【439】 思い出の乗務列車37:東海道本線 荷36列車「大荷34A」

もう一組の荷36列車の行路である、京都乗り出しの大荷34Aのほうは、大荷34Bよりキツイ行路でした。
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大阪泊りの行路は2組あったので、「ニッパチ」「クイチ」というように行路ごとの区別が必要でしたが、京都泊りは1行路しか設定がなかったので、この行路は単に「京都」と呼んでおり「京都の36はエライ!クイチよりエライ!」と言っていました。エライというのは名古屋では「しんどい。つらい。」の意味で使います。

こちらの積載方は
1、草津~汐留間着中継荷物。ただし横浜着中継荷物は汐留中継。
2、草津~米原間着中継荷物は車掌室寄り区分積載<京都駅>

前日、荷31列車の便乗で夜京都へ着いて、京都の乗務員宿泊所まで歩いていく途中に山陰線ホームの隅っこの方に荷物ホームがありました。そこには翌日の荷36列車に連結される大荷34Aマニが留置されていて、すでに荷物が積み込まれかけていました。大荷34Aは西からの乗継ではなく、京都で荷36列車の最後部に増結される車両なのでした。この時点では、まだ大した数の荷物は積まれていませんでしたが、未明のうちに前日近隣駅から発送され荷電や代行トラック便で京都に集められた荷物と、山陰本線の列車からの中継荷物がドッサリ積み込まれていくのです。前日夜の時点で、すでにたくさん積み込まれているような状態であれば、翌日はそうとうきつい作業になるので、この様子は3人の関心事でした。

京都の乗務員宿泊所は、この荷物ホームを通って通用口から外へ出て、今のビックカメラの北側あたりにあったはずですが、最近行ってないので現状を知りません。以前は列車からも見えたのですが、周辺の線路沿いにビルが立ち並んで見えないのです。地図を見ると、その周辺は当時とは大きく変わってしまっていて、すでに国鉄時代の乗務員宿泊所は存在していないようです。そのころは、乗務員宿泊所の窓から旧京都グランドホテルの回転レストランの灯が見えていたのですが、記憶が正しければ、現在は新たに建設された周囲のビル群にさえぎられて見える位置ではありません。

翌朝、起きて本来は京都車掌区へ出向いて出勤するべきなのですが、車掌区が離れた場所にあったので、直接出勤はせず、電話をかけて済ませていました。その代り、荷物ホームに留置してある荷物車へ直ちに乗り込んで作業を始めるのでした。駅の小荷物係は、積載方どおり「草津~米原間着中継荷物を車掌室寄り区分積載」してくれる以外には、何も配慮はありません。通路さえ確保してもらえず、車掌室から荷物室に入ると、荷物の山によじ登って、天井との隙間を這うように進んで、空けてある反対側のデッキ部分に降り立ち、そこから仕分け作業を始めるのでした。いつでも積載効率はよくて1000個前後の荷物が積み込まれていました。荷36列車到着の少し前に、大荷34Aは荷物ホームからDD13によって神戸方へ引き上げられました。
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荷36列車が京都駅に着くと、大荷34AはすぐにDD13に押されて荷36列車の最後部に連結されたのです。
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最後尾になるため、荷扱専務車掌は尾灯を点灯させました。
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客貨車の乗務員の七つ道具の一つ。
左は室内灯や尾灯を入切するための配電盤やスイッチを操作する電鍵(デンケン)。
右は客車の施錠開錠するための客車鍵。ラッチ式の錠を操作するのでラッチ鍵とも言いました。
車掌になる前の私たちにも貸与されていた道具ですが、写真のは父の遺品です。
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私が所属していた車掌区では、乗務掛(荷扱)班はベテランぞろいのA組から新人のC組までの3組に分かれていました。
「今日は1000個あった」「この前は800やったで楽勝のはずやったけど、ニレチ(荷扱専務車掌)が新人やったし、もう一人が××サンやったで、あかなんだわ」と、扱個数やメンバーがいつも話題になった行路でした。「京都」は新人のC組の交番(乗務割)には入っておらず、AB組で乗務していました。それだけ経験が必要だったのでしょう。予備になるとC組でも乗らなければならないことがありましたが、勤務を割り振る助役もわかっていて、いきなり新人を割り振ることはせず、C組でも、ある程度経験のある者を「京都」に割り振っていました。私も就職してから1年以上、「京都」には行くことがなかったように記憶しています。翌年度になって新人が入ってくると、A組のベテランが、C組に配属された新人とペアになってC組の乗務割に入って指導しましたので、その間の約1か月ほどは、穴の開いたA組の列車に、C組の中で指名された者が代わりに乗務することになっていました。そういうときに私にも乗務の機会がありました。

荷36列車の大荷34はABともに岐阜あたりまでは動きっぱなしで、まるで新幹線に乗っているように時間が早く感じました。しかし荷36列車に乗務していた3車両とも、名古屋を出ると落ち着きを取り戻しました。停車駅が少ない東海道本線の荷物列車は、始発時とか乗継時にはドタバタしましたが、停車駅ごとの仕分け作業さえ終えてしまえば、途中駅で新たに積み込まれた荷物を仕分けるのにかかる時間や労力はさほどでもありませんでした。そのため走行中は乗務員室で、 【211】荷物列車とお茶菓子でご紹介したように、走行中の休息タイムが作れたのです。

この記事へのコメント

  • C58364

    おはようございます。
    お写真とよく似た2線の機関庫をペーパーで作ったことがあります。ウェザリングにろうそくの火から出る煤が良いと模型誌に載っていたので試しましたが難しかったです。
    乗継ではなくて駅から増結する荷物車は楽勝と思いきや逆に仕分けしてなくて大変だったのですね。駅の小荷物係さんにとって荷物車内の扱いは専門外なので仕方がないことだったのでしょうが、乗務員さんでは何とかならんかな~と思われることでもあったでしょうね。
    年配の車掌さんが来られたときに、指先に鍵の紐を引っ掛けてクルクル回しておられたのを思い出しました。一瞬、半世紀近く前にオハ61に乗っている高校生時代の自分に戻れました。
    2013年12月16日 10:11
  • しなの7号

    C58364様 こんにちは。
    蝋燭の煤は模型車両のウェザリングにはよく使いましたね。我が家の1畳レイアウトでの撮影のため、いろいろみっともない情景が露出しお恥ずかしい限りです(^_^;)

    基本的に駅の小荷物係とは、積む側と積まれる側として対立関係にありました。「満載なので積めない」「このくらいなら積めるだろう」とケンカごしになる場面もありました。
    2013年12月16日 11:58
  • 昔鉄道ファン

    こんばんは。鉄道同様、嗜好する音楽も70年代…の困ったおじさん、昔鉄道ファンです(今更サルソウルなんて流行らないでしょうね‥)
    あの時代は宅急便などありませんでしたから(…宅急便が鉄道荷物を壊滅に追い込んだのですものね)、小荷物の多さといったら半端なかったですよね。マニ車に満載された荷物、荷物列車到着前に、ターレット運搬車がガラガラ、荷物を満載した台車を引っ張って、ホームを闊歩していた姿を思い出します。

    毎度お馴染みの、編成メモです。後にも先にもこの時ただ一度だけ、目撃したゴハチの特大貨物です。1976年3月6日、15:57頃、岐阜にて9195レ(ダイヤ上の列車番号)
    EF58155[浜]+ヨ14222+シキ611+ヨ6004
    時折しも、天理教祖生誕90周年(だったかな)の天理臨が大増発され、それを見に行った時にキャッチしました。積車状態で、時速30キロ程の速度でのんびり目の前を通過しました。
    その数分前に通過した天理臨がらみの回9432レがこれです↓
    EF58144[宮]+スハフ1443+オハ14145+オハフ1525+オハ14140+オハ1491+オハ14138+オハ1493+スハフ1427(名ナコ)

    いつもこんな話ばかりで大変恐縮ですf(^_^;)
    2013年12月17日 21:12
  • しなの7号

    昔鉄道ファン様 こんばんは。
    その1976年はヤマト宅急便が始まった年らしいですよ。
    同時に自分が荷物車に乗務するようになった年です。
    そして、その10年後の天理教教祖100年祭のときに多数運転された天理臨には、自分も乗務する機会がありました。自分が乗務した列車の牽引機はEF65PFになっていましたが、客車は12系でした。今では客車列車そのものが絶滅寸前で、時の流れを感じます。
    2013年12月17日 21:32
  • 北恵那デ2

    おはようございます。本題から外れますが、Nゲージはこういった情景を作るには最適ですね。建物も簡単に揃うし全体のスペースも手頃ですし。ところで天理臨って結構多数ありましたね。情報源が鉄道ダイヤ情報ぐらいしかなくて、ほとんどまともに撮れませんでした。EF58の特大貨物なんてのもあったのですか、お目にかかりたかったものです。
    2013年12月18日 07:39
  • しなの7号

    北恵那デ2様 おはようございます。
    鉄道模型に規格は単なる縮尺の違いでなく、その楽しみ方によって選択すべきものですね。もちろん資金や場所、時間によっても左右されますが、自分の場合はそのすべてにおいてNゲージがベストです。いやベストでした。すでに資金難と敷地難という壁に突き当たっています(+o+)
    天理臨、中央西線でも乗務しました。いずれ編成をアップします。
    2013年12月18日 09:38
  • km_207

    初めまして。
    いいものですね……こういう仕事仲間で「○○はきつい」「○○はどうだ」なんて話をするのも、鉄道が絡むと一気に職人の語りになる気がします。
    国鉄を知らない世代には父親の背中を見るような、妙な憧れと懐かしみを覚えます。

    客貨車乗務の七つ道具というのもまた、国鉄マンの特権のような響きでいいですね。
    他にはどんな物が七つ道具だったんでしょう?気になります。

    楽しんで読ませてもらいました。
    影の1面ももちろん沢山ありましたが、国鉄ってのはやっぱりなんだかいい響きですねぇ
    2016年02月23日 01:26
  • しなの7号

    km_207様
    ご覧いただきありがとうございます。
    「国鉄と戦後の昭和」は切り離せません。国鉄で語られることは戦後の昭和の一般社会を写し取ったとでも言える部分がかなりあると思います。職人=スペシャリストが重んじられた時代とでも言えましょうか。どんな仕事にも肌身離さず持ち歩く特殊な道具があったものです。国鉄退職後に再就職した私はその先でもスペシャリストにならねばと思っていましたが、会社ではゼネラリストが求められ、必要な技能や知識は機械化やIT化で賄われ、マニュアルを見れば、職人的な技術や知識がなくても、当座はその場を「やりすごせる」世になりました。
    国鉄時代、仕事に使った道具類については、かなり先になると思いますが、現物の画像も交えてブログ記事で語っていく機会を設けたいと考えています。
    2016年02月23日 14:45
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    大荷34Aが連結される荷36列車は、大阪米原間で編成内に郵便車が3両ありました。他にも扱い車+護送車+パレット車の3両が連なっている荷物列車はありましたが、荷36列車はそれぞれの郵便車が離れていました。編成を分割、併合するのが理由で、【435】冒頭の編成を見ますと、四郵1は岡山で連結されたため門郵1との間に荷物車が挟まれ、大郵3も大阪米原間のみ連結であるため最前部です。
    この大郵3(便名「大阪長岡下り便」)がなぜ最前部だったのか昔は理解できませんでした。大阪で後部の荷物車、郵便車4両を切り離しており、そのあと大郵3を後部に連結するほうが手間は少ないはずですし、米原では、大郵3は米原発北陸線523列車の後部に連結されるので入れ換え作業も後部から切り離したほうが単純になります。しかし最前部の連結であるため、大郵3は神戸方の荷物ホームから入れ換えで京都方の待機線に留置され、おそらく本務機EF58が編成から離れ大郵3を連結して最前部にもっていき、米原でも最前部の大郵3+新荷11を切り離す、という作業があったようですが、複雑そうです。なので、これまで最前部に連結するのが不思議でしたが、荷36列車関連を読んで謎が解けました。大荷34Aが京都で最後部に連結されるためで、米原解放の2両が最後部にあると、京都か米原で複雑な入れ換えが必要となります。時間の節約を考えると、要員は多く必要ですが、編成の前後で入れ換えするほうが合理的と思われます。
    2020年09月17日 13:41
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    編成順序、列車順序、車両運用、列車ダイヤの長時間停車や着発線などなど、自分が見られるのはその流れの中の一点にすぎず、一見理不尽に思えることでも、全体を見まわして初めて道理に合っていることがわかるものだなあと思います。それを発見するのも鉄道趣味の世界の面白さであります。
    単行機関車列車が通過していくのを見て「なんて無駄なことだ」とか、特急に追い越される場合「こんな駅で特急を待避しなくても、○分あればもう一駅先の駅まで行けるはずだ」など、一般客が思うことにも、ちゃんと鉄道側の道理があるものですね。
    2020年09月17日 22:44
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    「阪長下りをわざわざ前に付けなくても後ろでいいのに…」と思っていたのは、郵便車しか見えていなかったからですね。この「大郵3」は荷36列車が着く以前から神戸方エレベーター横の荷物専用線に据え付けられ、郵便物の大半は先にここで積まれ乗務員も乗り込んで処理にかかるうち、入れ換え作業で荷36列車に連結されました。そのあたりは京都駅の大荷34Aと同じですが、荷物が前日の夜から積まれたとは知りませんでした。全国の事例では連結替えのため郵便物を積んだまま施錠して一晩留置もありましたが、書留郵袋は入れないとか駐在員の定時巡回をするとか措置をしたようです。大荷34Aも京都駅で積み込んでから留置で無人にする際には施錠した上で封印環、封印紙を付けたりしたのではないでしょうか。
    2020年09月18日 01:21
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    京都駅の大荷34Aですが、駅の作業ダイヤは存じていませんので、どのようなな作業内容であったか不明ですが、指定された接続列車や代行便の荷物を積み込んだ時点で、いったん締め切り、貴重品や追加分は荷36列車本連結後にも積み込まれるようなこともあったと思います。
    2020年09月18日 21:20
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    大荷34Aは荷36連結後にも積み込みがあったとか。
    実は、大阪で連結の大郵3「阪長下」も同様でした。これを示すのが、荷36列車の「東門上三」「東岡上護送」の結束表(53・10改正後)です。小荷物積載方が駅から車両ごとの積み込みを指示するものに対して、結束表は乗務員から駅、結束便(接続列車)への郵便物、郵袋引渡しを指示するものです。当会ホームページに新規掲載しました。
    東門上三 糸崎⇒岡山
     http://oyu10.web.fc2.com/kessoku-toumonue3-1.jpg
    姫路⇒大阪
     http://oyu10.web.fc2.com/kessoku-toumonue3-2.jpg
    東岡上護送
     http://oyu10.web.fc2.com/kessoku-touokauego.jpg
    両便は大阪駅で他の4便に結束していますが、阪長下へは「最先引渡」とあります。これは、車内で他の郵袋とは区別して積んでおき、大阪駅ではまず先に降ろし、先頭部に連結される阪長下便に発車までに積み込むので、先に荷物ホームで大阪積み込みの郵袋を積んだあと、連結後もまた扉を開けて他の郵便車からの積み替え郵袋を受け入れました。駐在員も編成最後部から最前部まで台車に積んでダッシュしますが、53・10改正まではまだ後ろに大阪止めの「阪門上」便が連結されており、これはすぐに解放するので、最先引渡郵袋だけを先に降ろし、解放、入れ換えで荷物ホーム留置後に他のすべての郵袋を降ろしたので、大郵3(阪長下)とは逆の手順となりました。
    2020年09月20日 11:31
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    荷36列車「東門上三」「東岡上護送」の結束表を拝見しました。「最先引渡」が、同一列車の車両間で行われていたのですね。「大郵3」は米原で523列車の発車時刻までかなり時間があったはずなのに、大阪駅の停車時間内に行われていたということが荷物の常識とは違っていて意外性を感じます。これも「阪長下便」の名のとおり大阪が路線の結節点ということに由来していたのでしょうか。または53・10まであったという「大阪門司間上り便」も含め一括して大阪で作業をしていた名残のようなものでしょうか。そういう作業が大阪で行われたということであれば、「大郵3」が編成前部に連結されたことによって移送する距離が延びてしまい、恨めしいことでしたね。
    2020年09月20日 20:43
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    「東門上三」「東岡上護送」から「阪長下」への結束は、これら3便が大阪米原間で連結されているので、米原で別れる前に積み替えることは可能なのですが、荷36列車に限らず、東門上便から阪青便への積み替えは大阪駅が大原則であったからです。路線の結節点であるほか、理由として
    ・大阪米原間で東門便車中に阪青線向けの郵袋を残したままだと、大阪、京都から大垣以東への郵袋が積めなくなる
    ・阪青便では始発の大阪で郵袋をできるだけ受け入れておかないと、敦賀までに作業しきれない
    ・大阪鉄郵と米原分局では設備、職員数に大きな差があり、荷36列車のように着発前後に4両の郵便車に対応するには多くの人数と台車、広い作業スペースが必要で、大阪鉄郵でこそ可能だったため
    といったところです。
    なお、東門下便で大垣以東から阪青下便への郵袋は米原で積み替えました。
    あと、阪青上便から東門下便への郵袋も大阪で積み替えました。(草津に停車しない阪青上便が大津・草津宛を米原で草津停車の後続東門下便に積み替えるという例外もありました)
    最先引渡はどこでも短時間で長距離の搬送を伴います。東岡護送と東門便は上下便とも離れて連結されるため、岡山駅の最先引渡が慌ただしく、荷物車ともども編成の増解結がある荷物列車ならではのことです。特に荷36列車は最後部から最前部なので、郵袋満載の台車を押す駐在員には「長距離」と感じられたはずです。
    2020年09月21日 18:01
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    大阪駅で最先引渡が行われた理由のご教示ありがとうございました。北陸本線田村での機関車交換のための停車時間があったことで、長浜・米原間の作業時間に余裕ができて助かったというお話を以前にお聞きしていましたので、大阪で積み換えたほうがよいかなとは想像できました。
    それとは別に、米原では直ちに大郵3と新荷11の解放作業が開始されたと思われますので、後方2両の郵便車から北陸方面へ積み換えるべき郵袋は、東海道本線上りホームから北陸本線のホームへの移動が避けられないですから、早朝で乗客が少ない大阪駅の同一ホーム上で積み換えるほうが合理的かとも思いました。
    また、郵便・荷物ともに大忙しだった大阪~米原間の積載量と作業量を分散する意味もあったということも納得できました。
    2020年09月21日 20:04
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    阪青便の作業ピークは、大阪で乗り込んだ時点から京都を過ぎて滋賀県内に入るあたりですので、受け入れ郵袋全体のおよそ5割が大阪で、3割が京都で積まれることでバランスが保たれていました。米原からも大垣方面からの積み替えが少なからずありましたが、そのころには敦賀以北の付き継ぎと締切にとりかかっていましたので、長浜の停車は助かりました。
    前回のコメントに「荷物の常識」と書かれていたのが気になりました。荷36列車では新荷11が下関から長岡までなので、東小倉発と岡山連結の四国発各車両から北陸への小荷物は岡山~米原間のどこで新荷11に積み替えされたか、ご教示下さい。しなの7号様が乗務された南東荷1は、【435】にある積載方では四国発米原中継荷物は積載なしとなっていたようです。新荷11以外に積まれていた北陸宛小荷物が「米原中継荷物」にあたるなら、各車両が米原まで積んだままなのかな…とも考えています。
    2020年09月21日 21:35
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    手小荷物の中継は接続駅で行われることが原則とされていましたので、荷36列車で新荷11以外の荷物車に積み込まれていた北陸方面行荷物はすべて米原卸しでした。

    【435】で書いた荷36「南東荷1」の荷物積載方「1」には「草津~汐留間着中継荷物」という文言がありますので、米原着中継荷物もそこに含まれます。調べましたら荷36列車の他の扱車(四荷1・四荷2・大荷34A・大荷34B)の全車で米原着中継荷物を積載可能な積載方指定になっていました。東小倉始発の荷物車はパレット車門荷201ワサフ1両だけですが、米原卸のパレットがあったかどうかは資料がなくわかりませんでした。

    「手小荷物中継方」で中継がある駅ごとに中継範囲が規定されていましたから、必要があってその中継範囲外の荷物の積換えをするとなれば、個々の荷物車の積載方で、たとえば「長浜以遠着荷物は大阪中継」のように指定しなければならなかったでしょう。仮に、郵便のように大阪で中継するにしても、新荷11の積載方指定は長岡までの荷物に限定されていましたので、その先まで行く荷物は積載できません。おそらく米原から奥羽・羽越線へ直行する別の荷物車運用があったものと推察します。荷36列車(米原7:14発)から523列車(10:38発)まで、米原で3時間以上も時間的余裕がありましたから、規定どおり米原駅で取卸せば速達性に問題はなかったと考えられます。
    2020年09月22日 20:48
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    ご説明で、「荷物車の常識」の意味がわかりました。また、荷36列車の多数の扱い荷物車から新荷11に米原で積み替えられたと推定できます。仮に、新荷11が下関からではなく、大郵3と共に大阪から連結されていたならば、他車両からの積み替えをすべて米原で行ったか、あるいは、大阪にて積み替えする積載指定があったかも知れず、小荷物輸送の奥深さが感じられます。
    さて、この大郵3、つまり「阪長下」便が米原で長時間停まったのはおっしゃるとおりで、乗務するほうも「だれるぅ~」というのが正直なところです。ところがダイヤの仕業で他の郵便車ではあまり行わないドタバタを演じます。まずは、同便の結束表をご覧下さい。
    http://oyu10.web.fc2.com/kessoku-hannagashita.jpg
    これの米原駅受渡が複雑で、荷36列車から解放され523列車に連結されるまで3時間半の停車時間がありますが、到着して解放、入れ換えされる前に、247列車の郵便車(米原直江津間下便、8:05発車)に渡す福井県宛と石川県以北速達郵袋、また米原分局宛の書留郵袋だけ駐在員に渡して扉を閉めました。解放作業まで短時間のため最少限の郵袋に限るからで、その後入れ換えで側線に留め置かれ、2時間ほどして523列車に連結されると、また駐在員が来て、さきほど降ろさなかった郵袋を降ろし、米原分局からの郵袋を受け取りました。大阪と同じく、二度扉を開けたわけです。そのため、結束表の米原渡しには複雑な指示があり、米直下便(べいちょく)には、福井県以北への優先度が高い郵便物だけ引渡しました。なお、米直下便は尾久区のオユ10で、敦賀までは締切なので乗務員がおらず、米原直江津間普通列車、直江津長野間荷物列車、長野上野間急行「妙高」に連結する往復運用で、主に北陸~首都圏を運送するのが使命でした。
    仮に247列車に荷物車が連結されていたなら、荷36列車の各荷物車から降ろされた長浜以北の小荷物が、新荷11だけでなく247列車にも積み替えられたかもしれませんね。
    2020年09月22日 22:11
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    新荷11は、東海道・山陽筋と北陸地方と直通して米原での中継作業を省略する目的であったと想像できますから、米原では主に四国からの荷物が加わったことでしょう。
    荷物車は駅側で複数の荷物車の積載方に区分したうえで各車両に積載していたのに対し、郵便車では基本1両で荷物列車1編成分と同等の広範囲の仕分け作業を車内でしているのと同じですから、仕分け作業は荷物車に比べて煩雑になって当然だと、阪長下便での大阪や米原の作業内容を拝見しても思うことです。これも荷物と郵便それぞれの特徴に合った合理的な輸送方法が考慮された結果なのでしょう。荷物の規格が郵便とは違うことが原因となって、たとえば郵便で短時間で行わなければならない「最先引渡」のようなきめ細かい技をつかうのは荷物車では難しく、最小限にせざるを得なかったと思います。荷物中継方の原則を曲げてまで、それも新荷11の積載可能な長岡までの荷物だけを大阪で区分して停車中に中継するような細かい作業をすることは考えにくいことです。
    北陸本線の荷物車運用に関する資料は手元にはありませんので、長岡より先への荷物が、米原からどの列車のどの車両に中継されたのかはわかりかねます。少なくとも米原で取り卸された荷物は長岡以西とその先との荷物を、駅の小荷物係の手によって仕分ける必要があったという理屈になります。
    2020年09月23日 20:38
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    荷36列車に関して、荷物車、郵便車それぞれの積み降ろしの流れを理解すると、小荷物と郵便物の性質の違いと車両ごとの役割が一層わかってきました。さすがに、小荷物で最先引渡をすると、駅の職員は大変かと(^^;) 
    荷36列車の米原駅では、247列車で1時間後、523列車はもっと余裕があったので、中継小荷物は駅構内で仕分けして積み込めたと思われます。
    毎回、小荷物輸送を奥深く勉強させていただいておりますが、また別のページでコメントさせていただきます。
    2020年09月23日 21:49
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    当時の東海道山陽筋の荷物車1両ごとの運用と積載方指定がわかる資料がないと全容がつかめません。
    2020年09月24日 20:16
  • しなの7号

    訂正と補足
    手小荷物の中継は接続駅で行われることが原則とされていましたが、昭和54年1月現在の名鉄局発行のマニュアル本(荷物輸送方・手小荷物中継方)によると、「塚本以遠(尼崎方面)各駅対長浜以遠(虎姫方面)各駅は大阪中継」とする旨の中継方指定がありました。その前のマニュアル本にはそのような指定は見当たらないので、荷物輸送の変革があった53.10ダイヤ改正で新たに規定されたものだと思われます。
    2020年11月20日 20:43
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    53・10以前から大阪発北陸向け荷物・郵便列車は、米原止北陸線普通列車中継・新潟行・青森行の3往復が設定されていましたので、山陽本線方面からの郵便積み替えは必ず大阪とし、始発から積載率を上げ、仕分け作業に取りかかれるようにしていましたので、北陸向け小荷物についても、同様の理由で大阪中継としたのではないかと推測します。
    2020年11月20日 23:10
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    53.10では拠点間輸送が推進され、指定された拠点駅間でのパレット輸送と締切輸送が増加しました。ロット化輸送と言われ、拠点駅間を1単位として荷物をまとめて輸送する方式でした。拠点駅以外では郵便車の取扱のために停車はしても荷物は取り扱わない、いわゆる郵便停車もこのときからあちこちで見られるようになりました。その後さらに進められるパレット輸送・締切輸送を前提として、北陸地方と大阪以西とを輸送される荷物が近畿圏発着荷物と統合され、一つのロットとして取り扱われるようになった結果でもあると考えます。こうした取扱いは全国的なことでしたが、乗務区間に関係のない規定類が手元になく詳細はわかりません。それでも全国規模でそれまでの常識を覆す取扱いがこのダイヤ改正以降にあったものと推定されます。
    2020年11月21日 20:34

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