以前に乗務先の大阪での過ごし方の話をしましたが、首都圏への乗務では、宿泊場所が汐留または品川でした。週に1回くらいの頻度で首都圏への乗務があったので、乗務員宿泊所から出てプライベートで出かける機会は大阪より格段に多くなりました。
そのころの東京駅です。国鉄の起点でもあることですので、写真を撮ってみました。
そして復元された今の姿。一般の人たちがわざわざ見に来るスポットになるとは、思ってもいませんでした。それより、すぐそばにあった今はなき国鉄本社ビルの写真を撮っておかなかったことが悔やまれます。
荷36列車では同じ車掌区の乗務員9人が同時に着きました。一人なら新橋界隈で喫茶店に行ったあとは夕食の惣菜や弁当を買ってきておとなしく過ごすであろうところを、どっかへ行こうか?と誘われれば一緒に行ったりするものです。荷36列車が浜松町近くの汐留駅の到着線に着くのが15時少し前で、ここから入換機DD13に押し込まれて汐留駅の荷物ホームに着いてから、自由になるのは15時を少し過ぎてしまいました。時間的にはちょっとした買い物ぐらいであれば、夕方乗務員宿泊所へ帰ってくるにはほどよい時刻でした。しかし、東京見物に出かけるにはちょっと遅いのでした。
デーゲームを残り少しでも見られればと思って後楽園球場へ行ったときには試合が終わったばかりで、試合を観戦することができませんでした。人物は、いっしょに行ったニレチさん。球場帰りの客がほとんど出て行ったあとの出口から、どさくさまぎれで中に入ってみたら、いつもテレビで見慣れた近代的な電光式のスコアボードが直接見られたことで、無理やり納得して帰ってきました。ちなみに、このころの公式戦の外野席は400円でしたが、現在東京ドームでは1500円です。
就職してまもないころ、新規採用者どうし2人が荷36列車に乗り合わせたので、いっしょに上野動物園へ行ったことがありました。ジャイアントパンダが中国から初めてやってきて3年半くらい経ったころでした。新橋から京浜東北線に乗って動物園へたどり着いたらピッタリ16時。このころはパンダ舎だけが16時で閉鎖でした。そんなことも知らずに行っているので、その日はパンダを見ることができませんでした。
こちらは霞ヶ関ビルの最上階にあった展望台のチケット。
今は霞ヶ関ビルを越える高さの高層ビルが立ち並ぶ東京ですが、当時ここからの眺めは格別でした。世界貿易センタービルが目立ちます。ここにも行ったことがありました。
このほか行ったところは、蔵前国技館・相撲博物館・浅草寺・明治神宮・武道館・交通博物館・皇居外苑・東京タワー・浜離宮庭園・日比谷公園・羽田空港などで、用もないのに銀座のデパートを巡ったり、新宿西口のヨドバシカメラへ行ったり、秋葉原の電器街やアメ横をうろついたりしたこともありました。
今のように、地方にディスカウントストアや家電量販店とかはなく、格安のネット通販もない時代でしたから、アキバやアメ横の値段設定には驚くべきものがあり、新製品のステレオラジカセを信じられない値段で買ったこともありました。ヨドバシカメラでは、カメラやレンズのカタログを大量にもらってきたり、フィルムを格安で買ってきたものです。
直接入場することはなかったものの、NHK・渋谷公会堂・国立代々木競技場・新宿御苑・国会議事堂・日比谷公会堂・帝国劇場・泉岳寺を見てきたり、その行動は、いかにも「お上りさん」でした。田舎者ゆえに、「神田には古書店街があるよ」と言われても、田舎者には神保町のほうとは判らず、「神田の駅前に、そんなもんあらへんがや」ということにもなりました。
東京見物には、初め先輩に連れて行ってもらったわけですが、そのうちに私自身が、後輩とか、普通車掌から昇格したばかりのニレチ氏とかを連れて行ってあげる立場になってきました。
しかし、あいにくというか幸いというのか私が列車掛の試験に合格したことによって、東京への乗務も3年ほどで終わってしまいました。








この記事へのコメント
京阪快急3000
当時の東京のあちらこちらに行かれていたのですね。
当時(今も?)の国鉄や私鉄、地下鉄の交通網は、路線図を見る限り、まるで「迷路」で「迷ったら抜け出せない!!」といった危惧感があり、自分の場合は東京には、特別な用事でもない限り、あまり行きたくないのです。
今なら、「五輪誘致」や「東京スカイツリー」など、観光名所は数多いかもしれませんが、昨年3月の東急渋谷駅の地下駅化によって、「5社相互直通乗り入れ」が2か所となり、関西に住んでいる自分にとっては、正直訳が分かりません。
結論ですが、東京方面は今は行く事はないだろうということを言いたかったです。
しなの7号
今は東京どころか大阪もわかりません。
逆にいろいと調べながら探検気分で行くのが楽しみで、汐留や品川跡地巡りに行ったりしたわけです。
昔鉄道ファン
東京は探検気分、とはまさに仰るとおりで、…
昔からある丸の内線や銀座線やらはさすがにわかりますが…
大江戸線とやらはどこに行く電車かいな?と、はたと考え込む昭和脳の私…
大阪界隈なら、昔住まいにしていた事もあり、理解できるのですが…しかし今や、奈良から乗り換えなしに三宮に行けたりする現実に、やはり目を丸くする始末…
なので懐かしい荷物列車の編成メモを一つ←かなり強引な流れですねf^_^;
1976年10月23日、荷42レ。荷31レと兄弟分のような列車です
EF5867[浜]+マニ362044(名ナコ、名荷5)+マニ602453(名ナコ、名荷22)+ワキ8520(金トヤ、金荷203)+マニ602020(名マイ、名荷2)+マニ352053(大ミハ、臨大荷1)+マニ60626(鹿カコ、鹿荷2)+スニ4015(鹿カコ、鹿荷203)+スニ4023(鹿カコ、鹿荷202)+スニ402(鹿カコ、鹿荷201)+オユ11102(南トメ、南東郵1)+オユ1223(熊クマ、熊郵2)+マニ36107(南トメ、南東荷4)+マニ362156(南トメ、南東荷7)+マニ3685(静ヌマ、静荷1)
中結の臨大荷1は、旬の物を運ぶ車でしょうか?カマのEF5867は、52号と同様、浜松にあって寒冷地仕様風で、自分の好きだったカマの一つです。
しなの7号
営団地下鉄は国鉄制服を着ていれば「顔パス」で乗れた時代でした。銀座線の室内灯がバチンと消えて非常灯に切り替わることに、歴史ある地下鉄なのだと思いました。
荷42列車は名古屋以東しか乗務行路がありませんでした。それでも名ナコ・南トメ車は「お馴染み」の車番です。臨大荷の大ミハ車は珍しいですが、おっしゃるように果物関連の増結と考えます。
北恵那デ2
しなの7号
私が東京へ行く機会が減ったのは、買い物が減ったということです。ネットでモノが手に入るようになったことによります。
最近必ず立ち寄るのはSuicaグッズ目当てに行くPensta東京店くらいのものです(*^^)v
なはっ子
1. 東海道線のガード
田町と浜松町の間にあります。レンガ造りで、多分戦前のものだと思います。幅が狭く距離が長くちょっと不気味ですが、頭上を行くゴトンゴトンという音が好きです。
2. 埼京線十条駅付近
どういう訳か、EF58の動輪とプレートが安置されています。名居酒屋に行く途中、わざわざここに来て、動輪とプレートを撫でる癖があります(笑)。
しなの7号
拙ブログ【443】国鉄時代の出先今昔2:汐留(後篇)でアップした汚いレンガ造の高架も、整備すればりっぱな見どころになると思います。
十条駅には中山道宿場めぐりの時(【316】中山道歩きで見たモノいろいろ(3):信用金庫・信用組合(前篇))に板橋宿から歩いてきて、ここから蕨まで列車で向かったのすが、まったく気づきませんでした(>_<)
★乗り物酔いした元車掌
考えてみると、通過することはあっても、
外へ出た記憶がほとんど無いです。
たぶん、一度だけ、八重洲口を出て、
会社の事務室へ足を運んだのですが、
連れられて、だったのでよく覚えていません。
何かしら、人が多かったことだけが
記憶に残っています。
その他では、本当に通過するだけ、
仕事では国立にある会社施設への通過点、
プライベートでは、舞浜の方への通過点でした。
C58364
JR東海発足記念キップを家族3人分購入して中学の修学旅行以来20数年ぶりに上京し上野のパンダを見ました。その頃はパンダ舎の混雑も少なくゆっくり見ることができました。
帰りは3人分の記念品欲しさに東海道新幹線全駅のスタンプラリーに参加して新大阪に着いた時はグッタリでした。乗車したこだまの停止と同時に改札口へダッシュして、発車までにスタンプを押して帰る繰り返しで事情を知らない乗客からは不審がられました(笑)。
JR東海のキップを持った私たちに対する東京駅のJR東日本駅員さんの対応はあからさまに冷たく民営化というものを肌で感じましたね。
しなの7号様にとって微妙な時期のコメントで申し訳ありません。
しなの7号
たしかに、国鉄本社があったころならともかく、それ以後丸の内側には用事はなさそうですね。どうでもいいことですが、丸の内側にあった井上勝の銅像は元国鉄職員なら拝んでおくとよかったかも。
復元工事のとき撤去されたまま、もとの所には見当たらなかったのですが、元の場所に戻してほしいなあと。
しなの7号
お気遣いなく(^o^)丿
そういう切符がありましたかね。商売柄、企画乗車券が発売されれば、かならず乗務員に周知するために資料が職場で配布され掲示もされたのですが、自分にすれば「別会社のこと」ですので、記憶にも残っていないだけなのか、あるいは移行前には周知しなかったのかもしれません。
JR東海では、その手の企画乗車券は少ないですね。空いたこだまの活用法もいろいろ試され実行されているようですが、国鉄時代には「こだま4人きっぷ」なる企画乗車券がけっこうポピュラーでした。