先週の948Dの話の続きになります。
武豊線内は各駅ともホームの長さが短いですので、キニを除いた7両の客扱車両すべてがホームに収まるのは2駅だけで、あとの駅は前か後のいずれか1~2両がホームから外れてしまいました。当時はホームからはみ出たドアの締切扱いもなく、各駅ごとに「前寄り(後寄り)○両の車両はホームから外れます」といった車内放送をするだけでした。しかし私の在職中に限って言えば、転落や降り遅れという事故も聞いたことがありませんでした。しかし危険であることは確かなため、このような長大編成には、車掌が2名乗務していました。
そして、まったく用もないキニ28を連結して走る武豊線の948Dと、その折り返し列車953Dでしたが、キニが連結されなくなる日がやってきました。
それは1982年(昭和57年)5月17日のダイヤ改正時でした。
このダイヤ改正では、武豊線に関してはそれほどダイヤが変わったわけではありませんが、関西本線の名古屋~亀山間の電化開業で、関西本線名古屋口に残っていた旧型客車と気動車列車が、このとき電車化され、関西本線名古屋口は大幅なダイヤ改正となりました。普通列車の電車化で、増発と速達化が図られた代わりに、関西本線亀山以西へ直通する急行「かすが」と紀勢本線へ直通する急行「紀州」の列車本数削減や、急行「かすが」1本の快速への格下げが実施され、夜行の紀州5号も、このとき廃止になってしまったのです。廃止によって新聞輸送はトラック輸送に切れかえられたものと思います。キニ28も失業し、豊岡機関区に転属しました。その後、国鉄が荷物輸送を廃止したこともあって、改造後10年も経過しないのにキニ28は全車、JRに引き継がれることなく廃車の憂き目にあっています。
さて、このダイヤ改正後も948Dは急行の間合い編成で運転されました。編成は8両で、名古屋第一機関区の4両編成と美濃太田機関区の4両編成を連結したものでした。たぶん「紀州」または「のりくら」編成の間合いと思われますが、運用そのものは未調査です。これまで乗客が乗ることができなかったキニがなくなり、普通車代用として解放されたキロ28が2両付いた通勤列車は豪華でしたホームにかからない車両が増えたことで、危険もふえたことになりました。この948Dでは1度だけ団体輸送があったために、2両増結された10両編成に当たったことがありました。
以下のような編成になりました。
1982年(昭和57年)6月16日
東海道本線~武豊線948D
運転区間 名古屋~武豊
乗務区間 名古屋~武豊
‐ キハ58 438 名ナコ
‐ キハ58 443 名ナコ
4 キハ58 243 名ミオ
3 キハ28 2169 名ミオ
2 キロ28 2126 名ミオ
1 キハ58 678 名ミオ
4 キハ57 2 名ナコ
3 キハ65 504 名ナコ
2 キロ28 81 名ナコ
1 キハ65 507 名ナコ
号車番号のない前2両が増結車でした。武豊線では朝は毎日9両編成が入線していましたが、10両編成は私は初めての経験で、正直なところ各駅の停止位置も自信が持てず、ヒヤヒヤものでした。
余談が多くて申し訳ないですが、この列車に組み込まれたキロ28 81。ネットで調べましたら、この約3か月後の1982年9月21日にキユニ28 27に改造されたことが判りました。この時はグリーン車として最後の活躍時期だったのでしょう。改造後は郡山、岡山と転属し、分割民営化直前の1987年2月10日に廃車されているようです。
948Dは、このあとの同じ年の「57.11」ダイヤ改正でも8両編成のまま残りましたが、名古屋機関区運用車と美濃太田機関区運用車の順序が前後逆になりました。次のダイヤ改正「59.2」(1984年2月)では、美濃太田車のグリーン車が抜かれ、7両編成になったのでした。
7両になった時代の編成例は、以前に拙ブログ記事【240】乗務した車両:急行型気動車(後篇)本文中に掲げましたので、興味がおありの方は参考にしてください。
それでは私が普通車掌をしていた約3年間の948Dの編成の移り変わりを、車掌時代の抜粋表から見てみましょう。
ここからは、始発駅名古屋の発車時刻や番線の変遷も読み取れます。
左側の二重括弧内の時刻はホームへの据付時刻、右が発車時刻です。その右「その他」欄の数字がホーム番号です。0番線は現在の1番線の位置になります。当時は0番線は東海道上り本線で、気動車列車が0番線から発車する例は稀でした。夏場には冷房用エンジンの騒音が古い駅ビルに反射し、うるさいやら暑苦しいやら、いつもの電車列車の停車時とは違うひと時でありました。そもそも約10分間も、通勤時間帯に上り本線をふさいでおけたというのも、当時の列車本数が少なかったからこそできたのでしょうが、57.5ダイヤ改正後は7番線や10番線を使用するように変わってきているのもわかります。
59.2ダイヤ改正後、しばらくして専務車掌を拝命しましたので、この列車に乗務することはなくなりました。
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- 【567】 思い出の乗務列車47:武豊線922D(前篇)
- Excerpt: 昭和50年代後半、私が乗務していた武豊線には朝2往復と夜1往復、急行編成を使った長大編成の普通列車が運転されていました。 朝の2往復のうち、名古屋発武豊行の一番列車920Dとその折り返し925Dは 【..
- Weblog: 昭和の鉄道員ブログ
- Tracked: 2015-03-16 06:40
この記事へのコメント
トシ@グッズマニア
国鉄時代は様々な間合い運用があって、趣味的にはとても面白かったですね。
1982年当時小学4年生だった私は、名古屋駅での撮影後いつも名古屋を16:44に発車する美濃太田行き523Dに乗って大曽根へ帰宅していました。
小学生の帰宅には良いタイミングだったのと、中央西線では珍しい気動車を使用した普通列車だったこと。そして何よりこの列車の後ろから2両目に組み込まれて開放扱いになっていたキロ28が目当てでした。
この列車も急行「紀州」で名古屋に帰ってきた後、寝グラの美濃太田機関区へ戻る際の間合い運用だったかと記憶してます。
この編成にはいつも先頭か2両目に1両だけキハ40系(大抵47か48でした)が入っていて、武豊線のキハ35を除けば昼間名古屋駅で見られる数少ない首都圏色の気動車でした。
しなの7号
国鉄時代の523Dも、懐かしい気動車編成でした。私も乗務していましたので、よく覚えております。
編成等はずいぶん前のブログ記事「【106】乗務した車両:キハ40系気動車」https://shinano7gou.seesaa.net/article/201012article_1.htmlの後半で少し触れておりますので、よろしければご覧ください。
私が小学生だった昭和40年代前半にも、中央西線には急行間合いの普通列車があって、乗ったことも見たこともはっきり覚えていますよ。
トシ@グッズマニア
確かに私もキロ28の真ん中あたりに座るために、入線時刻の16:15に備えて、10分ぐらい前から名古屋駅10番線の『いつもの場所』に陣取ってました(笑)
いま思えば、同時間帯に到着していたゴハチ牽引の荷31レなども完全に無視して何て勿体ないことをしてたんだろうと思いますが、当時は荷レも団臨を含む臨客もゴハチばかり。
まさかほんの2,3年後にEF62への一斉置き換えに伴うゴハチ狂奏曲が巻き起こることなど露知らず、小学生には古ぼけたゴハチより、ブルトレ牽引機であるEF65PFの方が眩しく見えたものでした(苦笑)
しなの7号
そういえば、そのころ名古屋駅の16時台には、東海道下りは荷31列車、上りは8106列車だったか?団臨でよく使われる予定臨がありました。どちらもEF58が牽引していて、ごく普通にEF58が見られる時代でしたね。