【397】 亡父の最後の帰郷

父が亡くなってから、もうすぐ1ヵ月になる。
さすがに期日が迫っていた後処理は片付いたが、今月にはもう四十九日の法要があるし、まだまだ後処理は続いている。
とりあえずお墓をどうするかであるが、これから父が住み慣れた地で私がお墓の管理をしていくことは難しいし、自分の後の代までその管理を押し付けるつもりはないので、個別のお墓は持たず、四十九日の法要に合わせて、私が住んでいる地のお寺にある「永代納骨合祀墓」に遺骨を預けることにした。父がその「永代納骨合祀墓」に納骨されるまでの間はわずかしかない。そこで父の故郷中津川を遺骨とともに訪問した。

朝から雨が降りしきる日、自動車で私と家内は父の遺骨を自動車に乗せて家を出た。
はじめに父の友人(故人)の墓所でお参り。そしてその方の家で奥さんに会って報告。
そのあとは、父の思い出の場所と思われるところを何ヵ所も巡った。

まず本家の墓所。祖父母をはじめ、先祖が入っている墓所だが、本家一家は遠方に転居したので、一番近くにいた私の父がときどき来ては、草取りをしていた。私も何度か同行したこともあるが、その墓所には父でも、本家の人でさえも誰のものか知らない古い墓標がいくつかある。そうなってしまうのを責めるつもりは毛頭なくて、むしろ当然であると私は思う。今年に入ってからは父も病床にあって、本家のお墓には来れなかったから、草も生え、枯れてしまったままになっている献花がわびしかった。

今回我家では初めての仏さんになるわけで、父親にとって「永代納骨合祀墓」は極めて不本意な居場所かもしれないが、時が経ってしまえば、このお墓のようになってしまうのは父もよく知っているはずだ。やはり自分の代だけ供養してあげればそれでよいと私は思った。

そのあと、その本家(父の生家)の跡地へ向かった。そこは飲食店の駐車場の一部になっていたので、家が建っていた跡地部分にしばらく車を停めた。

そして中津川駅。
画像
この駅舎の2階にかつて中津川車掌区があった。私も乗務で何度も来たことがある。規模が小さい車掌区だったので、私が往路の乗務列車で到着し折返し列車乗務の出勤印を押しに行くと、内勤の人はみんな私のことを知っていて「おう、親父はさっき明けで帰って行ったぞ。」とか声を掛けてくれた。逆にそのあと父が出勤すると「昨日、息子が来とったぞ。」と言われたそうな。

中津川駅も中津川車掌区も、現駅舎ができる前には個別の木造建物で、車掌区は駅舎より塩尻寄りの上りホーム沿いにあった。父親にとってはその場所の方がなじみがあろうから、その跡地へも行ってみた。
画像

このあたりだったはずだ。保線区など他の現業機関の木造建物がこのあたりには連なっていた。
すぐ近くに、国鉄の「物資部」(国鉄共済組合が職員向けの厚生事業のひとつとして営業していたスーパーマーケット)の建物がまだそのまま残されており、空家となってひっそりした建物には「国鉄共済組合」の文字が書かれたプレートも残されていた。
画像
もちろん今は営業していない。
画像
この「物資部」の建物は私が高校生のころ駅前再開発事業の一環で移転新築されたもので、それまでは駅舎の名古屋寄にあった。そこは貨物扱いの敷地であったが、その付近は今ではまったくそのころの面影はない。物資部ではDPEの取次もしていたので私も高校生の頃フィルムの現像やプリントの注文をしたことも数知れない。

次の訪問地は、一昨年から父母が入れ替わり入院した中津川市民病院。
画像

昨年、母の入院時に「病院鉄」ができたデイルームからの眺めは、この日は雨で霞んでいたし、成長した樹木で線路はほとんど隠れてしまい、もう「病院鉄」はできそうもなかった。
画像

最後に父本人が建てたものの、つい先日空家となった家に行った。
すでにここの後片付けは始めていたが、いつも父が寝そべってテレビを見ていた居間だけは片付けず、そのままにしておいたので、そのテレビの前に遺骨を置いた。
画像
父にとっては半年ぶりの帰宅になる。そこで2時間ほど過ごしたが、ここに来るのも父にとってはこれが最後だ。
このころには朝からの雨もやっと上がった。
待つ人のいない空家を、病魔に襲われなければ待っていてくれたはずの無言の人とともに、その場を後にした。

この記事へのコメント

  • 京阪快急3000

    しなの7号様 おはようございます。

    自分も昨年、両親が天国へ逝ってしまったので、お気持ちはよく解りますよ・・・。

    お父様が亡くなられて悲しまれるのは、至極当然の事だと思います。

    しなの7号様も、残されたお母様をどうぞ大切になさってくださいね・・・。(涙)
    2013年08月01日 06:52
  • しなの7号

    京阪快急3000様
    ありがとうございます。
    最近は湿っぽい記事ばかりですみませんです。
    しかし、自分としては最後に父との帰郷をした良い思い出になると思っています。
    2013年08月01日 07:45
  • なはっ子

    初めて書き込み致します。仕事でメキシコに来ておりますが毎日拝見しております。お父様はどんなに喜ばれたことでしょう。これからも永遠にご郷里から見守られることと存じます。
    2013年08月01日 12:45
  • しなの7号

    なはっ子様
    海外からご覧いただきありがとうございます。
    供養の仕方には様々なご意見があろうかと思いますが、自分としては、故人への感謝の気持ちをもって行動すれば、故人の思いどおりの供養の仕方でなくとも許してもらえると考えていますが、やはり生きているうちに感謝の気持ちは伝えるべきですね。
    2013年08月01日 16:28
  • C58364

    こんばんは。
    お父上はしなの7号様のやさしいお心遣いに、さぞやご満足されたと思います。
    ご親戚やご町内との当主としてのお付き合いも始まります。あわてず、まずはお身体お大切になさってください。

    車掌区>美濃太田車掌区は駅舎寄り側線の高山方面に、電気区や保線区と並んであった記憶です。現CTCセンター付近でしょうか。
    物資部>高校生の時に、国鉄職員の叔父を持つ同級生に連れられ、美濃太田物資部に数回行きましたが品数が多く活気もありました。物資部という木製看板に国鉄を感じましたね。駅から少し離れていました。
    2013年08月01日 19:44
  • しなの7号

    C58364様
    ありがとうございます。
    私も母も尾張人になってしまい、空家になった実家は、処分を検討中です。すっかり古くなった空家とその土地は、昨日相続による所有権移転登記をしてきましたが、登記簿で確認したところ新築年はDC181系しなの登場の翌年でした。耐用年数を過ぎており、今後の使用には耐えられそうもないのです。

    美濃太田は、実は私にはあまり縁がある地ではありませんでした。高山本線での乗務は専務車掌になるまでありませんでしたし、通過地点でした。そのため仕事で美濃太田車掌区も物資部も訪れる機会がありませんでした。
    しかし、国鉄駅の建築物やその配置は、どの駅でも相通じるところがありましたね。ターミナル駅では、多くの現況機関が立ち並んでいましたが、これらも徐々に総合庁舎のようなビルになっていきました。
    2013年08月01日 20:28
  • kayo

    こんばんは。
    お父様より半月ほど前に祖父をなくしましたので、いろいろなことが重なります。しなの7号さんの細やかなお心遣いをお父様もお喜びだと思います。
    中津川車掌区はとてもアットホームな雰囲気だったのですね。今の全国の車掌区でもそうであればと思いました。
    祖父は分骨することになりましたがひとつは私が381系(135号)に出会った天王寺駅に近いお寺で縁を感じています。
    暑さが厳しいですので、いろいろな手続きなどお疲れになると思います、どうぞご自愛くださいませ。
    2013年08月05日 22:25
  • しなの7号

    kayo様 おはようございます。
    お心遣いありがとうございます。
    kayo様のところもご不幸がありましたか。お悔やみ申し上げます。
    前にもブログで書いていますが、私の父方の祖父も鉄道員でした。早くに亡くなりましたので、その記憶すらあいまいです。
    約25年前に天王寺駅から歩いて四天王寺まで行ったことがあります。その時は381系ではなく103系で阪和線から降り立ちましたが、あのホームはくろしお号の原点みたいな場所です。大和路線との短絡線ができる直前のころでした。
    JR東海では、車掌区という組織は統合によってなくなってしまいましたが、職場でありながら執務は列車の中というのが乗務員区の特徴です。乗務から帰ったら車掌区が自分の家みないな感覚であることが理想ですね。
    2013年08月06日 06:25

この記事へのトラックバック

ブログ内ラベルリスト