【372】 思い出の乗務列車21:紀勢本線921列車(後篇)

先週アップした前篇の続きです。
DD51に牽かれて名古屋を発車した921列車は、私が乗務する新宮までだけでも55もの旅客駅があり、それらの駅にもれなく停車していきました。

名古屋から関西本線で1時間半。16時51分着の亀山では21分も停車し、列車の進行方向が変わりました。ここまで列車を牽引してきたDD51 は切り離され、列車の反対側には、新宮止まりのオハフ1両とともに、これから先の牽引機 亀山機関区所属のDF50が連結されました。
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亀山での長い停車時間も、関西本線奈良方面から荷物列車で来た荷物と、草津からトラック便で来た荷物を、威勢のいい日通のオッサンたちの手でごっそりと積み込まれて、ただでさえ狭いスユニの荷物室内で荷物を駅順に整理したりしていると、機関車の切り離しや連結に様子を見たいなどという心の余裕などなく、そうしたことを考える暇さえありませんでした。
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17時12分に亀山を発車すると、ここからは紀勢本線に入ることになりますが、このあたりから先は、私には駅名・駅順が怪しくなってくるのでした。冬場だと亀山を発車したころには日も暮れてしまい、ほどなく車窓の景色も見えなくなりました。こうなると次の駅はどこだったかなと駅順を確認しながらの仕事になりました。この区間は夜行の紀州5号で乗務経験はあったものの、急行では主要駅しか停車しなかったのと、深夜のことでしたので小駅のことは判るはずもなく、初めのうちは列車が、どこをどう走っているのかわからないままの乗務でした。

主要駅であり、近鉄との連絡駅でもある津と松坂では、積卸する荷物も多くありました。他社との相互間にまたがる旅客の「連絡運輸」の制度が今でも存在するのと同様に、荷物輸送でも当時は連絡運輸がありました。国鉄線と会社線とにまたがる荷物はごく普通にあり、関西・紀勢本線筋の乗務だと、近鉄線の駅名とその中継駅を覚えておく必要もありました。近鉄線の営業エリアはご承知のように広範囲であるだけでなく、分岐する支線も多くあること、さらには、921列車の乗務範囲だけでも、近鉄との中継駅が桑名、津、松坂と3か所もあり、当たり前ながら乗務している列車は走行しているので、積み込まれた時点で、どの中継駅で荷物を取り卸すべきかを判断する必要もあって、単に国鉄駅の名前を覚えていれば仕事ができるといったことではありませんでした。

津や松坂では、近鉄からの荷物だけでなく、変わった荷物も積み込まれました。たとえば信州の高原で栽培された切り花の類でした。中央西線の乗務では、こうした切り花は時期によっては多数出荷されるので、その細長い段ボール箱が荷物車を占拠することが、よくありましたが、なぜこんなところで信州の切り花が?と考えてみると、おそらく主要都市である津や松坂まではトラックで大量に輸送されてきて、その先の尾鷲など末端の都市にある花屋さんへは、トラックで運ぶまでもない少量なので、末端部分だけを鉄道荷物で輸送するといった方法だったのでしょう。

また、名古屋からスユニの郵便室に乗務していた鉄道郵便局員は松坂までで乗務終了となり、積まれていた郵便物も全部ここで取り卸されました。松阪より先の郵便室は無人、空室になり、松阪で取り卸された郵便物のうち、新宮方面への郵便物は、郵袋と呼ばれる赤い「〒」マークが描かれた布袋に荷物切符を括りつけられて、「荷物」として我々が乗務する荷物室に、駅の係員を介して積み換えられました。もっともその数は少量で、主要駅あての郵袋だけでした。
これも切り花同様、末端区間の少量の郵便物のためだけに郵便局員を乗務させる不合理を避けるための措置でありましょう。
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(写真は碓氷峠鉄道文化むらに保存してあるオハユニ61の郵便室)

18時20分発の松坂を出たあとには積み込む荷物は少なくなり、卸すほうが多かったので、荷物室内の荷物は減ってきて、走行中にすべき仕事はほとんどなくなりました。ここからが夕食タイムで、荷物車に乗務している3人は無人になった郵便室へ移動して、そこで持参の弁当を食べました。

この列車に乗務していたカレチ(専務車掌(客扱))も新宮までは同じ車掌区の方だったので、カレチも「一人だと淋しいから」と言って郵便室に来られる場合もあって、そうなると計4人での夕食になりました。荷物車乗務員は停車駅が近づくと食事は中断して、荷物室で積卸作業をしましたが、小駅が連続するので、積卸個数も少なく、駅によっては積卸ともない場合もあって、3人とも荷物の授受に出る必要がなく、誰か一人が食事を中断して作業をすれば事足りるような区間でした。

カレチ氏も、この列車が旧型客車で自動ドアではありませんでしたのでドア扱いは不要でした。一部の無人駅では無線機で機関士に出発合図を送ったり、集札をする必要はありましたが、その他のほとんどの駅では駅員がおり、出改札のほか、荷扱のため我々が乗務している荷物車の停止位置まで来て荷物の授受をし、当務駅長が通票授受、進路と信号、客扱、荷扱を確認して発車合図を機関士に直接送っていた時代でした。カレチ氏が何もせずとも、列車は乗務員の意思とは関係なく定刻になれば発車しました。発車するときには郵便室で食事の箸を休めて、上の写真にあるような、両開きの郵便室のドアの落とし窓を開けてチョロッと顔を出しておけば、それでよしというわけです。

そんな小駅のなかで、大内山の駅は島式ホームに龍安寺の庭園のように細かい砂利が敷かれ、いつもきれいに掃き清められており、実に美しい風景を醸し出していました。
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写真は大内山駅ホームの現状です。そんな美しい風景は想像もできません。今ではこの辺りの駅は軒並み無人駅になっていて、これを書きながら、すべてが遠い過去のことだったと、今更ながら思うのです。

暗闇を走り小駅に停まり、少しずつの荷物を積卸す、といったことを繰り返しながら、921列車は22時21分、名古屋から7時間を費やして新宮駅にたどり着き、この先乗務する和歌山車掌区の乗務員と交代になりました。
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そのころは、新宮から先も非電化でDF50が引き続き活躍していました。列車の先頭部では、新宮止まりのオハフが切り離されて、代わりにB寝台車2両(オハネフ+オハネ)の連結作業が行われていました。ここからは普通列車でありながら「南紀」という列車名も付き、小駅は通過するようになり、別の列車のようになりましたが921という列車番号はそのままでした。ただし、私たちの乗務はここで終了で、到着してすぐに駅裏にあった新宮車掌区へ行き、乗務終了の点呼をしたあと、線路沿いに歩いて、和歌山寄りにある乗務員宿泊所に向かいました。私たちの部屋は2階で、カーテンを開けると車両基地(新宮機関区→新宮運転区)で休む特急くろしお用キハ82などの姿が正面から一望でき、そのアイドリング音が響く中で、しばしの休養時間を過ごしました。

次週、折り返しの924列車についてアップする予定です。

この記事へのコメント

  • 北恵那デ2

    こういうの大変勉強になります。空想職業体験できます。ほかの要因もありますが、私が鉄道で飯食おうと思わなかったのは、夜通し仕事するってことができないからです。仮眠時間があるとはいうものの、こういう職業の人を尊敬?したものです(笑)。
    2013年05月06日 08:36
  • TN

    綺麗に砂利がひかれてた駅は大内山だったのですね、昔921レを完乗した時感心したので数年前今度はあの綺麗な駅で途中下車しようと思い探しましたが見当たらず 私の勘違いだと思ってました。思い出したけど砂利のホームって飛び降りした時クッションになって足が痛くならなかったですね。
    2013年05月06日 09:54
  • 乗物酔いした元車掌

    ★手書きの「抜粋カード」が懐かしいですね。
    ボクも列車係をしていた時期があります。
    見習いだけですぐ、異動しましたが、
    そのときの車掌区には「荷専班」があって、
    名古屋~熱田間の荷電に乗務されていたような
    記憶があります。ほかにもあったかもしれません。
    2013年05月06日 11:02
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんにちは。
    荷扱という地味な労務職は、一般のお客さんには目につきにくい仕事で、たまに目についても檻の中の囚人か?と思われるくらいです。
    乗務員でも、機関士・運転士や車掌以外に、こうした職種があったことは、あまり知られていないようなので、現場の様子をお伝えできればと思っております。
    在職中に「乗務員は仕事が不規則だから40歳過ぎるときついよ」と言っていた方がありましたが、私は40どころか30歳前で退職してしまいましたので、ほんとうのきつさを知りません。
    2013年05月06日 14:54
  • しなの7号

    TN様 
    921列車ですと大内山は夜。
    真っ暗な車窓に、現れるホームの明かりに照らされた砂利の縞模様は、印象に残る風景でした。ホームに降りたとき、踏みつけてしまっていいものかとも思いました。
    2013年05月06日 15:10
  • しなの7号

    乗物酔いした元車掌様

    名古屋~熱田間の荷電も乗務していました。
    ↓こちらに、記事アップしています。
    【231】乗務した車両:クモニ83
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201112article_8.html
    中央西線からの継承列車で、中央西線内は稲沢車掌区の「専務車掌(荷扱)兼列車掛」と「乗務掛(荷扱)の2名乗務でした。稲沢車掌区での荷電乗務範囲は中央西線中津川のほか、東海道本線静岡~米原間でした。東海道の行路はいずれも深夜の新聞輸送が含まれており、きつかったものと推察します。
    2013年05月06日 15:33
  • C58364

    おはようございます。
    1975.5.11紀伊勝浦から亀山方面へ観光バスで帰る途中で同一方向に走るDF50に出会いました。
    DF50 26(亀)がマニ?×2+ハ4~5?を牽いていました。
    通票授受のため機関助士さんが乗務していました。
    前日は初めて見る紀勢線が楽しみでしたが、ストのため列車が全く走らずレールが茶色く赤錆ておりガッカリしました。帰りに偶然DF50に会えた時はうれしかったですね。
    2013年05月07日 07:21
  • しなの7号

    C58364様
    午前中新宮を出て夕方亀山に着く122列車というのがありましたので、たぶんその列車だと思います。DF50の後にスユニとマニが繋がっていました。
    2013年05月07日 08:26
  • トシ@グッズマニア

    こんにちわ。
    『カレチ』というマンガをご存知でしょうか?
    私は最近このマンガにハマっているのですが、描かれているのは昭和40年代後半~50年代。
    主人公は大阪車掌区所属のカレチさん、という設定です。
    貴ブログを読んでいると時々オーバーラップすることがあります。
    この921レの話を読んでいる時も、ニレチさんのエピソードが思い出されました。
    2013年05月07日 12:12
  • しなの7号

    トシ@グッズマニア様
    『カレチ』は単行本化されるたびに買って読んでます。
    大阪車掌区へは荷扱当時に月に1度は乗務で行っていましたので、親近感があります。ただし大阪車掌区の建物跡地はまるっきり変貌してしまいました。
    2013年05月07日 14:06
  • 北恵那デ2

    皆さんがいろいろな書き込みされまして、このブログ活況ですね。私は紀勢本線の多気以遠は乗車経験が無いのですが、DF50牽引旅客列車添乗音のサイトを見つけました。その後のDD51牽引になってからのものと比べられるようになってました。速度の差で、かなりDF50が非力であったことが分かりました。ところで、残念ながら鵜殿貨物は廃止されたようですね。
    2013年05月07日 17:54
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。

    いつも思いますが、皆さんがご覧いただくことで、このブログも続いています。これでブログ開設後3年が経過しました。ご覧いただいている皆様に、この場をお借りして御礼申し上げます。

    このあと折り返しの924列車について、毎月曜日2週にわたって記事をアップする予定でおります。その中でDF50についても、すこし言及し模型でなく本物の画像もアップしたいと考えております。

    鵜殿貨物のような貨物列車こそが、これからの時代の鉄道貨物輸送かと思っていたのですが、ついに命脈つきました。残念の一言です。かつてはワム80000の独壇場でしたね。
    2013年05月07日 18:27
  • C58364

    やはり1両スユニがいたのですか。郵便車なしは無いとは思いましたが写真が不鮮明で確認できません。122レに連結されたマニとスユニの形式・所属をご存知でしたら教えて下さい。
    5日~6日に所要で10年ぶりに新幹線に名古屋~新横浜まで乗り
    ました。混雑回避と途中駅で合流者があるため、名古屋始発の上りこだまの分かりやすい最後部1号車にしました。始発の時点では私たち2人と3人連れ家族が1組でした。
    途中駅で30才代の車掌さんが検札に来られましたが、年配の指導車掌さん?が同行されており緊張しておられましたよ。
    「富士山の写真を撮りたい」と話したら手帳を見ながら撮影ポイントと時刻を教えて下さいました。
    2013年05月07日 18:51
  • しなの7号

    C58364様
    122列車には乗務していませんでしたが、スユニは新宮客貨車区のスユニ60か61。マニは竜華客貨車区の所属で、マニ60が多かったと記憶しています。他に竜華にはマニ35、36、61も少数配置されていましたので、それらも122列車に運用されたことはあると思われます。

    東海道新幹線の車窓は見どころが多いと思いますが、速すぎていけません。こだまだと富士に停車するので、富士山の写真を撮るには好都合ですね。
    車掌はいろんなことを聞かれますので、規則以外に沿線の雑学の知識が必要です。自分もしなの号の乗務のときには、木曽路のガイドブックを携行していました。
    2013年05月07日 21:42
  • C58364

    122レに繋がれているスユニ・マニの形式と所属ありがとうございます。すぐデータを出していただけるのは、さすがしなの7号様ですね。竜華のマニといえば、柘植で見た奈良機関区のD51牽引荷物列車のマニ達は竜華の所属だったかも分かりませんね。
    2013年05月08日 06:43
  • しなの7号

    C58364様
    122列車と思われる写真で確認しましたら、DF50の直後がマニでその後ろがスユニでした。
    関西本線百済発着の荷物列車は主に竜華の所属車で編成されていましたが、DL牽引時代には汐留のマニの運用が1往復だけありました。SL牽引時代の確認はしていませんが、同じように他局からの車両も一部にあったものと思います。
    2013年05月08日 08:26
  • うさお

    こんばんは。
    南紀改め「はやたま」になった列車ですね。
    「ユ」が松坂までとは初めて知りました。
    何かの雑誌で新宮から天王寺までは鮮魚輸送が多くなるという文を読んだことがあります。
    天王寺から百済までは荷扱いだけの運用だったのでしょうね。
    汐留から百済まで行く運用は昭和55年時点で「天荷2、3、8」があったようです。
    荷物列車は資料は少ないだけに貴重な話をありがとうございます。
    2013年05月08日 20:47
  • しなの7号

    うさお様
    乗務当時は「南紀」のころになります。
    乗務区間外となる新宮以西の積載方と実態は知りませんが、定期的にありそうな荷物は鮮魚やみかんの類だったと想像できます。同様に郵便室の実態も乗務区間外のことはわかりません。
    関西本線百済から汐留へ直行する荷物車は、53、10改正前に限っていえば、複数の「天荷」のほか「南東荷」が1運用あり、所属は「南トメ」でした。
    2013年05月09日 06:13
  • C58364

    こんにちは。
    古いアルバム写真をスキャンしていて1967~68年当時に撮影した高山線の地元駅の写真に、上り下りに分けてあるのか小荷物の小さな山が2つ見えます。
    当時の高山線ではオハニやスハユの合造車と、キハユニ26を使用していました。地元の1駅だけでこんなに小荷物量があるのに半車で間に合ったのか不思議です。紀勢線・中央西線のようなマニは見たことがありません。昔は積み残しがあったのでしょうか。
    列車の入線時刻がせまると駅員さんが小荷物をリヤカーに載せてホームへ、郵便局員さんは郵便物が入った大きな袋を手で運んでいました。のんびりしてましたね。
    2013年05月10日 11:05
  • しなの7号

    C58364様
    43.10ダイヤ改正前後のことですね。
    その頃私はまだカメラなど持つこともできず、最寄駅や沿線へ自転車で出かけては列車を見ている小学生でした。

    ところで中京圏と北陸相互間の荷物輸送に関しては、高山本線は通過経路とされておらず、北陸本線米原経由でした。高山本線内発または着荷物だけの輸送でしたので、合造車で間に合っていたのでしょうが、積み残しは繁忙期になれば普通にあるものでした。921列車の経由地亀山でも、時には大量の滞荷ができ、積む積まないで駅側と乗務員側で言い争いになる場面もありました。
    2013年05月10日 13:10
  • うさお

    しなの7号さん
    こんにちは。
    南東荷運用が紀勢本線にあったとは初めて知りました。
    今どきの宅配便だったら積み残しなど許されませんね。
    荷物列車の運用は優等列車の乗務員運用図表巻末にあるのを読んだことがあります。
    ただ、時刻表のように年度ごとに保管されている訳でないため調べようにも調べられない部分が多いですね。
    日本の鉄道史料がまとまった場所にないのは、困ったものです。
    JR東海の博物館にも図書室はないみたいですし。
    愚痴ってしまいました。
    2013年05月11日 15:01
  • しなの7号

    うさお様
    南東荷の運用についてですが、私のコメントはC58364様のコメントの「柘植で見た奈良機関区のD51牽引荷物列車のマニ達」についてです。紀勢本線内の運用はありません。関西本線経由で百済~汐留間の運用のことを申し上げています。誤解を招いてしまい申し訳ありません。よろしくお願いします。

    リニア鉄道館については、旧名古屋鉄道管理局の資料、蔵書等を閲覧できる図書館の設置を切に望むものです。
    2013年05月11日 18:46
  • C58364

    おはようございます。
    >リニア鉄道館に旧名古屋鉄道管理局~図書館の設置要望>は大賛成です。
    東海地方でいち早く1969.10に無煙化された高山線に関する資料が特に少ないのです。SLブーム到来前のため焼却されたのか倉庫の奥深くに保存されているのか分かりませんが。当時の関係者の方も高齢となられたのか、サイトやブログでの公開も見当たりません。
    JR東海さんだけでなくJR貨物さんの資料も合わせて収蔵した図書館設置をぜひお願いしたいですね。

    1971年頃?に高山線1時間目ダイヤをいただくために、恐る恐る名鉄局広報課を訪ねましたが親切に応対していただきましたよ。ダイヤ表は行方不明で必死に捜索中です(笑)。
    2013年05月12日 08:18
  • しなの7号

    C58364様
    リニア鉄道館。まだ歴史は浅いので、初めから多くを望むのは無理でしょうが、今後の事業展開のうえでは車両の保存だけでなく、旧国鉄名古屋鉄道管理局の文献を後世に残し誰もが必要に応じて閲覧できるような体制を作っていただきたいものです。

    かつては現場も協力的で、車掌区にはいつも高校生が臨時列車の時刻を書き写しに来てました。
    2013年05月12日 09:46
  • hicky

    初めまして、hickyと申します。よろしくお願いします。

    私は関西線の井田川が最寄駅で、よく利用していました。
    高校の3年間は四日市の高校に通っており、帰りの列車が本文にある921列車でした。私の通っていた頃には、荷物車はなく、客車4両の列車でした。
    その後天鉄局に入り、天王寺駅に勤務しておりました。朝の5時にこの列車が天王寺に着くと、私の早番の時最初の仕事はこの列車の1番後につないでいた荷物車から大量の魚を詰めた箱を降ろし、リヤカーに載せて北口から出て行く箕島から来た行商人から、手回り品切符を受け取るのが仕事でした。
    時々このおじさんが太刀魚などの魚を分けてくれたので、朝食を作って、頂いていました。
    懐かしい思い出です。
    2013年05月13日 23:43
  • しなの7号

    hicky様 はじめまして。
    ご覧いただきましてありがとうございます。
    921列車で通学し、仕事でも関わられた方が居られたとはビックリです(゜o゜)
    行商人とのやり取りも、いかにも国鉄で、関西らしい印象をもちました。
    楽しいエピソードをご紹介いただきましてありがとうございました。

    ふと、思ったのですが、仕事中に天王寺で前夜見送った924列車に、翌日明けで井田川へ帰られる場合に亀山から乗車するなんてことも可能だったかも?
    2013年05月14日 07:24
  • hicky

    残念ながら、この列車に亀山から乗ることはできませんでした。勤務が終わるのが9:15、関西線を乗り継いで亀山に着くのが12:30頃でしたので、924列車は亀山を発車していました。

    この列車は、はやたま号の名がつき、特に週末は釣り客が多く利用していました。車内には酒とたばこと釣り餌や魚の臭いがあり、私がこの臭いが嫌いでしたが、寝台車が廃止になる直前の亀山行きの時に全区間乗車しました。
    2013年05月19日 23:41
  • しなの7号

    hicky様 
    さすがに、それは無理でしたか。
    私が乗務していた時代は、「はやたま」のまえの「南紀」時代でした。「はやたま」に改称されたときに、荷物車乗務員のみ天王寺局持ちに乗務がかわり私も乗務しなくなりました。専務車掌(乗客扱)だけが名古屋鉄道管理局持ちのままで残存し、亀山行になった時から、客扱も天王寺局持ちになりました。
    私が仕事以外でこの列車に乗務したことはなく、できれば乗客として全線通して乗ってみたかったと思っています。
    2013年05月20日 08:11
  • しなの7号様、連夜のコメントご容赦下さい。
    この当時の紀勢本線の駅は、駅員の方々によってとても整備が行き届いていました。件の大内山駅を始め、各駅とも砂利面には熊手を用いた様な線状模様が施され、花壇や植木も手入れが施されていました。下庄駅などは瓢箪棚があって、毎年時期になると新聞紙面に掲載されていました。
    無いものねだりかもしれませんが、当時の鉄道には「人」の存在がありました。私が国鉄好きになったのはこのような事をリアルタイムで体験しているんだと思います。
    2015年12月06日 00:44
  • しなの7号

    天様 おはようございます。
    紀勢本線の小駅がいっせいに無人化されたのが、CTC導入のときだったと思いますが、それまで列車本数が少なくても、運転要員は必要だけれど仕事はヒマという実態はあったのでしょうが、そのころは関西、紀勢方面のほか木曽の各駅は小駅でもきれいに整備されていたと感じます。無駄なものを省いても輸送には何ら支障がないという発想から文化は決して生まれませんね。心の安らぎは減るばかり。速いけれどロングシートの電車に詰め込まれて着いた駅舎が、スーパー・コンビニ同様に、地元駅と同じようなどこにでもある無味乾燥な造りだと、旅に出た気がまったくしませんし、鉄道に対する興味も湧いてきません。
    2015年12月06日 09:17
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    ●鉄道郵便車保存会 会長
    しなの7号様 
    この921列車は、紀勢線撮影の帰路に天王寺まで寝台車に乗車した経験がありますが、名古屋から天王寺まで乗り通しはできていません。
    紀州5号キニ乗務のページでコメントに書きましたが、名古屋発売の南近畿ワイド周遊券でDF50撮影のため紀勢入りしたとき、仲間の一人が921列車で行きたいと希望したのですが、せっかく急行券不要で乗れるのだし、朝から撮影に動けるとの理由で紀州5号希望の2人に押し切られたのでした。彼からはのちに921列車で名古屋天王寺の座席車乗り通しに誘われましたが、私には大変きつく感じられ、遠慮してしまいました。同行していればいい思い出ができたでしょうが、のちのち亀山始発になり、スユニや寝台車の連結もなくなって、乗りたい列車候補から外してしまったものです。
    荷物車乗務を「新宮のダラ」と呼んだそうで、いろいろな本で国鉄用語を覚えましたが、「ダラ」というのは初耳です。関西本線百済~亀山間荷物列車の郵便車に乗務していたのですが、郵政では「カメハン」と呼んでいました。
    2020年06月27日 16:48
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    長距離列車への全区間乗車体験は、その気にならないと簡単に実行できないので、そのうちに…と気にしていながら続々と廃止になっていったという印象です。
    グループ行動を優先した結果、後で後悔するといったことは身に覚えがありますが、逆に誘ってくれる方がなかったら、つまり一人だったら出かけたどうか?と思うことが私の場合にはかなりたくさんあります。結果として目的の一部しか果たせなかったとしても、その旅に誘っていただいた同行者には感謝しなければと思っています。何より、その時の思い出話はどんな酒の肴にも勝り、それがいちばんの旅の収穫だったりもします。

    普通列車のことを「ダラ」とか「ダラコ」と現場で呼んでいたのは確かですが、以前にも他鉄道管理局から名古屋へ転勤された方から「?」だったとコメントをいただいたことがありますので、方言みたいな地域限定の通称だったのでしょう。「カメハン」というのは、以前のコメントで「亀阪」とご教示いただきましたが、「ハン」はスユニの半分の「半」かと思いました。
    2020年06月28日 20:54
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    そうですね。乗り鉄のみならず、撮り鉄にも言えますが、「そのうちに」をずるずると引き延ばし、実現できずじまいにしてしまいます。私を誘った友人は一人で921列車の名古屋天王寺乗車を敢行したあと「体じゅうが痛い、もうこんなん乗るのいやや」と電話しておきながら、翌月には門司⇒福知山鈍行に乗車しており、本質的に長距離鈍行が好きだったようです。
    「ダラ」「ダラコ」が普通列車を意味するのが名古屋地区の現場用語とのことです。鉄道郵便局では地域限定の隠語がありながらも、乗務交替地で他局乗務員に引継ぎの際に伝染して広く使われる傾向がありました。行路を指す言葉はご当地限定がほとんどで、例えば亀阪線で大阪(百済駅)から上り二号便に乗務して、途中の伊賀上野で一人だけ降りて、下り二号便に乗り移って大阪に戻るハードな行路を「インケツ忍者返し」と呼んでいましたが、これは限られたメンバーだけでした。
    2020年06月29日 00:53
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    「体じゅうが痛い、もうこんなん乗るのいやや」とおっしゃりながら長距離鈍行に乗りに出かけたくなる方の気持ちや旅の醍醐味が伝わってきます。「特急に乗ったら豪華でカッコよかった」などという話よりよほど聴いていて面白く興味をそそるものです。

    そこでしか通用しない言葉や言い回しはどんな業界にもありますね。前にも書かせていただきましたが、「それは立派な文化財」で、そういうものは、その仕事がなくなれば消えていってしまうものです。その点、鉄道では国鉄時代の現場用語?が30年以上を経てもかなり生き残った例は多いと思います。それは鉄道が残っているからこそなのですが。。。
    2020年06月29日 20:47
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    鈍行に魅せられていた友人が言うには、長距離ゆえ、生活列車であることを感じるとのことでした。
    昼間、自分以外に誰もいない客車の空気、朝夕超満員の通学生、早朝の行商おばさん、荷物、新聞、郵便の受渡し、車掌さんと話せるひととき、停車時間の駅弁、駅そばの楽しみなどはむしろぜいたくである、と力説していました。彼は還暦を迎えた今も18きっぷで旅行しますが、地方のロングシート車増加を嘆いています。
    国鉄の現場用語はJRになっても社員に使われているものが多いですが、鉄道郵便局の用語はさすがに薄れています。61・10廃止で発足した輸送部門の現場ではまだ名残があったようですが、輸送そのものが大きく変革しました。
    921列車のスユニについて、荷物車乗務員の業務を拝読しますと、隣り合う郵便室と共通点があることがわかります。
    ・所属 名古屋鉄道管理局 ⇔ 名古屋鉄道郵便局  
    ・行き先地 共に新宮 
    ・宿泊場所
     新宮駅構内宿泊所 ⇔ 鉄道郵便局新宮乗務員事務室 
    ・新宮で交替する乗務員
     和歌山車掌区 ⇔ (大阪鉄郵)和歌山分局 
    郵便車として使用したのは松阪までですが、乗務員は松阪事務室で宿泊後に新宮に向かいました。ここが荷物車との違いで、921列車の輸送便名は「名古屋松阪間下り二号便」で、乗務員は翌日の「松阪和歌山間下り二号便」(1329D)で新宮まで乗務しました。国鉄と郵政という組織の違いがありながら、こうも似た部分が多いのも、なにかご縁があったのかなと感じます。
    2020年06月30日 01:10
  • NAO

    しなの7号様、こんにちは。
    私の父は根っからの関西人ですが、各駅停車を「ダラ」と呼んでいましたねえ。特に周りの人間関係には鉄道マンは居なかったようです。私が幼少の頃から、「さっきの帰り、ダラやったわ」とか聞かされて、私にはそれほど違和感がありません。
    天王寺鉄道管理局に跨る列車ですから、長い時間をかけてどこからか近畿地方の父にまで伝わったのでしょうか。昔は地元中心駅にほど近い場所で過ごしたようですが、先日訊いてみると、周りに「ダラ」って呼ぶ人おったで、と言っておりました。
    念のためご報告申し上げます。
    2020年06月30日 11:04
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    まさに、長距離鈍行の良さはおっしゃるようなところにありますね。ただし国鉄時代は仕事で乗らされていた立場なので、わざわざ列車に乗りに行きたいとは思いませんでした。私の乗り鉄歴は主にJR時代に入ってからなので、相次ぐブツ切り化、短編成化、ロングシート化などで、その楽しみの多くは急速に失われてゆき、今では出かけること自体めっきり減りました。どんな新しい列車や車両ができたとしても、わざわざ乗りに行きたいと思うことはないでしょう。

    たしかに921列車の郵便と荷物に関しては似た部分が多いですね。一般旅客にとって意味があるとは思えない紀伊半島を一周する鈍行列車も、荷物や郵便があったからこそ必要であったということでしょうか。限られた列車本数でしたから、乗務員の勤務形態や運用も結果として似たものになったのかもしれません。
    2020年06月30日 20:06
  • しなの7号

    NAO様 こんばんは。
    他の地域の人々と関わり、そこで知った言葉をその人が使い出すことによって地域を飛んでその言葉が使われるようになった方言や業界用語はあるんじゃないでしょうか。交通が便利になって、他地方との行き来が盛んになって、案外なところで似た方言が使われている例はあるようですし、戦後はテレビやネットで加速度的に新語流行語が広まり、あるいは変形もして意味が変わったりもするので、言葉とは生き物だと思います。
    2020年06月30日 20:07
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    ここを拝読して初めて知ったのは、921列車の松阪駅で郵便室が空室になったあと、荷物室に荷物切符が付いた「託送郵袋」が積み込まれたことです。松阪郵便局と名古屋松阪間乗務員によって作成した郵袋を松阪駅荷物扱い所に預け、以降を小荷物として輸送を委託したもので、おそらく尾鷲局など郵便物数量が比較的多い局に限ったので数が少量だったと思われます。なぜこのまま乗務員による輸送を続けなかったのかを考えますに、沿線各局の執務時間が過ぎており、時間的にすでに速達配達時間も過ぎているということです。そのため、翌日早朝発の郵便車で送り届けても当日配達が十分に可能との判断から郵便物、乗務員とも松阪で1泊させたのでしょう。それでもいくつかの局に921列車で託送したのは、数量の多い局宛ての郵便物だけ託送で送り届けておけば、残業していた局は当日引き取ったでしょうし、当日に行かなくても駅が翌日まで保管してくれるため、翌朝に引き取ることも可能です。小荷物は多くの有人駅で降ろされて受取人が引き取るまで保管されるのですが、郵便物は郵便局執務時間でないと受渡しにくい点があり、長距離普通列車の沿線局受渡では全国的にこの問題は避けられませんでした。それにしても、松阪駅の停車時間は7分あるかないかで、車内すべての郵袋を取り降ろすのは、大変慌ただしかったと思われます。
    2020年07月01日 20:04
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    紀勢本線の亀山~新宮間は1983年ごろCTC化とともに多くの駅が一気に無人駅になっていますが、このころ上記区間で無人駅は5駅だけでした。そのほかの駅も小規模ではあるものの駅員がいて荷物を取り扱っていたのですが、今では信じられないくらいです。そんなわけで沿線の街は小さく託送郵便物があったのは尾鷲、ほかに新宮もあったかもしれませんが、40年前のことですから覚えていません。
    郵便車の場合、授受する郵便局が営業時間内でなくてはならないので、有効時間帯が限定されてしまうのですね。
    2020年07月01日 20:55
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    【478】思い出の乗務列車39:関西本線 荷44~224列車(前篇)
    のコメントで921列車など紀勢線の郵便輸送を多く書きましたので重複を避けますが、57・4改正以降の紀勢線郵便車時刻を再掲します。
     名古屋鵜殿間 鉄道郵便車時刻表
     http://oyu10.web.fc2.com/jikoku-meiwa-meishin.jpg
    大きな変化があったのは53・10改正で、スユニの名古屋発が921列車ではなく、荷4043列車で名古屋~亀山間に連結され、亀山~天王寺間が921列車となっています。そのため、乗務員も921列車で名古屋から乗務したころよりも80分ほど早く出発となりました。同時に、線路名と便名を名古屋和歌山線(便)に改称しましたが、下り二号便はあいかわらず松阪で1泊し、翌朝の325Dで新宮9:15着のあと、車両も差し替えて12:15発の123列車となっています。この後のCTC化で多くの駅が無人化されたそうですが、それまでは受渡員の様子、特に積み込み完了を駅員が近くで見てくれていたのが、無人化で列車監視する車掌に受渡員が合図するようになりました。監視位置から郵便車が遠い場合は片手をくるくる回すことで積み込み完了を示す、と資料で読んだことがあります。(夜間は懐中電灯を使用) 一方で、無人化された駅では小荷物扱いそのものがなくなり、地元の利用者は、最寄りの有人駅まで持ち込み、引き取りに行くようになったのではないでしょうか。
    2020年07月02日 00:15
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    53・10改正で名古屋~亀山間の客荷分離されたとき、921・924列車の紀勢線内の荷扱乗務員は天王寺鉄道管理局に移管され、乗務することがなくなったのですが、紀勢線内での荷物輸送の実態は無人化までそんなに変わらなかったのだろうと思います。そして無人化後は一気に様変わりして、おそらく無人化された各駅が扱っていたほぼすべての荷物は、その時期から考えると宅配便に流れたように思われます。
    CTC化によって、紀勢本線ではほとんどの駅で旅客扱の車掌に向けて作業終了の合図を送ることになったのでしょう。中央西線中津川以北と篠ノ井線は、早くからCTC化されてほとんどの駅の列車扱が無くなっていた関係で、荷物専用列車では、扱車各車に乗務するニレチのほかに、列車の運転扱に特化したニレチを1人別に乗務させ、そのニレチが他車の郵便・荷物・新聞の扱いを確認して、列車を発車させる業務をしていました。
    片手を高く掲げてくるくる回す合図は、プライベートでも職員同士で、入換合図(来い、去れ、止まれなど)同様に、ちょっと距離があると使うこともがあります。
    2020年07月03日 20:15
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    紀勢線小駅無人化で小荷物利用の利便に影響はあったでしょうが、確かに宅配便が台頭した時期と重なります。郵便小包もこのころから低迷しました。
    北陸線荷物列車が各駅停車する区間で確かに郵便受渡員が戸閉め完了の合図を送っていたことを覚えています。運転扱いニレチさんが監視していたのでしょう。
    あと、921列車郵便室の荷物積載方が「荷物ただし三輪崎以遠着は新宮中継」、つまり新宮駅で郵便室の荷物をすべて取り降ろしたとのことですが、そこから郵便車として使用はしていませんでした。その代わり、新宮ほか沿線主要駅から、和歌山局、大阪中央局宛の託送郵袋が荷物車に積み込まれ、夜行区間の郵便輸送を確保しました。
    これも921列車の重要な使命でした。
    2020年07月03日 21:53
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    荷物列車の場合、原則的には後部寄り扱車のニレチが運転取扱業務を兼掌することになっていたと記憶しますが、それぞれの車両の運用区間や乗務区間が異なることや、各車の荷扱業務量の多寡、担当区所の負担平均化などの要素がからみ、柔軟に指定されていたようです。中央西線・篠ノ井線のように、専任を1人増乗務させる例は珍しいことだったと思いますが、波動要員を運用した結果でした。作業の負担軽減となった代わり、繁忙期に臨時運用が設定されると乗務員のやりくりがきつくなります。
    CTC化や駅の無人化とは別に、幹線筋でも列車扱の業務が駅から車掌に移ってゆき、61.11では、客車列車についても全駅で車掌が無線機で機関士に出発合図を送るようになったと記憶します。

    921・924列車の新宮以西のことは、積載方の書かれた画像でお判りのようにユ室ニ室とも「三輪崎以遠は新宮中継」であって、新宮でいったん空っぽになるので、車内引継がなく、当方にはその先の積載方がわかる資料がありません。
    2020年07月04日 20:34
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    921列車スユニの郵便室が新宮から先でどう使われたかは不明ですが、新宮からの荷物と、和歌山までに積まれてくる託送郵袋の数量によっては荷物室だけでなく郵便室も使われた可能性はありますね。
    郵便車乗務員の新宮事務室滞在について記録を見つけました。新宮駅そばの踏切を西へ横断してすぐのところにあり、自由時間は新宮城趾の散策などで過ごし、人によっては大浜海岸で「那智黒」という石を拾い集めて自宅の庭を立派にしたり、山歩きで「こめつつじ」を採集して盆栽に盛ったり…と、それぞれの楽しみがあったようです。
    私の滞在経験はたった一度、列車名にもなった速玉大社近くのユースホステルに重い荷物を置き、カメラ片手に熊野川鉄橋へ出かけて列車撮影を楽しんだものですが、静かで住みやすそうな町という印象でした。
    2020年07月04日 23:10
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    みかん収穫期には発送荷物が激増したと思われますので、ユ室も実態に合わせた積載方指定があって使用されたのではないでしょうか。
    新宮車掌区も踏切に近いところにありました。
    プライベートで新宮に泊まったのは、西国三十三所巡礼旅で青岸渡寺と番外の阿弥陀寺を巡ったときだけです。
    2020年07月05日 20:25
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    いろいろと話題を読ませていただいた921列車ですが、鉄道郵便に関する調査だけではわからなかったことを知ることができました。
    松阪新宮間で郵便室が空になるため、食事場所に活用されたそうで、長時間乗務の郵便車乗務員も作業の合間に食事していました。区分棚の台に弁当が置けますし、出し入れできる丸いすが使われたと思われ、人目につかないので荷物側乗務員室よりも食事に適していたと思われます。
    次は924列車のページを拝読させていただきます。
    2020年07月05日 23:53
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    この行路の多気~新宮間の往復だけは郵便室を公に使用できたわけですが、事実上の食事室でした。もし郵便室が回送扱となっていても、たぶん食事室代わりに使用したでしょう。
    2020年07月06日 19:55

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