【429】 荷41列車/大阪到着後の過ごし方(後篇)

名古屋周辺在住者から見れば、一定の距離がある大阪という大都市で、折り返しのまとまった時間があって、遊びとして使えるこのような行路では、人それぞれ、その出先での時間の有効活用法があるようでした。

「京都がどうの、阪神は…」と会話に出てくる人は、競馬が目的でした。

「天満」「東洋」「デラックス東寺」と言い出す人は…ストリップ劇場。

出先それぞれに「カノジョ」を作ると言ってがんばる?人もいて、実現すればそれなりに楽しむことはできたのでしょうが、そういう人はごくわずかのように見受けられました。中には乗務員宿泊所に着くや否や、常に何処へ行くとも言わず一人で出ていってしまい、夜遅くまで乗務員宿泊所へ戻ってこない人もいました。「カノジョ」と過ごしていたのかもしれませんが、その行動は謎でした。

当面、見習の身では、勝手に出歩くこともできないので、私の場合最初の2~3回は、「お前は乗泊(乗務員宿泊所の通称)で荷物中継方の本を読んで勉強しとれ」と言われて、4人で昼食に行ったあとは、一人乗務員宿泊所の部屋に戻っておとなしくしていました。
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夕方になると、すぐ北側にあった国鉄の厚生施設「大阪クラブ」へ食事に行ったり、夕食を買ってきて乗務員宿泊所で食べるくらいでした。人気があったのは国鉄高架下にあった持ち帰りすし店のバッテラで、これは「大阪の味」として皆に親しまれていました。

当時「隠れ鉄」であった私は、当時の大阪駅構内営業業者「水了軒」の駅弁に手を出したこともありました。割高ではありましたが、掛け紙がほしかっただけでした。
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就職時の職場では、荷扱関係の職員が100人をはるかに超えていましたが、知っている限りでは撮り鉄と乗り鉄が各1名ずつしかいないようでした。私もわざわざ「鉄道が好きで入りました」とは皆に言っていませんでしたから、皆「親父も国鉄だから入ったのか」ぐらいに思われていたはずです。
しかしその後、年ごとに新人が入ってくるにつれ、その中には趣味が鉄道だという人がいたり、客扱関係の先輩たちに趣味が鉄道という方が何人かおられることがわかってきたのでした。

大阪での楽しみは鉄道書が豊富にある旭屋書店でした。当時の店内にはマッハ模型も入店していて、ここは名古屋では絶対味わえない鉄分いっぱいの憩いの場所でした。いつも通っていたことは言うまでもありません。

乗務員宿泊所で指定された部屋は8人部屋。廊下から室内に入ると通路を挟んで造り付けの2段ベッドが4人分ずつあって、突き当たりは三畳ほどの畳敷きのスペースがあり、そこで夕食を食べたりできました。私ども荷41列車の3人のほかには、日中にこの部屋を使う者はなく、残っている5人分のベッドは、夜になってから荷31列車で大阪に着く乗務員が来るまで空いていました。それまでは、この部屋はひっそり閑としていましたので勉強や読書には最適でした。前夜のイビキの大合唱による寝不足解消の昼寝もOKでした。その部屋の窓からは梅田貨物駅が眺められ、その向こうに朝日放送大阪タワーが見えていました。日が暮れると大阪タワーの電飾が目立ちました。
乗務員宿泊所がある建物内には、寝室のほかに、共用施設としてテレビがある畳敷きの休憩室や大浴場もありました。浴場は掃除の時間以外はいつでも入ることができたので、一風呂浴びて、休憩室で他区の見知らぬ乗務員たちとテレビを見て寝転がって過ごすこともできました。午後このように浴衣を着てごろごろしている人たちは、前夜東海道・山陽・九州・山陰・北陸方面から乗務してきて、またその夜に夜行列車で戻っていく乗務員たちが多かったのだと思います。

当時勤務していた車掌区では、今の私と同じくらいの年齢の大先輩の一部では、西国霊場巡礼が流行していました。大阪でこれほど時間がある仕事は、この行路以外にはなく、この人たちは荷41列車で大阪にくることを楽しみにしておられ、この行路のときは掛け軸を持って乗務されていました。12時半過ぎに大阪に着いてから、半日の間にどこまで出かけられるかということにゲーム性もあったようで、紀三井寺は楽勝。粉河まででも行けるぞとか、行ったのはいいが、もう閉門で判を押してもらえなんだとか言って話しておられました。荷41列車で大阪乗泊に着いて荷物を置くと、昼食も摂らずに早々と掛け軸を持って出かけ、夜になって荷31列車で着いた人が来ると、満足そうに掛け軸に押された朱印を見せながら、次のときどこどこまで行くんだと楽しそうにされているのでした。私は当時18歳。まったくその良さがわからずにいましたが、年配者が多いせいもあって、話題はそんな話や盆栽の話も多くなりました。私はただ、聞いているだけで、そういう話についていくことはできませんでしたが、「お前らの齢から盆栽やっとけば、わしらの齢には、すごいやつができるで、やってみんか?」などと真剣に言う人もいました。さすがに盆栽には手は出さなかったものの、国鉄退職後2年目の時、私は再就職した会社で西国霊場巡りを趣味としていた上司に巡り合ったのでした。私の旅行好きや収集癖もよく知っていたその上司曰く、
「おみゃーも、ぜったいハマるぞ!」
その上司を中心に、係のみんなで西国霊場巡りを始めることになり、その言葉どおり、思いがけず私は30代半ばにして、西国全霊場を巡礼達成結願となったのでした。
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オマケにその係では私だけでなく新規採用の22歳の若者まで含めてハマってしまい、係の中で西国巡礼が大流行となりました。そのときのメンバーはすぐに転勤でバラバラになってしまいましたが、少し前、そのとき同じ係だった一人に会った折に、「西国はあれからどうした?」と聞くと、「あれからほとんど行ってない」とのことでしたが、話ではそのとき22歳だった若者は、その後1人でバイクで全部廻ったとのことでした。

話を戻しましょう。大阪に限らず、出先での時間つぶしで、もっともポピュラーな遊びはパチンコでした。これは私もよく行きました。大阪で驚いたのは、どの店に行っても電動台がなく、手打ちの台しかなかったことでした。当時の大阪府では電動パチンコが解禁になっていなかったのです。パチンコの本場名古屋をはじめ、よその出先で行くパチンコ店では電動が主流で、手打ちの台は、申しわけ程度に少数残してあるだけという時期でした。
このほか、大阪の喫茶店では、「アイスコーヒー」のことを「冷コ」と注文しないと通じませんでした。これらは大阪での2大カルチャーショックでありました。

夏の乗務では、高校野球を見に、甲子園まで出かけた人もありました。私の場合は大阪に着くまでに乗務中3人で相談して、甲子園へ行こうかなどと話しながら来たものの、いざ大阪へ着いてみるとあまりの暑さに断念!
その日の試合は地元の高校でもなかったことから、3人ともエアコンの効いた乗泊の休憩室でのテレビ観戦に切り替えたのでした。
夏場に荷41列車でいちばん暑い時間帯に着いた大阪の街は、自分にとってはどこよりも暑い街という気がしました。それと水のまずさは格別だとの思いがあって、それら大阪の印象は齢を取っても消え去りません。
せっかく時間があっても、近くで涼しくて…安近楽志向となってしまう傾向がありました。たとえば3人そろって、歩いて行ける梅田花月で夕方まで過ごしたこともありました。

要するに私の場合はあまり遠いところでは行っていないということです。一度だけ遠くに行ったところといえば、姫路です。
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画像下の部分にちゃんと「入鋏」されています。数年前にも姫路城へ行きましたが、さすがにそんな儀式?はありませんでした。
このときは3人中の若い者2人だけで姫路城を見に行こうという話が乗務中にまとまったのです。乗った新快速は153系ブルーライナーで、117系が誕生する前のことです。
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(当日の撮影ではありません。)

単独行動では、当時未乗区間であった桜島線と大阪環状線を一周乗り鉄してきたことがありました。「鉄」であることなど誰も知らなかったので、乗った後に大阪駅界隈で寄り道をして乗泊に夜遅く着いたときに、先輩から「どこ行っとった?」と聞かれました。何も知らない若い者がちっとも帰ってこないから、あいつはひとりで地理もわからんくせにどこへ行ったんだろうと、皆で心配しておられたようでした。環状線を一周してましたとは言えず、「天王寺の方へ…」と答えたのですが、「そんな危ないとこへ一人で行ったのか!」と言われてしまいました。別に天王寺で降りたわけでもなく怪しい方面をうろついていたわけでもないのに、「何しに行った?」と何度もしつこく聞かれ、返事に困ったことが思い出されます。

このように出先であり余る時間がある行路は、さすがに見直され、就職後二年半後の昭和53年10月のダイヤ改正時になくなりました。荷41列車は急行に格上げされ荷2031列車になるとともに乗務区所が他区へ持ち替えになり、大阪泊りの行路は、往路は名古屋を夕方出る急行比叡で便乗して大阪まで行くという、これはこれで楽な行路に変更されたのですが、大阪の余暇を楽しむことはできなくなりました。
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このように、いろんな面で徐々に仕事上の無駄は少しずつ是正され、言い方を変えれば合理的効率的になっていきました。

この記事へのコメント

  • 京阪快急3000

    しなの7号様 おはようございます。

    このお仕事での、大阪での余暇の過ごし方っていろいろあったのですね。

    いろいろな想い出話を聞くことが出来て、楽しませていただきました。

    ありがとうございました。
    2013年11月11日 07:50
  • しなの7号

    京阪快急3000様 おはようございます。
    大阪の過ごし方は人それぞれでしたので、かつての同僚や先輩から聞き出せば、面白い話はぞくぞく出てくるはずですが、これだけ時が経つとおつきあいがないばかりでなく、消息すら不明な人が多くなります。
    2013年11月11日 09:28
  • ハッシー

    お久ぶりです。
    出先の乗務員区泊まりのお話楽しく読ませていただきました。
    こちらも国鉄入社の一年前に臨時雇用で大阪、京都方面の電車寝台「明星」に乗客掛で乗務していた頃の事を思い出します。
    泊まりは京都車掌区と確か向日町乗泊の2箇所だったと思います。
    京都泊りの時は朝に付いて次の日の夕方乗務で丸丸1日あるのでたくさん観光バスで京都観光を楽しみました。まだその頃には市電も走っていたような気がしますが、また大阪まで買い物に出かけていました。
    今となっては懐かしい思い出です。
    2013年11月11日 16:06
  • しなの7号

    ハッシー様 こんばんは。
    私も京都泊の行路がありましたが、夜着いて早朝の折り返しでしたので、駅前の京都タワーに昇ったくらいで、京都見物はできませんでした。大阪泊のこの行路なら京都ぐらい行けたはずですが、就職直前に行ったことがあったこともあって、行く気にならなかったようです。

    臨時雇用で明星乗務とは格別ですね。私の国鉄就職時には乗客掛への新規採用での補充はすでになくなっていました。
    2013年11月11日 17:40
  • C58364

    こんばんわ。
    デラックス東寺とか琵琶湖の雄琴は私の会社でも有名で、土曜日の半日勤務終了を待ってマイカーに乗り合せ、毎週のように名神高速をはるばる向かわれたお好きな方たちもおられましたね。
    その頃の私は分割払いで購入したセパレートステレオ(コンポーネントステレオの前のタイプです)から聞こえるFM放送の虜になっていました。AM放送と違い音質が良く、おしゃべりも無いし音楽ばかり聴けるので好きでした。開局したばかりのエフエム愛知のFMバラエティという番組でドゥビドゥビドゥーというテーマソングとともに聞こえるパーソナリティ青木小夜子さんの「こんばんは、こんばんは、もうひとつ おまけにこんばんは」の甘い声のファンになりました。山奥のため付属のフィーダー線ではモノラル受信も難しく、遠く離れた大きな電機店でTVと同じ大きさのFMアンテナを教えてもらい買ってきました。そして父に応援を頼み何十メートルも離れた山の上に立て、なんとかステレオで入るようになりました。隣近所の方から何のアンテナかと聞かれましたが、説明が面倒なので「TVです」と答えておきました。
    盆栽は私も先輩から同じことを言われボチボチと始めましたが根気が続かず、畑に植え替えたら大きくなり過ぎ手を引きました。
    比叡に便乗しての移動・・うらやまし過ぎです。
    2013年11月11日 21:03
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★私は大阪乗務の経験はありませんが、
    鉄友と大阪地区の路線を乗りつぶしたとき、
    宿とした大阪弥生会館へ行く途中のお寿司やさんで、
    持ち帰り寿司を手に入れた思い出があります。
    とても美味しかった記憶があります。

    その弥生会館へ行く途中に
    大阪車掌区があった記憶があります。
    違いましたかね。
    ただ、弥生会館の窓から
    梅田貨物駅が見えた、そんな記憶があります。
    2013年11月11日 23:03
  • TOKYO WEST

    東京車掌区に勤務したことがある私の先輩も、やっと乗務できるようになった急行「銀河」での大阪行が一番の楽しみだったそうです。ところが、平成3年の成田エクスプレス運転開始に伴い、「さくら」「富士」「銀河」が他社車掌区へ移管されたため、大阪乗務もわずかの期間で終わってしまったそうです。
    駅弁屋「水了軒」も数年前に潰れてしまい、大阪駅や新大阪駅の売店も他の店になっており、本当に寂しいです。
    2013年11月12日 01:01
  • しなの7号

    C58364様 おはようございます。
    そういえば、雄琴という言葉もよく耳にしましたね。「何処へ行くとも言わず一人で出ていってしまう人」は、そのあたりが目的地だったかもしれません。
    FMアンテナとFM愛知の件について、すべて自分にも身に覚えがあり、経験したことです。岐阜県の山間部でFM愛知をクリアに受信するのは困難でした。すべてを技術屋の北恵那デ2さんたちに教えてもらって、8素子垂直ダブルスタックのアンテナを屋根上に設置しましたが、低地にある我が家では常にノイズが入りました。
    こういうことをしていたのが、ちょうどこの記事のころで、鉄以外のことに向いてきた時期にあたります。その後は自動車へと興味の対象が移って行きました。
    2013年11月12日 09:26
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様
    大阪弥生会館も、当時からありましたが、食事のためにわざわざ行く人はあまりいませんでした。その手前(大阪車掌区の並び)にあった食事が安い「大阪クラブ」(こちらも宿泊所)へ行く人が多かったです。
    2013年11月12日 09:27
  • しなの7号

    TOKYO WEST様
    大阪乗泊の休憩室でテレビを見ながら寝っころがっていた人たちの中には東京車掌区の方もおられたはずですが、制服を脱げばただの人。顔に「東京」と書いてあれば、いろいろお聞きできたのにと思います。
    水了軒破産の報のときも驚きました。中小駅の駅弁業者の撤退は相次いでいたものの大駅の駅弁業者さんでもこういう時代なのかと思ったものの、同時に自分が駅弁のお世話になることが近年激減したのも事実でした。今ではJR東海の車内販売までもがなくなる時代。さみしいけれど、やはり、めったに車販を利用しない自分がここにいます。
    2013年11月12日 09:28
  • 鉄子おばさん

    お疲れ様です。楽しい話題、153系の写真などなどありがとうございます。岡山県東部在住の私は関西方面に行く時は新快速を使う事が多いので馴染みがあります。初めて新快速に乗った時は221系でした。まだ健在で最近山陰線の電化区間、関西線の電化区間で乗りました。今新快速はと言うとVVVFインバータ制御の223系や225系が運用に就いています。221系の前の117系は地元でも活躍中ですが、だんだん真っ黄色に塗り替えられています。もし私が乗務員で大阪乗泊で過ごすとしたら…やはり次の乗務に差し支えない程度の乗り鉄、カラオケカラオケかな…休日はみっちり一時間練習しますが歌も難しくて思うように仕上がりません。涙
    2013年11月12日 09:48
  • しなの7号

    鉄子おばさん様
    新快速も、あのころから代が次々と変わりました。221系からはJR世代なので、自分の仕事上での付き合いはありませんが、乗り鉄ではよくお世話になる車両です。それにしてもJR西日本の117系などの「せっかく残っている国鉄車両」の単色化には残念至極です。

    国鉄就職当時にカラオケというものはマニアの世界で一般的ではありませんでした。すこしあとになると宴会で8トラックというカーステレオ用のテープで広まっていきました。歌うとスカッとしますね。娯楽もずいぶん変わってきたなあと思います。
    2013年11月12日 18:06
  • サンダーバード46号

    こんばんわ。
    梅田のJRAの場外馬券売り場に行くのに、よく大阪車掌区の建物の前を通りました。
    分割民営化後から暫くの間、大阪車掌区で泊りだったと思われるJR東海や東日本の乗務員さん達と、大阪駅北口前の横断歩道ですれちがった事を思い出しました。
    大阪駅のホームで特急白鳥の到着を待つ、東日本の制服姿の
    乗務員さんを見ただけで、旅情を誘われたものです。
    白鳥も廃止されて10年以上経過し、大阪駅でJR他社の乗務員さんを見ることも無くなり、淋しくなりました。
    大阪乗り入れのしなの号も、現在は米原までは西日本の担当になっています。JRグループといえども、運転や営業のルールが各社共に独自色が強まっているので、止むを得ないのかなと思います。
    2013年11月12日 23:26
  • しなの7号

    サンダーバード46号様
    おはようございます。
    あの交差点の横断歩道にはよく制服姿の乗務員が見られました。国鉄時代は制服が同じでも、貸与されたトランクや胴乱(車掌鞄)、名札の形、着用している組合ワッペンやリボンなどが管理局や組合地方本部によって違っていたので、遠くから乗務で来た人であることが乗務員をしていれば区別できました。
    2013年11月13日 07:38
  • TOKYO WEST

    おはようございます。

    そういえば氏名札に関しては、名古屋鉄道管理局や広島鉄道管理局は丸型で、特徴的でしたね。そういった些細なことからも局の違いが見て取れ、旅行のときでも一般人では感じない旅情?だった気がします。
    余談ですが、東京三局では局のカラーが決まっていて、印刷物や氏名札の色も、北局が青色、南局が緑色、西局がオレンジ色となっていて、どうやら京浜東北線、山手線、中央線の電車の塗色に由来するようです。
    2013年11月13日 09:54
  • しなの7号

    TOKYO WEST様 おはようございます。
    広島鉄道管理局も丸型でしたか。品川乗泊を利用していた時期があって、そこには広島とか下関の乗務員さんも泊まっていたはずですが、まったく記憶にないです(^_^;)
    名局は末期に角形に変更されまして、私は2種類持っています。
    東京の3局の色にはそういう由来があるのですか。存じませんでした。
    2013年11月13日 10:31
  • 北恵那デ2

    私も大阪で多少の時間があるとしたら、カメラを隠し持ちこっそり近隣にて撮影ですかね。あるいは旭屋書店ももちろん行きますよね。どこ行っておったんや?と聞かれて、白状すれば変わり者というレッテル貼られてというところだろうね。
    2013年11月13日 22:28
  • しなの7号

    北恵那デ2様 おはようございます。
    「常に何処へ行くとも言わず一人で出ていってしまい、夜遅くまで乗務員宿泊所へ戻ってこない人」は、あいつはどこへ行っとるんだろう?」とみんなに詮索され、「いちおう仕事中なのに」「協調性がない」「仕事もできんくせに」という方向へ行きつくもんですね。
    荷扱はチームでの仕事で、乗務のたびにメンバーが違うのが普通でしたから、相互の信頼関係も必要でした。拘束時間中も単独行動はあまりしなかったということになります。
    2013年11月14日 06:53
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★この記事とは、
    まったく関係がないのですが、
    「しなの7号」さんの記事に触発されました。
    ボクもあと数年で退職でもありますし、
    自分のブログで、国鉄からJRへと
    今までの経験とか思い出とかを
    いろいろと綴ることにしました。

    思えばいろいろありました。
    激動の国鉄改革、
    「しなの7号」さんと同じように
    別の道を歩き始めた方々。
    残って一緒に苦しんできた方々。
    いろいろな思い出があります。

    なにより、
    通常、50歳代に入ってから
    退職を前提としての出向なのに、
    まさかの40歳代での出向。それも
    放り出されるように次々と転々と。
    いろんな思い出がよみがえります。

    間違いなく「しなの7号」さんと
    同じ時期を同じ職場で過ごした。
    共感できること、懐かしい思い出。
    そんな、様々な思い出が巡ります。

    ごめんなさい、関係ないコメントで、
    もちろん、削除していただいて構いません。
    2013年11月17日 17:31
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様
    私が伝えられないところはもちろん、別の視点で同じものを伝えていただけると、ご覧いただく皆さんには国鉄の姿が、より正確に見えてくると思います。
    始められましたら、ご教示ください。
    2013年11月17日 19:34
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★ボクの「分身」が掲載を始めました。
    「やっぱり、ひとりが好き」という人です。
    2013年11月19日 21:02
  • やくも3号

    しなの7号様 こんばんは。
    高槻にある中学に電車通学をしていましたから、中1になると、ここぞとばかりに通学途上にあるミカド模型立ち寄っていました。が、尼崎から来ている同級生がいて、聞いてみると彼は頻繁に学校帰りにマッハ模型に行っているというではないですか。なので、僕もつれて行けとせがみ、期末テスト中にもかかわらず学校帰りに連れだって旭屋書店に行ったことがあります。
    試験勉強そっちのけで買ってきた鉄道の本を読み、テスト結果は散々だったと思います。
    先日、久々、移転したマッハ模型に行きましたが、狭いスペースに雑然と商品が並ぶ昔のイメージとは異なり、広い売り場は実に整然としていて穴場感がなく、別の模型店に来たような感覚でした。

    私の住まいはサントリーがウイスキー工場(山崎)やビール工場(長岡京)を建てるくらいに湧水がおいしいですが、大阪市内はたしかに水はおいしくないですね。
    大阪の人に「ぼくら京都人が流した水を君らはくみ上げて飲んでるからまずいやろ」というと、滋賀の人に「琵琶湖の水を止めると京都はすぐ干上がるくせに」と言われます。(実際には琵琶湖の水をせき止めると、数日で滋賀が冠水するそうですが・・)
    2019年08月10日 23:41
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    自分が中一のころは鉄分が少なめでした。田舎ゆえに鉄模が趣味という者は同級生(1学年4クラス)の中でたぶん私以外にはなく、情報もなく模型の購入場所は年に数えるほどしか行けない名古屋市内のデパート鉄道模型売場でした。田舎では上水道がなくすべて井戸水だったことを前に書きましたが、名古屋のデパートにある大食堂で出される水がまずかったのは子供でもわかりました。「俺んたあ(俺たち)のウンコシッコが流れていく木曽川の水やでな」と父が言うので納得していました。
    大阪万博があったのが中1のときで、それが2度目の大阪行きでしたが、そのときは旭屋書店もマッハ模型も全く知りませんでした。近年は鉄本・鉄模とも必要があれば通販を利用するので鉄道関連の書店・模型店ともすっかり足が遠のいてしまっています。
    2019年08月11日 14:24
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    【427】(前篇)に引き続きコメントさせていただきます。乗泊の過ごし方について、最初のうちは勉強するよう言われたそうですが、郵便車乗務も全く同じです。乗務し始めは護送便行路が大半で、車内の郵袋整理が終わると次駅まで休憩席に座ったままの待機時間がありました。便長さんらは新聞、週刊誌などを読みますが、カバンに忍ばせた鉄道雑誌など出せる雰囲気でもなく、ずっと鉄道郵便線路図、郵便番号帳、結束表などを暗記していました。行き先地の事務室でも、「半人前は勉強せぇ」と言われ、食事と仮眠時間以外は食堂兼談話室で勉強していたことを思い出します。
    2020年08月18日 11:54
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    就職した年はそんなもので、みんなの手足を引っ張っていましたから、これだけ給料もらって申し訳ないみたいな気にもなりましたし、職場自体が大所帯で、乗務するたびに毎回変わるメンバーの顔と名前を覚えるのも大変で、何もかが勉強でした。乗務中も手が空くと、ニレチがやる事業用書状の仕分けもやってみろと言われました。貨物駅や荷物を扱わない駅も出てきますので勉強になりました。後のほうの記事に書いていますが、一通り仕事ができるようになってからも、作業量の少ない行路で、1往復する間に常磐線の駅名を順に言えるようにせよとニレチから課題?を出されたこともありました。
    2020年08月18日 20:13
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    先輩から教えを受けるのも様々ですね。
    郵便車では、新任の担務に就くとしばらく指導員が同乗して2行路ほど手ほどきを受けて教わっていましたが、クイズ形式の質問もありました。
    その後は独り立ちしますが、習得が悪く作業に遅れが出ても、他の担務者は各自の作業があるから手伝えず、苦言を受けることもありました。このとき「師匠(指導員)は誰やったんや」と聞かれるのが辛いものですから、知らずと勉強を繰り返します。
    よその局ですが、区分担務に昇格したものの、処理が遅いと先輩から注意された人は、自宅タンスの引き出しをすべて抜き、奥さんが古い年賀状に架空住所を書いたダミー郵便物を多く作って、休日も必死に区分練習して一人前になったとか。
    私も一時期、結束表や線路図を持ち帰り、部屋の壁に貼ったことがあります。
    「常磐線の駅を暗唱」は鉄道ファンの特技として誰かがしそうですが、乗務のスキルアップの課題でしたら向き合い方も違ってきますね。
    2020年08月18日 21:21
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    荷扱乗務掛新任者の見習乗務は、新任者が直後に乗る組の行路すべて(自分のときは9行路で期間は約4週間)にベテランが付いてマンツーマンで行われました。良きにつけ悪しきにつけ「先生は誰やった?」と聞かれるのは同じで、
    ・あの先生にしては、あの新人はよくできるな。
    ・あの先生が教えたにしては、この新人は何も知らんな。
    そんな物差しになったことでしょう。いくら駅名を知っていても、毎回メンバーが変わり、仕事の段取りもそれぞれに違いましたし、3人一組の作業ですから協調性も必要で、コミュニケーションが取りにくい新人時代は試行錯誤の連続でした。
    常磐線の駅名は、「【480】思い出の乗務列車40:関西本線 荷44~224列車(後篇)」でも少し触れましたが、隅田川着中継範囲にあたるため、上位班に上がって、汐留を経由せず直接東北方面に直通する荷物車に乗務するとき最低限必要となる知識でした。
    2020年08月19日 20:38
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    見習い乗務期間は郵便車の方が短かったようです。担務に指定されるまでに補助員として各便に乗務して各担務の手伝いを経験ずみだったのと、指導員+見習い2名で1名ぶんの仕事しかできないことは全体の負担となったからでしょうか。
    旭屋書店とマッハ模型に寄られたそうですが、当時としては鉄道書籍の宝庫で、梅田の時間つぶしには最適でした。その後も長年通いましたがグッズ屋に変化していき、2011年限りで本店ビルがなくなり、鉄道コーナーは難波店に移転しています。
    2020年08月20日 00:23
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    私の新規採用時のカリキュラムを見ると、赴任直後6日間の机上講習があり、そのうち実務講習25時間で見習乗務に就いています。それでも見習乗務終了後も先輩の手足を引っ張るばかりで一人前には仕事ができませんでした。「とりあえず、列車から落ちんように乗っていろ」と言われました。
    旭屋書店は、仕事で大阪に行かなくなった後も、大阪に行く用事があれば立ち寄るようにしていましたが、それもネット通販が一般的になるまでのことでした。
    2020年08月20日 20:12
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    【427】前篇に引き続き、書かせていただきます。
    大阪の喫茶店で「冷コ」と注文したそうですが、鉄郵乗務員にもそう呼ぶ人が多く、乗務行き先地の喫茶店でもいつしか通じるようになっていました。ある店に入るや「おねえさん、冷こー3つ」と言うと、近隣の常連らしき人が店員に「新しいメニューできたん~?(語尾を上げる北陸弁)」と聞くので、おねえさんが「れーこーは…ぁ~、冷やしコーヒーの大阪語やん~」と答えており、「冷やしコーヒー」「大阪語」こそ、初めて聞く言葉でした(汗)
    2020年08月22日 22:34
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    「大阪語」で、酒の肴を意味する「アテ」というのがありますが、このブログを始めて、関西の方からのコメントで初めて知りました。大阪乗務では喫茶店には毎回のように行きましたが、飲みに出ることはそれほどありませんでした。真夏に大阪駅ガード下の立ち飲みへ制服(水色開襟シャツ)のまま2人でビール飲んでいたら、「水道屋さん?」と言われたことがありました。
    2020年08月23日 20:09
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    「酒のアテ」って、ふだんから言います。大阪語だったとは初耳ですね。
    大阪駅かいわいの立ち飲みは、ガード下のほか、阪神梅田周辺地下街にも多くありましたが、こちらはリニューアル工事でかなり減りました。そのかわり、駅前第一~第四ビル飲食街に点在していますが、頭上の列車通過音が聞こえなくて雰囲気が違います。
    鉄郵の夏服も水色開襟シャツでしたので、職員通路や物資部に出入りしても国鉄職員と思われていたようです。
    2020年08月23日 22:27
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    関西の方が「アテ」を普通に使うように「ツマミ」を普通に使っていますが、何事も身の回りの常識とは、実は自分の周りだけのことであることに気付きます。それが一歩家を出れば旅だと思う根拠にもなっていますし、言葉の違いもまた旅の楽しみであります。
    荷扱の乗務では、外に飲みに出ること自体が少なく、少量の「ツマミ」と、当時珍しかった紙パックの酒を東京で仕入れて持ち歩き、寝酒として飲む人が多かったです。酒が回っているうちに一気に寝ないと、大部屋ではイビキで悶々として一夜を明かすことになります。
    2020年08月24日 20:08

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