先週の続きになります。
北長野からの回送列車は長野からは臨時急行「きそ52号」8812Mと名を変え、それほど多くない乗客を乗せて名古屋へ向けて発車したのでした。編成は往路のきそ51号と全く同じでした。
連休最終日午後に名古屋へ向けて運転される上り列車というのは、一般的には乗車効率がよいものです。この列車の乗客が少ない理由は、定期列車の特急が発車した直後に発車する臨時列車であり、知名度も低いからなのですが、あまりにも不人気なのには他にも理由がありました。その理由とは所要時間がかかる足の遅い列車ということでした。特に長野~塩尻間の遅さと言ったら往路の「きそ51号」にさらに輪をかけて遅く、異常としかいいようがなかったのです。
(写真は定期列車であり「臨時の「きそ52号」ではありません。)
「きそ52号」は長野を15時25分に発車すると、塩尻までの停車駅は篠ノ井、聖高原、明科、松本でした。ちなみに往路の「きそ51号」では、このうち聖高原、明科の2駅は通過でしたので2駅も停車駅が増えたことになります。
それでも停車駅の数と停車駅そのものは、急行ということを考えればまあ妥当でしょう。現行ダイヤでも、一部の特急しなの号で、この2駅に停車する列車があるくらいです。
しかし「きそ52号」では、これ以外に「隠れた停車駅」があったのでした。
なんと、上に記した駅以外に、この列車は塩尻までに、さらに4ヵ所で行違い待ちのためドアを開けない「運転停車」があったのでした。そのうち2ヵ所はスイッチバック式の停車場で、行違いのためには行ったり来たりしなければならないのです。この区間は単線区間が多く、険しい地形の関係上スイッチバック式の駅や信号場が当時は計4ヵ所もある難所でありました。(現在でも2ヵ所あります。)
こんなダイヤしか組めないのは臨時列車の泣き所で、決められたダイヤで走っている定期列車への影響を最小限にとどめながら、その隙間を縫うように走らなければならないので、時間がかかってしまうのは、やむを得ないわけです。
それは承知の上ではありますが、この「急行」はあまりに遅い。
塩尻を過ぎれば、いちおうスムーズに走っていくのですが、長野からの乗客の需要の多くは松本・塩尻までです。その区間をどのくらいの遅さで走るかと言えば、
長野発15:25→松本着17:07→塩尻17:32(松本まで102分・塩尻まで127分)
当時の時刻表で、その直前の特急しなの16号は…
長野発15:20→松本着16:15→塩尻16:27(松本まで55分・塩尻まで67分)
同じく当時の時刻表で、そのあとの普通列車は…
長野発16:12→松本着17:43→塩尻18:05(松本まで91分・塩尻まで113分 ※松本乗換)
現在の時刻表で同じ時間帯の特急しなの20号だと…
長野発16:00→松本着16:52→塩尻17:01(松本まで52分・塩尻まで61分)
同じく現在の時刻表で、そのあとの普通列車だと…
長野発16:03→松本着17:20→塩尻17:37(松本まで77分・塩尻まで94分)
この列車の名古屋までの所要時間も参考までにご覧いただくと・・・
長野発15:25→名古屋着20:30(名古屋まで5時間05分)
当時の時刻表で後続の特急しなの18号は…
長野発17:16→名古屋着20:39(名古屋まで3時間23分)
いかがでしょうか? 長野~松本・塩尻間に関しては、特急の2倍近い時間を要し、普通列車より時間を要す。しかも急行料金はしっかり取る。
こんな「急行」が許されるでしょうか?
夜行列車で時間調節のための長時間停車や、京阪間の新快速が特急よりも速いとかいう事例は当時からあったものの、長野~松本・塩尻間というのは、定期しなの号でも、時間帯によっては運転区間の中で最も乗車効率が高くなる列車が存在するほど優等列車の需要があった区間でした。それなのにこのありさまでは、当時の国鉄のダイヤ作成の責任者に文句を言いたい思いでした。仮にこの区間を「快速」にして急行券不要にしたとしても、許されないダイヤとさえ思います。「看板に偽りあり」の典型例と言わざるを得ません。
感覚として「遅いけど後続の特急に抜かれるわけじゃないから、急行でいいだろう」ということだったのでしょうか。
ただでさえ時は国鉄末期の国鉄ブーイングの嵐。これが当時の国鉄の意識そのものであったのかと言われても否定できないと思います。
往路同様、車掌長Iさんの、「車内は全部頼むわ。その間ドアも放送もやったるで。」という指示で、篠ノ井を出てから車内に入り、本務になって初めて持った「車内急行券」を、「自分では発売しなくもなかったのに」何枚か発売したのでした。
乗っていたのは、5分前に出たしなの16号に乗り遅れた人、たまたま駅に来たらこの列車があって乗った人。
意外に少ない乗客数だったのは救いでしたが、急行だから速いんだろうと「当然」思っているお客さんたちに急行券を発売したところまではいいのですが、
姨捨駅で「お急ぎのところ恐れ入ります。反対列車との行き違い待ちです。10分ほど停車します。ドアは開きません。」
西条駅で「4分」
潮沢信号場(現在は廃止)で「15分」
田沢駅でも「1分」
と、ドアも開かず乗り降りできない駅や信号場に次々停車していくと、さすがにお客さんもうんざりです。お叱りを受けるのは覚悟での車内巡回でした。
直接、「遅い急行だね」という人もおられれば、聞こえよがしに同行者と、「こんなの急行券取ったらいかんよねえ。普通より遅い!」という人もいる。
さすがに不良品として、このあとの国鉄最後のダイヤ改正(61.11)では多少改善されて、長野発が15分遅くなりました。同時に列車名が、下りは「きそ81号」上りは「きそ82号」と変わり、上下列車とも大垣発着に変更されたのでした。大垣電車区の車両でしたから、単に名古屋~大垣までの回送を客扱としたのでしょう。
とにかくこれが最後の「急行列車」の乗務になりました。
国鉄の急行列車はその後JR移行後も、主に特急化と快速化によって全国で減り続け、乗客として乗る機会さえほとんどなくなりました。また「急行型」ともいうべき4人ボックスシートがずらりと並んだの車両にもお目にかかる機会が少なくなってしまいました。

この記事へのコメント
京阪快急3000
当時の急行「きそ」って、こんなに(所要時間が)かかっていたのですね。
まったく「けしからん事だ」と思いました。
話は変わりますが、自分は先月から眼科の先生に診てもらった結果「メガネをかけた方が良いです」と言われました。
ですので、外出時やパソコンを使用する際はメガネをかける事が多くなりました。
C58364
昔、「臨時列車」の表示がある列車が入ってきたので「ラッキー!」と乗ろうとしたら、ドアを開かず発車してしまった「団体列車」がトラウマになっています。そのため今でも臨時列車には二の足を踏んでしまいます。
盆暮れの帰省時を除き、臨時列車の存在は旅慣れた客が持つ時刻表か、駅表示・案内で知るだけで一般客は利用しにくかったと思います。又、臨時列車の乗客は単線区間では待合わせ回数や長時間停車が多く、ジッと我慢の車内だったでしょうね。乗客は観念したように飲食料を用意して眠っていた記憶があります。
鉄子おばさん
しなの7号
私が子供のころ「きそ」は中央西線・篠ノ井線の主要急行列車として定期列車が何本も走っていたのですが、実際に乗務するころには、臨時しかなく、おまけに足の遅い困った列車に成り下がってしまいましたorz
パソコンで目は悪くなりますね。お気を付けください。私はもともと目が悪いので、裸眼視力が運転士の基準を満たさなかったので、、運転士になる途は最初から断たれていましたorz
>>C58364様
先頭字幕の「臨時」は、紛らわしい表現ですね。団体列車でも内部的には「臨時」に違いないのでしょうが、案内上は不適当で「団体専用」と表示すべきですね。多客期の臨時列車は、通路まで立ち客いっぱいの定期列車よりゆったり移動できますから、車両設備や車内販売などサービス面と所要時間に対して文句を言わなければ、快適な旅ができましたね。最近の多客期臨時列車は、ほんとうに混むピーク時ワンポイントでの運転になって、利用しにくくなってしまいましたが…
>>鉄子おばさん様
鉄道雑誌での急行列車の取材と言えば、夜行列車ばかりですね。昼行の急行は、長い間特急の補完的役割であったことに理由があったと思いますが、臨時となると一層少ないでしょう。
思い当たるのが、まだ子供のころ鉄道ジャーナル誌で読んだ「急行アルペン」の追跡記事です。大阪~名古屋~長野~直江津~金沢~大阪と一周+αを20時間以上かけて走る臨時列車でした。このときの車掌乗務行路がどのようなものだったかは書かれていませんでしたが、今でもどうだったのか気になります。
私は「きたぐに」には「あけぼの」とセットで乗ろうと計画していましたが実行できませんでした。「砂丘」は珍車キロハ28に乗車しましたが、冷房エンジンの音で車内放送も聞き取れないような悲惨な状況でした。
和車
しなの7号
紀勢本線新宮以西の電化が53.10ですからDF50牽引の「きのくに」と言えば、それより前のことですね。紀勢本線と中央本線とは、ともに行楽シーズンに乗客数の増加率が多い路線ということで、似通った性格があります。その結果として両路線とも臨時列車が多く運転されます。381系が導入されたことも似ていますね。
そういえば12系の臨時きのくに号では阪和線EF52のお別れ運転が行われたことがありました。
★乗り物酔いした元車掌
なかなか、コメントをさせていただけませんが
必ず、拝読させていただいております。
そう言った意味では、月曜、木曜は楽しみです。
車掌長の「Iさん」ダレだろう?
あの当時の人で、この頭文字の人は、、、、
なんて、勝手に思いを巡らせています。
コメントが出来なくて申し訳ありませんが、
楽しみにしていますこと、報告をいたします。
しなの7号
さあI車掌長は誰でしょう?
ところで、よく考えればIさんには遅い急行でお客さんから文句言われることがわかっていたから、「車内は全部頼むわ。」となったのかも…
神電運転士
165系臨時急行のブログを見てコメントさせていただきます。
私も何度か臨時列車を担当した記憶があり、家に保管してある乗務日誌を確認したところ、昭和60年11月24日の8812Mに中津川から名古屋まで乗務していました。
知らない間に前と後で仕事してました。
他のブログも懐かしく拝見させていただいております。
しなの7号
ご覧いただきありがとうございました。
そうでしたか。今さらではありますが、お世話になりました。中央西線にはよく乗務していましたので、おそらくこの時以外にも何度か前後でご一緒したでありましょうし、あるいは高蔵寺着発の回送列車では一緒に前部に乗せていただいたこともあったかもしれません。あのころは、夜入区する列車だと駅から神電庁舎前までそのまま乗せていただき、停めていただくのが日常になっていました。庁舎前を通るとあのころのことが甦ります。
しげぞう@
また宜しくお願い致します_(._.)_
しなの7号
ダイヤ担当者も、できないことをやれと言われて作った不本意な作品だったのでしょうね。
潮沢信号場廃止に続き、冠着~姨捨間にあった羽尾信号場も近年廃止されていますので、ダイヤ作成には無理が出てきていると思います。
事実、スイッチバック区間で行違いできなくなる障害が起きているようです。
「篠ノ井線 デッドロック」で検索すると、どういうことかわかるサイトに行けると思います
しげぞう@
しなの7号
ギアには適切な「遊び」があって初めてスムーズに回転するのですから。
余裕≠無駄