へのアクセスや操車場内の移動のためのマイクロバスは、私の乗務範囲内だと稲沢・東静岡・西浜松にありました。
    2012年11月15日 22:00
  • 野良太郎、

    お久しぶりですd(⌒ー⌒)!僕もバイト時代に、やくもの 車販乗務時に、臨時列車乗務の帰り便乗車掌に出くわしましたよ~d(⌒ー⌒)!指定席どころか、グリーン車に堂々と座っていました!!チーフに缶ビールが貢ぎ物になっていたようです!!
    2013年02月19日 22:22
  • しなの7号

    野良太郎様
    南紀号は、指定された列車の便乗でなかったことと、他区の列車だったので、混んでいる車内での便乗は気が疲れました。迷惑かけるといけないですし。
    貢ぎ物が必要だったでしょうか?(^_^;)
    2013年02月20日 07:09
  • テンシラからテンテン急行きのくにハザ3席

    海水浴の帰りに急行きのくに号に乗ってこんなボロいのやだ黒潮がいいとか言ってぐずってスイマセンでした当時のきのくに号車掌さんへ一言
    2015年07月05日 21:54
  • しなの7号

    テンシラからテンテン急行きのくにハザ3席様

    くろしおが381系電車のころ?それとも80系気動車のころでしょうか?
    381系でしたら、酔っぱらってひどいめに遭ったかも…
    今なら、ボロの381系はいやだとお子さんがぐずるのでしょうね。
    2015年07月06日 08:54
  • テンシラからテンテン急行きのくにハザ3席


    はいこれですがおそらく381のころです。
    天王寺に着いたら、ガンダムのおもちゃ買ってやるから大人しくしろと言われた記憶がありますから電化後と思われます。
    ぐずった張本人ですが、特急が強いと思ってました。
    2016年03月07日 21:40
  • しなの7号

    テンシラからテンテン急行きのくにハザ3席様
    天王寺に着いたら、酔っぱらってフラフラという記憶がないようでよろしかったです(^^)/
    2016年03月09日 17:41
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    紀州5号の思い出を書きます。昭和52年当時、紀勢線にDF50が元気に活躍していましたが、関西の撮り鉄が和歌山へ通うのは旅費負担が大きかったものです。紀伊勝浦周辺の海岸線にいい場所が多々ありましたが、これに最適な南近畿ワイド周遊券を関西では発売していませんでした。(湊町~亀山以南が周遊区間だったから?) そこで名古屋で発売していることに目をつけ、ここから紀州5号に乗れば早朝の新宮からフルに動けるし、学割4800円で急行乗り放題の移動が7日間できたのです。往路名古屋までと、帰路の新今宮から別払いしても格安でした。そこで仲間2人と名古屋から乗ったのが紀州5号でしたが、不覚にもキニが連結され、新聞を積んでいたことは全く記憶していません。名古屋発の時点では平日でもあり、通勤客?のような人が多かったが、亀山までに少しずつ降りていき、新宮到着時はすいていたと記憶します。寝不足でもうろうとしながら新宮夜行924レを撮り、そこから激動の1週間が始まりました。周遊券は、後に名古屋も周遊区間に加わった反面、時刻表の発売駅から名古屋が消え、紀州5号で紀勢線入りしたのは1回きりでした。
    2020年06月20日 22:59
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    周遊券の有効な使い方ですね。それに加えて天王寺・名古屋の双方から夜行列車があったことも、周遊券の価値を高めています。周遊券とJRの定期急行列車がなくなってから、鉄道旅のお得感がなくなっていったなあと思います。
    紀州5号はホームライナー的な利用者が亀山まで、魚釣り目的の人が明け方にそれぞれの漁場最寄り駅で降りて行かれたようです。

    私が紀州5号にプライベートで乗ったのは高校生のころに紀州鉄道と有田鉄道に行った時1回だけで、そのときは名古屋市内から時計回りの片道乗車券を買いました。
    2020年06月21日 20:29
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    紀州5号荷物輸送のことを知りたくておさらいしてみました。昭和34年の紀勢線全通時に運転開始した夜行準急「うしお」が前身で、41・3で急行に、43・10改正で急行紀州に統合とあります。昭和39年時刻表を見る限り、新聞輸送しそうな夜行客車列車が見あたりません。(急行那智の荷物車は東京名古屋間のみです) 当初キハ55系だったと思われる準急「うしお」に荷物車が連結されていたのかまではわかりませんでしたが、ご存じでしょうか。
    2020年06月22日 01:56
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    自分が就職するまえのことはわかりません。名古屋第一機関区にキニ26が配置されたのは新しく50.3あたりからで、古い配置表には荷物用気動車の配置はありませんので、それまではキハで新聞輸送をしていたのではないでしょうか?
    2020年06月22日 20:09
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    キニ26がまだ改造されていなかった時期に、他形式のキニでも使っていたのかな、くらいに思っていました。新聞輸送が鉄道を利用していたなら、当初はキハの利用かもしれません。
    キニ代走のキハ58で新聞を運んだとか。さぞかし作業しにくかったと思われます。窓開けて積み降ろしもなるほどです。
    実は、通年でキハ58の郵便車代用がありました。これは福知山5:32発の251D東舞鶴行き「福鶴下便」で、全編成がキハ58系で、契約はキハユニと同じ0.25車室で、運転席側から6ボックスを使い、ドア又は窓から郵袋を入れましたが、停車駅ごとに自動ドアが開閉したので郵袋をドア付近に置かないように注意していました。その分、積載は押さえられ、綾部、西舞鶴、東舞鶴宛の通常郵便物のみで小包は禁止となっていました。逆の上り便はなく、この編成が折り返しで910D急行丹後となるので、このような設定になったと思われますのでご参考に願います。
    2020年06月22日 23:34
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    「うしお」時代から夜行急行は名古屋第一機関区の運用だったようですので、単純に配置表からの推察しただけなので、昨日の私のコメントは話半分ということでお願いいたします。

    キハ58系の定期荷扱列車も経験していますが、すでに一般荷物は自動車代行輸送に移行していた時期のことで、新聞、特殊荷物と事業用品に特化して輸送していたので、荷物量は左右2ボックスと出入台のスペースがあれば事足りる程度で窓からの積卸もなく、早朝で乗客は少なく問題ありませんでした。すでにご覧になられたと思いますが、
    【567】思い出の乗務列車47:武豊線922D(前篇)
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201503article_5.html
    の後段で触れています。
    2020年06月23日 20:43
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    【567】を拝読すると、検査代走でないキハ58による荷物輸送は、編成中間部の使用も含め、全国的にも事例が少なかったと思われます。
    郵便輸送の話が多くて恐縮ですが、この紀州5号こそ、郵便輸送に活用してほしかったと感じます。
    当時、名古屋新宮間にはスユニ客車で2往復の輸送がありましたが(松阪新宮間1往復はキユニ26使用)、すべて普通列車で、名古屋を早朝発で新宮まで10時間、郵便物が多く集まるのが夜間であるのに午後便は14時発で早く、松阪で停泊するので新宮着は翌朝9時過ぎでした。上りも新宮10時が名古屋21時半、夕刻17時台の便は松阪停泊で名古屋までほぼ24時間かかるというダイヤで、紀勢線の郵便輸送は、松阪、新宮停泊と車両交換のため輸送時間が長く、沿線の郵便物送達日数が延びていました。
    紀州5号のキニをキユニに変更すると、荷物室が半減して新聞輸送に支障するでしょうから、もう1両キユニ26を増結して荷物室も郵便積載にお借りし、1両まるまる郵便車として、全国から名古屋に集まった紀勢線沿線への郵便物をすべて積載すれば車内はいっぱいになり、海南まですべて当日配達できたと思われます。編成がキニ、キユニを従えた9両になりますが、ホームの有効長に支障がなければの話です。
    2020年06月23日 22:30
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    夜は、キニも含めた紀州編成が1往復武豊線に入ったことを
    【330】思い出の乗務列車12:武豊線948D 編成の移り変わり
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201211article_5.html
    で書きましたが、その948Dの折り返し名古屋行953Dでも事業用品主体の荷扱を中間のキハで、922Dとまったく同じ形態で行っていました。キニがあるのにホームにかからない駅が多いという特殊事情で、そういうことになったと思われます。

    紀勢本線の全通がもっと早く、名古屋始発の夜行列車の歴史が長かったとしたら、郵便輸送の夜行急行列車の活用が考えられていたかもしれませんね。
    2020年06月24日 20:24
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    武豊線でキニを連結するのに荷扱いはキハというのも一見して変な感じですが、荷扱い場所と安全を考えると仕方なかったと思われます。衣浦臨海鉄道の貨物列車が乗り入れる関係で、KE65や、DD51との重連となる日に何度か石浜駅で降りて撮影しましたが、9両編成では足らないホームだったはずです。
    紀州5号ですが、郵便車連結ができなかったとしても、キニに郵袋の託送をお願いできた可能性があります。新聞扱いへの負担を最小限にとどめるため、松阪までは翌朝の近鉄託送に回せばよく、それより先の多気~新宮間各局宛てを郵袋にまとめて納入し、松阪5:04発の325D郵便車乗務員宛とした上で1915Dで松阪まで託送できれば、郵袋はせいぜい5個以内と思われ、各局の到着は半日早くなっていたことは間違いありません。もっとも、託送郵袋は紺色駅名札が付く「一般荷物」に分類されたようで、1915D積載対象外であるなら、無理なお願いだったかもしれません。ちなみに、天王寺~新宮間夜行の921列車、924列車は郵袋託送が行われ、大阪からの郵便物送達は比較的早かったのは事実です。
    2020年06月25日 01:27
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    武豊線ではキハ35の6両編成でもホームにかからない駅があったくらいですから、長大編成の入線そのものが無理な話です。

    紀州5号の郵便輸送の可能性について、昨日は簡単に書いてしまいましたが、50.3時点で、東名阪自動車道の未開通部分は一部だけでしたし、伊勢自動車道は久居まで完成していました。おっしゃるようなメリットはあったとしても、53.10を控えて国鉄の荷物関係の合理化に振り回されることになる時期に、わざわざ鉄道輸送を選ぶメリットはあったでしょうか。個人的には時期的に10年は遅かったと考えます。
    2020年06月25日 20:07
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    そうですね…深夜の郵便輸送は、どこまで郵便車で行い、どこから託送や駅代行受渡に依存するか、各線ごとの運行形態やダイヤを考慮して決めていました。やはり、松阪~新宮間の輸送量が少なめと判断されたから、先に書いた時間帯の輸送にとどまったかもしれません。荷物列車関連ページはタイトル番号順に拝読していますので、また別のページからコメントさせていただきます。
    2020年06月25日 22:35

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