167系電車は165系を基本設計として製作された修学旅行用電車でした。(上の画像で先頭車はクハ167です。伊東線での撮影で、私の乗務区間内ではありません。)
かつては修学旅行用専用塗色の赤と黄色のたいへん目立つ電車でしたが、私が乗務したころは165系と同じ湘南色に塗り替えられ、中央西線では季節運転の「ちくま・くろよん」と、多客期に運転されたりスキーなどの団体輸送に活躍し、その姿をよく見かけたものです。
実際に乗務したときの編成は次のようなものでした。
1986年(昭和61年)1月31日
9801M
運転区間 大 阪~長 野
乗務区間 名古屋11:03~中津川12:09
クハ167-21 大ミハ
モハ167-12 大ミハ
モハ166-12 大ミハ
クハ165-158 大ミハ
クハ167-19 大ミハ
モハ167-14 大ミハ
モハ166-14 大ミハ
クハ165-168 大ミハ
クハ167-20 大ミハ
モハ166-11 大ミハ
モハ167-11 大ミハ
クハ165-184 大ミハ
1/31宮原(電)臨A855
大臨127(後)K高校397名 (名古屋~長 野)
↑名古屋まで新幹線
大臨128(前)Y高校388名(大 阪~長 野)
乗務した167系は大阪鉄道管理局宮原電車区所属で、4両単位の編成を複数つなぎ合わせた長編成でした。165系は3両単位でしたが、167系にはクモハがなく、153系のように4両編成が最少単位になりました。中央西線内で言えば名古屋方を向いたクハは必ず165系のクハ165で、塩尻方のクハの多くが167系のクハ167でした。4両に1両の割で必ずクハ165が入っていた理由は、宮原電車区のクハ167には冷房用電源MGが搭載されていないことによります。
167系は普通車しかありませんが、165系グリーン車並に狭い出入口ドアが採用されていました。狭いドアのおかげで客室の隅の2人掛ボックス(S席)のハメ殺しの戸袋窓がなく、そのかわり4人掛ボックス席同様に開閉できる2段ユニットサッシになっていたことが特徴でした。また急行列車で車掌が複数乗務する場合の乗務場所確保のためにモハ166のトイレと物置を乗務員室に改造してありましたが、私が乗務したのは団体臨時列車で一人乗務でしたので、その乗務員室を使用する機会はなく、その設備については存じません。
上の写真で、1両目はクハ165ですが、2両目はモハ166です。モハの車端部の小さな窓が乗務員室です。ドアも小さいです。
12両編成は中央西線の電車では最長でしたが、さすがに消費電力が多かったのか、その日の列車で釜戸を過ぎたあたりで、運転士から車内電話がかかり、こんなことを聞かれました。
「車掌さん。電圧計見てくれる?」
電圧計に目をやると1500V区間なのに1100Vを指していました。そのことを電話で答えると、
「やっぱりそうか。ちっとも走らんし、前でも1100Vになっとるんやわ。」
続いて、
「故障かもしれんから、煙出とる車両とかないか、後ろから顔出して見てくれん?」
両側の乗務員室扉の窓から前方を確認しても異常はありませんでした。
それでも心配なので、先頭車まで車内で異常がないか私が確認することになって、急遽12両の長い編成の最後部から先頭車の運転士のところまで1往復しましたが特に異常はありませんでした。この区間は1500V区間なのですが、この時は12両編成で臨時として割り込んできたこの列車に必要な電気の供給が不足していたのでしょうか。そのときの理由は、車掌には専門外のことなのでわからないままでした。
(画像は分割民営化後、臨時急行「ちくま・くろよん」で活躍する167系・165系)
この列車に乗務した年の冬には、このあとも3回にわたって167系電車に乗務する機会があり、うち2回は8両、もう1回は12両編成でした。いずれの列車も、信州方面へスキーに行く高校生の団体さんでした。
この記事へのコメント
北恵那デ2
しなの7号
大ミハの167系は中央西線では、見かける機会が多くありましたので、おそらく意識せず何度も撮影されていることと思います。
先日アップした我家のNゲージ○○鉄道、レールメーカーはT社ながらポイント部から先で一気に電圧が下がります。先日のポイント交換で改善されることを期待しましたが、ダメでした(T_T)
品じぃ
私が利用した1992年の修学旅行臨の時は東海道区間は定期の0系ひかり、名古屋からは宮原の12系12両でした。
名古屋発は10時33分か11時03分で長野まで6時間かかった記憶があります。姨捨のスイッチバックは3箇所とも停車しました。
帰りは金沢の回転クロスの485系夜行でした。こちらはシュプール同様の北陸本線経由でした。
とうかいしれい
165・167系12連といえば、ちくま・くろよんの臨時が印象深いです。あと、平成11年3月2日に多治見・土岐市間でこんなのも撮影しています。前の6連に167系が入ってます。
下記アドレスからどうぞ。
http://www.rd.mmtr.or.jp/~kamechan/165-12.html
たしかスキーへ行く団体だったと思います。
12連が来るというので休みをとって撮影に行ったことも思い出。
昔鉄道ファン
167系は、1982年に「ちくま」で、1996年に「伊豆マリン」で乗りました。ちくまの方は特に印象に残っていません…居住性は快適だったのでしょう。伊豆マリンのはアコモ改造車でしたから、本来の167系の姿とは別物、でしょう。
1976年5月31日、岐阜で拾った長野方面への修学旅行臨編成です。詳細はわかりませんが…上り列車ですが、奇数列車番号です。臨9805M
クハ165-115+モハ167/166-10+クハ164-1+クハ167-19+モハ167/166-13+クハ167-20(大ミハ)
この時代の修学旅行臨は8連が主流だったと思います。田町の167系は依然修学旅行色でしたが、宮原車は既に湘南色でした。
★乗り物酔いした元車掌
快速「木曽路」を思い出します。
珍しいのでわざわざ乗った記憶があります。
電圧降下。ボクが乗務していた頃、
朝の通勤ラッシュのピーク、
名古屋口の掘り割り区間を走行しているとき、
1100Vくらいになることがありました。
列車密度が、高かったのでしょう。
C58364
165系と167系はドア幅が違うことは知っていましたが、S席の戸袋窓が違うことは知りませんでした。注意して見ていないと見逃していそうですね。
鉄道模型の会話に加わらせてください。私もフレキシブル・レールでHOゲージを始めて以来ズーっと電圧降下に悩まされていました。レイアウトが大きかったのはもちろんですが、金属製レールジョイントの精度が悪くロスが大きかったのも関係したと思います。電力供給線を増やして対処していましたが、電気的に必要なギャップの関係で安易に増やす事はできず線路増設のたびに苦労しました。現在販売されている完成レールは電力降下が少ないようですね。
しなの7号
1992年と言いますと分割民営化後になりますが、新幹線乗継で名古屋から宮原車というのは、たぶんこの例の上郡高校のような行程ですね。大阪以西の高校は新幹線で名古屋で追いつきJR西日本仕立ての列車に乗り換えるというパターンだったのでしょう。12系客車も動員してフル稼働していた時期で、拙ブログの過去記事「【222】(-_-;)失敗作(-_-;)」https://shinano7gou.seesaa.net/article/201111article_8.htmlで、読者の方(りゅう太様)からのコメントにもありますが、EF65PFが中津川まで臨客を牽いて乗り入れたりしたスキー列車全盛期であったと思われます。信越・北陸線ルートと併用して多くの臨時列車を捌いていたということなのでしょう。
しなの7号
画像拝見しました。6+3+3とは珍しい12連ですね。後ろは日根野車でしょうか。だとすると、おそらく前配置区は松本で、里帰り運用ですね。前6両だけ窓が開けられていますので、後は回送でしょうか。まだ寒い時期にこれだけの窓が開けられているのは、暖房温度の自動温度調節ができないこの時代の急行編成ならではという気がします。団体列車でなければ車掌が乗客から暑すぎるとお叱りを受けるところです。とばっちりは添乗員さんに行ったはずですが、このさき木曾に入ると冷えますから、簡単に暖房も切りづらいところでもあります。
しなの7号
クハ164が混入しているのが時代を思わせますね。クハ164は宮原のほかに大垣や神領にも所属していましたので乗務したことがありますが、トップナンバーは宮原で早い時期に廃車されていて見ることすらありませんでした。
しなの7号
快速木曽路は大垣の159系だったと思います。のちにこの列車も湘南色との混色になっていきました。
私は国鉄退職後には103系で毎日通勤していた時期がありました。まだ211系が出始めのころで、中間運転台の電圧計の下がり具合と速度計を見ながら勝川・新守山各駅発車後の加速の鈍さを体感していました。
しなの7号
いつかも申しあげたことですが、キハ20系とか急行形サハシ、155、159、167系の2人掛け窓開閉仕様は、私の一番のお気に入り席でした。もちろん窓は自由に開放できる時代でのことですが、4人掛けで一つの窓、一つの巻き上げカーテンというのは、大人の許可が要るようで苦手でした。今でも4人ボックスやロングシート車のカーテンというのは厄介物で、通勤型によくあるカーテンなしの熱線吸収ガラス仕様の方が自分的には落ち着きます。
我家はNゲージですので、レールそのものによる抵抗による影響は極小のはずですが、ジョイント部に問題がありそうです。ポイントギャップ部分の接触抵抗も含め対策が必要です。たかだか一畳のスペースですが、本線上には同一回路上にも補助的にフィーダーを入れています。なにぶんにも我が家のレール関係は1990年代の製品で、すでに生産していないような代物です(^_^;)
なお、余談ですが、我が家の○○鉄道所有の167系は修学旅行色の非冷房車です。
とうかいしれい
私も不思議に思っておりました。167系モハ車だけ窓がところどころ開けられてますよね。まだ3月の初旬。これら車両だけ強力に暖房がきき、よほど暑かったんでしょう。
あと、おっしゃるとおりで、後ろ6両(3+3)は日根野車だったと記憶してます。
あと、中央西線の団体列車では、昭和末期頃に来ていた20系客車も懐かしいです。関西方面から長野まで走った後、名古屋まで日中に回送で来ることがよくあり、多治見での運転停車を何度か撮影に行きました。
c-view
編成を見ていくと「ちくま」の真ん中あたりに非冷房のクハ164がいて、そこだけ窓が開いてた記憶がありますっ。
あれは、自由席だったんでしょうねぇ?指定席ならモメるやろーな~っ。
キハ58 737
よろしくお願い致します。
懐かしい写真ですね。
167系の宮原編成はこの年、1986年夏に紀勢本線へ臨時急行として天王寺-新宮間で見る事ができました。
381系とまでは行きませんが、485系特急「くろしお」のスジでダイヤが組まれ気動車と違い8両編成と相まって電車急行の貫禄がありました。
電圧降下は、電気暖房が原因でしょうか、113系や165系は、確か1500Vの回路を暖房に使用していたと思います。直流区間は変電所の能力に左右されますし。
しなの7号
紀州路での電車急行というのは、あまり例がないですね。167系はパンタグラフ部分が低屋根になっているので、入線した線区も多いですね。
車掌として取り扱う機器は冷暖房などのサービス機器だけでしたが、変電所能力の関係からその使用に対して制限を受けたことはありませんでした。このときは他列車と電気の奪い合いになったんじゃないかと素人としては考えています。
ちなみに、この列車は名古屋駅を特急の3分後の続行で発車しており、停車駅は千種・多治見だけで、かなり走るダイヤでした。この現場付近は緩い勾配区間で、特急とは10分程度の差がついているはず。現場付近では上り特急とすれ違います。このあたりの変電所は釜戸と恵那にありますが、さて原因は如何に?
しなの7号
投稿者に皆様、申し訳ありませんでした<(_ _)>
>>とうかいしれい様
国鉄末期から20系が中央西線に入り、日中回送されることがときどきありましたね。長時間停車中に同僚が乗務する回送の車内見学をさせてもらったことがありましたが、その後私が乗務する機会はなく、ドアロック装置など20系独特の装備の知識が仕事に活かされることはありませんでした。
>>c-view様
国鉄時代だと自由席の一部に冷房、指定席は非冷房という場面はあったと思いますよ。もっとも自分が乗務していたころはDCの赤倉自由席以外は急行はすべて冷房化されていましたので、実体験としての例はありません。
DCの赤倉自由席は、普通列車でも冷房化が進展しつつあった時期に「急行なのに非冷房」ということで、問題になっていましたね。
トシ@グッズマニア
本文3枚目の写真のモハ166でよく判ると思います。
また、田町の165,167系は緑色が他区に比べてやや淡い感じで本当にお茶の葉のような感じでした。
しなの7号
配管の色、そう言われればそうですね。正直なところ、あまり気にせずにおりました。施行工場によって外部色の色合いが微妙に違うことはありましたねえ。
通りすがり
ぶっちゃけ1100Vなら全然大丈夫。900Vまで行くと怖い
東海道線でも電圧降下はそれなりにあります。
しなの7号
現状のご教示ありがとうございました。
車掌はこんなことでもなければ電圧計を見ることがなかったのですが、前の方のコメントに書いたとおり、通勤時に103系の電圧計とにらめっこしているときに(1100V程度の)電圧降下時のじれったいような加速感は体験してました。900V…見たことありませんね;
ぴか
たまたまこちらのブログを見つけ、過去の記事を楽しく拝見しています。
中学生時代からの鉄道ファンで、昭和57年ごろからEF58の写真を撮りに大阪駅周辺をいつもうろうろしていました。
この記事にあった少しあとの昭和61年の2月に、高校のスキー修学旅行で京都~長野、モハ166-12号車で往復しました。
行きは昼行(京都8時台発)、帰りは夜行(京都5時台着)でした。
12系客車ならいいなと思っていましたが、167系だったので少々残念に思ったのを覚えています。
途中から他校との混乗になったかと思いますが、車掌さんのアナウンスなどとあわせて全く記憶にありません。。
この記事のあとにも乗務された、と結ばれていましたので、もしかしたら私の修学旅行に乗務いただいたのかも。。?と思い、コメントさせていただきました。
もっとも、この頃の大阪府の公立高校の修学旅行は長野のスキーが定番だったようで、連日似たような行程で輸送いただいていたようです。
当時の高校二年生も53歳になりました。
懐かしい思い出がよみがえりました。ありがとうございます。
しなの7号
ご覧いただき、ありがとうございます。
167系も修学旅行色時代なら少しは気分がよかったでしょうが、12系客車でなくて残念だったですね。
当時の乗務日誌などを繰ってみました。このあと167系電車に乗務したのはすべて2月だったことはわかりましたが、高校名を記録したものが残っていたのは1本だけ(三重県の高校)でした。
2月13日 9801M(名古屋11:03→中津川12:09)8両
2月14日 9802M(中津川 1:34→名古屋 2:51)8両
2月17日 9816M(中津川 2:20→名古屋 4:15)12両
(日付はすべて乗務開始駅基準)
これら3編成とも、モハ166-12が連結されていました。17日の9816Mが三重県の高校で、名古屋で全員が下車されたあと、編成は東海道本線内は回送となっていますので、2月13日の出発か、帰着が14日早朝であれば、あるいは修学旅行で乗っていただいた列車だったのかもしれませんが、おっしゃるとおり、この時期には、9801M~9802Mは連日運転されていたと思いますので特定はちょっとむずかしいようで。。。