国鉄最後のダイヤ改正となった昭和61年11月の「61.11ダイヤ改正」では、特急列車・普通列車ともに編成短縮と増発が各地で行われ、その内容は国鉄分割民営化後の運行形態の基礎となりました。乗務員の乗り組みも変更され、貨物列車では列車掛が省略されてワンマン運転になり、旅客列車でも長距離乗務が分断されたり、分割民営化後の新会社の形態に合わせた乗務員運用が行われるようになりました。
私の職場でも、特急・急行を含んだ専務車掌班の行路が減り、ローカル列車ばかりの普通車掌の行路が増えました。私はそれまで専務車掌の最下位班の一人として、1カ月に1回だけではあったものの「しなの号1往復(7号と18号)」に乗務していましたが、このダイヤ改正直後の1カ月間は、普通車掌班の交番(乗務割…スケジュール)に就いて普通列車ばかりに乗らされていました。実はその1カ月間に、私は再就職候補先の複数の面接試験を受けに行ったりしており、国鉄を離れる意思は固まっていた時期でした。再就職先から内定の知らせが来た12月に入って、再び専務車掌の交番に戻りました。ダイヤ改正以前よりしなの号に乗務する機会が格段に増え、しなの1,2,5,7,10,14,15,18号に乗務するようになりました。そして、目新しい行路として、上りの大垣発東京行夜行340Mのうち大垣~浜松間への乗務行路も、その交番上にありました。
通称大垣夜行と呼ばれた東京~大垣間の夜行普通列車は、国鉄末期の時点では大垣電車区の165系電車で運行されていました。車両そのものは、いつも乗りなれた165系だったのですが、その編成にはグリーン車が2両も連結されていることによって風格が出ていました。(写真は大垣夜行そのものではなく共通運用されていた「急行 東海」です。)
このダイヤ改正以前は、この1往復が中京地区の普通列車における、唯一の東京車掌区持ちの列車でした。普通列車ながら、自分たちがいつも乗務していた列車とは一目置かれる存在で、特別な列車との印象を持っていました。
東京車掌区持ちだったころは3人乗務で全区間を担当していたようですが、61・11ダイヤ改正後の乗務区間は分断され、上下列車とも浜松以西が私どもの車掌区の担当になり、その乗務は2人であたることになったのでした。(浜松以東の担当車掌区や乗務実態は把握しておらず未確認です。)
下の写真は、東京車掌区が全区間を乗務していた時代の車内補充券による普通列車用グリーン券です。下り345Mについては上位班の担当でしたので、私は上りだけの乗務でした。
その乗務時の編成です。
1986年(昭和61年)12月24日
東海道本線340M
運転区間 大垣~東京
乗務区間 大垣22:15~浜松0:49
11 クハ165-127 名カキ
10 モハ165- 11 名カキ
9 モハ164-833 名カキ
8 クハ165-118 名カキ
7 モハ165- 12 名カキ
6 モハ164-834 名カキ
5 サロ165-125 名カキ
4 サロ165-132 名カキ
3 モハ165- 9 名カキ
2 モハ164-831 名カキ
1 クハ165- 4 名カキ
(垣401)
これまでグリーン車が連結された普通列車には幾度も乗務してきましたが、それらはすべて「ハ代用」と言って、グリーン券なしで解放された列車ばかりでした。
下の写真はリニア鉄道館に保存されているサロ165です。グリーン料金を必要とする普通列車に乗務するのは初めてでしたが、2人乗務のうち上位班の先輩がグリーン車に乗務し、グリーン車の車内改札などの業務をしましたので、私がグリーン券の発行をすることはありませんでした。
専務車掌どうしの2人乗務でしたが、上位班の行路に乗る先輩専務車掌が車内巡回や車内改札を主に担当し、下位班行路の私は、最後部でドア扱いと車内放送をするなど運転業務兼掌でした。そもそも大垣~豊橋間は各駅停車でしたので、車内巡回や改札のため車内に入るのには無理があり、せいぜい最後部からグリーン車の直前までの車内巡回くらいしかできませんでした。この時の編成表は大垣発車前の点検時に書き留めたものです。
現在は常識となっている長距離列車の「全車禁煙」など、当時は想像もできない時代で、下り向きのクハだけが禁煙車でした。また禁煙車とは別に禁煙区間が設定されており、古くからあった首都圏の平塚以東のほか、大垣~岡崎間が全車禁煙区間となっていました。
私は高校を卒業した直後の春に、この上りの東京行きに乗客として乗ったことがありました。その時には重いラジカセを持ち込んで、車内放送を録音しました。そのころは大垣の発車時刻が国鉄末期より2時間近くも早くて、静岡まで各駅停車でした。(乗務時点では豊橋までが各駅停車)
東京車掌区の専務車掌氏の車内放送は、各駅停車区間も含めて停車駅すべてを省略することなく放送案内されていましたので、その録音を何度も聴いて、国鉄就職当時に従事した荷扱の仕事に絶対必要な知識としての駅順を覚えました。そしてその10年後、退職間際に降ってわいたように乗務することになったこの列車の乗務の際には、再びその録音に耳を傾け、夜行列車の案内放送の参考にしたことはいうまでもありません。そして誰かお客さんが自分の車内放送を録音しているかもしれないとさえ意識して、残されたわずかな乗務員生活でもありましたので、恥ずかしくない放送をしようと心がけたものです。




この記事へのコメント
野良太郎
しなの7号
やはり、下りのほうが仕事的には大変だったと思います。
著名な特急急行群のような華やかさはないものの、東海道筋の隠れた名列車であったと思います。
貨車区一貧乏
私たちは、土地柄どうしても下り電車との付き合いが多かったですね。
私自身は、20代のころには鈴鹿サーキットまで、よくレース観戦に出掛けました。
どうしても交番の変更ができないときには、下りの大垣行きのグリーン車を利用して名古屋まで一眠り、翌日レースの予選だけ観戦して新幹線でそのままとんぼ帰り、なんて事をよくやっていました。疲れましたけど…(; ̄д ̄)
また神奈川県西部在住の友人は、飲み会後帰りの電車がたまたま大垣行きで、運良く?座席に座れたのが運のつき、我に返ったのが名古屋近く…。
結局、上りの新幹線で戻り、大きな出費になったと、ぼやいてたのを思い出しました^_^;
しなの7号
やはり、混雑度というか人気度は下り列車でしたね。
私は中京地区に住んでいる関係で、下り列車に関しては関西方面へ向かう時に、名古屋以西を利用した経験しかありません。
上り列車では、貨車区一貧乏様のコメント同様に名古屋から飲んだ帰りに利用して、目が覚めたら富士を過ぎたあたりで、やむなく東京から朝一の新幹線で名古屋へ戻って、また在来線上りに乗ったという方の話を聞いたことがあります。
TOKYO WEST
上の編成表の5号車サロ165-125は、昭和48年8月に初めて大阪へ旅行した帰途、上り144Mで乗車した思い出の車両です。昭和43年9月末まで運転されていた東京・大阪間の普通列車143レ・144レの名残りからか、この頃の列車番号は300番台ではなく100番台でした。列車乗務員も米原車掌区の受持ちでしたね。(東京車掌区への移管は昭和50年3月)
下り大垣夜行は何度も乗っていますが、上りは結局この1回限りでした。東京車掌区に勤務していた元同僚などは、スリ・置き引き・ルンペン・酔っぱらいなども多く、繁忙期ではグリーン車(自由席)に着席できなかった旅客の対応も面倒で、仕事でこの列車に乗るのはイヤだったと言っていました。とはいえ、名古屋鉄道管理局管内まで乗務するという点や、普通の車掌では乗務できない列車であること(運転担当も専務車掌)からも、普通列車のなかでも別格だったようですね。
しなの7号
東海道夜行の電車化前の143列車については、鉄道ジャーナルの列車追跡記事でその実態を知り、すごい列車があるのだということを知り、この列車を運転区間の中間にある米原車掌区持ちというのが、不可解な気がしていました。その追跡記事にあったような被救護者割引(マル救)をフツーに見るような実態を考えると、主要な車掌区が手放した列車を中小規模の車掌区が受け持つことになっていたというところでしょうかね。かく言う私、実は在職中にマル救を発行したことどころか見たこともないのです。
340Mについては、続編を予定しています。
★乗り物酔いした元車掌
この行路は覚えています。
当時ボクは、普通班の一番下でしたが、
予備班でしたので、
ごくまれに、専務班の列車に乗務しました。
この行路は乗務した記憶があります。
共和では、先頭車付近が見えないので
大変だった記憶があります。
それから少し後、今度は、やはり予備班で、
下りを経験したことがあります。
あろうことか、上位班の行路をふられ、
運転担当の先輩車掌を横目に
グリーン車を担当して、しまいました。
いい思い出です。
「788M」は、網干発ですよね。
しなの7号
340Mは11両もあったのでホームが短い西岐阜・笠寺・三河大塚で最後部クハのドア締切を行いました。安城・三河三谷も前のほうからの乗降が多いので注意してました。
788M西明石始発の網干区113系でした。こちらに編成をアップしました。
【76】乗務した車両:113系電車(2)
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201010article_1.html