【454】 変なコレクション6(マッチ箱 国鉄駅前編)

先週は、マッチ箱の「国鉄」にこだわってしまいましたが、ほかにも「国鉄○○駅」と表示された喫茶店のマッチ箱を、いくつか発掘しましたのでご披露しましょう。すべて乗務の出先駅で乗務間合いに行った店のマッチ箱です。

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国鉄八田駅前 「宇奈月」
八田駅は現在JR東海関西本線・近鉄名古屋線・名古屋市営地下鉄東山線とが接続するターミナルになっています。しかし国鉄八田駅は現在の高架になったJR八田駅の位置ではなくて、300mほど西の亀山寄り地平にありました。下の写真の正面高架橋手前が旧国鉄八田駅の正面にあたります。
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ここにはセメント基地もあったので八田行きの貨物列車も設定されており、列車掛時代には入換作業にも従事したところです。
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旧駅跡地はこんな具合で、道路部分以外はあまり利用されていません。
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地平駅だったころの「近鉄八田」駅もこの近くにありましたが、駅舎は線路を挟んだ正反対の位置になり、国鉄駅とは直線距離こそ近いものの線路で分断されて直接結ばれていなかったため、区別する意味で「国鉄」の表記が必要だったに違いありません。

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国鉄熱田駅前 「シロ」と「アルス」
昭和50年代前半、荷扱時代に行った店です。名古屋駅の手小荷物が熱田駅に移管されつつある時期に当たっていましたので、それに合わせて中央西線と関西本線方面への荷物列車は名古屋から熱田へ始発駅が変更されていきました。

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国鉄岡崎駅前 「エンゼル」
ここは普通車掌時代に国鉄岡多線(現愛知環状鉄道)乗務の際によく行くところでした。
喫茶店といっても、乗務途中に行く喫茶店は、時間つぶしとかの意味ではなく、食事目的の場合が多くありました。特に田舎へ行けば行くほど、喫茶店はよろずや的になってきて、時間帯によって、モーニング専門店~ランチ~飲み屋と変わるケースが多いですね。

熱田・岡崎とも旅客輸送に関しては、国鉄駅は名鉄に完全に負けていました。それぞれ、名鉄の「神宮前」「東岡崎」が地元の中心駅として君臨していましたから、「そっちではなく、国鉄の駅の方だよ」という意味が込められているように思います。

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国鉄神領駅前 「エンジェル」
ここ神領には車両基地がありますので、入出庫の回送列車が多く運転されていました。車掌時代に時々行っていましたが、駅自体は小規模でした。ここは他社線の駅が並走しているわけでもなく、「国鉄」を標記する特別な意味合いはないように思いました。

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国鉄春日井駅前 「あい」・「永遠」
春日井駅は神領の隣駅です。ここも車掌~専務車掌時代に神領の車両基地への入出庫する回送列車乗務のために来ていました。それより前の貨物列車の列車掛時代にも、王子製紙への貨車解結のための長時間停車や折り返し乗務があったので、食事目的でよく喫茶店を利用しました。

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これも春日井駅近くにある 「TOM」という喫茶店です。
「Near JNR Kasugai station」と「JNR」の表記が、うれしい逸品です。
国鉄では「JNR」という呼称が、今の「JR」のように一般に浸透していたとは思えないのですが・・・
ここまでして春日井駅の場合には「TOM」ほか、その上の 「あい」・「永遠」のように「国鉄」を強調している店がいくつもあるわけですが、これにも意味があります。それというのも、同じ春日井市内の全く別の場所に名鉄にも「春日井」駅が存在しており、両駅は約3㎞ほども離れているのです。駅名の前に「国鉄」をあえて入れているのは、そんな理由であると思われます。春日井駅の場合は、これまでご紹介した「名鉄優位」の関係は該当せず、国鉄が断然優位です。これだけ離れているのに同じ駅名であることが不思議な両駅ですが、春日井市春日井町にある駅は名鉄駅の方で、国鉄(JR)駅の方は、もともと「鳥居松」という駅名を市の中心駅としてのちに改称したものなのです。

この記事へのコメント

  • 京阪快急3000

    しなの7号様 おはようございます。

    国鉄時代にお仕事をされていた時に、お食事の目的などで、いろいろな喫茶店を廻られていらっしゃったのですね。

    おっしゃる通り、国鉄を「JNR」と呼んでいたことは、あまりなかったですね。
    2014年01月30日 07:20
  • なはっ子

    こうした店に行かれた時、赤い腕章はそのまま巻かれた状態だったのでしょうか? 小学生の時にお見かけしたら、注目していたと思います(笑)。
    2014年01月30日 08:15
  • しなの7号

    京阪快急3000様 おはようございます。
    常に外食。
    それも毎日毎回違う場所。
    勤務時間外でも家に帰れない遠隔地での拘束時間。
    あちこちの駅前喫茶店にはお世話にならざるを得ないのが乗務員です。

    「JR」という呼称は分割民営化後一気に世間に広まり驚きました。
    2014年01月30日 09:38
  • しなの7号

    なはっ子様 おはようございます。
    腕章と制帽は「車掌区~列車~詰所」の間以外は必ず外していました。車掌区で流行していたのが紺色のウインドブレーカーでした。制服には腕章を巻いたままで、常にウインドブレーカーを羽織って行動し、乗務中だけ脱ぐというのが多かったです。
    2014年01月30日 09:44
  • C58364

    こんにちは。
    八田駅は地平時代しか知りませんでしたが、久しぶりに関西線に乗ったら立派な高架になっていてビックリしました。
    以前は名古屋駅から亀山方面へ向かうと、左側に元名古屋機関区や名古屋客貨車区へ向かう線路も並走して複雑な配線でした。地平に降りるのは単線の関西本線だけでしたね。
    DD51のお写真で、ホキ車の右上に見えるのは近鉄の架線でしょうか。構造が立派なので国鉄やJRのものとは見えないようですが。
    2014年01月30日 13:02
  • しなの7号

    C58364様 こんにちは。
    国鉄のころは笹島から八田駅付近まで併走する近鉄も地平を走っていました。写真にある背後の架線柱は近鉄のもので、この先、庄内川の手前で国鉄線を乗り越えます。
    2014年01月30日 14:52
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★八田は懐かしいです、地上にある頃。
    そこから通勤していました。

    で。ボクも貴殿と同じ区にいたのですが、
    喫茶店で時間をと言うような
    乗務はなくなってました。
    お昼ごはん、夕ごはんをどうするか、
    どう算段するか、でした。

    浜や豊の餃子屋さん、
    岡の定食屋、
    区の下のやまかわ
    垣の洋食屋さん、えびす
    米駅構内の食堂、名前は忘れました。
    「ひかり」または「こだま」
    どっちか。思い出です。

    ボクもウインドブレーカーを持ってました。
    退職された方から譲り受けました。
    折り畳むと小さくなるので、
    とても重宝しました。
    2014年01月30日 20:20
  • 北恵那デ2

    こんばんは。宇奈月って黒部峡谷鉄道かと思いました。ところで八田も高架になってるのですね、って先日関西本線に乗って通ったか(笑)。見聞きしてもすぐ忘れて元の昔の頭に戻ってます。しかしマッチ箱コレクションという、変わった?趣味も歴史検証もできますし奥が深いものですね。
    2014年01月30日 20:47
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様
    乗務行路の密度が濃くなったと思ったのは60.3ダイヤ改正あたりからでした。乗りっぱなしで、食事時間さえまともにないような行路が増えました。駅間で117系の場合だと乗務員室に死角で缶コーヒーと菓子パンの朝食ということもありました。冬場に寒くてたまらない113系0番台に長時間乗らされ凍りつく思いをしてから、ズボン下を着用する決断をしたのが、その年の冬でした。
    2014年01月30日 22:04
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    宇奈月のマッチの絵柄は黒部渓谷だと思いますが、なぜそういう屋号なのかは不明です。
    関西本線は、国鉄時代から大きく変わって、複線区間や行き違いの信号場ができていたりして、自分もついていけないです。
    何でも捨てずに取っておくことはやめにしましたが、年を経て残っているモノは、いろいろ当時のことを語りかけてくれるものです。
    2014年01月30日 22:13
  • 北恵那デ2

    こんばんは。当記事のコメントではありませんが、過去の記事を復習?させていただいております。もしかすると初期の記事は読んで無い物もあるような気がしますし、読んでも内容を忘れてしまっていることもありますので。その中で引っかかったのが一つありましたので教えてください。長シオという電略ですが、塩尻とのことです。多分しなの7号さんが国鉄に勤務されていた頃はそうだったのかもしれません。しかし我々が蒸機を追いかけていた頃は、シオは信濃大町でホシが塩尻と記憶しておりますが変更したのでしょうか?くだらない質問で申し訳ありません。
    2014年01月31日 18:38
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    古い記事までご覧いただき申し訳ないです<(_ _)>
    なかなかマニアックなご質問ですね(^_^;)
    公式資料でご回答できないのですが、おっしゃるように塩尻「駅」はもとから「ホシ」で正解だと思います。
    念のため、昭和40年と昭和58年のダイヤグラムでの表記を確認しましたが、ともに「ホシ」でした。信濃大町駅については乗務区間ではなかったので、公式資料がありません。
    では、貨車の表記(所属貨車区)となると、手元に公式資料が現時点では手持ちが見当たりません。私が貨物列車の列車掛になるために4か月半教育を受けた中部鉄道学園で配布された某教官名の責記となっている非公式資料「客車及び貨車(車掌車・緩急車及びク5000形式に限る)の常備駅名を表わす略号」(昭和50年10月)という文書によれば、「長シオ」の配属箇所は「塩尻」とされています。「ホシ」は該当がなく記載がされていません。
    駅の電略(ホシ)と客貨車区の電略が違う(厳密には中津川機関区は「ナツキク」となるように塩尻貨車区の場合は「シオカシク?」とか・・(客貨車区だったか?))のではないかと考えられますが、推測でのご回答になります。
    長ホシの表示は自分も見た記憶がありません。
    2014年01月31日 19:27
  • 北恵那デ2

    たいへんKY(空気を読めない)な話題で、しかも相当手を煩わせてしまったかと思うと申し訳ありませんでした。別に本職の方が仰ることを信じてないわけではありません。確かに緩急車などで長シオの表記を見た記憶もありますので、客貨車区の電略と駅のそれが違うということしか考えられませんね。
    2014年01月31日 22:14
  • しなの7号

    北恵那デ2様 おはようございます。
    実は市販品で権威ある?交友社のおなじみ「国鉄車両配置表」には、長ホシとしてあるのです。ますます判らなくなってきますが、自分は緩急車でその車体標記を見たことがなく、それに対し長シオ標記は何度も見ております。信濃大町には客貨車区の類は当時なかったと思います。

    教育機関で配布された前述の資料は、乗務中故障などで「白票を打つ」(【368】白票・赤票をご参照ください)場合、回送すべき駅がすぐわかるように、おそらく教官が個人的に作成され、全国の客貨車区の標記を五十音順にまとめたものでした。便利でしたので列車掛時代に常に携帯していました。
    (この教官は、雑誌蒸気機関車に連載された「動輪の響き」作者の関係者の中のお一人です。)
    2014年02月01日 07:21
  • 板ばねバス

    マッチ箱シリーズを読んでいて感じたのですが、昭和50年代は社会生活における喫茶店のウェイトというかポジションが高かったんじゃないんでしょうか? 職場の先輩たちからも「若い頃は暇潰しに喫茶店へよく行ったもんだ…」と言ってたのを聞いた事があります。
    それにひきかえ現在では社会の変化というか、ファミレスやコンビニ、ネットカフェ等の台頭により、喫茶店の地位が低下してきているんじゃないでしょうか?かくいう私も40歳ですが、若い頃から今も含め、純粋な喫茶店を利用した事がほとんどありません。 なので喫茶店で(特に仕事の合間に)お茶したり食事するのに淡い憧れがあります。(笑)
    2014年02月01日 10:59
  • しなの7号

    板ばねバス様 おはようございます。
    おっしゃるとおりで、職種にもよりましょうが仕事の合間に喫茶店でサボるというのは、ごく普通にある時代だったと思います。面白いことにコレクションの中に「サボリ」という屋号の喫茶店があるくらいです。そういう文化?はバブル崩壊までは続いていたと思います。その後は駅前シャッター街が形成されてしまったように、国道沿いの個人経営の小さな喫茶店は影が薄くなっていったように思いますし、近年、仕事の出先で喫茶店に入る余裕などなくなりました。
    2014年02月02日 08:01

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