宗教団体は国鉄の団体列車のよいお客様だったようで、天理教、創価学会や金光教などの団体臨時列車が多数運転されていました。このうち1986年(昭和61年)は、天理教の教祖100年祭の年でしたので、特に「天理臨」の運転本数が多かったようで、2月に連続で「天理臨」に乗務しました。いずれも12系座席車の列車でした。
(画像は別の列車です。)
1986年(昭和61年)2月8日
中央本線8802列車~関西本線8201列車
乗務区間 中津川1:05~2;23名古屋3:41~亀山4:46
中央本線 8802列車
EF64 43(篠) 臨A301(2/6)
スハフ12 35 長ナノ
オ ハ12 119 長ナノ
オ ハ12 120 長ナノ
オ ハ12 121 長ナノ
オ ハ12 69 長ナノ
スハフ12 103 長ナノ
名古屋から逆編成
関西本線8201列車
DD51(車番不明)(稲)臨A558(2/8)
※亀山から8223列車に継送
12系お座敷車には、これまで何種類にも乗務したのに、オリジナルの12系座席車への乗務は意外にもこれが最初だったと記憶しています。
この時は、名古屋を通り越して亀山まで通す行路でした。列車は松本始発で、深夜であるがゆえに停車駅は主要駅の運転停車のみで、乗降はもとより、弁当の積み込み等もないのでドア扱いは一切ありませんでした。団体列車の場合は、お客さんのことは添乗員さんに任せておけばよく、車掌は起きていればよいような乗務でした。途中、未明の名古屋駅では関西本線に入るので列車番号が変わるとともに、進行方向も変わりました。時間調節の意味もあったのでしょうが、ここでは1時間18分もの長時間停車でした。お客さんは寝静まっており、深夜帯のために駅は閉鎖されていますので、ホームには人の気配がなく、ただ電源エンジンの騒音だけが構内に響き渡って、ふだん接する雑踏の名古屋駅とは違った空間がそこにありました。この停車中も、仕事らしい仕事と言えば、尾灯を消灯し、反対側の乗務員室に移って、反対側の尾灯を点灯。機関車が連結されたら、機関士に編通(旅客車編成通知書)の交付と無線機の通話試験をするくらいのことしかありませんでした。
12系客車は、冷暖房の電源をスハフ12の電源用エンジンに直結した発電機でまかなっていました。冷暖房とも使用しなければ、12系客車は、従来の旧型客車同様に車軸発電機とバッテリを装備していましたので、室内灯と尾灯の点灯だけであればエンジンをかけておく必要はありません。しかしこのときは冬場なので暖房をかけていましたのでエンジンは回しっぱなしでした。
ちなみに、お座敷客車や欧風客車などのジョイフルトレインに改造された12系の場合は、サービス電源として、たとえばカラオケなどの電源も必要ですので、営業運転中は冷暖房に関係なくエンジンをかけていました。
その8日後に、また12系の「天理臨」に乗務しました。
こんどは東海道本線でした。
昭和61年2月16日
東海道本線 8104列車
乗務区間 名古屋13:51~浜松15:16
EF65 1107(新)
1 オハフ13 28 盛モカ
2 オ ハ12 128 盛モカ
3 オ ハ12 130 盛モカ
4 オ ハ12 112 盛モカ
5 オ ハ12 113 盛モカ
6 スハフ12 119 盛モカ
7 スハフ12 117 盛モカ
8 オ ハ12 114 盛モカ
9 オ ハ12 276 盛モカ
10 オ ハ12 129 盛モカ
11 オ ハ12 277 盛モカ
12 オハフ13 30 盛モカ
※名古屋で9114列車を継承
こちらは天理から東北地方へ帰る団体さんのための列車でした。関西本線からの継承列車でなく、名古屋までは東海道本線(米原)経由でした。
この時期には、全国から集中する臨時団体客を捌かなくてはならなかった天王寺鉄道管理局の苦労は想像を絶するものがありました。おそらく総動員体制で車両の運用、留置場所やダイヤ策定をされたのでしょう。
私は浜松で他区乗務員と乗継になりましたが、列車そのものは首都圏を通り過ぎ、列車番号を変え、牽引機も変えて北に向かって走り続けたはずです。終着駅はどこであるのか記録を紛失しており判りませんが、午後の時間帯に名古屋を通り過ぎていますので、お客さんが家に帰れるのは翌日になるはずです。このときの車内には、4人ボックスに1つずつ大きな板を配置してありました。私の想像にすぎませんが、これをシートとシートの間に橋渡しして簡易寝台として使用したのだと思われます。座席車で長時間を少しでも快適に過ごすための工夫なのでしょう。12両もの長編成をEF65PFが牽引していく、いかにも当時の東海道本線らしい臨時列車でした。
この記事へのコメント
北恵那デ2
しなの7号
団体さんからのプレゼント?といえば、国鉄末期~JR初期にかけて、中央西線に九州方面からよく入線していた高校生のスキー団臨でした。ふだん見慣れない国鉄の名車20系客車が地元を悠々と走っていくのが、高校生から?の最高のプレゼントでした。
北恵那デ2様はご承知のことでしょうが、自分の嗜好は、鉄道写真に関しては、別に遠くの有名撮影地に行かなくても地元で撮りたいという気持ちが強くて、地元での写真こそが最大の宝と思っています。
ただ、今住んでいるところでは、金網とか、立ち入り禁止部分とかが増えてしまい、撮ること自体が困難になっていたのは、別に撮り鉄ではないですが、やはりさみしいです。
C58364
宗教臨ではありませんがホームで12系客車を見たことがあります。明るい車内に青いシートがずらりと並びきれいな車両で乗りたかったですね。団臨用で無理ではありましたが。電源用エンジンの音はうるさかったですね、近くでは話ができませんでした。
全国から臨時列車が一挙に大量に集まってくる天鉄局は大童だったと思いますね。車両の留置先だけでもたくさん必要でしょうから。
4人ボックスに1枚ずつの板はどのようにして使われたのか、私の頭ではイメージできません(笑)。
しなの7号
12系客車とか気動車の冷房エンジンの騒音はすさまじいものがありましたね。夏場の武豊駅で、エンジン音がうるさくて駅員が電話での通話が聞こえないから、折り返し時には、エンジンを切るよう駅から車掌区を通じて要請されたことがあります。
12系は臨時急行に一時期多用されていました。14系の簡易リクライニングより夜行の場合は居住性が良いと思います。
「板」は通路に橋渡しすれば足を伸ばして寝られますし、ボックス内の座席で橋渡しすれば、簡易お座敷風に使えると思います。
★乗り物酔いした元車掌
乗務ではありませんでして、
ボクのいた駅を通る列車、
この列車番号は、
何回改正しても
必ずありました。
数少ない「臨急客」でした。
そして、滅多に運転されないのに、
予定臨であることが、不思議でした。
そういう列車だったのですね。
しなの7号
関西本線8201列車は、駅の方にとっても未明の眠い時刻のスジですね。
この列車、「臨急客」だけに、名古屋を出ると、四日市に30秒停車するだけで、亀山までオール通過。
関西本線にありがちな、行違いの運転停車すらありませんでした。
北恵那デ2
しなの7号
かつて撮影した場所に再訪して、その変わり方を確かめてみたいという気持は常にあります。転居して27年ですから、そちらの状況も、部分的にしか把握できていませんので、古い画像を持って定点撮影(撮影すらできない状況にだったりもしますが)というのも、撮り鉄としてではない写真の楽しみ方としてアリだと思っています。
高山本線でC56160が走った時も、スハフ12は例によって轟音が響いてましたね。鉄道に詳しくない人は後押ししていると思っても無理ないことです。そのとき1日だけ旧型客車の編成が使われましたが、12月なのにその列車だけは時刻表に「暖房なし」と表記されていました。蒸気暖房は物理的に可能だったはずですが、諸事情があったのでしょう。
近々JR釜石線で走るC58が牽く客車にエンジン付きのキハ141を採用したという発想は、もと50系客車であることもあって、現実的なやり方として自分的には評価しています。
C58364
宗教臨には空席があったようですね。私には空席のイメージがなくて、満席なのに1枚の板をどうやって使うのか不思議でお聞きしてしまいました。
空席があれば通路などに渡すなどの利用方法もありですね。高校生の時に乗った旧客では、シートの通路側下部に空き缶を立ててシートを斜めにし、頭を肘置きにのせて寝ている乗客を時々見かけましたが窮屈そうでしたのでその救済ですね。
団体・列車により異なると思いますが、この2本の列車の乗車率はどれくらいだったのか知りたいですね。
鉄子おばさん
しなの7号
最初の長ナノ6両は書類上500人の団体でした。座席定員は512人ですから、ほぼ満席ですね。
盛モカ12両のほうは、資料紛失で人数はじめ詳細不明ですが、長距離の夜行団体だと車両を多めに連結していることもあったように思います。そんな理由からか6両編成のお座敷列車にグリーン車を1両増結した編成を見たことがあります。夜は大垣夜行などでよくあったように、床で寝る方もありましょう。団体列車は旅行会社への貸切扱いですので、床には寝るなとか車掌がいう筋合いではありません。板を渡したことによって、座席と床の2段ベッド?的に利用できて便利だっただろうと思いますが、窮屈なことこの上ない状況になりそうです(>_<)
空き缶を利用するやり方は、昔はポピュラーな寝方でしたが、1ボックスに2人の場合ですね。もうそういう芸当?はできない齢になってしまいましたが、そんな列車そのものがなくなってしまいましたので、したくてもできないことですね。それに今は、缶がアルミ缶が主流なので強度不足ですかね。
しなの7号
12系と機関車の組み合わせは、SL.DL.ELを問わず、国鉄色であればどの組み合わせでも違和感なく感じますね。ただブルーに白線の12系の場合はブルートレインを思わせましたので、普通列車に転用されて白線が消えた外観にさみしさを覚えました。私が山陰本線の客車列車末期に乗ったのときは50系客車でした。途中でDD51のボイラ故障で暖房なしになり寒い思いをしました。12系だったらエンジンがあるのでそんなことにはならなかったはずでした(T_T)
天鉄竜機
しなの7号
リアルで天理臨に携わった方のお目に留まりうれしく思います。やはり総動員体制だったんですね。
私は車掌になる前、荷物列車の乗務掛~車掌補時代に、関西本線で百済までの乗務があり竜操も通りましたが、53.10ダイヤから他区に移管されました。
天鉄竜機
JP3AWGでブログのようなもの書いてます。
しなの7号
私の百済への乗務列車は荷43・荷44列車でした。
53.10以後は荷4041、荷4043、荷4044、荷4046列車に乗務していましたが、乗務区間は名古屋・亀山間だけでした。
たしかに出先でお金はよく使いました。こちらこそ、よろしくお願いします。
昔鉄道ファン
天理教祖100年祭の頃は、ジョイトレの乗り鉄にすっかり夢中で、天理臨の事はすっかり忘れていました…
既にこの頃は、EF58は東海道筋には[東]と[宮]に3両ずつのみの在籍、牽引機がPFに変わってしまったのは時の流れですね。
12系や14系は別に珍しくもなく、割合簡単に捕捉できた時代…今や客車列車そのものが絶滅危惧種なのですから、時代を感じます。
この目で100年祭の臨時を見る事はありませんでしたが、90年祭の時は追いかけましたね。カメラがなかったのが残念です。
1976年2月1日 9411レ
(東北からの列車)
EF58144+スハフ1239+オハ12171+オハ121784+オハ12273+オハ12242+オハフ1350+スハフ1238+オハ12141+オハ12279+オハ12133+オハ12136+オハフ1332
機[宮]客[盛アオ]
1976年2月11日 9432レ
(中央西線入込み、確か中津川行です)
EF58100+スハフ1442+オハ14140+オハフ1536+オハ1495+オハ1490+オハ14143+オハ1491+スハフ1427
機[宮] 客[名ナコ]
90年祭の時は、鉄道ファン誌に運転予定が掲載されていて、簡単に捕捉出来ました。
サンダーバード46号
おそらく12系は紀勢夜行のはやたまに使われていたと思いますが、61.11改正で165系に置き換えられてしまいました。
高校では鉄道好きとは友人達にも明かしておらず、いそいそと国鉄志紀駅へ向かっていたら自転車通学の友人に姿を見られて驚かせてしまったのも懐かしい思い出です。
しなの7号
掲載していただいた編成が走ったころは、まだ雑誌による毎月の「団臨情報」の掲載はないころでしたが、SLが無くなり、ブルトレブームが始まったことで、ELの情報が鉄道趣味誌を賑わすようになった時期でした。記事にある100年祭の時期の2年くらい前から「団臨情報」が連載され、撮り鉄には貴重な情報源になっていて、沿線に撮影者をよく見かけるようになりました。
しなの7号
私が竜華操を行き来していたころのことは、実のところあまり印象に残っていないのです。と、言うのも前年にEF52が引退した後で、前の昔鉄道ファン様のコメントにもありますように、EF58も12系も14系も珍しくなかった時代だったからです。おおさか東線の初乗りに行ったときに、久宝寺界隈を見ても、思い出すモノは何一つ浮かびませんでした。変わり果てているから当たり前と言われれば当たり前ですけれど…
鉄の不審行動はお互い様で、高校時代、担任に試験期間中にカメラ持って家と反対方向へ行くのを見つかったことがありました(^_^)/
やくも3号
私のもと教え子に、金光系の高校の出身者がいました。全校生徒がそろって岡山の本山へに行くときには、いわゆる『金光臨』を仕立ててもらったそうで、くろしお色の381系電車が使用されたようです。ただ、時期が違うとはまかぜ色のキハ181だったり、きたぐに色の583系だったりで、彼はそちらも乗ってみたかったと言っていました。
大阪府から岡山県までの比較的近距離ですが、新幹線利用でないところがすごいですね。
しなの7号
私には乗務する機会がありませんでしたが、金光臨もありましたね。JR化後も東海地方からも運転されることがあり、末期の381系神領車もその任に当たっていたと記憶します。ふだん山陽筋で見ることがないクロ381も入っていて、たいへん目立ったことでしょう。国鉄時代には381系神領車が山陽筋に入るとは考えられませんでした。