大阪車掌区と乗務員宿泊所があった建物は、旧梅田貨物駅敷地の東端にありましたが、今は取り壊されて影も形もなくなっています。位置的にはヨドバシカメラのビルの西側になります。
写真はすでに民営化後の1993年の撮影ですが、そのころは国鉄当時と変わることなく建物は建っていました。
専務車掌(荷扱)は無線機を車掌区に預け、翌日の乗務に備えて充電してもらいました。その足で翌日の折り返し列車までの一夜の宿となる同じ建物内の上階にある乗務員宿泊所へ行き、この日の仕事は終了となりましたが、時刻はまだ昼の12時台なのでした。
翌日早朝までは、仕事があるわけでもなく何もすることがないのでした。家に帰ることもできない場所で、はっきり言ってお金にもならない無駄な時間帯でした。まずは3人で昼食に行って、それから喫茶店で時間つぶしをして、そのあとは解散自由行動というのが、よくあるパターンでした。
当時、みんながよく行った喫茶店のマッチ箱。
「国鉄高架下」の文字が時代を物語っています。
たしか、ウェイトレスがミニスカで、乗務員には人気の喫茶店だったと記憶しています。
昨年、同じ場所を通りましたが、喫茶店はなくなっていました。あれから35年経っていますから無理もないですが…。
乗務員は、出先で折り返し列車乗務の出勤時刻までの間は勤務時間ではありません。考え方としては勤務時間ではないけれども、「拘束時間」とされていたのです。要するに定められた休息時間を盛り込んで、うまい具合に折り返し列車があれば乗務員運用上は効率がいいのですが、そうはうまくはいかず、翌日の朝まで時間をつぶさなくてはならない非効率な行路もできてしまうというわけです。
こういう時間帯は国鉄当局と乗務員双方にとって無駄でした。組合側はこんな行路ができてしまうのは当局の責任なのだから、せめてその半分は勤務時間とするよう申し入れをしたりもしました。しかし実現すれば、当局としては金まで払って遊ばせるとは思えませんので自由度も相当下がると思われ、それもデメリットといえばデメリットではありました。
拘束時間というのは、文字どおり拘束されるわけですから、何もかもが自由というわけではありません。規則上どうであったか調べたこともありませんでしたが、その所在は明らかにして、必要に応じて連絡が取れるようにしておくように指導されていました。乗務掛の場合、専務車掌(荷扱)以下3人乗務でしたので、 一応どこに行ってくるか、いつごろ乗務員宿泊所に戻るかくらいのことをあとの2人に言って出かけました。しかし当時は携帯電話などあるはずもなく、いったん乗務員宿泊所を離れたら、連絡を取ることなど事実上不可能に近いわけで、緊急事態の場合には「あいつはたぶんパチンコやっとると思う」「じゃあ、近所のパチンコ屋を探して来い!」といったような連絡手段しかなかったわけです。
もっとも、緊急に連絡を取る必要があるケースとしては、事故災害などで帰路の乗務列車が運休になるなど、乗務しなくてもよいことが決定し、早い列車に便乗して所属車掌区へ帰ってもいいことになった場合くらいで、他には自宅から職場へ緊急連絡があった場合くらいしかありませんでした。前者の場合、3人チームで1人だけ連絡がつかないからといって置いてきぼりにしてくることもできないので、行方不明になると他の2人には大いに迷惑をかけることになるのでした。
東海道・山陽本線筋の荷物列車の場合は、たとえば九州の事故の影響が翌日の東海道に影響してくるわけで、運休や欠運用になることが早めにわかることがよくあったのです。これは現在の貨物列車も同じですが、荷物列車の場合は、1両ごとに運用が異なっていましたから、列車そのものは運休にならなくても乗務すべき車両が欠運用になることがありました。この8行路の例でご説明しましょう。
この行路表をご覧いただくと、大阪へ荷41列車で着くと、翌日は荷36列車で名古屋まで戻る乗務員運用になっています。この荷36列車は九州の東小倉から汐留まで運転される列車でしたが、乗務すべき車両の「南東荷1マニ」は四国から宇高連絡船で航送されてくる車両で、宇野線を経由して岡山で荷36列車に併結されました。四国線内で運転できないような事故があったり連絡船が欠航になれば、東小倉からの本編成は運転されるものの乗務すべき南東荷1は欠運用となりました。欠運用となった場合は荷36列車は運休でなくても乗務掛は乗務するべき車両がありません。欠運用になった場合、原則的にはその列車に同じ車掌区の乗務車両があれば、その補助として乗務することになっていましたが、特に支障がなければその時の車掌区助役の判断によっては、名古屋へ直ちに戻れることもあったのです。またその列車に同じ車掌区が乗務する車両がない場合は、直ちに名古屋へ戻るよう指示されたのでした。





この記事へのコメント
C58364
さすが東海道線筋の車掌区が入った建物は大きいですね。大勢の車掌さん達が日夜出入りされたのでしょうね。
列車運休や乗務車両の欠運用などに伴う乗務指示があるので真昼から翌朝まで拘束されるのは仕方がないといえウットオシイし又、労使どちらにとってももったいないことです。
往年の高山線にいた蒸機や客車の運用について調べていてこちらにお邪魔するようになりましたが、運用表にはそんな深い事情も隠れているのですね。
TOKYO WEST
しなの7号
ここが大阪車掌区で、漫画「カレチ」の主人公の所属車掌区です。漫画の中にも、この建物は、角度は異なるものの登場します。
拘束時間が長いくせに勤務時間が短い行路がもっとも損で出来が悪いことになりますね。事情があってこのような行路ができあがってしまったわけですが、その事情はいずれお話しします。
車両運用には、検査・清掃・給水などの事情
乗務員運用には、勤務時間・休養時間・休日などの事情
さまざまな制約のなかで効率的に運用を作成するのは難しいことなのでしょう。
しなの7号
まったく同じ状況になりかけたのを私は出先の汐留で目撃したことがありました。具体的に書いてしまうのはまずいと思うのであえて書きませんけれど、車掌区からは青森のお話と同様の指示が出ていました。
時間には非常に厳しい業種ですから、あれはカッコ悪いと言われる欠乗(乗務すべき列車に乗り遅れること)の中でも一段とカッコ悪いです。そういう話はあっという間に車掌区中に知れ渡りますし。いくら時間があるとはいっても、そんな遠くまで行ったらいかんでしょと思いましたけどね。
C58364
高校生の時に国鉄機関士になりたかったのですが、無煙化が進み乗務員の採用は無いとの情報が入りあきらめました。新幹線車掌の大募集もあり迷いましたが結局あきらめました。
もし合格していたら拘束時間でもこの時とばかりあちこち乗りまわり、間違いなく欠乗組となった可能性が高いでしょうね。
しなの7号
おはようございます。
国鉄の採用試験で、職種の希望は聞かれましたが、必ずしも希望職種の職場に配置されるわけではなく、数的に最も多い駅など営業職場とか、保線区など施設職場へに配置されたら、機関区などの運転関係への転勤は非常に困難でした。採用時の職場で在職中の進路が決まってしまうようなものでしたので、C58364様が受験されても希望どおりいかなかったかもしれません。私の場合も乗務掛(客扱)を望んでいましたが、すでに新規補充はされておらず、しばらくして廃止されました。運転職場は、裸眼視力が機関士の受験資格に遠く及ばなかったため、選択肢にありませんでした。
和車
しなの7号
部外者が風呂に入って、宿泊施設で寝られるとはいい時代でしたね。今ではできない貴重な体験ですね。
私どもは新宮では4人部屋。たいていどこでも、薄い布団の下にマットレスが敷かれていました。
私も、職場まで遠く特に深夜の出退勤が多かった列車掛時代には通勤がたいへんでしたので、独身寮との二重生活みたいなことになっていました。深夜2~3時に退勤の場合には1時間半かけてマイカーで家に帰るか、独身寮で午前中寝ているかのどちらかでした。
そういえば、そういう時は乗務員宿泊所で、空き部屋に朝まで寝させてもらうこともできました。
鉄道郵便車保存会 会長
荷41列車に引き続き、こちらに書かせていただきます。
大阪車掌区と宿泊所が同じ建物だったのは駅からも近く便利ですね。
郵便車に乗務したおり、折り返し先で宿泊、休憩をしましたが、車掌区に無線機を預けたように、乗務かばんは駅構内の鉄道郵便局に置き場があるのですが、宿泊する事務室は駅から10~15分前後かかるところが結構ありました。
よく訪問した大阪車掌区の玄関写真が懐かしく感じられます。JRになると各車掌区でも活発に独自のオレンジカードを制作し、乗務列車内で販売していましたが、大阪車掌区は特急列車内でないとほとんど買えず、いつしか車掌区で売ってくれるとの話が収集家で広がり、実際に訪問して願い出ると売ってもらえました。「○○号(愛称名)乗車記念」のタイトルが駅発売カードにはない独特のもので、年に何度かのデザイン変更もありました。そのとき、点呼や遠方からの宿泊、休憩?と思われる車掌さんが出入りして、何かおじゃましているようで恐縮しましたが、いつでも快く応じて下さったものです。建物を大きく感じたので、寝室、食堂など折り返し滞在に必要な設備が建物の相当部分を占めていたのではないでしょうか。
しなの7号
大阪のほか、品川、汐留(支区)も車掌区と宿泊場所が同じビル内にあってたいへん便利でした。逆に鉄道敷地内ではあるものの離れていたのが亀山、新宮、長野で、乗務が終わると車掌区に仕事用のカバンを置いて、洗面用具などが入った自前のカバンだけを持って乗務員宿泊所まで歩きました。京都は車掌区と乗務員宿泊所がまったく逆方向でかなり離れており、百済にはそもそも車掌区が存在しなかったので、その2か所はニレチが代表して電話による点呼をしていました。
大阪は各地から乗務してきた車掌が集まりますから、各施設の規模は大きかったですね。
車掌区オリジナルの乗車記念オレンジカードは、一時期特急に乗ると必ず販促の車内放送が入る時期がありましたね。次々とデザインが変わっていくので収集は大変ですね。しなの号だけでも少なくとも十数種類はあったようです。
鉄道郵便車保存会 会長
同じ荷物列車でも郵便車乗務員が折り返し駅で宿泊、休憩する施設は「乗務員事務室」でした。規模によりますが、寝室や浴室、食堂が主体の鉄筋建築から民家借り上げのひと部屋のものまで色々ありました。当会ホームページでは乗務員事務室の説明と、当時の様子や現在の跡地を紹介しています。
・鉄郵塾 鉄道郵便局の組織 乗務員
http://oyu10.web.fc2.com/jyoumuin.html
「5 乗務員事務室」をお読み下さい。
・鉄道郵便局跡地ハイキング
http://oyu10.web.fc2.com/atochi.html
のうち、敦賀、浜松、大阪、糸崎の各事務室をご覧下さい。
乗務員人生の3~4割はここで過ごすと言っても過言ではなかったです。
しなの7号
リンクページを拝見しました。今日は東で明日は西、といった乗務員稼業ですから共通するところは多いように思います。また跡地が売却されたりして、当時の面影がなくなった場所が多いのも同じです。私も自分が泊まった乗務員宿泊施設の跡地をたどったことがあります。
国鉄の乗務員宿泊所については、下の記事で少し書いています。
【594】乗泊と起床装置
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201506article_5.html
鉄道郵便車保存会 会長
乗泊のページを拝見しました。こうした記録を残すのは意義あることです。
鉄郵の事務室に起床装置は配備されませんでした。乗務人数が多いと互いに起床確認できるのと、2名など少人数では管轄鉄郵局に電話で起床出発報告を義務づけ寝過ごしを防いでいたようです。乗務に慣れてくると、目覚まし時計が鳴る前にパッと目が醒める…という変な体質になる人もいて、自分も少なからず経験しています。
しなの7号
荷扱乗務員時代に限って言えば、主要駅間を乗務することがほとんどなので、利用する乗務員宿泊所も常時管理人が配置され、起床装置でなく直接管理人が起こしに来る大規模な施設が多かったです。大阪ですと荷36列車の2車掌区3組8人の乗務員が一室に寝ていましたので、管理人が荒っぽく寝室のドアを開けるや「36!時間です」などと大きな声で起こされました。
一方、長野も大規模な施設で管理人はいるものの起床装置があって、管理人室で全室全ベッドのタイマーを設定管理するようになっていました。宿帳に名前を書いてから自ら管理人室に入って、自分が泊まる部屋の自分のベッドの起床装置のタイマーをセットするシステムでした。
車掌・列車掛は小規模な駅で泊まることがよくありましたので、そういうところにある宿泊施設では管理人がいませんから、ベッドごとにある起床装置のタイマーを各自セットして起きました。
自分でタイマーセットする場合は、操作を間違えていないか心配で、私は腕時計のタイマーも時刻を少しずらしてセットしていました。起こしてくれる人がいる乗務員宿泊所のほうが熟睡できました。
鉄道郵便車保存会 会長
「管理人が荒っぽくドアを開け…」感じがよくわかります(笑)
鉄郵の事務室には「舎監さん」と呼ばれる管理人がいましたが、宿直や起床の世話はしないで日常の管理業務をしていました。規律に厳しい人がいて「滞在時間はあくまで拘束時間や」と言われたものです。国鉄でいう滞在先の拘束時間は鉄郵も同じように規定されており、給与は払われないが、自由が制限されたのは同じです。帰り便乗務のため集合する時刻が駅に向かって出発する時刻のおおむね1時間前で、それまでは多少自由に外出できましたが、帰り便の便長(又は他の乗務員)に行き先を告げておく、備え付けの外出簿に記載するなど方法はいろいろでしたが、電話連絡先が明確な場合は届け出ました。予定外の行動、危険なレジャー、バイクやクルマの運転は事故と欠乗防止のため禁止されていました。
しなの7号
往復夜行で、出先の拘束時間が早朝から夜まで及ぶ行路もありました、(長野と汐留)
出先で時間を持て余してどこかに出かけるようなことは長距離乗務員ならではのことで、さすがに短距離折返しの普通車掌ではそのような行路はありませんでした。
「管理人が荒っぽくドアを開け…」は大阪の例で、他の列車の乗務員と相部屋になると、起こし番の人はそ~っとドアを開けて入ってきて、ベッドごとにあるカーテンを開けて「41・41(←列車番号)」「○○(←車掌区名)さん、時間です」などと小声をかけ揺り起こしました。無言で揺り起こされることも多かったです。起こし番は国鉄職員の退職者が多かったんじゃないかなあと思います。
鉄道郵便車保存会 会長
寝室の割り当てから、全員帰り列車を同一にするのは難しく、鉄郵事務室も場所により同室の人がまだ寝ているのに先に起きることはありました。
外出先ですが、近隣では喫茶かパチンコ屋が定番なのは鉄郵も同じでした。各自の外出先に連絡をすることなどほぼありませんでしたが、あるとすれば帰り便の遅延や運休、郵便車連結なしの事態が発生したときの連絡であることは荷物車と同じです。やはり、所定よりも早く戻る事態になると、連絡がつかない乗務員への対応に困りますが、私が勤務した間はその問題に当たることはなかったのが何よりです。
しなの7号
全般に出先での状況は似ていますね。大部屋ですと、起床時刻や就寝時刻がまちまちで安眠できませんし、遅く入室するときと早く起床するときには気を使います。貨物列車や普通列車には休日など特定日運休列車があるので、相部屋にならないことがあり、そういう日に当たると気が楽でしたが、荷物列車ではそういうことはほとんどありませんでした。
東海道の荷物列車では災害で片道だけ便乗になるケースはときにはありましたから、台風など予測できる場合だけは、出先で外出先をしっかりニレチに聞かれました。実際に1人の居所がわからず、心当たりを探しに行ったことがありました。
鉄道郵便車保存会 会長
帰り便の遅延などで帰るのが遅れる場合であっても、所定帰り便の集合時刻には事務室に戻ることは必要でした。
電話のそばに掲示されている電話番号一覧には、鉄道郵便局本局や分局、沿線で関係する郵便局のほか、病院、配達に来る酒屋、米屋、食料品店などが記載されていましたが、家庭にありがちな五十音順のカナの見出しをめくる電話帳も置かれており、ここには乗務員が行きつけの喫茶店、パチンコ屋の番号がありました。仮にパチンコ屋に行った乗務員に急ぎの連絡をするには、店に電話をして店内放送で呼び出してもらいますが、職場名をズバリ言いにくく、「○○(鉄郵名)運送の××さん、社員寮に電話して下さい」などと放送してもらいました。まあ台風などで混乱が予想されるときは、事務室から出ないという心構えがあったことは確かです。
しなの7号
出先で連絡不能になった人に、所定の出勤時刻前に連絡を付けたいときというのは、帰りの列車が運休になったか車両が欠運用になったときがほとんどなので、業務に支障が出るわけでもないのですが、乗る列車がないとなれば一刻も早く帰りたいですから一生懸命に捜索するだけのことですけどね。
帰りの乗務列車が大幅に遅れているときは、所定出勤時刻から待機している間も勤務時間ですから外出などしません。その間、ニレチは運転状況を把握するため、手前のあちこちの駅に電話で列車の所在と遅れ時刻を把握します。こういうことも、今のようにスマホで一般人でも列車の位置や運転状況がわかる時代と比べれば、前時代的だったなあと思います。
鉄道郵便車保存会 会長
確かに、列車の状況把握などすべての面で時代の差を感じますね。各便の遅延情報はまず鉄道郵便本局が把握し、各便長へ連絡が届くのを待つ間は気が重かったものです。
このあと、【429】後篇のコメントに書かせていただきます。