前日の荷31列車で大阪へ行った組(9行路)は、大阪から荷36列車の「大荷34Bマニ」に乗務しました。これは以前ご披露したS行路の3日乗務のうち、名古屋を通り過ぎ日中の東海道を汐留まで乗り続ける「9行路+1行路」の「クイチ」の2日目にあたります。大阪までの乗務員は岡山車掌区で、この大荷34Bは下関からこの列車に連結された車両でした。
積載方はいたって簡単明快で
1、 広島~汐留間着中継荷物。ただし大阪着中継を除く。
2、 隅田川以遠着貴重品。
このように、あっさりした積載方は、「○○を除く。××に限る。」などと言った制限が少ない分、駅側としては、積みやすいわけで、乗務員側としては集中攻撃を受ける結果となります。
同じ列車でも南東荷1で明石車掌区の乗務員がきちんと仕分けしてくれていたのに対し、岡山の乗務員は次停車駅である京都着中継分しか区分してくれませんでしたが、私たちでも山陽本線の駅順と中継駅と範囲を全部知っているわけではないので、責めるわけにはいきません。
それに常にこの運用は積載効率がよく、大阪駅で引き継ぐと、荷物室内は通路が空けてあるだけで、両側は天井まで荷物がぎっしり積まれて満載状態でした。多い時だと1,000個を超える荷物を、米原の到着までの1時間半で卸すべき駅ごとに仕分けなければならないのでした。スペースさえあれば何でもないことですが、狭い車内に荷物は満載されているのですから、車掌室の空きスペースや反対側のデッキ部分(作業スペース確保のためデッキ部分には原則として積載しないことになっていた。)と通路に一時的に荷物を置いたりして、揺れる車内で悪戦苦闘するのです。そのさなかに京都でも、どさっと荷物を積み込まれ、「荷物に呑み込まれる」行路でした。この大荷34Bでの作業は、ベテラン同士ならともかく、新米の私ではとても太刀打ちできないもので、先輩の皆さんに迷惑をかけたものと思います。その日の顔ぶれによっては「あんなメンバーで大丈夫かな?」などと陰で言われるような行路でもあり、3日行路であることも加わって「クイチ」は、みな嫌がる行路でした。(【18】乗務掛3:荷物車の中は…から再掲。)
これは大荷34Bの様子ですが、このときは最高に「少ない」状態でした。通常は通路両側はびっしり天井まで荷物の壁ができました。一番奥がデッキ部分で、空けておくはずのスペースに荷物が置いてあるのがわかります。水が出る鮮魚など、他の荷物を濡らしてしまう恐れがあるものは、あえてデッキを使用して隔離したりもしました。デッキ部分と荷室部分との境は、左右各2本ずつの天井まである取り外し可能な鉄パイプで区切られています。画像でもパイプが見えています。
通路床部分と荷物の壁との間には拳1つ分スペース余分に空けて通路兼作業スペースを広く取って作業に支障がないようにし、荷物切符は必ず通路側に出し、いつでも確認できるようして積み付けるように指導されました。さらに荷物の壁は凸凹にならないよう面一にするよう心がけ、作業中の傷害事故防止と美観にもこだわりを持った職人気質の方も大勢居られました。職人が積む荷物は、走行中の振動で荷物の壁が通路側に倒れることはなく、倒れていく方向が車両の壁面側になるよう計算されていました、このことによって荷物の壁の上部が側壁で支えられ、結果として荷物の壁が崩壊することはなく、むしろ安定するのでした。
素人ではそううまくは積めず、一仕事終わって乗務員室で休憩していると、先輩から「ちょっと荷物室を見てみろ」と言われたことも何度かあります。私が積んだ部分だけが、振動で左右にゆらゆら揺れています。先輩が積んだところは、サスペンションのような上下動だけで左右の不安定感が全くなく安定しているのでした。
「あれでは汐留までは持たんやろう。沼津まで持てばええと思うけどうや?」
積み直そうとすると、引き止められて
「どこで崩れるか賭けをしよう」
と言われるのですが、どう見ても汐留まで持ちそうにないのは、素人の私が見てもわかります。賭けをするまでもなく早々と上の方の荷物が通路に落っこちたり、荷物の壁全体がブロック塀が倒れるように通路に散乱したのでした。
大荷34は向日町運転所京都支所の所属車両で、マニ36が中心だった汐留客貨車区の運用である南東荷1よりマニ60に出くわす確率が高く、東海道本線のように高速で走る場合には振動が多く、しかも名古屋を通り過ぎ汐留まで通し乗務という踏んだり蹴ったりの行路でした。
(左 マニ60 右 マニ36)
≪追記≫2013/12/10画像を一部差し替えました。





この記事へのコメント
北恵那デ2
しなの7号
揺れは、上下左右には当然あるものなので、覚悟していますが、自動連結器の遊間によって突然起こる前後の衝撃は作業中に足をすくわれるので危険でした。
荷物の紐掛けは当時は常識でしたね。先週アップした記事のなかに当時の時刻表の「荷造りと送付のご案内」のページの一部の画像をアップしましたが、その中にも「荷札を荷物にくくりつけてください」という表現があります。紐がないとくくり付けられません。「貼る」ことはダメだったのですね。手鉤を紐に引っ掛けたりして仕分け作業をしますので、紐掛けは作業上も必須でした。
C58364
上下左右そして前後に揺れるオンボロ荷物車に乗って、荒縄で縛った荷物を天井近くまで倒れないように積み上げるのは非力な私には無理な世界ですね。
そもそも荷物の縛り方が父のように少々のことではびくともしない縛り方をした荷物と、私が縛った荷物のようにすぐ縄がゆるむ物があると安定感が違いますよね。そんな荷物が数多く混載されると余計に大変だったでしょうね。
私の会社にも職人気質の先輩が数多くおられたので、早くその域に達したいと目標にしていました。
乗り心地ですが車軸にコイルバネがあるマニ36と、旧型で車軸にバネが無くイコライザー式のマニ60では全然違うでしょうね。
昔鉄道ファン
小生、列車編成メモを取る間に、荷物車の保護棒の向こうに見える、うず高く積まれた荷物を覗き込むのも好きでした…よくこんなん詰めるなぁ…って関心したのを思い出します。
荷物の中で特に印象深いのはヒヨコ。
荷物箱の丸い穴からヒヨコの顔が見え、ピーピー鳴いてましたっけ。窮屈な思いしてたんでしょうね‥
臨時荷物列車の中で、思い出深いのを一つ書いてみます。青森から長駆の荷9047レ、米原行き。1975年10/30、岐阜発時の編成です(運用番は控えてありません)
EF5878[米]+マニ602409(盛アオ)+マニ602688(名マイ)+ワキ8962(名ナコ)+ナハフ112005(名マイ)
ナハフ11は回送車ではなく、荷物車扱いだったようで、ブラインドの閉められていなかった車窓越しに、通路や座席に荷物が積まれていたのが見えました。当然、水物不可なのでしょう。
しなの7号
この仕事は、けっして体格もよくない自分には不向きな仕事でした。鉄道が好きだったのと、駅名線名線路図がある程度頭に入っていたことが救いでした。
しかし、繁忙期でもなければ、暇な列車はたくさんありましたし、列車の運転に関係ないのは車掌と比べて気楽でした。
紐の掛け直しや、内容物が露出した場合の応急処置なんかもしましたね。時速95キロで飛ばすとマニ60とマニ36の振動は明らかに違ってきました。
しなの7号
お召し姿のEF6477、私も拝みたいものです。
ヒヨコはよくあるお客さんでした。隙間から逃げ出して荷物室内を逃げ回った子もいましたね。
臨時荷物列車、1975年というと私はまだ就職していませんね。この編成、青森までだと電気暖房が必要ですから2000番台のマニが名古屋局では足らず、手配できなかったのでしょうか。
このあと、長距離の場合は貨車やコンテナによる拠点間の代行輸送が拡大化していきました。この列車、模型で再現すると面白そうです。
過去に【325】思い出の乗務列車10:キニ併結 急行「紀州5号」(4)https://shinano7gou.seesaa.net/article/201210article_9.htmlで書きましたが、キニをキハに変更されたことがあり、極端に作業性は悪くなりました。
鉄道郵便車保存会 会長
大荷34Bの様子を読ませていただき、大変な作業だったと拝察します。荷物列車に連結されていた郵便車は扱い車、護送車、パレット車の3タイプありましたが、最もマニ車に似ていたのは護送車で、区分設備がなく、車端の車掌室と中央部の休憩室を除くとすべて郵袋室という郵袋置き場でした。オユ12の積載可能な郵袋数は図面では906個とされており、おそらく車室容積と郵袋平均容積の推定で割り算したようですが、実際は満載すると1000個を超過していました。マニ車1両で1個あたりが郵袋よりも大きくて重い小荷物を1000個も積んでいたとは想像もしていませんでした。
しなの7号
荷物車の荷物は、雑誌数冊の包みでも1個、大きな布団袋でも1個ですが、一般的なミカン箱やリンゴ箱を標準にすれば1000個程度でマニは満載状態になりました。一般に地方から都市部へ向かう荷物は大きさの割に重い傾向があり、それは一次産品が多かったからだと思います。マニ60の荷重は14トンですから
14000㎏÷1000個=荷物一個あたり14㎏
と考えると、だいたいの感触がお判りいただけるでしょうか。
鉄道郵便車保存会 会長
1個平均14㎏はきついですね。郵袋は、1個10kg前後のものが多かったと記憶します。
積み方が難しかったことは郵便車も同じで、角張っていたり丸い形状のものが順不同に積まれてくるので、整形しながら城の石垣のように積み上げるよう訓練を受けました。このとき、小荷物のように中央通路を開けて左右の壁にもたれるようにすれば多くを積めないので、車端に積む遠方宛てを妻面に押しつけるように積み重ね、手前は降ろす駅ごとの石垣積みをいくつも作って床を埋め尽くすので、うまく積み上げないと振動で崩れました。郵袋は崩れてもまた積むだけで中身の破損は想定しませんが、小荷物が崩れれば郵袋と違って破損するかもしれず、いっそう神経を使ったと思われます。
しなの7号
小荷物は軽いモノから重いモノまであって1個あたり30㎏までOKでしたから、荷物の形状や角のつぶれ具合などで、だいたいの重さを目視で予想して積んでいきました。そうしないとうまく積めないだけでなく、腰を傷めたりします。逆に重いと思って、手鉤をひっかけて思い切り引いたり持ち上げようとすると、実は軽くて後ろ向きに転倒してケガする場合も無きにしも非ずで、「荷物と相撲を取っとる」と言われました。
易損品は一般の荷物とは別に荷棚(上の車内画像でわかると思います)に載せるなどして、落下したり下敷きになってつぶれることがないようにしていました。駅との授受のときも投げたりせず手渡しでした。
鉄道郵便車保存会 会長
腰痛は荷物車乗務にもついて回ったようですが郵便輸送部門でも昔から職業病でした。
小さな郵袋で軽そうに見えて重かったのはそうめん木箱で、持ち上げると腰にぐっときました。おまけに足元に落とし、足の指が腫れ上がる始末で(泣) 反対に重そうなものはやっぱり重かったですが…。
また別ページでコメントさせていただきます。
しなの7号
就職したころにはリンゴ箱やミカン箱が木箱から段ボール箱に変わっていたので、たぶんケガも減ったと思います。
そして、今ではその段ボール箱も当時より小さくなっているようです。