1976年(昭和51年)に国鉄に入って乗務掛(荷扱)をしていた私は、東海道・中央西・篠ノ井・関西・紀勢の各線の荷物車に乗務していました。その中の紀勢本線では最初、夜行急行「紀州5号」に乗っていました。その様子は以前ブログ記事【319】思い出の乗務列車7:キニ併結 急行「紀州5号」(1)から【325】思い出の乗務列車10:キニ併結 急行「紀州5号」(4)まで、4回に分けてご紹介しました。
私が所属していた車掌区の荷扱班には、この夜行急行のほかにも紀勢本線の行路がありました。その列車は、普通列車921列車と対になる924列車でした。国鉄に入って5か月後の昭和51年10月に行われた交番改正(受持ち列車と、そのローテーションを変更改正すること)から、私が指定されていた組で乗務するようになりました。
この921列車と924列車は長距離鈍行列車で、名古屋と天王寺の間を、亀山、新宮、和歌山経由で、ぐるりと紀伊半島を周って結ぶという、現在では考えられないような経路を走る旅客列車でした。私はその列車に1両だけ連結されていた郵便荷物車「スユニ」に乗務していました。
当時の編成は名古屋発時点で
DD51(稲一)+スユニ+オハフ+ナハ+ナハ+ナハフ(客車はすべて天リウ)
ということになっていました。2両目のオハフも実際のところはナハフが運用されていることのほうが多くありました。近代的なスタイルの10系客車は私のお気に入りで、優等列車を思わせましたが、竜華客貨車区の運用であるこの10系客車は、非電化区間に多く運用されていたためか、電化区間での使用が多かった名古屋客貨車区所属のそれよりも、ディーゼル機関車の排煙で黒く煤けていました。
乗務行路は、921列車で名古屋から新宮まで乗務して乗務員宿泊所で宿泊した後、翌朝天王寺から一晩かけて新宮へたどり着いた924列車に乗って名古屋まで戻るというもので、夜行部分を除いた東側部分だけでした。
した。
車掌区では、こちらの行路を「新宮のダラ」、急行紀州の行路を「新宮の夜行」と呼んで区別していました。
それでは、はじめに921列車に乗務したときの思い出話を、名古屋からスタートさせましょう。
列車は前夜天王寺から延々走り続けてきた924列車の折り返しでした。その客車は約2時間もの間、一番上の写真のように名古屋駅の10番線の神戸方(北側)に置かれ、その間にスユニには荷物が積み込まれました。名古屋駅では北側に荷物用の通路やエレベータが設置されていましたので、荷扱の便宜を図るために編成全体を、ホームの中央部にそのまま置いておくのではなく神戸方へ移動させていたのだと思われます。それにしても2時間もホームを占領したままになっていても、他の列車の発着に支障がなかったというのも、列車本数が少なかった国鉄時代ならではです。
この列車は一般の荷物輸送のほかに、夜行の紀州5号同様に新聞輸送の使命も併せ持っていました。午後に名古屋駅を発車しますので、夕刊の輸送はもちろんでしたが、それより多いのが新聞の「増ページ」輸送でした。「増ページ」とは、休日など特定日の朝刊に付属する特集など別刷のページです。こうした「増ページ」は、配達する日より早めに印刷して新聞店に送られているのでした。輸送力は限られていますので同じ曜日に集中しないよう、新聞社別に曜日を変えて発送されました。このほか日刊ではない特定の曜日に発行される娯楽紙もありました。そのため曜日によって新聞が多い曜日と少ない曜日があって、曜日によって作業量が変わりました。
この921列車と924列車に用いられていたのは全室荷物車のマニではなく、荷物室と郵便室との合造車スユニ61形式でした。この形式は郵便室のほうが大きく、荷物室は車両全体の5分の2程度のスペースしかなく、新聞が多い日だと一般の荷物と混載のために狭い荷物室内は満載状態になりました。
ちなみに、郵便室には国鉄職員は乗務しておらず、郵政省職員である「鉄道郵便局」の職員が乗務していました。
一般的に荷物乗務員の乗組基準は、全室荷物車の場合は専務車掌(荷扱)1人と乗務掛(荷扱)が2人の計3人乗務で、こうした合造車(車掌区では「半車」と言った。)の場合には専務車掌(荷扱)1人と乗務掛(荷扱)が1人の計2人乗務でした。しかしこの921列車と924列車の場合は、スユニであってもマニ並みに専務車掌(荷扱)1人と乗務掛(荷扱)が2人の計3人が乗務していました。各駅停車のため作業密度が濃いことと、積載効率が高く、しかも長距離乗務であることなどが考慮されていたのだと考えられます。
名古屋駅で発車時刻が近づくと、ホームの神戸方に留置されていた車両はDD51に牽かれてホーム中央付近に移動し、客車に乗客を乗せ、場合によってぎりぎりに新聞社から到着した夕刊を積み込むと15時21分に発車し、長い旅に出るのでした。
私どもが乗務していく先の新宮まででも約7時間。列車の終点である天王寺に着くのは翌日の朝5時で、名古屋からは13時間40分もかかる長距離鈍行列車でありました。名古屋から乗務した私たちも翌日の午後まで名古屋に帰ってこられないわけで、遊びでなく仕事として、よく知らない東紀州の地への旅立ちは、楽しい旅行に出る気持ちとも違って心細くもなったものです。




この記事へのコメント
C58364
客車列車を引く現役DD51・・いいですね!
発車する時にガッチャンと大きく揺れる蒸機に比べ、汽笛の後にユルユルと加速して行くDD51は好きでした。
ハユやハニの扉を開けて積込みしている郵政職員さんや車掌さんの汚れた前掛け?が印象に残っています。どちらも紺色の記憶ですが、結構重かったのではないですか。
北恵那デ2
C58364
7歳くらいの頃に超満員の客車に父と乗っていて尿意を催し困ったことがあります(1956年頃)。
私たちは連結幌付近に立っていて、幌の中までギッシリ超満員の車内を遠くの「便所」まで行けないのです。
困り切った若き父は後ろに連結されていた合造車の貫通扉をノックして恐縮しながら車掌さんに泣きついたのです。不審顔の車掌さんも泣き出しそうな私を見て了解して笑顔になり、荷物?の間を合造車にある便所まで通していただきました。
作業されていた皆さんの私に向ける笑顔と、車掌さんが出入りの扉にしっかり施錠されていたことは不思議と記憶しております。
車掌さんは緊急事態として便宜的に取扱っていただいたのでしょうね。助かりました、感謝しかありません。
長くなり申し訳けありませんでした。
しなの7号
DD51の牽き出しの加速感は、そのエンジン音とともに好きですが、今は味わうことも困難ですね。汚れた前掛けをご存知でしたか。前掛けは【213】荷扱乗務員の必需品(https://shinano7gou.seesaa.net/article/201110article_7.html)でご紹介しております。
荷物室に乗車されたとは、珍しいご経験ですね。そしていかにも国鉄時代の話だなと思います。 1956年といいますと自分はまだ生まれていませんが、当時は列車本数も少なく超満員の客車列車があったはずで、自分も子供のころ1960年代に、1時間に1本しかない普通列車が登山客などで満員のためデッキに入るのがやっとという状態を経験したことがあります。また地元の駅には、改札口に掲示する「次の○○行は満員です」という掲示板が用意されていたのを覚えています。鉄道全盛時代の姿ですね。
しなの7号
スユニ61にはTR11装備の0番台車のほかに、台車交換した100番台車と、鋼体化とまったく関係のないスロフ53からの改造編入車である300番台車もありまして、これらはいずれも竜華に配置があり台車はTR23でした。速度が遅い関西・紀勢本線ではTR11でも問題ありませんでしたが、東海道本線で時速95㎞でぶっ飛ばすと、その差は歴然でした。そのあと私は列車掛になってコキフ50000のものすごい振動(【189】乗務した車両:コキフ50000 https://shinano7gou.seesaa.net/article/201108article_1.html)を経験することになりました。
乗務員は檻の中。「荷物」と車体に表示がありますが「護送」とか書いてあったら・・・・
中央西線
春日井を通る列車でした。土曜の昼下がりは勝川で
激混みで最後部の荷物車に乗った経験があります。
当時小学3年生でした。その頃はPC列車が好きで武並駅で
一つ前の70系電車にだだをこねて乗らず40分待って826レに乗ったこともあります。
しなの7号
そのころ826列車は後部にスユニも含む荷物車も3両くらい連結されていたように思います。
塩尻電化後に客荷分離され、ほぼ似た時間で荷物専用列車5044列車として残りました。
通学時、満員の825列車で、オハフとマニ36の連結部分の渡り板に乗ったことがあります。中へは入れませんでした。
北恵那デ2
825列車も荷5044も懐かしいですね。確かに車体に「荷物」とは書いてあるけれども、護送便用荷物車でも「護送」とは書いてないね(笑)。
C58364
今朝の民放で、都内の複線が2本並走する区間で少年2人が線路内に立入ったのを発見した電車が急停車し、対向電車も続いて急停車するのを放映しました。私は見ていて心臓が止まりそうになりましたが少年たちは逃走しました。
最初に急停車した電車の運転士さんが、逃走する二人の少年を睨みつけけている鋭い眼が印象に残りました。
まかり間違えば大惨事になるところですもんね。
偶然、遠方から撮影中に捉えたスクープだそうです。
すみません思い出したくないかも分かりませんが、よろしかったら以下について教えて下さい。
・運転士(機関士)さんがこのように非常ブレーキをかけた時点で、車掌さんには「非常ブレーキをかけた」と連絡があるのですか?
・車掌さんは非常ブレーキがかかった時点で乗客案内はどうされたのでしょうか?
もちろん落着いてからは、運転士さんから詳細連絡があったと思いますが。
国鉄時代の運転士さんは、非常ブレーキをかけた時には『列車指令に通報したり列車防護に忙しい』と鉄道雑誌で見た記憶ですが車掌さんについては知りません。
名鉄電車で私が遭遇した時は「ただ今非常ブレーキがかかっております。ご注意ください」と車掌さんから放送がありました。
ちなみにこの少年二人はカメラも三脚も持っていなくて撮鉄とは違うようでしたね。
しなの7号
非常ブレーキをかけた場合は、エアの抜ける音と衝撃とで、普通ではないことがわかります。車掌室に居れば圧力計に目をやると針がブレーキ管圧力0を指しますし、機関士からの連絡がなくてもそれとわかるものです。余裕があれば車内放送するのでしょうが、必ずしもする(できる)とは限りません。
列車指令と交信できるタイプの列車無線が完備したのは国鉄末期のことです。マニュアル的には「列車防護・救護・連絡」の順でした。
今どきは「急停車します」と自動放送があったりして、ビックリしますね。
C58364
まず2次被害拡大防止のため列車防護第一で行動されていたのですね。
私たちお客はそんなことも知らず「案内放送が無い・遅い」と勝手にわめいていました。乗務員の皆様ごめんなさい。
しなの7号
実際に停車するまでに車内放送するのは難しい場合が多いようにも思いますが、その後は速やかに乗客には情報提供すべきでしょう。とりあえずはブザーによる合図や電話連絡で状況把握ですが、ブザー合図では聞き間違えて大失態の経験があります。時効でしょうから詳細はいずれ機会があれば記事にすることになりましょう。
ちなみに「後方防護せよ」とのブザー(車内電鈴合図)は
「・―・」
でした。
しなの7号
コメントいただいたのに気が付くのが遅れましたm(__)m
スユニ61の台車のことを知ってるほうが恥ずかしいくらいですから、気になさらず。
DD51の牽き出しは自分はゆるやかであると思ってます。
自連の遊間がゆっくり無くなり両方のナックルに受け止められる感じ。運転の技なのか、あるいは変速機の特性か?自分にはさっぱりわかりません。
高校生の冬休み、山陰本線のDD54の牽き出しの振動がひどかったのを思い出しました。
C58364
通勤通学客で重い列車を『いつ発車したのか分からない』くらい牽き出しが上手でしたし、停車時の制動もショックが少なかったですね。
その機関士さんが運転する列車はいつ乗ってもそうでしたから、機関士さんの腕(職人技)が大きく影響していたと思いますが。
しなの7号
蒸機は特に機関士の腕と蒸機そのものの個体差によって差が出たでしょうね。
DD51でも荷物専用列車や貨物列車だとすごい衝撃で連結されたりしましたよ。
北恵那デ2
しなの7号
DD54の経験はあの時だけなんですよね。1回での乗車でものをいうのがどうかとも思うんですが、あの時はひどかった。
それに反してあの時の京都発の車内放送が録音してあるのですが、あれは逸品でした(^_^)/
165系
当該列車の天王寺方に住んでいた私にとっても、大変懐かしい列車ですね。
冬になると阪和線内を牽引するELにはSGがなく、暖房車を連結して「煙」を吐きながら走っていました。また、行き止まり構造の天王寺駅では、その昔は、機回しの入換や「上野駅」よろしく、推進入換でホーム据え付けを行っていました。また、和歌山駅では、南海電鉄の難波駅発の緑色の客車を増結し、白浜駅まで併結していました。
私が実際に乗車したのは、70年代初頭の夏に天王寺~新鹿間です。兄弟の海水浴要求に便乗し、行程を提案して、今では考えられませんが、往復車中泊でフラフラになった記憶もあります。
ここからは、実務の話です。前までのコメントにある、発車時などの衝撃の件ですが、電車などの密着連結器と違い、SL・DL・ELの自動連結器には、連結面には、連結器の構造上「遊間」があり、発車時や制動時に衝撃が発生します。衝撃なく発車させるためには、停車時に「進行方向に遊間を無くした状態」=「列車が伸びきった状態」で停車させることが必要なのです。最新鋭の機関車でも、編成全部にかけるブレーキと、機関車単体にかけるブレーキがあり、停車時に運転士が調整しています。特に寝台列車で気遣うポイントですね。(SL・DL・ELの乗務経験は無いのですが…)
しなの7号
阪和線も含めて国鉄がある時代に、私が紀勢本線の西側に乗客として乗ったのは2回だけでしたが、私鉄臭の抜けない天王寺駅の阪和線の行き止り式ホームは印象に残りますね。暖房車の活躍も含めて、そのホームに据え付けられた客車列車を想像するとワクワクします。
自連のご説明ありがとうございます。読者の方々にもよく理解していただけたものと思います。自連装備の列車に乗ることなどめったに経験できない世の中ですからね。私は乗務中にホロと渡り板が繋がれていない状態の荷物車の貫通扉から、自連の動きを走行中にぼんやり見ていたことが何度もありました。前後左右の動きだけでなく、上下にもナックルがズレてガツンとくる振動もありました。
★乗り物酔いした元車掌
ボクが最初に着任した駅で、
この列車を見送っていました。
ボクのいた駅では16時台だったこの列車が、
翌朝天王寺って言うのが不思議な感じでした。
でも、荷物車は、連結されていなかった記憶があります。
上りの924もそうです。
紀州5号も思い出があります。
踏切代務、この列車が通過すると交代でした。
たしか、午前0時45分だったと記憶します。
しなの7号
関西本線の名古屋口では53.10ダイヤ改正以降は旅客列車への荷物車の連結はなくなりましたので、それ以降921、924列車とも旅客車だけの編成になりました。
ただ、紀勢本線内ではこの改正以降も921、924列車へのスユニの連結は継続され、名古屋~亀山間だけ荷物専用列車化されました。
和車
しなの7号
ご覧いただきありがとうございました。
自分も父親が乗務員でしたので、貨物列車のワフに乗せてもらったことがありました。
和歌山車掌区の方は124列車で新宮まで来て921列車で折り返す行路だったのですね。124列車も早朝和歌山市始発で終点亀山に夜着くという長距離鈍行でした。
荷物室にヒヨコがいるとたいへんにぎやかでした。箱から逃げ出したのがいて、探しまくったことがあります。
代行192便
冒頭の写真。荷物用エレベーターのあるホーム端部に佇む編成。
編成の傍らのホーム上で展開したであろう積み込み作業の光景まで、目に浮かんでくるようです。
何故かとても印象的に思える写真です。
しなの7号
名古屋駅10番ホームですね。ホーム上に荷物台車と洗面所も見えています。それらは後方に見える建物ともども今はなく、北側(米原方)ではリニア中央新幹線関連の工事が行われています。