「ユーロライナーのりくら」で高山まで1往復した翌日の1985年(昭和60年)11月24日は、165系電車での臨時急行で名古屋から北長野までの一往復が待っていました。
名古屋9時02分発急行きそ51号長野行に乗務し、そのまま回送編成で隣駅の北長野まで1往復し、長野からは急行きそ52号で名古屋まで戻ってくるという行路でした。
1985年(昭和60年)11月24日
臨急電 きそ51号 8811M
運転区間・乗務区間とも名古屋9:02~長野13:09
8 ク ハ 165-7 名カキ 自由席
7 モ ハ 165-17 名カキ 自由席
6 モ ハ 164-839 名カキ 自由席
5 ク ハ 165-6 名カキ 指定席
4 ク ハ 165-183 名カキ 指定席
3 クモハ 165-48 名カキ 指定席
2 モ ハ 164-507 名カキ 指定席
1 ク ハ 165-205 名カキ 指定席
(垣406)
定員 指定席368 自由席224
長野から臨回電9811M
運転区間・乗務区間とも長野13:34~北長野13:40
折返し北長野から臨回電9812M
運転区間・乗務区間とも北長野15:05~長野15:11
長野から臨急電 きそ52号 8812M
運転区間・乗務区間とも長野15:25~名古屋20:30
以上すべて同編成。
急行列車とはいえ、グリーン車もなく珍しくもない大垣電車区の165系でした。
(写真は定期列車で、臨時きそ51号ではありません。)
終点の長野は、しなの号でいつも乗務している出先なので、どうということはありませんでした。しかし、この列車の場合は長野へ着いてから、作業員が車内の清掃作業を行った後に、折り返し列車となるきそ52号(8812M)まで時間が2時間以上あり、臨時列車でもあることからその存在自体が邪魔になったようです。そこでその編成を北長野駅まで回送することになっていて、その回送区間も併せて乗務するところが、目新しいところでした。
この当時すでに国鉄では、急行列車は特急に格上げされたり、逆に快速に格下げされて、本数が少なくなっていた時期でした。中央西線関係では、その半年前に名古屋・新潟間を結ぶ急行「赤倉」号が廃止された(正確に言うと名古屋・長野間は特急しなのに格上げ。長野・新潟間は急行南越後として分離)ことにより、定期急行列車は夜行の「ちくま1・2号」の1往復しかありませんでした。
そんなわけで特急に乗務する機会はあっても、急行に乗務する機会はなかなかありませんでした。私が所属した車掌区では、急行列車に乗務する場合は、通常持っている「車内補充券」(略称は車補)のほかに「車内急行券」(略称は車急)というものを持つことになっていました。
その名のとおり、車内で発行する急行券です。100枚綴りになっていて、発行するときには、発駅に○印をつけて複数の発駅に対応し、切り取る位置を変えることで着駅までの営業キロ数によって変わる5段階の急行料金に対応していました。車内急行券を持ったのも、この時が本務では初めてでした。
さて、乗務したきそ51号は、いつも乗務していた特急しなの号とくらべると、急行であることと臨時であることも加わって、かなり見劣りする列車でした。要するに、遅いし車両が古く設備もよくない。グリーン車もない。それでもその時代は臨時とはいえ、往路だけは車内販売があったような記憶です。
停車駅は名古屋を出ると、千種、春日井、多治見、土岐市、瑞浪、恵那、中津川、南木曽、上松、木曽福島、塩尻、松本、長野で、停車駅は急行としては妥当なところでしょうか。それに単線区間がかなりあるにもかかわらず、臨時のくせに行き違い待ちの「運転停車」が皆無というのは上出来といえましょう。しかし、381系振り子電車の特急しなの号と比較すると、その所要時間は如何ともしがたく、名古屋~長野間に4時間07分を要し、名古屋を約1時間後の10:00ちょうどに発車した「しなの7号」(当時の名古屋~長野間所要時間3時間15分)が着く6分前に長野に滑り込み、かろうじて追い越されずに逃げ切るダイヤでした。このダイヤ、実は前述の廃止になった急行「赤倉」号のダイヤとほぼ同じなのでした。
このときは車掌長Iさんとの2人乗務でした。前日の急行「ユーロライナーのりくら」がほぼ満席だったのに、この列車は空気輸送でした。これは連休の2日目午前の下り列車ですから予想できたことですが、ハツホは指定席の定員368に対し、空席は346。つまり22席しか売れていなかったわけです。
こういう日は必要もないのに車内割当はたくさん出してくれます。その日のハツホによる車内割当。
3号車1ABCD
3号車2ABCD
3号車4CD
3号車5AB
以上のように12席もらえましたが、まったく必要に及びませんでした。
ほんとうにほしいのは混んだ時なのですが、しかたがないことですね。
車掌長Iさん。車内改札もひとりで充分と見るや、「まあ、車内は全部まかせるわ。その間ドアも放送もやったるで。」と、いつもの乗務列車「しなの7号」の時とは違って、ゆったりした気持ちで車内改札をし、車内急行券もわずかではありましたが発売したのでした。
◎2013.7.22追記:北恵那デ2様ご指摘により編成表部分誤記修正しました。


この記事へのコメント
北恵那デ2
C58364
登場直後から165系の緑は木曽路にピッタリ溶け込んでいましたね。時々思い出しては落合川まで会いに行きました。
「きそ51」は時刻表で「きそ」の文字に引かれ乗りたいなと思った列車です。諸般の事情で乗れませんでしたが。
車掌長さんの粋な計らいで空気運搬列車の車内改札に専念できてラッキーでしたね。時にはこんなこともなければ・・と思います。
電化前に木曽福島~多治見間でお話にあるDC急行上り「赤倉」に乗ったことがあります。中央西線で初めて乗った急行「赤倉」は長大編成でガラガラでした。木曽福島寄りの後部車両に陣取り窓を全開して、くねくねと身をくねらせて走る列車を心行くまで楽しみました。落合川付近までは惰行運転が多くエンジンのアイドル音が耳に残っています。
経営者にとっては問題のある列車だと思いますが、私にとって最高の列車でした。今は高速の特急と短編成で混み合う普通が多くこんなのんびり旅はできません。寂しいですね。
車掌さんが車内改札に来られたどうかは申し訳ありませんが記憶にありません。
しなの7号
早速お恥ずかしいミスを見つけていただきありがとうございました。
これは珍編成ですなあ。明らかに転記ミスです。早速修正しておきましたです(^_^;)
>>C58364様
中央西線は電化開業と同時に381系しなのによるL特急主流のダイヤになりましたので、その時点で「急行」は脇役で、定期列車でも空いている列車が多かったと記憶しています。特に初期の電車急行は急行天竜送り込み付属編成も併結した12両の長大編成がありました。DC赤倉の自由席は最後まであの当時でも時代遅れと言われた非冷房車のままでした。
北東航201
中央西線系統の臨時急行では、昭和55年末に長野-松本で乗車した急行きそ54号が強烈です。
EF64の旧客急行ですが、篠ノ井~松本間でスイッチバック3回(姨捨と潮沢ともう1ヶ所)、1時間50分と普通電車より鈍足でした。
車急式に記載された駅名を見ると、発駅では、関西・紀勢線では柘植や四日市、多気以南が無く、高山線では下呂が無いなど、興味深いです。手書きすればいいのですが、需要に差があったのでしょうか?
しなの7号
本文中に記しましたとおり、この「きそ51号」の折り返し乗務列車である「きそ52号」は、北東航201様がご乗車になった昭和55年末の急行きそ54号とほぼ似たダイヤで運転されていました。その鈍足ぶりは翌々週にアップする予定です。それにしてもEF64の旧客急行で篠ノ井~松本間でスイッチバック3回とは、ある意味超貴重な形態の急行ですね。昭和55年には貨物列車の列車掛でしたので、そういう列車には乗務できませんでした。
車内急行券記載の駅名について、その需要はどうであったか、私はわからないですが、今回アップしたものでも、乗り換え客の多い分岐駅が主に印刷されています。急行券を買えずに乗車してくる乗客に対して発売することが多い車内急行券の場合は、乗り換え客の多い駅での需要が多く、主要駅でも乗り換えを伴わない(または乗り換え客が少ない)駅での需要は少ないのかもしれません。
明確にお答えができませんので、申し訳ありません。
★乗り物酔いした元車掌
ボクは優等列車に乗務したことがありませんので、
自身で発売をしたことはありませんが、
先輩専務が持っているのを見て、
何かしら、ステイタスのようなものを
感じた記憶があります。
トシ@グッズマニア
30年ほど前、乗り鉄だった叔父に連れられて、中津川から京都まで季節急行(この響きも懐かしいですね)7812M「ちくま2号・くろよん」の最後尾12号車、クハ167に乗ったことがありますが、その車両に乗っていたのは我々2人だけでした。
この列車も分割・併合があるとはいえ、サロ無しの12両という珍しい編成でしたね。
しなの7号
中央本線では甲府車掌区や新宿車掌区発行の「車内特急券」を持った乗客を見たことがありましたが、名古屋鉄道管理局管内車掌区では「車内特急券」という様式はなかったように思います。特急券の発売は車内補充券(車補)を使用しましたので、急行に乗るときだけしか「車内急行券」を持つ機会はなかったです。
>>トシ@グッズマニア様
「ちくま2号・くろよん」は国鉄末期に季節列車から臨時列車に格下げになって、運転日も少なくなりましたが比較的最近まで運転されていましたね。12両で2人乗務でしたが、乗務する機会はありませんでした。それでも167系には団体臨時列車で何回か乗務したことがあります。
とうかいしれい
急行きそ51号。懐かしい列車です。多治見駅近くのトンネル出口で撮影したことを思い出します。写真で確認できる編成はまさに、4号車(クハ)、3号車(クモハ)と先頭車が続くその編成。日付まで一緒ならすごいことですが、記録をつける習慣がなくて今となっては分かりません。
グリーン車の入った165系臨時では、長モト編成を使用した急行「信濃路」があったと記憶しています。165系グリーン車が見たくて、多治見駅で撮影してました。
ちくま82号+くろよん号の白昼堂々165系(167系含む)12両編成もありましたね。
中央西線
アルプス編成を使用した安曇野がありました。こちらはヘッドマーク、グリーン車付きでした。
中央西線
しなの7号
記録されたお写真が自分の乗務列車だったら理由もなくうれしく思います。しかし面白味からいえば、サロ付の急行「信濃路」のほうが断然よろしいわけです。
臨時列車の面白味は、その運転形態や使用車両にありますが、最近の371系の動向などを見ていると、いつの時代も車両が変われども思いは同じだなと思いますね。
>>中央西線様
とうかいしれい様のコメントにもある急行「信濃路」も同じ時期に運転されていましたね。ただ見た記憶が自分にはありませんので、ヘッドマークがあったかどうかは知りません。
この時期14系臨時の赤倉号と165系きそ51号のどちらかが休日に名古屋を9:02発で、長野までほぼ同じ時間帯で運転されていましたが、14系の速度の関係からか、赤倉号のほうは停車駅が断然少ないダイヤ設定でした。
もう一時代遡ると、快速木曽路や臨時のきそが159系だったのをご存知かと思います、これが強烈に印象に残っています。
ヒデヨシ
旅客列車にも乗務されていたのですね
電車の急行きそと言えば夜行の客車列車急行きそのすぐ前にも夜行列車で電車のきそがありませんでしたっけ?
私は客車派でしたがあのころは中央西線の他に名古屋発高山本線のりくら、紀勢本線紀州、東海道本線東京行きと各線の夜行列車大いに利用させていただいていました
関係ないですが
関西本線では10:12初の客車列車の亀山行きによく乗りました途中の富田で20分停車とか亀山まで50kmを2時間ほどかけて走っていたすごく遅い列車でした
昼中に途中の駅で停車すると客車なのでまったく音がしない静粛が好きでした
トシ@グッズマニア
定かではありませんが、前後でも違うデザインだったような気がします。
運転後期は白/緑の長野色車両も充当されてたような...。
しなの7号
この列車に乗務したころは、中央西線の下り夜行列車は「ちくま」だけになっていました。名古屋始発の夜行「きそ」2本体制は57.11ダイヤ改正前まででした。おっしゃるように、それまで客車「きそ」の前に電車「きそ」が運転されるダイヤでした。
名古屋10時過ぎの関西普通列車は↓だと思います。
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201209article_9.html
>>トシ@グッズマニア様
私は急行信濃路とは、ほとんど縁がなく、ヘッドマークがあったことさえ知りませんでした。運転されていた時期が転職とか子供の誕生が重なった時期ということになろうかと思います。
このきそ51号と同じ時間帯に、その翌年の昭和61年夏にアコモ改造されたばかりの白/緑の新急行色169系急行「たてしな」名古屋発小淵沢行の設定が2日間だけ?ありました。丸い大型ヘッドマーク付きでした。
分割民営化後の赤沢森林号など一連の木曾方面への臨時快速は、季節ごとにヘッドマークが違っていたり、前後のヘッドマークが違っていたりしたのは知っています。
とうかいしれい
急行信濃路は、私の撮影した昭和60年当時はヘッドマークは付いていませんでした。サロ付が珍しくて撮影に行った時のを拙サイトに載せてありますので、よろしければご覧ください。
http://www.rd.mmtr.or.jp/~kamechan/natukasi2.htm
>>快速木曽路や臨時のきそが159系だった
鉄活動を始めたのが昭和59年頃なので159系の時代は知らないです。
ユーロライナーのりくらの記事とも関連しますが、ユーロライナー赤倉もあったような。違っていたらすいません。
しなの7号
貴サイトの急行信濃路拝見しました。
当時のネガを引っ掻き回したら、この年(昭和60年)の夏に撮った急行信濃路の写真を発掘しました。編成から間違いないものと思います。このときヘッドマークはありません。先頭のクモハがデカ目ですので、とうかいしれい様の撮られた日とは別の日の撮影となります。
この年の冬にユーロライナー赤倉が登場しました。
159系の臨時急行きそは昭和51年ごろのことで8両編成でした。のちに快速木曽路に6両で運用されていました。
とうかいしれい
ユーロライナー赤倉もこの年だったんですね。
それに信濃路もちゃんと撮影されてたんですね!
急行きそ51号の撮影日は実家に行った時に確認してきます。そういえば当時は日付や時間が写りこむようにして撮影してたので、分かるかも…ということで。
しなの7号
1985年夏の時刻表によれば、上り9816M急行信濃路にはG車連結日とG車不連結日があり、G車連結日は
7/28・8/4・11・16~18・25・9/16・23
でした。
G車連結日は上り下りとも運転があり、G車不連結日は上りのみの設定でした。
自分のネガの順番から推定し、私が撮った上り急行信濃路は7/28または8/4のいずれかのはずですが、今のところどちらの日であるのか特定することができません。