先週に引き続いて、「特定の車掌」を乗客のほうが覚えているというお話で、これも自分の経験談です。
日中の武豊線に乗務していて、車内巡回中にオバチャンから呼びとめられて、「この前はありがとうございました。」とお礼を言われたことがありました。さて、何のことだったかさっぱりわかりません。
判らぬまま話をそのまま聞くと、「あのときは無事に行くことができました」とおっしゃる。
それでも判らないので、「何でしたかねえ?」と聞くと、「新幹線で九州行って云々…」で、やっと思い出しました。
その一か月くらい前だったか、久大本線の由布院までの切符を車内で買っていただいた方でした。
話はこういうことです。
武豊線の朝一番の名古屋行921Dでのことでした。
石浜だったか尾張森岡だったか、とにかく無人駅からそのオバチャンが乗ってきました。「身内にお葬式ができたのでこれから九州の由布院っていうところまで行くんですけど、どうやって行ったらいいのか全然わからない。とにかく一番列車に乗ったんですが、名古屋で降りて新幹線に乗ればいいんですか?一番早く着く方法で行きたいんです」
そこで、まず時刻表をめくって由布院までの時刻を調べました。小倉、大分経由のほか、念のため博多、久留米経由の時刻も調べました。その結果、小倉で新幹線から日豊本線の特急にちりんの乗継が最速と確認して乗車券類の発行をしました。今であれば、車内補充券発行機(車発機)で一発で乗車券も特急券も発行できるのでしょうが、当時はそんな代物はありません。すべて車内補充券で手書きによる発行になります。営業キロ早見表で営業キロの足し算をして、手計算で運賃や料金を算出します。
ドア扱いなどしながら、「え~と、日豊本線のにちりんは乗継で半額っと・・・、あ、ここはB特急区間だから、特急料金が安いんだ・・・」こんなことをいちいち確認しながら、車内補充券発行方記入例の冊子も見て間違えないように終点名古屋近くまでかかって、由布院までの乗車券と名古屋~小倉の新幹線自由席特急券と小倉~大分の乗継割引適用B自由席特急券を発行しました。
まだ専務車掌になる前ですから、長距離の乗車券や新幹線以外の特急券の発行経験もそれほどなくて、ましてB特急券の発行など初めてでした。車掌も危なっかしいのですが、オバチャンのほうも行程が理解できていない。
せっかく乗継列車と時刻も時刻表で確認したことですし、乗換駅とその時刻を行程表にして渡してあげたのでした。
手間がかかる切符の発行劇を見ていたオバチャンは、行程表まで作って差し上げたこともあってか、私のことが印象に残っていたのでしょう。
こんな場合は名古屋市内駅の入口である大高までの乗車券だけを売っておいて、「名古屋駅の乗換窓口で乗り越ししてください」と案内するのが一番の手抜き方法だったのですが、そこは「好きこそもののなんとやら」。
幸い発行した切符は、料金運賃とも間違いがなく、乗務終了後も車補係に呼ばれることもありませんでした。
ちなみに、発行した切符に誤りがあると「【55】車掌4:切符の発行誤り(-_-;)」 で、ご紹介したように、厄介なことになるのでした。




この記事へのコメント
鉄子おばさん
★乗り物酔いした元車掌
ローカル線に乗務していたときの高校生。
結局名前は聞かなかったけれどよく見かけ、
結構、話しもした。「ちゃんと高校、行けよ」
なにしろ、どう見ても
授業中の時間の列車で見かけたことがよく、あったので、
で、その子がどうなったのか確かめる前に
ボクは転勤、車掌の職を離れてしまいました。
必ず声をかけてくれる子でした。懐かしい。
そのほか、通学でよく見かけ、話しをした高校生が、
その後、同じ会社に入社して、
新入社員研修で教鞭をふるっているときに
声をかけていただいたこともありました。
長距離キップの思い出、
ローカル線の頃はあんまりなかったのですが、
「しなの7号」さんがお見えになった職場に
ボクがいたときに、「西鹿児島」と「青森」を
車内補充券で発売したことがあります。
どちらも、営業キロ早見表では、
簡単に計算できるところでラッキーでした。
そんなに長距離ではないのですが、
武豊線の朝一番に乗務すると、
「東成岩(ひがしならわ)」から、
房総半島の駅への発行がときどきありました。
コレが結構難しい、煩雑。
「しなの7号」さんならおわかりでしょう。
「五井」「木更津」「酒々井(しすい)」なんかを
よく覚えています。
C58364
突然の訃報連絡により、遠く由布院まで朝一で行くことになったオバチャンさんの不安な気持ち良く分かります。ご遺族様への対応はもとより行き方も分からなくてはドーシマショー状態だったと思います。
無人駅では相談することもできません。そんなオバチャンさんはしなの7号様が作成された行程表に救われ、感謝しながら何度も読み直してしっかり握りしめて行かれたと思いますよ。
オバチャンさん(私もですが)にとって車掌さんは「切符」を売ってくれる人であり、旅行会社のように分かりやすい行程表を作ってもらえることもあるとは思っていなかったでしょう。
無人駅ではお礼を言うこともできずに、ずっと心のなかに仕舞っておられたのでしょうね。いいお話です。
オバチャンは私の年齢に近いと想像し、ひとりで由布院まで行かれたことに尊敬をこめて勝手ながら『さん』をつけさせていただきました。
ハッシー
ブログは毎回楽しく拝見させていただいています。
現在の車内補充券はレシートみたいで味気ないですね。
導入始め頃にはお客さまへ乗車券をお渡しすると発行券をレシートと思われてキップを下さいなんて言われる事が有りました。
また現在の車内補充券発行機は片道、往復、特急券などの簡単な発券はいいのですが区変、指変など変更券の発券になると決められた操作をしないと発券が出来ずに操作を何度もやり直しなんてこともありましたね。
手書きの車補の時は年末年始やお盆の時期の多客期には車補を何冊(50枚綴り)も持ち出していましたね。
また帰ってからの現金合わせの締切も一苦労でしたね。
手書きの時には早見表を片手に長距離発券では新潟や青森なんてのもありましたが、中には北海道内の乗車券を発券した同僚もいました・・・(*゚▽゚*)
今となっては懐かしい時代です。(´∀`)
しなの7号
鉄道ジャーナルの追跡記事ではないですが、列車にご乗車のお客様はさまざまな理由で電車に乗っておられるわけで、事情もそれぞれなんですね。
お1人だけに手間暇かけるわけにもいかない現実と、困っておられればできることはしてあげたい気持ち。接客業なら同じようなジレンマはあろうかと思います。
>>乗り物酔いした元車掌様
数々のエピソードありがとうございます。
高校生といえば、特定列車に乗る特定高校の生徒の車内喫煙とかに気を付けていたことがありました。
東成岩からの長距離切符は時折発行する機会がありました。一番列車でなくとも、金曜日の夕刻に単身赴任で来ておられる方が自宅へ帰るときににも発行することがよくありましたが、馴染みのない駅でも、たとえば「総武線の稲毛」というように線名を付けてくれたので、ありがたかったです。
しなの7号
ほとんど鉄道に乗る機会がない方は意外にも多いものと思います。特に田舎へ行くと専ら移動手段は自動車ですから、鉄道で急に出かけることになって、駅へ行っても無人駅で切符も買えないどころか、どうやって行ったらいいか聞くこともできずお困りの方は今でもおられるはずでしょうね。
当時の車掌には、市販の交通公社版とほぼ同内容の別仕様の時刻表が毎月貸与されていたので、容易に乗継列車を調べることができました。私が今でも購入する時刻表は、その当時から使い慣れているJTB版です。
>>ハッシー様
平成10年くらいだったでしょうか。国鉄を離れた私が勤務していた会社でもパソコンがないと仕事にならないようになり、IT革命といった言葉まで生まれるような時代を迎えました。それまでの本来の仕事上の知識のほかに、情報技術の知識が必要になり、手書きなら何でもない書類1枚が完成せずイライラしたことが何度あったことか。車発機も同様、旅客営業関係規定類のほかに、使いこなしのための知識がないと、手書きの車内補充券ならすんなり発行できるのに…といったことがあったのだろうと想像します。
先週の岡多線926Mなどは複数冊の車内補充券を持って乗務すべき行路の典型でした。
TOKYO WEST
しなの7号
走行中は振動のため、車補を手に持った状態でないと字は書けず、車掌室の机では停車中でないと事務は執れません。
古株の車掌長が、営業キロ早見表を下敷きにして達筆でサラサラと流れるように車補を発行するさまは、職人芸ですね。自分が所属していた車掌区にも鉄筆を使われる方は、当時ごく少数でしたが居られました。インク切れのボールペンを使用して発行したことは私もあります(^_^;)
両面カーボンだったら控片が薄紙なので問題ないんですよね。
鉄子おばさん
しなの7号
特に振り子車両ですと、車内で立っていること自体が難しく、車補を書くときは手が3本あるといいとさえ思いました。車内改札で下を向いて切符を拝見したり乗り越しの車補を発行したりしているうち、めまいがしたことがありましたが、それが乗り物酔いだったのでしょう。
鉄子おばさん
しなの7号
381系しなの号は国鉄当時は9両編成で車掌は3人乗務になっていました。他列車では9両だと2人乗務でしたので、それなりに特殊環境であったと考えてよろしいのではないでしょうか。