稲沢には約1年半勤務しました。今でも中部地方の貨物の中継基地として機能しているところですが、国鉄時代は貨車を方向別に振り分けるヤードの所在地でもあり、周辺は「国鉄の街」という雰囲気でした。しかし旅客輸送は名鉄に大きく引き離されていて、少し離れたところにある国府宮駅が旅客輸送の面では市の玄関口と言えました。そのため国鉄稲沢駅前は、それほど活気があるようには思えませんでしたが、私も入居していた独身寮とか官舎があったので、国鉄職員向け?の喫茶店や飲食店がいくつかありました。
マイウェイは駅に隣接するJR貨物の総合ビル(画面右のビル)の真ん前で現在も健在です。稲沢時代の車掌区乗務員のたまり場でした。JR貨物の総合ビルは国鉄時代からあり、その中に車掌区や乗務員宿泊所がありました。
以下、稲沢駅界隈の古いマッチ箱を列挙しますが、これらには共通点があります。探してみてください。
アサヒ
スワン
アイザワ
ローレル(新旧2種)
これらのマッチ箱の喫茶店の現況はわかりません。
ここまでご覧いただいたマイ・ウェイを含む6つのマッチ箱で、共通点には、お気づきでしょうか?
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その答えは………
すべてに「国鉄」の文字が入っていることです。
国鉄時代だから、国鉄の文字は入って当然という考え方もあるかもしれませんが、「稲沢駅」は他にありませんので、わざわざ「国鉄」と強調する必要性があるとすると、その理由は何か?
私は稲沢市の表玄関が国鉄稲沢駅ではなく名鉄の「国府宮駅」であったからだと思うのですがどうでしょう?
当時の国鉄東海道本線の旅客列車は少なく、国鉄のシェアは格段に低かったはずです。一般に「駅」というと、稲沢市民は名鉄の国府宮駅を連想したのではないかと思うのです。あえて「国鉄」と表示して「国府宮」駅前ではないぞとアピールしていたのではないでしょうか。 同じ時期に収集したマッチ箱で、ここまで申し合わせたように駅名に「国鉄」と表示していたところは、あまりなく、単に「○○駅前」だけのことが多いように思います。
それでも稲沢以外にも、遊びで出かけたところで入った喫茶店のマッチ箱で「国鉄○○駅」と表示されている例はありますので、参考までに2つ挙げてみましょう。
セビアン
国鉄明知線の明知駅前の喫茶店。実はマッチ箱にある表示のうち「国鉄明智駅前」は誤りで「国鉄明知駅前」が正当です。第三セクター明知鉄道に移管されたとき、当時の町名「明智町」に合わせるかたちで、現在の「明智」駅に改称されたもので、国鉄のころには「明智」駅ではなく「明知」駅であったのです。
神戸に行ったときに入った喫茶店のマッチ箱。稲沢のように、神戸駅と三ノ宮駅の関係によって「国鉄」とあるのではないかと思うのですが考えすぎでしょうか(^_^;)
この記事へのコメント
C58364
わざわざ入れた「国鉄」の二文字には深い思いがこもっているようですね。
国鉄当時の東海道本線では30分に1本ペースで普通列車がノンビリ走り、かたや名鉄電車では特急・急行が頻発運転されており勝負になりませんでしたね。
当然ですが通勤通学に便利な名鉄沿線に利用者が急増して国府宮にも特急が停車するようになり稲沢市の表玄関となっていったのではないでしょうか。
例年2月に行なわれる「はだか祭」には「国府宮の」が付いており全国的にも有名ですね。しかも駅の至近距離にあることが優位性を高めています。
「国鉄」の文字は名鉄駅と国鉄駅との間違い防止をお客さんに訴える以外に、稲沢操車場という全国でも有数の大操車場を抱える国鉄の町で営業しているというプライドも入っていた気がします。
どこだったかはっきり覚えていませんが、ある喫茶店に入ったところ作業衣を着た国鉄職員さんがたくさんおられました。それまでガヤガヤ騒いでおられましたが部外者の私に気づき静かになった記憶があります。この喫茶店もたまり場になっていたのですね。
しなの7号
稲沢市を知らない人でも国府宮のはだか祭を知っている方は多いでしょうね。「国鉄の町で営業しているというプライド」かどうかわかりませんが、お店が国鉄職員で潤っていたのは事実で、C58364様の体験談のように、稲沢駅周辺の喫茶店は国鉄職員専用みたいな性格であったといってよろしいかと思います。お客さんに気遣って「国鉄」の文字を入れたというのも理由かも?
突放職人
しなの7号
灰皿…記憶がありません。
私は飲み屋で、取り皿だと思って料理を乗っけて食べたのが、実は灰皿だったということがあります(+o+)
★乗り物酔いした元車掌
覚えていませんが、
お写真を拝見して、思い出しました。
確かにありました。今でもあるんですね。
ボクは、石炭臨雇のときにお世話になった区ですが、
そのときは駅の南側にある、
職員送迎用自動車が止めてある車庫、
その、もう少し南に
ボクたちの詰め所がありました。
で、その近くにある喫茶店が、たまり場になりました。
名前は覚えていませんが、ココアを注文すると、
ホイップクリームがのってくるので、大好きでした。
少し外れますが、
その近くにあった中華料理屋さん、たしか
「とうほうこう」だったと思いますが、
そこも懐かしいです。よく食べに行きました。
その他では、改札前にあったうなぎやさん。
ボクは、駅より南側に、いっぱい、思い出があります。
しなの7号
一昨年稲沢へ出向き、中華屋の「東方紅」さんを探しましたが無くなっており、隣の理容店さんで尋ねたところ、ご主人が亡くなって廃業されたとのことでした(-_-;) かつてよく行ったお店がなくなっているのに、キャバクラ「ミスター・ペンギン」はまだ看板があり営業しているように見えたのが意外でした。
DD51 823
久しぶりにブログ拝読し、5年ぶりにコメントさせていただきます。
大変ご無沙汰しております。
子供時代を過ごした稲沢へ行く機会があり、久しぶりに稲沢駅前界隈を散歩してみました。
駅前商店街のアーケードはとうになくなり、昔あった商店が住宅に建て変わっていたり、時の移ろいを痛感したとともに少し悲しくなりました。
マッチ箱にある稲沢駅界隈の喫茶店の場所は今でも鮮明に覚えています。
特に思い入れがあるのはローレルとアイザワです。
ローレルは当時住んでいた官舎からすぐ近くでしたし、アイザワは父が隣のガソリンスタンド(共同石油)で用を済ます間よく預けられてました。
そういえばアイザワの隣辺りにあったお好み焼き屋さんが美味しかったのを思い出しました。
マッチ箱の喫茶店で今も残っているのはマイウェイだけですね。
思い出のお店は悉くなくなっていましたが、桔梗や鰻の魚熊が残っていて懐かしい気分に戻れました。
稲沢を離れて30年以上経ちましたが、私にとって心の故郷はやっぱり稲沢なんだなぁと思いました。10年ちょっとしか住んでないのに不思議なものです。
しなの7号
お元気でしたか。時がたつのは早いですね。
稲沢に限らず駅前の商店街が寂れたところは多くて、子供のころの賑わいを知っている駅前に行ってみるとDD51 823様と同じ気持ちになることはよくあります。
稲沢駅自体が見違えるような建物になってからは、JR貨物のビルとマイウェイがある一角だけが当時の面影を残している印象です。桔梗のほうにはあまり行きませんでした。魚熊の前の道は寮へ行くときにいつでも通りましたが、うなぎを食べに行ったことはなかったですね。
心の故郷っていうのは、そこに関わった時間の長さとは比例しないですね。どれほど短い期間であっても感受性の強い時期(つまり若い時ですね)に自然と心の故郷が出来上がるものでしょう。自分も鉄道員時代は11年にすぎませんが、鉄道が心の故郷なのは明らかです。