【425】 思い出の乗務列車33:東海道本線 荷41列車(4):荷物・新聞・官報・雑誌

荷41列車の4回目になります。
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この画像はマニの荷物室内ですが、荷41列車での撮影とは違います。このように少ない荷物で全区間走ってくれれば、乗務員は一人でももったいないほどですが、いつもこうして写真を撮っていられるほど余裕があったわけではありません。写真から当時の荷物には必ずヒモがかけられていたのがわかります。手鉤を使って仕訳をしましたから、手鉤の先をヒモに引っ掛けて作業をしたのです。手鉤については、ブログ記事「【213】荷扱乗務員の必需品」をごらんください。
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荷物にかけられたヒモには「荷物切符」も括り付けられていました。(特別扱新聞雑誌を除く)
「荷物切符」行先、運賃などが旅客の切符と同様に記載されていたのです。

荷物車の車掌室内の雰囲気は過去記事「【211】 荷物列車とお茶菓子」で紹介していますので、よろしければご覧ください。
荷41列車では名古屋で買った駅弁を車掌室内で食べました。時間的には8時ごろ、岐阜での積卸を終えた後くらいが食べ時でした。車掌区で沸かしてポットに入れて持ってきたお湯も、このときのお茶に使いました。
この列車は通過駅が多い割に停車時間が長めで、名古屋から大阪までを日中5時間以上もかかって運転されていました。当時の大型時刻表には、荷物列車の時刻も載っていまして、それによれば首都圏対九州の荷物列車は下りで6本設定されており、そのうち荷41列車だけが急行ではありませんでした。
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(画像は日本国有鉄道時刻表(1978年4月号)の該当部分を転載したもの)
東海道本線の荷物列車に関して言えば、急行ではない荷41列車が後続の急行荷物列車に追い越されるわけでもないので、急送品を他の急行荷物列車に優先的に積むということでもありませんでした。東海道本線筋の荷物専用列車から通過する末端駅への荷物は、拠点駅で普通列車に併結したクモニやクモユニ、または代行輸送のトラックに中継される輸送形態でした。

停車駅の数だけでいえば、この時刻表を見る限りでは、荷41列車も他の急行荷物列車と比較して遜色はなかったようにも思われますが、始発駅の汐留から主に静岡県内着の朝刊輸送の使命があったことから、静岡県内の富士~金谷間では各駅に停車したりしてきていました。これも荷41列車が急行ではない理由の一つだったのかもしれません。

夜に汐留を発車する荷41列車では、前述の静岡県内の朝刊は別の車両(南東荷5)で担当していましたが、南東荷9に汐留で積載されるのは豊橋以西へ輸送する新聞雑誌と官報でした。汐留から西日本各地に配送されるもので、これら新聞は時間的に見て一般家庭に配達される朝刊ではないと思われ、業界紙や週刊紙だったのか、実はあまり注意しておりませんでしたので私ははっきり知りません。
雑誌は週刊誌が多く、発行部数が多い少年ジャンプ・サンデー・マガジンなどが目立ちました。透明ビニールに何冊も重ねて包まれていましたので、表紙だけは店頭に並ぶ前に見ることができ、翌日書店に立ち寄ると、見覚えがある真新しい雑誌が店頭に並んでいるということになります。地方へ行くと週刊誌の発売が遅れることは、この仕事をしていれば納得できることでした。
そして今、遠隔地からの宅配便の荷物が翌日にあたりまえに届いたり、荷物の追跡が普通にできることに、驚きもするのです。それに官報は、現在ネット上で閲覧できるようになっています。まさに隔世の感がします。
このころ官報は大蔵省印刷局から列車輸送で全国へ配送されていました。小口のものは、きっと郵送だったのでしょう。荷物車に積載されていた官報は主要駅着のものが多く、ある程度まとまった部数を束ねて、斜めの赤い縞模様の紙に包まれ、その上に行先駅の駅名が大きな字で印刷された紙が貼られていました。
当時の資料を見ると、汐留から荷41列車の南東荷9に定期的に積載される官報は176個(包の数)で、行先は豊橋以西、西鹿児島にまで及んでいました。もちろん途中駅からの分岐線への中継分があり、豊橋卸しの分には飯田線(豊川、牛久保、新城着)、米原からの分には北陸本線と近江鉄道(長浜、敦賀、武生、八日市)、京都からの分には山陰本線方面(綾部、福知山、八鹿、鳥取、米子、松江、西舞鶴、東舞鶴、宮津)が含まれていました。日曜日の夜汐留を出る列車では官報の発送がなく、仕事が楽でした。

荷物室内での作業は、大きな段ボール箱に梱包された一般荷物やフトン袋のような大物は1つ片付ければ、仕事が確実にはかどっていく気がするのですが、官報や雑誌は一般荷物や新聞に比べて小さい(B5サイズ)ので、いくら手を動かしていても積み込まれた官報の包みの山は小さくならず、仕事がはかどっている感じがしなかったものです。
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荷41列車のように、駅での停車時間が多く停車駅が少ない列車は仕事に余裕があり体も楽でした。京都の積卸をしたあと、大阪で卸す荷物を荷物室扉のそばに固めておいて、大阪で乗り継ぐ糸崎車掌区の乗務員に引き継げる状態にするところまでの仕事を京都停車中に完了できれば、早々と作業着から着替えて、大阪で下車できる体制にすることができました。
しかもこの列車が大阪に昼過ぎに着いた後乗務員は、翌日の早朝まで有り余るほどの折り返し間合い時間がありました。新人にとっては、乗務中は仕事面で同乗の先輩たちにあまり迷惑をかけず、出先では勉強できる時間もありましたから、適した行路であったと思います。そして慣れれば、その折り返し時間を利用して出かけることも可能でしたので、貴重な行路でした。

次週は、その折り返し時間のことを書いてみようと思います。

この記事へのコメント

  • C58364

    おはようございます。
    車内がカラッポよりも、これくらい荷を積んでいたほうが様子がよくわかります。貴重ですね。
    高校生の時に父に頼まれて最寄駅へダンボール箱入りの荷物を持っていったら「もっとじょうぶな縄でしばるように、行方がわかるように荷札も付けるように」と言われました。縄も荷札もどこに売っているか分からず困っていたら、父を知っている駅員さんがおられて駅の中を探してきて渡していただきました。切符売場以外に大きな小荷物窓口と大きな秤があり、通票閉塞の時代で多くの駅員さんがおられましたね。
    荷物が少し大きいからか、駅へ行く時に乗った濃飛バスの車掌さんに「手荷物で有料ではないかな?}と言われドキッとしましたが無料で済みました。
    高校生になり大きな本屋さんに行くようになって、私の田舎では週刊誌・月刊誌が店頭に並ぶのは遅いと気づきました。多分、岐阜か美濃太田の問屋さんからトラック便だったと思います。
    2013年10月28日 07:25
  • しなの7号

    C58364様 おはようございます。
    補足すると、駅で投げ込まれた荷物は通路を空けて両側に、停車駅(中継駅)ごとに固めて積み付けました。
    一般の家庭から荷物を託送することは郵便物のように頻繁にはなかったと思いますが、C58364様は貴重な経験をされ、それをよく記憶しておられますね。荷札はKIOSKがあれば、売っていたようですが、荷物切符はそれとは別に駅でくくりつける「切符」でした。
    一般に田舎駅から出る荷物は重く頑丈に縛ってありました。都会からでる荷物は大きくて軽い傾向がありました。原料と加工品の差だと思います。
    雑誌は新聞より着駅が限られていたので、問屋所在地の駅から末端の書店への輸送はおっしゃるようにトラック輸送だったと思われます。
    2013年10月28日 09:05
  • C58364

    貴重な経験を・・>以前に到着小荷物の受領についてコメントさせていただいたと思いますが、父は忙しくて駅まで行くのが無理だし高校通学用の定期券を使える私は便利に使われていたのです。高校から高山線とバスを乗り継ぎやっと帰って来たら「到着荷物の案内書が届いたが留め置き期限の関係で今日受け取ってきてくれ」とか、日曜日にくつろいでいると「今日この荷物を出してきてくれ」とよく使われました。
    近くの郵便局で重すぎたりサイズが大きくて小包として出せないと、国鉄小荷物として出したようです。多分中身は農産物だったと思います。母に文句を言うことはできますが父には逆らえずシブシブ出かけました。小包として出せないので重かったはずですが記憶にはありません。そしてせっかく駅へ行くので蒸機撮影の絶好のチャンスですがカメラを持っていくことはありませんでした。バスも発車時刻には多方面へ5~6台も集まってきており撮影していれば貴重なものとなったでしょうね。
    荷札のことを父も一般にも「エフ」と呼んでましたが、検索したら「絵符」であり荷物識別用に使われ、「荷札」と違うようで勘違いとわかりました。
    2013年10月28日 16:25
  • しなの7号

    C58364様
    通学定期で荷物運送というわけですね。
    私の家では、農業もなくて託送する荷物とは無縁でした。小駅では駅留しか扱っておらず、C58364様のように留め置き期限までに駅まで受け取りに行く必要がありましたね。配達荷物は大駅から日通とかの通運業者が受託していましたが、配達にするとけっこう割高でした。国鉄・民営バス路線とも小荷物の運送をしている路線もありました。
    「エフ」には荷札が含まれるという解釈でよろしいかと思いますが、針金のついた紙の札はエフっていいますね。白紙の「エフ」も荷札として使われていました。荷札専用のエフ?は住所欄や氏名欄が印刷してあったように思います。
    荷札≠荷物切符です。
    2013年10月28日 20:31
  • TOKYO WEST

    荷物輸送の話題が続きましたので、国鉄の通信教育教科書「荷物実務」を改めて読んでみました。自分自身の関心度・知識量も旅客9、荷物0.7、貨物0.3といった感じでしたし、営業係等登用試験や車掌見習採用試験の科目免除のための受講で、荷物に関しては実務経験もありませんが、お話の内容と教科書の記述を読んでかつての国鉄荷物営業の様子を垣間見る感じがいたしました。
    私の先輩で新宿駅運輸係(小荷物)の経験者がいましたが、ホームの運輸係とは異なり、全国の駅名を覚えなければならず、誤った仕分けをして営業係の先輩によく怒鳴られたというのを思い出しました。
    2013年10月29日 17:08
  • しなの7号

    TOKYO WEST様 こんばんは。
    私は列車掛の試験科目免除のための勉強しかしていませんので、通信教育は「鉄道一般」「運転法規(信操車)」しか受講していません(^_^;)
    その教科書も廃棄してしまい、「荷物実務」の教科書は見たこともありません。手持ちの実務資料と記憶だけで書いていますし、就職当初の仕事であり、古い話ですから間違いもあろうかと思います。仕事の内容はあまり知られていない部分かと思いますので、記憶と記録は残したいと思います。今後もしばらく東海道の荷物列車がらみの記事を続けますが、おつきあい願えましたらと思います。東海道筋の列車では首都圏以北の仕分けは難しかったです。いずれ本文で触れるつもりですが、汐留と隅田川の2つのターミナルがあることによります。駅と違い、乗務員の場合は車両ごと、又は列車ごとに積載方が異なるので、乗務の度に扱う荷物の種類や行先が違っているのが特異性かと思います。
    2013年10月29日 22:01
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★「鉄道一般」「旅客実務」「荷物実務」
    「貨物実務」「運転法規」
    いずれも懐かしい響きです。
    その他「庶務経理」とか「連動図表」
    なんかがありましたよね。
    そう「鉄道公用文」とか。

    通信教育、ボクも少しだけかじりましたが、
    いずれも修了しないままでした。

    そんなボクが、とあることがきっかけで、
    9年間、運転関係規定の教鞭をふるいました。
    懐かしい思い出です。
    2013年10月30日 21:28
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様
    通信教育は「鉄一」「運法」などと略称がありました。
    明日の更新では中部鉄道学園に関係した話を予定していますので、お楽しみに???
    2013年10月30日 21:41
  • サンダーバード46号

    はじめまして、いつも楽しく拝見しております。
    私の幼少の頃(昭和40年代後半になりますが)、母親の実家が長崎県の島原で、夏休みには毎年帰省しておりました。
    当時は、自宅最寄の大阪環状線玉造駅でも小荷物を扱っており、まだ宅急便の無かった時代なので、出発前日に玉造駅の荷物窓口に、親と一緒に手荷物を持ち込んだ事を思い出します。数日後、島原鉄道の某駅から荷物が着いた旨連絡が有り、引き取りにいきました。当時は、まだ新幹線が岡山までだったので、往路は座席の夜行急行(多分、雲仙号かと)、復路は特急かもめ号で、大阪駅に夜遅くの到着でした。
    この一連の体験が、私が鉄道趣味の世界に入るきっかけとなったと思います。
    その後高校卒業後は、国鉄に入社しようと思っていましたが、当時は分割民営化の最中で、学卒の新規採用が凍結されていたので、止む無く別の世界に進みました。
    しなの7号様のブログを拝読していると、もし自分が国鉄に入社し乗務員になっていたら、こんな仕事の流れか・・・と読み入ってしまいます。これからも、楽しいお話を期待しております。
    2013年10月30日 23:37
  • しなの7号

    サンダーバード46号様
    はじめまして。
    手荷物の託送と長距離列車のご体験談ありがとうございます。私は幼少時に長距離列車に乗車したことはなく、午後の名古屋駅の中央西線のホームの隣、東海道本線ホームから出ていく雲仙号は羨望の列車の一つでした。座席車だけでなく寝台車や食堂車まで連結した編成はいつも見る中央西線の普通列車とは違って輝いて見えました。
    私の場合は国鉄に入ることはできましたが、凋落期でしたので目標とすべき列車が廃止縮小の嵐の中で、寝台電車金星が、カレチになる1年半前に廃止されたのは堪えました。

    荷物列車という一般に馴染みの薄い仕事についての内容が続きますが、よろしくお願いいたします。
    2013年10月31日 08:46
  • 旧客好き

    はじめまして、しなの7号様、旧客好きです。よろしくお願いいたします。
    以前、荷物列車の編成を調べていたときにこちらを発見しました。それから、過去のものも含め、拝見させていただいています。
    鉄道員側から見た内容を、いつも楽しみにしています。

    今回のを読ませていただき、高校生のころ汐留で荷物の積み降ろしのアルバイトをしていたときのことを懐かしく思い出し、失礼ながらコメントさせていただきました。

    今からちょうど30年前、やはり鉄道好きの友達から「汐留のアルバイトがある」と誘われ、何日か泊まりで働きました。拘束時間が長く、重労働だったので大変でした。しなの7号様がおっしゃっている通り、雑誌は発売日の3~4日間に届き、ジャンプなんかは木曜日くらいに届いてました。5~6冊ひとまとめのものが大量にあり、手鉤で引っ掛けて運んでも運んでもなくならない感じで、しまいには手が上がらなくなって、さりげなく後ろに下がって休憩したものです。確かこの荷物にはビニールの下に行き先を書いた紙があったんですが、行き先が思い出せません。ただ覚えているのは、遠くに行くので発売日に合わせて木曜日に来るんだなと当時思いました。でもこれでも発売日に間に合ってなかったんですね。
    漫画の作者はもっと早い時期に書き上げているのだろうと人事ながら大変だと思ったものです。

    いくつもの荷物列車で積み降ろしをしたので、この運び込んだ列車が荷41だったかどうかわかりませんが、とても大変だったことを思い出しました。

    長文失礼しました。
    2013年11月01日 22:30
  • しなの7号

    旧客好き様 はじめまして。
    一般には馴染みが薄い荷物列車に、アルバイトという形で関わっておられた方にご覧いただくとは想定していませんでしたのでうれしく思います。

    荷41列車で扱った雑誌に関しては行先の記憶も記録もないのですが、おっしゃるように新聞雑誌は荷物切符も荷札もなく、雑誌は透明ビニールごしに着駅名や中継駅などが書かれた紙片が入っているものが主流でしたね。手鉤でひっくり返してその駅名を見ては仕分ける作業の繰り返しでした。30年前ですと、すでに荷41列車は急行化されて荷2031列車になったあとだと思います。

    先日、汐留の跡地に立ち寄ってみました。上京のたびに新幹線の車窓から様子を見ていましたので、変貌ぶりに驚きはしませんが、自分自身が見知らぬ街に迷い込んだようでした。この場所に一大物流拠点があったことを信じろと言っても、知っている者以外には無理な気がするほどです。

    荷物列車乗務員時代には、仕事が車両単位であったことと、持ち場である職場(車両)を離れることはしにくかったこと、チームによる仕事であったこと、さらに鉄分の濃度?の関係などもあって、乗務車両を控えた時期はありましたが、編成単位の車両の形式番号の記録を取っていませんでした。お調べになっているような編成内容の資料は所持していませんので、悪しからずご了承願います。
    2013年11月02日 06:10
  • ヒデヨシ

    年末の荷が多くなるときは臨時の荷物列車も含め窓から向こう側が見えなくなるほど積み込まれているのもよく出会いました
    こういう状況があるからこそ乗務員扉は引戸に改造されたんですね
    2014年01月03日 10:50
  • しなの7号

    oga_bonin様
    コメントをいただき、ご紹介いただいたた交通部臺灣鐵路管理局のHPを見たのですが、翻訳後も?の部分が多くて、そのままになってしまいました。すみません。台湾ではまだ荷扱の仕事があるのでしょうね。ご教示ありがとうございました。
    2014年01月03日 11:39
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 
    荷物車は開き戸は不適当ですね。自分も乗務してみるまで、両端の扉は乗用旧客のように開き戸だと思っていました。
    2014年01月03日 11:43
  • しげぞう@

    しなの7号様 こんばんは。ゆっくり拝読させていただいてます_(._.)_荷物といえば、父方の実家の原野から、とうもろこしを送ってもらってました。当時は最寄り駅(名鉄佐屋駅)から荷物到着の電話があり、駅まで受け取りに行ったことを覚えています。さて、このような場合、荷物はどの経路を辿ってきたのでしょうか?弥富継走と考えるのが妥当でしょうか?
    しかし、その荷物もいつか宅配便に変わり、原野駅も無人駅になり、荷物扱いも無くなりました。時代の流れを感じる思い出です。
    これからも宜しくお願い致します_(._.)_
    2015年12月15日 02:22
  • しなの7号

    しげぞう@様 こんにちは。
    中央西線原野→名鉄尾西線佐屋の手小荷物の輸送経路は尾張一宮経由ですね。関西本線の名古屋発時点では、名鉄尾西線着荷物は積載範囲に含まれず、東海道下りの積載範囲に含まれ尾張一宮で中継とされています。それが熱田の荷物基地が全面稼働するようになると、いったん熱田を経由するようになって、私はその直後に荷物の仕事から足を洗いましたし、荷物基地による集約化とトラック代行輸送化推進で規定は朝令暮改のごとく変わっていきましたので、その後のことはわかりません。名古屋~尾張一宮はトラック代行便の時代もあったはずですが、それより前に原野の荷物扱いが廃止されていたかもしれません。弥富での国鉄対名鉄との荷物中継業務がなかったわけではなく、大雑把にいうと関西本線内及びそれより南の地域対名鉄尾西線内相互間だけに限定して行われているように資料からは読み取れます。
    2015年12月15日 11:09
  • しげぞう@

    しなの7号様 こんにちは。大変詳しいご回答と解説、ありがとうございました_(._.)_なんと、尾張一宮継走だったとは驚きです。まさか、名古屋ではとも思った事も有りましたが、色々ブログを拝読するうちに、なんとなくルールが解りかけてきました(笑)原野駅は、調べたら昭和59年10月に無人化されたようですし、恐らく、825、836列車が電車化された頃に荷物扱いも廃止になっていると思われます。荷物輸送の合理化と宅配事業の急速な発達により、鉄道荷物(郵便も)輸送が廃止になっていったわけですが、もう一度、あの頃の輸送体系をじっくり観察してみたいと思ったりします。また宜しくお願い致します_(._.)_
    2015年12月15日 16:39
  • しなの7号

    しげぞう@様 こんにちは。
    荷物輸送末期の状況は、手許に資料がないばかりか、知識もありません。原野駅が無人化されたという昭和59年は、私は特急しなの号にも乗務するようになっていましたから、旅客扱のことを覚えなければならない時期で、人の仕事、それも業託になって縮小する荷物輸送には、まったく興味が湧きませんでした(*_*)
    2015年12月15日 17:00
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    【423】(3)に引き続き、コメントさせていただきます。
    南東荷9が大阪駅で乗務を交替したのが、糸崎車掌区とのことですが、読むまでは大阪車掌区ではないかと想像していました。と、申しますのが、荷41列車の郵便車乗務員は、大阪駅で名古屋鉄道郵便局から大阪鉄道郵便局に交替し、糸崎まで乗務して交替しました。糸崎車掌区はおそらく糸崎で交替するかと思われ、大阪~糸崎という乗務区間が荷物車も郵便車も同じというのはすごい偶然です。
    2020年08月10日 00:56
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    今では糸崎駅の存在は薄いですが、鉄道の歴史から言えば結節点でありましたから、鉄道現業機関と同様に鉄道郵便でも拠点となったのでしょう。
    2020年08月10日 20:22
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    当時の糸崎は駅に隣接して機関区があり、郵便車乗務員の交替だけでなく広島鉄道郵便局の分局があり、広島県東部の拠点でした。昔は機関車交換で列車が長く停まり、ホームに売店、そば屋、洗面台などがあったと聞きました。10年前に訪ねると電留線に機関区当時の面影がありましたが、ホームに設備はなく駅は無人時間帯でした。現在は出札も廃止され、山陽本線に無人駅が少なからずあるようです。
    荷物列車で郵便車が最後部のとき車掌室で休憩したことがありますが、東海道、山陽本線はほとんどの駅で駅員がホームの通過監視をしていたのを記憶しています。
    2020年08月10日 21:13
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    山陽本線のうち糸崎あたりは、夜行列車で通過してしまいがちだったので、構内をはじめ沿線の様子が自分の中でイメージできません。「金星」は上下とも糸崎に運転士交代のために停車していましたが、それも乗務することなく廃止されました。
    全国的に駅の運転取扱業務が続々と廃止されたのは国鉄末期で、61.11までに列車無線の完備とともに大多数の駅で列車監視が行われなくなりました。
    2020年08月11日 20:17

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