毎月曜日に国鉄就職当時に乗務していた荷物列車がらみの記事が続きますが、今週はこれまでの荷41列車に続いて、荷31列車について触れてみます。
私が国鉄に就職したのは1976年(昭和51年)ですが、このころ私が汐留~大阪間を乗務する下り列車は2本ありました。それが荷41列車と荷31列車です。このほかの東海道本線下り列車にも乗務していましたが、大阪まで乗務するのはこの2本だけでした。これまで何週かにわたって紹介した荷41列車同様、荷31列車も汐留から乗務してきた乗務員は名古屋で乗継することになっていて、行路上は汐留~名古屋間と名古屋~大阪間に分かれていました。荷41列車が、汐留から大垣夜行の続行のような時間帯を走り、中京圏から西が昼行のダイヤだったの対し、荷31列車は汐留を朝出発し、大阪までの区間が昼行となる列車でした。荷41列車が首都圏で集荷した荷物を引き受けたあとは、翌朝の荷31列車までターミナル駅の汐留が深夜帯に入るため、東海道を下る荷物列車の設定はありませんでした。(画像は国鉄監修の時刻表1978年4月号)
そのために荷41列車と荷31列車との時隔は約9時間もあり、中京圏では早朝に荷41列車が下った後は夕方の荷31列車まで荷物列車はなく、汐留を午前中に発車する唯一の荷物列車でもありました。ちなみに東海道本線を山陽九州方面へ向かう下り荷物列車は1日6本で、他の荷物列車の時隔はおおむね2~4時間程度でした。このことから首都圏で集荷した荷物を、午後から夜に地方へ向けて2~4時間おきに荷物列車に積載して汐留を出発していたという当時の輸送実態が見えてきます。また、日中に東海道本線の中間駅に集荷された荷物は、荷31列車以降の急行荷物列車が続行する夕方~夜間までに、区間運転の普通列車に併結されたクモニなど荷電や、代行トラック便によって、急行荷物列車の停車駅のうち指定された大駅(通過区間着発荷物中継駅)へ輸送されて、ここで急行荷物列車に積み換えされるのでした。
この列車は汐留発唯一の鹿児島行でした。(鹿児島本線経由)
それでは、名古屋発時点での編成をご覧ください。
(名古屋発時点・昭和50年3月ダイヤ改正時))
荷31列車 運転区間 汐留~鹿児島
マ ニ 静荷1 沼津~東小倉(宮崎)
マ ニ 名荷2 汐留~米原
ワ キ 金荷203 汐留~米原(富山)
マ ニ 名荷5 名古屋~米原(富山)
マ ニ 名荷8 名古屋~東小倉(長崎)
マ ニ 南東荷7 汐留~東小倉(宮崎)
マ ニ 南東荷4 汐留~東小倉(熊本)
オ ユ 熊郵2 汐留~熊本
オ ユ 南東郵1 汐留~鹿児島
ス ニ 鹿荷201 汐留~鹿児島
ス ニ 鹿荷202 汐留~鹿児島
ス ニ 鹿荷203 汐留~鹿児島
マ ニ 鹿荷2 汐留~鹿児島
牽引機は記録がないですが、浜松以東がEF58。以西がEF61であったと記憶しています。この表には記載していませんが、汐留から「金荷203ワキ」の後ろに名古屋止まりの「名荷3マニ」が連結されていました。
私どもが乗務したのは、編成中ほどの「南東荷4マニ」でした。熊本行の車両でしたが、この列車でそのまま熊本まで行くのではなく、東小倉で切り離され、後続の荷35列車に継承される運用になっていました。
荷物積載方は
1、大阪までの荷物及び九州着荷物
2、汐留発富士、静岡、浜松、豊橋、名古屋、岐阜、京都、博多着中継は急送品に限る。
(大阪~東小倉 締切)
積載方は単純明快で、ちょっと鉄分がある人で、東海道区間とそこから分岐する駅が判っていれば仕事ができそうな区分ですね。大阪からこの車両は積載方の末尾にあるように「締切」となり無人になることから、山陽本線部分は積載されません。その先は「九州着」と一括りにされています。九州には知らない駅名ばかりあるわけですが、荷物切符で駅名が「?」であれば、荷札や荷物本体に書かれた荷受人の住所(県名)を見れば「九州のどこかの線のどこかの駅」へ行く荷物だなとわかるわけで、乗務員としてはそれ以上仕訳する必要がないわけです。以前ご紹介した荷41の積載方のように「〇モ4区分積載」などとされると、素人には駅名事典と鉄道線路図のお世話になる必要が出てきて、積み付け作業がストップしてしまうわけです。
大阪から東小倉までこの車両は締切車となり無人になることから、一括りにされた九州着荷物は東小倉到着後に駅の小荷物係の手で九州島内の各方面別に仕分けする必要がでてきます。その作業のために東小倉で切り離して、そこで仕分け作業をしたうえで後続の荷35列車に連結するのだろうと推察できます。
大阪に着くと、専務車掌(荷扱)は荷物車を施錠封印したうえで下車することになっていました。(封印については機会を改めて紹介します。)大阪駅では荷物を卸したら、九州への荷物の積込がありました。しかし乗務を終え大阪着中継荷物を卸してしまえば、積込は駅側の仕事でしたので乗務員はノータッチでした。要するに勤務時間外の労働はしないよということです。このへんはきっちり仕事の区分ができており、積込がある場合に、乗務員はホーム側の封印を駅側に依頼してよいことになっていました。駅の小荷物係が荷物を積み込み終わったら、駅側で封印するので、私たちはさっさと下車し、乗務員宿泊所へ向かうのでした。乗務員宿泊所では荷41列車の3人の乗務員と同部屋でした。昼から大阪にいるその人たちと雑談したあと、就寝。翌日は荷41列車と荷31列車で大阪に来た全員6名が朝4時過ぎに起こされて上り荷36列車に乗務しました。部屋は8人室で、私どもの車掌区乗務員は2組6人。残る2つのベッドは他区乗務員が使う相部屋でした。6対2では他区の乗務員たちは肩身が狭い思いをされているのがわかりました。
ところで、下り荷31列車の名古屋~米原間には、もう一組、同じ車掌区の乗務車両がありました。編成の前寄りに名古屋から連結される「名荷5マニ」がそれで、米原で切り離され、車両は北陸本線の荷4049列車で深夜富山まで行く運用でしたが、乗務員のほうは米原で交代でした。その先の北陸本線内の乗務は敦賀車掌区が担当しましたが、荷4049列車列車までは米原で時間がありますので、施錠封印して下車しました。そのため締切区間はないものの、乗務員どうしの直接引継ぎはしませんでした。
名古屋から米原まで乗務した乗務員は便乗で京都まで行き、京都の乗務員宿泊所で休養の後、この行路も翌日は上り荷36列車の乗務で、京都から増結する車両に乗務しました。そのため荷36列車には、京都以東は同一車掌区3組9人が乗務する結果となりました。その話はまた後日とします。
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- 【549】 思い出の乗務列車46:東海道本線 荷42列車
- Excerpt: 先週は荷40列車についてお話ししましたが、駅名と線路図の知識がかなり必要な荷40列車に比べて、名古屋から汐留まで乗務する荷42列車(乗務車両は「名荷3」)は、仕事上でも比較的簡単であるばかりか、午後の..
- Weblog: 昭和の鉄道員ブログ
- Tracked: 2015-01-12 06:32




この記事へのコメント
北恵那デ2
C58364
読み終わった時は「気持玉」をクリックしますが、少し経つと?です。荷物列車の積載方は難しいですね。
荷物扉の封印ですがスチール製の幅1cmくらいの長いものですか?。貨車か何かで見たことがあるような・・です。
私事ですみませんが昨日ブログを立ち上げましたので、よろしければご笑覧ください。
しなの7号
荷扱の場合は、1両の車両の中で3人の共同作業であり、しかも拘束時間が長いですから、朝行って夜帰るフツーの仕事とは違って、長時間を3人が共に生活する感覚でいなくてはなりません。もちろん、一緒にいたくない人だっていますし、逆に自分がそう思われていたことだってあると思います。そういう仕事は人によっては苦痛でたまらないという人もいるでしょうけれど、海外へ派遣された方や船員の方とか、全国の現場を巡る仕事の方など、鉄道の乗務員以上に「耐えて仕事をしている」方はたくさんいらっしゃるものと思います。
それでも、国鉄を退職して「フツーの仕事」に就いたときには、自分がしてきた仕事の特殊性をひしひし感じ、シャバでのフツーの生活に「ありがたみ」を感じました。
具体的には、仲が良い友達と仕事が終わってちょっと一杯呑めたり、休みの日に会えること。毎日家に帰れること。こんな当たり前のことが、ままならないのが乗務員の仕事でした。そんなことから、
【399】父の合図灯 V.S 友達の懐中電灯
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201308article_3.html
のようなお話ができてしまうわけです。
しなの7号
封印については、少し先に記事にするつもりです。
封印に使用するモノは、おっしゃっておられる金属製の「封印環」のほか、荷物車の場合はドアのカギ穴に「封印紙」を使用しました。
ブログ名等、よろしければご教示くださいませ。
C58364
私がお尋ねしたものは封印環というんですか、まんまですね。
ドアのカギ穴に紙製の封印紙を使用>は荷物車だったのかな~、どこかで見たような気がします。
ブログ名を忘れて申し訳ありませんでした。これも貴ブログで私が使わせていただいているニックネームのままの「C58364のブログ」でY社のブログです。とてもご覧いただけるような画像ではありませんが、お暇な時にでもおいでいただければ幸いです。
★乗り物酔いした元車掌
「非現業」と言われる業務に就いたとき、
当たり前のように夕方退社、
土日はお休み。
コレがしばらく違和感を覚えましたよ(笑)
年次有給休暇が、かなり余りました。
なにしろ、お休みが必要なのは、
土日が中心でしたし。
でも、「アケ」が無くなったのは、
違った意味で、残念でした。
昔鉄道ファン
荷41列車は岐阜は朝8時位だったかな。運用の都合か、時々東京区のゴハチが牽引してましたっけ。
夕方の荷31列車はEF61で、米原への出場回送のオハ35とかを中間あたりによく連結してましたっけ。
いやぁ、懐かしいです。そして貴重な乗務体験、本当にありがとうございます!
しなの7号
おはようございます。
ブログ拝見しました。これからも時々覗かせていただきます。
封印について本日記事をアップしましたのでご覧ください。
>>乗り物酔いした元車掌様
おはようございます。
昔の土曜日は「半ドン」でした。転職後は明けがなく、私は土曜日の昼過ぎに帰ることが明けのような感覚でいました。
>>昔鉄道ファン様 はじめまして。
御来訪ありがとうございました。
編成メモされながら、檻の中に人がいる!と覗いておられたんでしょうか(^_^;)
岐阜の地平ホーム、なつかしいですねえ。
荷扱の仕事は車両単位の仕事でしたので、持ち場である車両を離れることは基本的にはあまりできませんでした。そのため荷物列車の編成メモはできませんでした。出発点呼では増結車両の形式や、車両形式の変更、機関車の変更は伝達がされていましたが、荷41列車などで東京区のゴハチに変更された日でも何号機なのか見に行くことが困難でした。見に行かなくても色でわかる61号機に当たったことはありませんでしたが、浜松機関区担当列車では60号機に当たったことが複数回ありました。
リフレッシュ(が必要)
しなの7号
ご教示ありがとうございました。
最近の鉄道雑誌にはすっかりご無沙汰ですので、ノーチェックでした。また見ておきます(^○^)