先週は荷36列車がらみで、長時間拘束行路についてご紹介しました。今回は、荷36列車本体に迫ってみましょう。
まず、お約束の編成から
荷36列車 運転区間 東小倉~汐留
EF58(宮原)
オ ユ 大郵3 大阪~米原(長岡)
マ ニ 新荷11 下関~米原(長岡)
マ ニ 南東荷1(松山)岡山~汐留
マ ニ 四荷1 (高知)岡山~汐留
マ ニ 四荷2 (高松)岡山~汐留
オ ユ 四郵1 (高松)岡山~汐留
マ ニ 大荷34B 下関~汐留
ワサフ 門荷201 東小倉~汐留
オ ユ 門郵1 東小倉~汐留
マ ニ 大荷34A 京都~汐留
京都発時点での編成表です。(昭和50年3月ダイヤ改正時)
先週アップしました記事【433】3日乗務「クイチ」のコメント欄へ「昔鉄道ファン」様より、1976年9月23日、荷36列車の岐阜発車時の編成を車番と運用番付でご披露いただいていますので、よろしければご覧ください。
他の荷物列車に比べ短編成ですが、大阪では「門郵1オユ」の後に、この編成表にない4両(オユ・マニ・ワキ・マニ)を切り離しています。この列車の特徴はごらんのように四国からの航送車両が連結されていたことです。列車の始発地九州から終点汐留まで直行するのは「門荷201ワサフ」と「門郵1オユ」の2両だけで、四国からの車両が4両も連結されていました。
大荷34にはAとBがありますが、車両に標記された運用番はどちらも「大荷34」で、車両の所属区は大キト(向日町運転所京都支所)でした。この運用は、所属区の京都を荷36列車でスタート(A)したあと、東へ西へ運用され、また荷36列車に下関から連結(B)されているということです。「B」のほうは前々日あたりに「A」として最後尾に連結されていた車両のはずです。運用表が手許にないのでこの程度しか説明できませんが、そのような事情で同一列車に同じ運用番の車両が2両あるために、AとBを付して車両を特定していたのです。
この荷36列車には私が所属した車掌区の乗務員3組9名が乗務した列車で、1組ずつ乗務車両が指定されていました。(このほかにも他区乗務員が乗務していました。)
前日の荷41列車で大阪へ行って暇を持て余していた1組(8行路)は、南東荷1マニが乗務車両でした。四国の松山から予讃線(128列車)、高松から宇高連絡船(38便)で航送、宇野から岡山まで荷2048列車と継走し、岡山でこの荷36列車に連結されていました。
南東荷1の荷物積載方は
1、岡山~大阪間着中継急送品及び草津~汐留間着中継荷物。ただし横浜着中継荷物を除く。
2、四国管内及び静岡局発隅田川以遠着荷物。ただし静岡局発は急送品に限る。
3、新居浜発京都着貴重品。
大阪までの乗務員は明石車掌区でした。いつも草津以東の荷物もできるだけ中継駅ごとに仕分けをしてきてくれましたので、ほんとうに助かりました。
この南東荷1の積載方で目立つのは、「3、新居浜発京都着貴重品」です。この発着駅に限らず、この車両では四国からの「ある種の特別な貴重品」(*後述)がよく積載されていました。
一般的な「貴重品」について少しお話しましょう。
当時の時刻表には荷物列車の時刻が掲載されていたばかりではなく、ピンクのページには「手荷物・小荷物」の営業案内も掲載されていました。では、貴重品の扱いについては、時刻表にはどう記載されているのか気になって先日見たところ、さすがに一般的ではない荷物なので具体的な記載は何もなく、あらかじめ駅で尋ねよということだけしか書かれていないのでした。(いずれも1978年4月号時刻表)
「貴重品」とは、規則には細かくその意義が書かれていまして要約すると、主なものとして貨幣、紙幣、印紙、郵便切手、有価証券、貴金属、宝石、美術品などでした。
貴重品の輸送に当たる場面は、それほど珍しいものではありません。貴重品は管理責任者の専務車掌(荷扱)「ニレチ」が目の届く車掌室寄りに設けられた貴重品室に保管され、そこは物置のような金網がついた引戸で隔離できるようになっていました。上の写真の赤枠の部分です。この模型では摺ガラスになっている部分ですが、車両によっては窓がない場合もありました。貴重品室には乗務員が持ち歩く私物も常時入れておきました。ニレチの目の届く場所なので一番安全な場所と言えます。ちなみに通路を挟んだ反対側は便所でした。貴重品の授受に当たっては、現物とニレチまたは駅が発行する特殊荷物用授受証という伝票で照合されました。画像の例は、私が書いた特殊荷物用授受証です。私はニレチを経験していませんが、普通車掌(レチ)時代に武豊線と岡多線で荷扱行路があったので、その中で発行していました。複写で作成し、控片が発行者(この場合は車掌)手許に残ります。冊になっていたので、1冊使用したら控片は車掌区へ返納することになっていたのですが、最後まで使用していない1冊がそのまま手許に残ってしまったものが、この画像です、私はそのままカレチになって、その際に不要になったわけですが、返納するよう何も言われなかったのは、使用済みの授受証は、事故等が何もなければ、事後の照合などはしなかったということなのでしょう。
この授受証では、事業用の書留としてありますので、荷主から運賃をいただいている荷物ではありません。事業用の物品を書留扱にするケースとしては、印刷所から駅へ送ったり、逆に現場から鉄道管理局へ返納する未使用の乗車券や、鉄道管理局長が発行する乗車証の類が多かったと思います。そのほかには、回送する忘れ物の現金入り財布も、同様に貴重品扱いで輸送していました。。こうした事業用物品のほか、私がよく見かけた貴重品扱いの荷物は、証券会社の証券類が一番多く、「額面1億円」とか書いてあると、ちょっと緊張してしまいました。
ところで、さきほど記しました荷36列車の南東荷1でよく見た「ある種の特別な貴重品」の中身とは…
これはチョコレートの画像ですが、ホントの貴重品は
「金塊」でした。
新居浜と言えば別子銅山が有名ですが、金の産出の有無については私の知るところではありません。「金塊輸送」があるときは、前日車掌区を出るときの出発点呼で、助役から伝達があり、「○○発××行 何㎏の金塊が何個」と知らされました。金塊は専用のジーンズ地のように厚い布袋に入れられ、バイクの盗難防止用のロック金具のような頑丈な金属棒と南京錠で封印されていましたが、触れば布袋ごしに、長さが30センチくらいで、このチョコレート画像を大きくしたような金塊の形がはっきりとわかりました。多い時だと複数の袋に分けて10本近くあったこともあって、みんなひとかけらでいいからほしいなあと言って袋の上から撫でていました。
そればかりか、主要駅では鉄道公安職員(一般に鉄道公安官と通称される国鉄職員)が、金塊の個数の確認のため立ち入ったりしました。なかには次の駅まで添乗していくという公安職員もいて、「(邪魔くさいから)乗ってきてもらわんでもええ」と追い払うようにお断りしているニレチ氏もいました。
荷36列車は急行荷物列車でしたから通過駅が多く、金塊を奪おうとすれば映画のように列車を止めなければ奪うことはできず、むしろ金塊輸送の事実を知っていて添乗したいと言ってくる公安職員の方が本物の公安職員なのかアヤシイんじゃないかとも思えました。
この金塊、小さくてもほんとうに重いもので、あの重量感は今も忘れられません。ちょっと調べてみたら、鉄の比重は7.96。もっと重いと思う鉛でさえ11.34.金は・・・なんと19.3でした。鉄の2倍よりも重いのですから、こんな小さい塊だからと思って、鉄のつもりで盗もうとしても、とても走って逃げられませんね。






この記事へのコメント
北恵那デ2
しなの7号
貨幣輸送は記憶にないですが、小口の紙幣の輸送は一般荷物車でもありました。マニ30の実態は私も存じませんが、東海道本線の荷物列車では時々連結されていました。荷36列車のように上り列車の場合は、古い紙幣をたぶん日銀本店あたりに回収する目的の「廃札輸送」でした。では下りの場合に新札輸送があったのかどうかについては、該当列車に乗務したことがなく存じません。
C58364
荷物車の手配・メンテや積載物・積載方法などの管理は客車区などでされていたと思います。古い荷物車(失礼ですが)で何日も運用するのでいくらメンテしていても旅先での故障はあり、以前お述べになっているように欠車もありでしょうね。荷物車の予備車両がそんなにあるとは思われず、ましてや旅先では修理手配が簡単では無くその上、乗務区への連絡や積載荷物の積替え・代替車両の手配など大変だったでしょうね。
交通インフラの未発達の時代には、鉄道が輸送の根幹であり貴重品も運んでいたのですね。今も昔も貴重品と縁のない生活をしていますので金塊など想像もできません。
しなの7号
大変申し訳ありませんが、営業職場の職員であった私には客貨車区の方のご苦労はまったく存じていないんです。古い客車を改造した車両のメンテには莫大な努力と職人魂で対処されていたことは感じています。それはボロ車両が時速95キロもの高速で全国を駆け巡っていたのに、「欠車」の理由は故障によるものはほとんどなく、天候による連絡船の欠航や鉄道事故、天災によるものがほとんどだったからです。
国鉄時代は基本的に全国統一の仕様に加え単純な車両構造だったので、運用途中での少々の不具合にも他所の保守修繕現場で対応しうる「システム」であったのだと思います。
しなの7号
積載物・積載方法などの管理は客車区ではなく、すべて本社で策定され鉄道管理局旅客課から車掌区や駅といった営業職場へ下される性格のものでした。客車区や貨車区は機関区同様運転関係の職場で、車両そのものの管理をする現場でした。
昔鉄道ファン
大荷34の解説、ありがとうございます。実は手元のメモにはちゃんと「大荷34、大キト」と書かれていましたが、コメントするうちに「あれ、これ誤記?」と思いあの表記にしてしまいました。同じ列車に同じ運用の車があったのですね…懇切な解説、ありがとうございます。
金塊のお話、現場を経験された方の貴重なお話だと思います。ありがとうございます。
マニ30のお話があるようですが、同じ荷36レでマニ30を連結した編成メモです。岐阜発車時、発車直後の走行中のものの拾い書きなので、運用番迄は拾えていません。
1977年11月2日 荷36レ
EF5841[宮]+マニ302002(南トメ)+マニ37103(広セキ)+マニ36323(南トメ)+マニ60677(四コチ)+マニ60514(四カマ)+オユ1211(四カマ)+マニ60132(大キト)+ワサフ8014(門モシ)+オユ1235(門モシ)+マニ3652(大キト)
この時代のマニ30は、茶塗りの旧型ですね。
またまたついでの編成メモ。今度は貨物です(…暇な高校生でした…汗)
1977年4/2の1990レ…米原操発稲沢操行きだったと思います。
EF654[米]+ヨ8209(名イナ)+トラ57834+トラ55635+トラ57357+トラ58180+シキ552+ヨ8366(門モシ)+シキ801+ヨ14260(大スイ)
トラ車は全て、越後金丸→尾張一宮、積荷は長石18t(よって、すべてストラ車)、シキ552は和田岬→上松、発電機32t。シキ801は有佐→新芝浦、空車。大物車を2両も繋いだ、なんとも珍妙な編成です。
しなの7号
NゲージTOMIXの165系が高価なので、既存のKATO製で我慢の子のしなの7号です(^_^;)
荷36列車は編成が短いからかこの手の増結が他列車より多かったような?
マニ30の後のマニ37も増結車で、さらにその後ろが南東荷1のようですね。このパターンは増結車のマニ37にお手伝いに行かねばならない編成です。
1990列車は乗務していませんでしたね。1年半足らずの貨物列車乗務のなかで大物車シキに当たったのは1度だけでした。
↓
【26】MICRO ACE シキ800と昭和55年4月10日の岡多線の大物車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201006article_12.html
C58364
欠車の理由が車両故障ではなく、欠航などによるものがほとんどとは驚きました。ご教示のとおり客室設備もなく、一昔前の客車模型のように客室がない単純な構造と、全国統一のシステムだから故障対応も現場で速やかにできたからかも分かりませんね。
客車区は車両管理のみで機関区と同じだったとは思いませんでした。考えてみれば積荷が全国にわたるため、管理局が仕切らないと無理だったのでしょうね。
ご担当された職務外の話題で申しわけありませんでしたが、貴ブログへ初めてお邪魔した時から疑問に思っていましたのでお尋ねしました。これでスッキリとして貴ブログを拝見できます。ありがとうございました。
しなの7号
客車も貨車も構造的には今の鉄道車両より構造が簡素であるとともに共通化されていたので、安定していたのだと思います。
国鉄は
機関区・客貨車区などの運転関係
駅・車掌区などの営業関係
保線区・電力区などの施設関係
の3つの系統に分かれ、役所らしく縦割り組織でした。
うさお
貴重品室は昨年、三田市にあるマニ50ではじめて見ました。金網引き戸の棚がある形状のものでした。
1977年から78年まで36レの編成車番リストもある本に掲載されておりました。
しなの7号
そういえば、いまだに三田のマニ50には会いに行っておりません。荷物車は接客設備がないので、がらんどうで何もないようなイメージで捉えられがちですが、荷物輸送ならではの設備があるものです。
資料や実車。探せば出てくるのですね。
うさお
こんばんは。三田のマニ50は色こそ??になっていますが、車内の原型は比較的保たれているかと思います。
機会があれば見に行かれてみてください。
編成車番リストは著作権もありそうなんで、書かずにします。
しなの7号
三田のマニ50ほかのご教示ありがとうございました。
鉄道郵便車保存会 会長
荷36列車は郵便輸送の観点からも興味深い列車でした。冒頭の編成で、3両もの郵便車が見られ、郵便車では数少ない「多層建て」でした。東小倉から「門郵1」のオユ10又はオユ11(東京門司間上三号便)があり、岡山から「四郵1」のオユ12(東京岡山間上護送便、高松発連絡船航送)が連結されており、大阪~米原間では「大郵3」のオユ10(大阪長岡間下り便)が加わりました。大郵3は米原で切り離され、523列車に連結されましたが、隣の新荷11もいっしょだったと思われ、こちらはずいぶんの長旅です。
郵便線路名では、大阪~米原~青森が阪青線となっており、各便とも大阪米原間は急行「急行きたぐに」又は北陸行き荷物列車に連結されていたのですが、阪長下便に限り東海道線荷物列車のお世話になるという異色の運用でした。
また、大阪でオユを切り離したというのは、「大阪門司間上り便」で、こちらは53・10改正で廃止されています。
荷物車それぞれに積載方があったように、36列車にからむ4両の郵便車にも個々の使命に合わせた積載方、車中区分処理がありました。
しなの7号
荷36列車は関係する郵便車が多いのも特徴ですね。
車両は四国発のほか北陸へ向かうのもあり、枝葉部分が多い列車だったことになります。幹となる九州対東海道の車両が少なく牽引定数に余裕があったからなのか、繁忙期に臨運用の増結がよくある列車でした。
鉄道郵便車保存会 会長
大阪駅で明石車掌区から引き継いだとのことですが、同区は西明石駅にあり、荷物列車は通過するのに乗務していたとは意外です。(西明石発着の電車だけ乗務すると思っていました) おそらく、電車便乗を伴うS行路が組まれていたようですね。
1編成の荷物車ごとに複数の車掌区が乗り合わせていたそうですが、郵便車では編成内に2両連結されていても担当路線ごとの鉄道郵便局が同じなので、乗務員も同一所属となるのが大半でした。例外もあって、大阪~米原間は、東門便は名古屋鉄郵(浜松まで)、阪青便は大阪鉄郵(敦賀まで)でしたから、同一列車に2つの鉄郵が乗るのは当時は荷36列車だけでした。上野~長岡間など、列車により乗務鉄郵が違う区間もありましたが。
しなの7号
明石車掌区の前身は神戸車掌区でしたから、その伝統が引き継がれ長距離列車も受け持っていたのではないでしょうか。接点はこの列車だけでしたから、ほかのことは知りませんが、本文に書いたようにきちんとした引継には好感が持てました。
実際、昔のことを調べたわけではないので、ただの仮説ではありますが、別々の車掌区で受持っていた急行旅客列車併結の荷物車が急行旅客列車が廃止されるにつれ、荷物専用列車として集約されていったと考えるなら、一つの荷物専用列車を複数の車掌区で受け持っていたのは当然の結果だという捉え方ができるのではないでしょうか。
当時の荷36列車では6両の扱車を3つの車掌区で担当していました。(京都~米原間の数。)それも53.10から、荷物列車は原則として1列車1車掌区にしていく方向性が示されましたが、直ちにそうはなりませんでした。
鉄道郵便車保存会 会長
荷物列車で複数の車掌区が担当した経緯が急行列車からの集約にあるという説は理解できるところです。むしろ郵便車以上に増結や解放、他線直通が多い荷物車では、車掌区も個々の車両に適した区が受け持つほうが理にかなっているとも思えます。
明石車掌区からの引継ではていねいな仕分けだったとのことですが、郵便車は画一的というか、郵袋をどのように積んで引き継ぐかは鉄道郵便局相互の協定に基づき、平面図まで作られ、一部を当ホームページ資料館に置いています。
大阪駅東門上二号便、上四護送便引継ぎ
阪糸乗務員⇒浜阪乗務員
http://oyu10.web.fc2.com/sekisai-toumonueni-ueyongo.jpg
この図に示されない、京都や米原降ろしの郵袋はドア近くに積んでいます。自発的にていねいな仕分けをするというのではなく、例えば扱い便車中では京都、大津宛はすべて郵袋で締め切っておくなど、協定通りの締切りと引継ぎをすれば、おのずと後の乗務員が作業しやすい仕組みでした。
しなの7号
鉄道郵便局間の引継協定は、以前にもご教示いただいていますが、荷物車は業務上最低限必要なことは、車両ごとに荷物積載方で「〇〇着中継荷物は車掌室寄区分積載」のように指定されます。乗務区間・積載方とも1両ごとにまちまちなので、画一的な協定を結ぶのは困難だったと思われます。
また、引き継ぐ場合に直近の駅で卸す荷物を区分しておくのは常識でした。
荷36列車の南東荷1の場合、本文に書いたように積載方指定の「1」で「岡山~大阪間着中継急送品及び草津~汐留間着中継荷物。」とあります。京都着中継が除かれた意図は不明ですが、大阪での引継ぎ後に約1時間の仕分け作業時間が確保されていたと見ることもできます。しかるに、引き継ぐ先のホーム側も考慮された明石車掌区の仕分けは見事でした。伝統を引き継ぐ車掌区の誇りと見るか、他区への思いやりと見るか、あるいは、労組を通じて個別に話が出来上がったものなのか、私には判断ができません。
鉄道郵便車保存会 会長
荷物車も郵便車も乗務員交替直後の作業がうまく運ぶように引継ぎと積載が行われることがよくわかります。
貴重品のお話ですが、現金や金塊まで一般荷物車で運ばれていたとは知りませんでした。部外者の感覚では、公安官が必ず同乗すると思うのですが、それだけ貴重品室が強固で、乗務員の取扱いが信頼されていたということでしょう。荷レチさんに断られた公安官もいたそうですが、同乗して貴重品室の前に直立不動で立っていられると作業しにくいでしょう。
郵便車では書留郵便物に現金が入るので実質の現金輸送車で、全室扱車だと数千万運んだと言われ、よく強盗に入られなかったと今さら安堵しています。なお、欧米の郵便車では現金袋の輸送をし、搭載区画は金網の仕切りと施錠を設置した車両もありましたが、イギリスで強盗団に奪われた実話が映画にもなっています。マニの貴重品室では運べない大量の紙幣は、マニ30のような専用車が必要となったのでしょう。
しなの7号
貴重品輸送については、時刻表にも詳しく書いていないくらいですから、一般に知られざる部分であったことでしょう。金塊輸送では、東海道本線に限って言えば急行荷物列車の停車駅の多くに鉄道公安室がありましたから、停車駅ごとに現物確認できる体制をとれるということもあって、添乗を省略できたのではないでしょうか。乗務員が1両につき3人もいることだけでも犯罪抑止効果があったと思います。転職後の会社で高額の現金や小切手・手形の類を取引銀行の夜間金庫に持っていく部署に在籍したことがあり、必ず2人で行くように言われていたのに、実際には1人で行ったことが幾度もありました。そこから転勤したあと、その銀行で強盗事件が発生しました。身近な場所でのことだけに、たいへんアブナイ仕事をしていたと改めて思いました。
(のちに警備会社が取りに来てくれるようになりました。)
鉄道郵便車保存会 会長
荷物車の貴重品室で現金や金塊が輸送できたのも十分なセキュリティが確保されていたからでしょう。
また別のページでコメントさせていただきます。