【418】 思い出の乗務列車30:東海道本線 荷41列車(1):その編成など

私が昭和51年4月に国鉄へ就職して「乗務掛(荷扱)」の職名で最初に見習乗務したのが東海道本線の荷41列車のうち名古屋~大阪間でした。荷41列車は汐留貨物駅を前夜に出て、私が乗り込む名古屋へは早朝6:58に到着する荷物専用列車でした。
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画像は留置中の荷物車で、荷41列車ではないですが、このような車両が連なった列車でした。
名古屋までの乗務については「【103】乗務中見えるもの」で、以前に少し書いたことがありますが、今回は名古屋で乗り継いだ後のことになります。
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この行路の往路の乗務列車が荷41列車なのでした。列車自体は大阪から先、九州の東小倉まで運転される荷物専用列車でしたが、私どもの乗務範囲は当時大阪までで、編成は以下のようなものでした。
(名古屋発時点・昭和50年3月ダイヤ改正時))

荷41列車 運転区間  汐留~東小倉
EF58(浜松)
マ ニ    名荷6  名古屋~岐阜
マ ニ    名荷5  名古屋~岐阜
マ ニ    南東荷5 汐留~岡山
マ ニ    岡荷1   汐留~岡山
ワ キ    広荷204  汐留~広島 
マ ニ    広荷2   汐留~広島
ワサフ    南東荷203 汐留~東小倉 
マ ニ    南東荷9 汐留~東小倉
オ ユ    門郵6   汐留~東小倉
ス ユ    南東郵301 汐留~東小倉
ス ユ    南東郵302 汐留~東小倉
マ ニ    門荷4   汐留~東小倉
マ ニ    門荷5   汐留~東小倉

この列車は、汐留から名古屋までは、機関車の直後にこの編成表にない名古屋止りの2両の荷物車を連結していました。これを切り離したあとに、名古屋で岐阜までマニ2両(名荷6+名荷5 いずれも回送)を連結し、汐留~岐阜間は13両編成。EF58が牽引する堂々たる長編成の列車でしたが、薄汚れた荷物車群はマニは茶、オユは青、パレット車は銀と外装の統一感はなく、一般に人を惹きつける列車とは言えませんでした。
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荷物車と郵便車の運用番のうち、パレット輸送に係る運用の付番は、この表から想像する限り、荷物車が「○荷200番台」で、郵便車が「○郵300番台」に決められていたようです。

この列車は大阪でも連結があり、以西の途中駅では切り離しがありましたが、記載した編成は名古屋発時点から大阪着時点までの関係分だけですのでご承知の上ご覧ください。

多くの長距離荷物専用列車は、このように1両単位で運用される車両を一つの列車にまとめる形で運転され、主要駅で解結を繰り返していました。列車から途中駅で切り離されたり、または荷物専用列車の終点に到着後も、その先の別の専用列車や旅客列車に併結の形で継承されて運転される運用も多くありました。

たとえば、この列車では東小倉到着後に、「南東荷203ワサフ」と「南東荷9マニ」が大分、「門荷4マニ」は鳥栖、「門荷5マニ」は佐賀といったように最終の行先が九州各線に分散していました。

8行路の私が乗務を指定されたのは、大分まで行く「南東荷9マニ」でした。「南東荷」は「なんとうか」と読みました。東京南鉄道管理局の運用車両ということで、この車両は汐留客貨車区所属でした。所属表記は「南トメ」。汐留客貨車区所属のマニは長距離運用が多いためか、全般に薄汚れた車両が多かったように感じましたが、マニ36の配置が多く、TR11装備の鋼体化客車であるマニ60に当たる比率が比較的少なく、振動の面ではありがたい所属区でした。
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画像上がマニ60、下がマニ36。
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左がマニ36、右はマニ60。
丸妻で、リベットがあったりするマニ36に対し、切妻のマニ60の車体は近代的ですが、マニ60は鋼体化客車と言って旧式の木造客車の台車台枠等の再利用をして製作されているので、走行性能は一見古臭いマニ36の方が安定していました。振動の多少は、乗り心地はもちろんですが、荷崩れによる荷傷みの原因にもなりました。特に東海道本線を高速(時速95キロ)で走る荷物列車では、その差は歴然としていました。

後日この列車の乗務にまつわるお話を続けることにします。

この記事へのコメント

  • 北恵那デ2

    おはようございます。機関車の牽く列車という絶滅危惧種は、趣味的に最高位であると勝手に思っております。機関車がEF58なんてこれまた最高!さらになぜか人が乗れない荷物車・郵便車にやたら惹かれるわけです。それに乗ることができたお仕事なんてあこがれでした。もちろん荷物車のおいて鉄格子の窓の向こうに乗ってるおじさんに対してですよ(笑)。
    2013年10月07日 07:48
  • C58364

    おはようございます。
    EF58に牽かれた13両編成の荷41列車は見ごたえがあったでしょうね。高校生の時に乗ったオハ61のTR11台車と、高山線では貴重なオハ35が履いていたTR23では乗り心地は雲泥の差でしたね。レールのジョイント音も軽やかでした。
    パレット車がこの頃には既に4両もいますが、私はパレット荷物車と貨車の違いが分かりません。
    名古屋で塩留からの2両を開放し岐阜までの2両を連結する>
    高山線の岐阜口では、かっては合造客車(オハニ30・スハユ30・オハニ61等)や気動車(キハユニ26・キユニ16・キユニ17・キユニ26・キニ26・キユニ28・キニ58)が運用されていました。1976年当時は1968年新製のキユニ17と、前年に四国から来たキユニ26が使われていました。私は車種や運用だけに興味があったので、岐阜駅での荷物の発着に着いて全く知りません。今思えば岐阜駅西側ホームにテルハがあった気もするので、岐阜駅西側付近に荷物ホームがあったのでしょうか。岐阜駅の荷物扱いでご存知のことや思い出がございましたらご教示をお願いします。
    2013年10月07日 08:52
  • しなの7号

    >>北恵那デ2様 おはようございます。
    機関車も乗客として乗ることができない車両ですが、国鉄時代は運転席に座らせてくれたりして、聖域でありながら親しみのある世界だったと思います。荷物車に乗りたいと言われたことはさすがになかったですが、大切な荷物が満載されてますから、お断りせざるをえなかったかもしれません。まあ、鉄格子の中の囚人みたいな雰囲気に、誰もが近寄り難かった車両とも言えますね。

    >>C58364様 おはようございます。
    パレット輸送は昭和50年初期には、すでに拡大されつつありました。ワキやワサフは荷貨共用という考えかたで時速95キロ暖房設備付きと客車の規格を満たした貨車と言えましょう。実態としては荷物輸送専用で、私は貨物で使用されたワキ8000を見たことがありません。
    荷扱時代に岐阜に行くような行路がありませんでしたので、実際のことは知りませんが、おっしゃるように駅舎の西方(高山本線ホームの反対側)に短い行き止まりホームがあったと思いますが、そのあたりが荷物扱いの拠点だったと考えます。
    すでにDC化されていた高山本線と東海道本線相互間の荷物は必ず岐阜で積み替えが必要なわけですが、東海道本線と関西本線相互間は直通運用の荷物車が遅くまでありました。本文中にある名古屋切り離しの2両中1両が、それでした。
    2013年10月07日 10:22
  • 突放職人

    ご無沙汰です。荷物列車のネタは非常に興味があります。資料もなかなか手に入らない状態ですが模型の世界では現役です。この前たまたま購入した生まれた時の時刻表を見たら荷物列車の時刻が乗っていて驚き!色々な過去の話楽しみにしています
    2013年10月07日 14:47
  • C58364

    荷物車に使うワキやワサフなら暖房設備があるのですぐ分かりますよね。ご教示ありがとうございました。
    国鉄時代の客車・荷物・貨物列車の車掌をご経験され、しかも東海地方にお住まいのしなの7号様でも高山線関係については、やはりあまりご存知ではないのですね。高山線関係のお仕事が少なかったことが影響しているのでしょうか。
    以前にコメントしているかも分かりませんが、国鉄時代の高山線某駅の側線に停車中のDD51牽引貨物を弟と二人で撮影していて、気づいた機関士さんが運転室に乗せてくれたことがあります。駅員さんや対向列車の運転士さんに気づかれないように背を低くして、乗って説明を聞いていた数分は天にも昇る気持ちでした。しなの7号様がご就職される少し前だったと思います。
    2013年10月07日 15:43
  • しなの7号

    >>突放職人様
    こんばんは。
    荷物列車を知る方はそんなにいらっしゃらないのか、ネット上でも情報は比較的少ないように思います。やはり模型化の際に必要な情報をお探しの方が多いように感じますので、興味の対象は車両や編成関係になろうと思います。ご期待に添えないかもしれませんが、一段と情報量の少ない規則規定関係や、仕事上でのエピソードなども掘り起こしていきたいと思っていますが、今後ともよろしくお願いします。

    >>C58364様
    こんばんは。
    私の書き方が足りませんでしたが、ワキの場合は「暖房引き通しの設備」になりますね。ワサフの乗務員室にはコキフのようなストーブはなく、ちゃんと客車並みの暖房設備がありました。

    私は高山本線には疎いです。岐阜県人でありましたが、住んでいた東濃地方は、県庁所在地岐阜より名古屋との結びつきが圧倒的に強いですから、岐阜や高山本線にはまったく縁が薄いです。乗務範囲にしても、3年足らずの専務車掌時代以外は高山本線は乗務範囲に入っておらず、専務車掌時代も、長距離乗務をする機会は中央西線のしなの7号と18号がほとんどでした。
    昭和54年ごろ自動車での撮り鉄で高山本線には何回か訪問したころが一番の高山本線との付き合いだった気がします。これで地形がわかり、専務車掌になってからの数少ない高山本線乗務の際に役立ちました。
    2013年10月07日 18:27
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★荷物列車。
    ボクが覚えているのは、名駅の1番線とか3番線で
    ターレットにひかれた台車が
    ホームを走っている姿くらいですね。
    当時、名駅の1番線は、
    旅客列車が到着することが無く、
    荷物列車とか、臨時列車に使用されていた気がします。
    そう、1番線と3番線の間に
    ホームのない線路がありました。
    2番線が存在しなかったのは、
    そのホームのない線路を
    関係者の間では2番線としていたのでしょう。

    高山線に乗務していた頃は
    既に気動車になってまして、
    荷物専用列車は高山奥だけでした。
    高山から荷物列車として出発、
    猪谷から旅客列車になっていた気がします。
    キユニです。

    それから、岐阜発朝一番の列車は、
    2両編成のうち、1両がキユニという
    「乱暴な?」編成でした。
    2013年10月07日 21:27
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様 こんばんは。
    名古屋駅にはご承知のように9番線(臨港本線)にもホームがないですね。名古屋駅の場合、東海道上下ホームの神戸方の切欠きホームで荷物車を入れて積込をしてました。
    キユニとキハの2両とは珍しいことで。乗客はついでに乗せてもらう感じですね。
    2013年10月07日 21:59
  • 北恵那デ2

    大から小までの各種鉄道模型展示会の時、旧客の編成を運転していましたら、割と鉄道について詳しそうなお子様に「客車編成にどうして貨車をつなげるのですか?」と問われました。その編成にワキやワサフは入ってはいません。彼が貨車と言ったのはマニのことでした。つまり荷物車なるものは知らないということです。私は「昔はこういう編成で走ったのだよ。」と答えておきました。鉄道のことをある程度知っている人でさえも、今の若い人は荷物車を知らないのだなということが分かった次第です。当たり前か(笑)。
    2013年10月07日 22:46
  • トシ@グッズマニア

    しなの7号様、こんばんは。
    TR11やTR23、そしてスハ43系が履いていたTR47は実際に乗ったことがないので、残念ながら乗り心地の差異が解りませんが、かなり差があったようですね。
    荷物輸送はその成り立ちと経緯から広義の旅客輸送に含まれるので、JTBの全国時刻表にも掲載されていましたね。
    かつての函館本線の40番台の列車番号を持つ普通列車は、その列車番号から旅客列車に荷物車を併結したのではなく、むしろその逆だということが判りますし、20系時代の九州特急の内、荷物積載量の違うマニ20,カニ21,カニ22をそれぞれどの列車に使うかなど、車両編成の設定をも左右するほど荷物輸送は重要だったと本で読んだことがあります。
    2013年10月07日 23:22
  • しなの7号

    おはようございます。
    >北恵那デ2様
    マニは当時でも「編成美を乱す」存在と思われる方も少なからずおられたかもしれませんね。模型の世界ならなおさらで、国鉄気動車の凸凹編成を模型で再現すると似たような質問が飛んでくるのでしょう。

    我々の幼少時でさえも手荷物(チッキ)を利用したことがありますか?
    私は一度もそのようなことはないです。すでに荷物車は旅客と切り離された「小荷物」の輸送が主流でしたから、「荷物=貨物」という認識であれば、貨物を客車列車に併結して走っているという感覚は多くの方が持っておられたのではないかと思います。

    >トシ@グッズマニア様
    マニ36には少数ながらスハニ35改造のTR47使用車がありましたので、振動の比較は可能でした。
    一般にマニはバネの設定が硬くされているためか、上下動は荷物満載時のほうが少なかったです。

    時刻表のピンクのページ(営業案内)にも荷物輸送についてはちゃんと記載がありましたね。上の北恵那デ2様のお話のように、なかなか旅客営業の範疇だとご存知の方は少ないのかもしれません。

    ブルトレの荷物輸送は新聞など特殊な荷物に限られていましたので、ほぼ毎日定型的な輸送であったと思われます。私どもの車掌区では縁がない列車でしたが、想像するに各列車は常に満載で、その絶対量の多い列車にカニ21が優先使用されたのでしょう。
    2013年10月08日 07:14
  • C58364

    飛騨地方は高山市と、中濃地方は岐阜市と結びつきが強く、東濃地方は中央西線を介して名古屋との結びつきが強かったのですね。私も普段は中央西線を利用することはなく、たまたま蒸機の魅力に取り付かれ1969年から中央西線を意識し始めたくらいです(笑)。
    1969年に名古屋駅の東海道線切欠きホームにいる荷物車を初めて見ています。貫通ドアに見える保護棒が印象的でした。
    しなの7号様のこのブログのおかげで、乗り物酔いした元車掌さまからも往年の高山線についての貴重な情報をご教示いただけました。ありがとうございます。
    高山~猪谷間が荷物列車で猪谷~富山が旅客列車となる列車や、岐阜始発のキユニを含め2両だけの列車について全く知りませんでした。年代をご教示いただけると使用車両や列車番号が追跡できますので、誠に勝手ですがご教示をお願いいたします。
    時刻表1968年1月号に掲載の名古屋駅案内図を見ると、ご教示のとおり0番と4番が東海道線上りホームで、0番と同じホームの1番・中線の2番、4番線と同じホームの3番は表示されていません。
    2013年10月08日 15:54
  • しなの7号

    C58364様
    自分が高山本線に関係した時期である60.3のダイヤ(その時期しかわからないという意味です)では、高山を朝5時前に出る荷841Dという荷物列車があります。猪谷からは、そのまま客扱で841Dとして一番列車の富山行になっていますね。夜行のりくら廃止で、高山から先の新聞輸送のために運転したものと推察します。高山まではトラック便に変更か?

    例の2両編成に関しては、ダイヤから読み取れませんが同時期の岐阜発高山本線一番列車は721Dです。これが該当列車でしょうか?ちなみにダイヤ上、朝5時過ぎに岐阜へ着く美濃太田からの回220Dというのがあるので、これが美濃太田からの送り込み列車のように思えます。721Dは美濃太田での停車時間が長いようですから、ここで増結してまともな列車になったのかな?とは全くの想像です。

    古い名古屋駅の配線の移り変わりがわかるサイトがありますよ。「名古屋駅 配線図」で検索すると引っかかるのでは?
    2013年10月08日 17:30
  • C58364

    貴重なご教示ありがとうございました。不明ばかりの高山線の車両運用について又ひとつ解明できました。
    45.11改正では、721Dは岐阜5:23始発・841Dは猪谷5:46始発となっています。おそらく60.3改正と大きく違いは無いと思います。
    43.10まではよく変わっていた列車番号が、15年も変わっていないのも驚きです。ありがとうございました。
    2013年10月08日 18:27
  • 北恵那デ2

    ヨンサントウ直後の中央西線では気動車ですと、夕方529Dでキハ17の2連が名古屋から坂下まで行き、区間列車運用後、翌日昼頃の塩尻方面から来るキハ28の2連の828Dに中津川で併結し名古屋行という運用がありました。さらに午後の829レは最後尾に回送のキハ17など2連付きでした。これはD51牽引でしたが、客車列車のみの無煙化時にDD51になりました。なお上記の列車番号はうろ覚えの記憶によるものですので、間違っておりましたらご容赦願います。以上、蛇足ですが。
    2013年10月09日 07:40
  • しなの7号

    北恵那デ2様 おはようございます。
    列車番号までよく覚えてますね
    あのころの運用表とかあればぜひ見たいものですが、そういうものこそリニア鉄道館に所蔵していただき閲覧に供していただきたいものだと思います。こういう話は始めるときりがないので、このへんでやめますわ
    2013年10月09日 09:02
  • ★乗物酔いした元車掌

    ★この場をお借りして、申し訳ありません。
    「C58364」様からお尋ねのありました件、
    高山始発の荷物列車、岐阜一番列車の件は、
    いずれも、「しなの7号」様のおっしゃる通りです
    そして、ご推察の通り、美濃太田で停車中、
    2両増結、合計4両編成となりました。
    時期は、昭和60年ころと記憶します。
    2013年10月09日 16:39
  • C58364

    皆様、本当にありがとうございました。
    しなの7号様 長くなり過ぎました。申し訳し訳ありません(謝)。
    2013年10月09日 19:23
  • しなの7号

    >★乗物酔いした元車掌様
    >C58364様
    60.3ダイヤ改正では、乗務区間全部の一時間目ダイヤがカレチにはもらえました。いらないよという人の方が多かったですが…。61.11ダイヤ改正のときは、車掌区では乗務員にダイヤグラムがもらえなかった記憶です。

    いやいや、昔話を一つずつ解明していくのは楽しいことです。高山本線については、詳しくもない私が偉そうに話すことでもないでしょうから、この辺にしときますね。
    中央西線の昔話は、場を改めまして語りましょうかね。ホント、思い出は尽きないです。
    2013年10月09日 19:48
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    これまで、関西本線、紀勢本線荷物車乗務のページを拝読してコメントさせていただきましたが、ついにこのページにおじゃまします。
    荷41列車の(1)~(4)を一読しましたが、実に多くのコメントが寄せられ、荷物輸送が廃止され30年以上経過した今も、みなさんにとって興味深いテーマであると感じられます。
    以前に関西本線の郵便車に乗務した話をコメントしましたが、東海道・山陽本線荷物列車に連結の郵便車にも乗務していました。時期は昭和52~53年で、大阪~糸崎間でした。しなの7号様が東京~名古屋~大阪間であったので、同じ列車に乗り合わせたことはありませんが、大阪駅でも荷物車乗務員と何度もすれ違ったので、お近づきしていた可能性はあります。また、昭和54~55年は大阪青森線に乗務したため、大阪米原間では、東海道・山陽本線荷物列車と重なる区間で乗務していたことになります。
    編成と運用を拝読して感じたのは、郵便車は2~3両が汐留から東小倉まで連結されたままなのに対して、荷物車は実に細かく増解結されながら運用されていることです。郵便車は東北から直通とか、名古屋から関西線とか、そういうものはほぼなくて、郵便物を納めた袋(郵袋)を積んでは降ろし、他の路線に分岐する駅で積み替えるのが基本だからです。ひとつ似ていたのは、東京岡山間護送便というオユ12形式1往復が高松に直通するため、岡山駅で解放、連結していたくらいでしょうか。そのほか、大阪⇒米原で大阪長岡間下り便というオユ10形式を荷36列車に連結していたのですが、米原で切り離し、523列車に連結して長岡に向かいました。ここに記された荷物車運用のように、郵便車を途中駅で解放して別線区に向かわせ、さらに別線区から来た郵便車を連結する、というのはドイツの夜行郵便列車で行われていましたが、車両と乗務員が多く必要なので、わが国でそれをするほど郵便物が多くなく、現実的ではありませんでした。
    この時代、荷物車は車両ごとに乗務員の所属が違っていたり、車両ごとの積載範囲、荷物種別が細かく指定されていたことが興味深く、編成を撮影するだけでは知り得なかった奥深さを感じます。
    2020年07月21日 23:06
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    私が荷物列車に乗務していたころ、大阪までの乗務行路は下りが荷41列車のほか53.10改正前までは荷31列車があり、上りは荷36列車でした。荷36列車に乗務するため、早朝の大阪駅ホームに出場して列車の到着を待つ間に、隣の線路に荷36列車に米原まで連結され北陸本線に向かうオユ10が止まっていたことは覚えています。ただ列車が到着してから直ちに荷扱作業が始まるので、その連結作業などは一度も見たことがありません。なお私が荷物列車に乗務していたのは昭和54年春まででしたから、時期的に会長様とは入れ違いだったと思われます。

    連絡船での航送があったことは鉄道郵便・荷物とも共通ですね。幹線系統の荷物列車から各地へ分岐直通する荷物車運用が多いのは、運ぶべきものの大きさと重量によるものかと思います。郵袋のように行先ごとに一つにまとめることは荷物では不可能なので中継駅でかかる手間は省きたいものです。あまりにも大雑把な言い方になりますが、ハガキ1000通は一つの郵袋で足りても、荷物1000個はマニ1両が満載になるわけです。考えようによっては、各車分業でやっている荷物列車1編成分のことを郵便車1~2両でやっておられるわけで、そう思うと郵便車で取り扱う数と仕分け先の多さは、荷物車の比ではなく時間との戦いになるのだろうとお察しします。
    2020年07月22日 20:07
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    荷物と郵袋の特性の違いから取扱いも車両運用も違ってくることがよくわかります。確かに郵便物は荷物よりもこまごましており、郵袋1個に入るのは、定形封書、はがきだと1000通以上、定形外で100通ほど、小包は大きさにより2~4個といったところです。荷物は積み替えを最小限にするために荷物車1両ごとの使命を明確にしていたことが荷物列車の編成からうかがえますね。
    このたび、当会ホームページの資料館に鉄道郵便車の運用表を掲載しました。 
    http://oyu10.web.fc2.com/unyou.html
    53・10改正後ですので、荷41列車が荷2031列車に変わっています。郵便輸送便名を見ると、同じ荷物列車に2両(又はパレット車を加えた3両)が連結されていることがわかります。
    2020年07月23日 15:22
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    荷物車と郵便車ともに長距離運用があったことと、輸送中に仕分け作業があったということは共通しますね。それらは、寝台車や食堂車などと同様に、他の交通手段では真似がしにくい鉄道の優位性であったと思いますが、それらがすべて衰退していったのは残念に思います。
    鉄道郵便車の運用表拝見しました。54.10の時点で、私は荷物列車の乗務から離れていましたので、この時期の荷物関係の資料はありません。貴重なものを公開いただき感謝します。片道3暦日かけて汐留・九州末端都市間を結ぶ長距離運用もありますし、福知山線や山陰本線もすごいですね。
    2020年07月23日 20:46
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    運用表筆頭の南東郵1、南東郵2は列車番号が変わらないで鹿児島、熊本に行くので便名が併記されていますが、門郵1、南東郵3も東小倉で別の荷物列車に建て直ししており、門鹿西回便、門佐便と名を変えて直通しました。
    おそらく、郵便車だけでなく、荷物車にも同じく直通した車両があったと考えられます。
    山陰本線(福知山線)の運用も、距離は九州ほど長くありませんが、一部「だいせん」「さんべ」連結以外はすべて普通列車で時間がかかるので運用日数は長くなります。
    これを見ると、台風その他の原因で列車の部分運休や大幅遅延が発生したときに対処する担当者(国鉄、鉄郵)のご苦労は想像するに余りあるところです。実際、糸崎から大阪に戻る郵便車乗務で、荷物列車の遅延だけでなく、荷物列車は遅れで運転されるのに郵便車だけが連結されないというハプニングもあり、直通する荷物車も異常時の収拾にはご苦労があったのではないでしょうか。
    2020年07月23日 22:01
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    50.3時点での荷41列車では、列車終点の東小倉以遠に直通するのは、大分(南東荷9と南東荷203)・鳥栖(門荷4)・佐世保(門荷5)でしたが、手持ちの資料から他列車で鹿児島・宮崎・長崎直通運用もあったことが読み取れます。また東海道筋の荷物列車から山陰方面への直通運用は、思い当たりません。
    長距離運用では、たとえば九州で起こった事故や災害の影響が翌日以降に東海道で現れ、運休、遅延又は欠車になることは多く、その影響も長引き広範囲に及びました。
    2020年07月24日 20:21
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    やはり九州直通荷物車運用は多くあったのですね。
    いろいろと考えましたが、郵便車を荷物車ほどあちこち直通させないのは、車内の容積で多くを占める小包や定形外郵便物の輸送方法にも要因があるようです。例えば、九州宛て小包はとりあえず東小倉分局宛に、定形外は門司局宛にまとめて送付し、再区分と袋詰めをし直すので車両を直通させてもいったん降ろさなければならず、個々に多彩な宛先駅がある荷物との決定的な違いがあります。
    東海道から山陰直通荷物車がなかったのは意外です。出雲市までならマニ1両ぶんの荷物はありそうに感じますが…。もしかして荷41列車で京都以東⇔松江、出雲市間は岡山から伯備線経由だったのでしょうか。
    2020年07月25日 00:57
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    小荷物でも郵便物のように大小があり、大きな布団袋と細々した新聞雑誌とを同時に輸送しなければならないわけですが、布団袋のような大物は方向別に直通させるのが効率的ですし、新聞雑誌は場所を取りませんから、パレットなどで荷物車に各方面宛をある程度仕分けたうえで混載させるのが効率的でしょう。運送するモノの規格が一定しないと効率的な輸送がしにくいものですね。

    昨日のコメント欄についてのお断りですが、「東海道筋の荷物列車から山陰方面への直通運用は、思い当たりません。」という曖昧な表現をしましたが、自分が乗務していた50.3と53.10時代は、乗務した特定の列車のことしかわかりませんし、手持ちの横浜羽沢開業後の雑誌記事(鉄道ファン1982.10月号とJtrain2020年春号)に掲載されている荷物列車編成表には見当たらないという意味です。なかったとは断言はできません。ちなみに臨時運用なら、自分が乗務していたころに、鳥取の二十世紀なし収穫期に汐留直通運用がありました。定期となると、ブログ記事に後々出てきますが、自分が乗務していた上り荷36列車の京都増結車は、山陰からの直通でなく、京都仕立ての「大荷」(大キト)でした。

    東海道下り列車から京都で山陰方面へ中継する範囲は広く、西は益田経由山口線津和野まででした。
    2020年07月25日 20:22
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    東海道線から山陰直通の件は理解しました。
    荷36列車の京都増結車には京都発荷物と山陰線、奈良線中継荷物が積まれたと思われます。
    なしの収穫期に山陰直通車があったそうですが、特産品荷物への対応例として、直通ではないのですが、そうめん発送が増える夏期に姫路から上り列車に増結するマニがあったそうです。
    京都以東から島根県末端までの荷物は山陰線経由だったそうで、郵便物も同様でしたが、晩年の一時期、京都から山陰線は福知山、舞鶴線、宮津線までとし、姫路以東⇔和田山以西島根県までは、姫路和田山間高速自動車便で中継していたこともありました。
    2020年07月25日 21:22
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    今の時期ですと岡山の桃輸送のため荷36列車で岡山~汐留での増結も記録に残っています。

    荷物中継方は年々改正されたようで、Jtrain2020年春号に掲載されている60.3荷物継走図表を見ると、京都中継は大幅縮小され、東海道対山陰方面は大阪中継がメインになったことや、中央西線・篠ノ井線の自動車代行化によって東海道対信越方面の荷物が、熱田・松本・北長野間の自動車代行便を挟む輸送形態になったことが読み取れます。
    2020年07月26日 20:02

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