今回から毎月曜日、4回にわたって、私が昭和51年4月に国鉄へ就職した直後、「乗務掛(荷扱)」の職名で荷物車に乗務していたころの乗務列車のうち、関西本線の「思い出の乗務列車」を連載します。今回は、その往路の前篇になります。
この行路の乗務区間は名古屋~亀山~百済(くだら)間でした。百済という駅は天王寺の手前にある貨物駅でした。
私が乗務した荷物車は、名古屋から亀山まで、旧型客車5両の後ろに、ぶら下がるように2両連結された荷物車のうちの1両で、そこが仕事場でした。
(昭和50年3月10日改正)
関西本線225列車 名古屋13:41~亀山15:17
スハフ+オハ+オハ+オハ+スハフ(以上 名11)+マニ(天荷4)+マニ(南東荷8)
牽引する機関車は全区間DD51でした。名11の5両は名古屋発亀山行の客車(名ナコ)で、公式の編成表上はスハフとオハになっていますが、実際には、オハフ・スハ・ナハ・ナハフが混在しており、全国各地で見られた典型的な国鉄旧型普通客車列車のスタイルでした。その後ろにぶら下がった「天荷4マニ(天リウ)」には、私ども3名(専務車掌(荷扱)1名と、乗務掛(荷扱)または車掌補(荷扱)が2名)の荷扱乗務員が乗務していたのでした。この車両は荷物基地がある熱田から名古屋まで、荷扱乗務員が乗務しない「締切車」として、東海道本線荷2043列車に連結されてきた車両でした。
最後部の南東荷8マニ(南トメ)は前日に汐留を出た東海道本線荷41列車で一晩かけて名古屋まで来た車両で、こちらには他区の荷扱乗務員が乗務していました。
225列車の終点である亀山で客車と切り離されたあと、この2両の荷物車はさらに関西本線を西下し、その終点の百済まで、乗務員もそのまま乗務する行路になっていました。
名古屋で天荷4マニに乗務すると、荷物室にはすでに荷物が熱田から積み込まれており、亀山で取り卸すべき紀勢本線への荷物だけが車掌室寄りに区分してありました。列車の発車前に3人の乗務員は、荷物室内の荷物を、取卸し駅別に仕分ける作業をしましたが、名古屋駅ホームでも、まだお昼が過ぎて間もない時間ではあるものの遠方への夕刊が積みこまれたりしました。
昼下がりの名古屋駅を発車し、次の停車駅の八田を過ぎれば、車窓にはローカルな風景がひろがりました。当時の関西本線は、列車本数が少なく、ほとんどの区間が非電化単線でした。並行する東名阪自動車道もまだ建設中の頃で、車窓からは、その高架橋や盛土の工事の様子が見えました。、そして並行する近鉄線路上を行きかう電車に抜かれようと、225列車は我関せずとばかりに、のんびりと亀山へ向かって走り、各駅で乗降客の取扱だけでなく荷物の積卸もしていたのでした。
仕事ものんびりとできればいいのですが、意外に難しかったのが関西本線内での荷物中継駅でした。 【372】思い出の乗務列車20:紀勢本線921列車(後篇)でも少し書いたことですが、関西本線からは近鉄線との接続駅がいくつかあります。ご承知のように近鉄は、JRグループを除けば日本最長の路線網を持っているため、近鉄線内駅着の荷物を取り卸すべき中継駅に迷うのでした。それに加えて、草津線、奈良線、大阪環状線というように、東海道本線方面への分岐線も複数あり、、東海道本線方面への荷物を、どの駅で中継すべきかについても迷いました。
関西本線へ向かう列車に名古屋発の時点で積載されている荷物は、草津線、奈良線の各駅と、大阪環状線の天満~天王寺~弁天町の範囲より南の国鉄線(そこから中継する各会社線を含みます。)と近鉄養老線の美濃津屋以北を除いた近鉄線全線と範囲が決められておりました。しかし列車は西へと走っていくわけですから、
たとえば途中の四日市駅で大阪着の荷物を積まれたら、それは
草津線の分岐駅柘植で中継?
奈良線の分岐駅木津か?
終点の百済から大阪環状線経由?
と、考えられる中継駅が複数出てきて迷うわけです。
が、そうした経路はすべて規定されていまして、上に掲げた中継駅はすべて誤りなのでした。
規定の詳細を書き出すと複雑できりがありませんし、当時の規程本もありませんので簡単に書きますが、当時、柘植から分岐する草津線では、荷物輸送が自動車便に転換されており、その自動車による中継作業は柘植駅では行わず亀山で行っていました。木津も同様にターミナル駅である奈良で中継作業を行っていました。終点の百済は大阪市内の駅なのだから、大阪駅着の荷物は終点の百済までそのまま積んで行ってもいいかと言われれば、そういう気もしてきますが、この場合の正しい取り卸し駅は亀山なのでした。(画像は亀山での荷物中継範囲を示した図の一部です。)
当時は亀山~草津間を結ぶ「亀草線」という国鉄自動車線があり、対東海道本線相互間の荷物輸送を担っていたのでした。草津線の荷物輸送も「亀草線」のトラック便を一体化して代用させていたのいうのが適当なのかもしれません。こうなると国鉄線の線路図が頭に入っていてもダメで、近鉄線の線路図と駅名をも頭に叩き込んだうえで、手小荷物の輸送方の規定を正しく理解していなければ、きちんと仕事をすることは困難なのでした。
次週に続きます。






この記事へのコメント
C58 365
たまに、コメントするC58 364の弟です。
しなの5号様のブログを拝見して、すぐ近くの職場で、休憩中に、東海道本線の上下を行き交う主に、貨物列車。
機関車溜まりで、盛大に蒸気を吹き上げて、SGの試験をするEF58を、思い出します。
たまに、普通貨物の最前部に、回送のSLが、付いてると、やったと思ったものです。
懐かしいです。
しなの7号
御兄弟で鉄をされておられたようで、うらやましく思います。
転職後、26年勤務した会社では、数年ごとに転勤がありましたが、たまに汽笛が仕事中に聞こえる職場が3か所あり、その音で鉄道の息吹を感じていました。
でも東海道本線が目の前にあったりしたら、仕事が手に付かないだろうと思います(^_^;)
★乗り物酔いした元車掌
下り方面でも、一部の西方面は、
上り列車に継走していました。
で、始めのうちは混乱しました。
亀山以遠は主に、紀勢線と、百済、竜操でしたかな。
そう、吹田は、「下り」だった記憶があります。
30年以上の話しですが。
C58 365
しなの7号様ですね。
号数を間違えて、失礼いたしました。
当時、冷房は、真夏しか稼働せず、仮眠室の二段ベッドで、機関車のタタ、タタ、タタの後にタン タン タン タタタタ タン タン タン と、聞いてると、寝れなくなってまんじりともせず、作業開始を待ってたことを、思い出しました。
旧名古屋駅2階の食堂で私達の食堂よりも、美味しい食事を食べたのも、思い出しました。
仮眠室と、書いてある扉を見た記憶が、ありますが、乗務員さんは大変なお仕事だなと思った記憶が、あります。
しなの7号
環状になるなど、2以上の輸送経路が考えられる場面では、荷物も貨物もその最短経路での輸送が大原則ですが、輸送力の関係などでの例外があまりに多かったわけです。各駅では経路が一発でわかるようにしてあっただろうと思いますが、本文に書いたように列車は動いていますので最短経路も刻々と変わってきます。本文に、亀山の中継範囲の画像を添付しましたが、この図は、拙ブログの基準に関わらず、記載された文字が分る程度に拡大可能としてあります。ご覧いただくと、亀山に到着する時点では、東海道本線米原以西は亀山中継。醒ヶ井以東は逆に名古屋中継となるわけです。
しなの7号
別にお気になさらずに(^_^)/
私が就職したころは、まだ一般家庭にはエアコンが普及していなかったのに、職場と乗務員宿泊所は冷房完備でした。それに反して独身寮は、その後も退寮までずっと非冷房で、冬場も深夜~早朝はボイラを停めてしまうので、暖房は自前の電気アンカやコタツが必須でした。寮が稲沢でしたので、一晩中貨車の入換の音がしており、暑さも加わって、夏場は常に寝不足でした。
名古屋駅の職員食堂にはごく稀に行ったことがありましたが、「とんかつ」が大きく見えたので注文し、食べてみると、肉を鯵の開きのように真ん中に包丁を入れて半分の厚さにしてあったのに驚きました。(中央部だけ一直線に盛り上がった部分があるので変だと思ったら、鯵の開きで言えば背の部分)
北恵那デ2
しなの7号
当時でも関西本線亀山以西に乗る機会があるとすれば、目的地が奈良あたりまでの場合に限られたでしょうね。私も竜華、百済とも乗務するまで通ったこともない未知の駅でした。乗務では往路復路とも久宝寺でなく竜華で停車しましたが、それは旅客列車を先に通すためであって、もちろんホームはなくて荷物の積卸はなく、北恵那デ2様同様に、ああこの辺がそうかみたいなことしかわかりませんでした。D51はさすがにいませんでしたが、ED60,61 EF15,58が配置されていた時代でした。
まあ、名古屋であれば、職員食堂が不味いと思えば、いくらでも食事ができるところがあるからいいですが、長時間乗務中の食事は、いつも弁当とか何か手段を考えておかないと欠食になってしまいますから「食えればいい」ということになりますけどね。この列車の亀山以西も、少なくとも亀山で弁当調達が必須でした。
ラモス
久しぶりにブログを拝見致しました。
亀草線の話が出ていましたね。
自分は今、元の沿線に住んでいます。
鉄道ほどに面影はありませんが、かつての本水口駅や土山駅など雰囲気は今でも感じられますよ。
貨物もあったなんて意外でした☆
しなの7号
国鉄自動車線については、以前に「【214】 国鉄二俣線の切符」
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201110article_8.html
で、少しだけ触れたことがありますが、長距離路線を中心に、旅客輸送だけでなく「手小荷物輸送」(貨物とは違いますが、線によってはトラック輸送)が行われている線区もありました。亀草線もそのひとつで、本水口駅や土山駅という「駅名」もこの仕事に就いて初めて知りました。
ご承知のように?、私は中山道を歩き通した者ですから、東海道もと考えていましたので、このあたりも徒歩で、と思っていたのですが、現在収入源がなくなってしまいましたので、今後も行けそうにありません(>_<)
天鉄竜機
225レ記憶に無いです。多分稲沢で本駅着ですから、東(転車台)入区で集灰線回りで出区線でしょうか。40年前ですから曖昧です。亀寮木造でした。冬は本当に寒かったです。ホームコタツが備品で付いてました。転勤した紀伊田辺寮も木造でした。夏は機関区がすぐ傍ですから乗務員休養室に寝に行ってました。後泊の乗務員の部屋が空いてました。
新小岩博士
台湾鉄道は30~40年前の国鉄時代を彷彿させます。
客レにマニ車が連結されており、荷扱いをしていました!主要駅には小荷物扱所があってチッキが存在してます!手荷物の一時預かりも…
車扱い貨物列車(最後尾にワフ連結)や支線ではタブレット閉塞が健在。国鉄ファンとしては涙が出るほど嬉しくなってます( ´∀`)
しなの7号
亀山機関区の乗泊にはよくお世話になりました。
木造と言えば、亀山駅広場に木造駅前旅館がありました。それが、この記事のころだったように思うのですが、鉄骨のビジネスホテルに建て替えられました。2階に喫茶店「プラザ」があって車掌区の隣でしたのでよく行きましたが、現在は空きビルのようです。
亀山機関区の乗泊にはよくお世話になりました。
しなの7号
日本国内ではJRでさえ国鉄の名残が消えかけているのに、現役で荷物車が営業しているのをリアルで眺められるとは(゜o゜)
宮脇俊三が、その昔(1980年)に「台湾鉄路千公里」で台湾の優等列車から枝線のローカルまで乗っておられますので、私などそれを読んだ感覚が染みついています。今の状況はそんな前の話とは同じにならないでしょうが、近代化のペースを考えると、それから約35年後の今、台湾では当時の日本の国鉄と同じレベルにまで発展したということでしょうか。
お気をつけて、周遊してください。
宮脇情報?では、台東の大飯店には「女ノコホシイネ?」というオバサンがいたそうですが今は…
新小岩博士
台鐡は新旧が混在してるというのでしょうか。駅設備も大都市近郊区間?は自動ラッチ(オムロン製)やICカードが普及しています。マルス?や特急券自動販売機も…
車掌目線で車掌の仕事ぶりを観察していると車内改札の際、シャチハタのスタンパーで改札、精算は車発機で発券していました。
また出発、到着監視を行ってないΣ(゜Д゜)
触車事故は旅客の自己責任なのでしょうかww
宮脇俊三の台湾鉄路千公里は読んだことないので帰国後、是非読んでみます!
残念?!ながら、私の泊まった宿にはオバサンは来ませんでした(笑)
今日は阿里山森林鐡路を乗り鉄です( ´∀`)
しなの7号
このまえ、台湾バナナを買ったら「阿里山」と大きく書かれたシールが貼ってありました。
もちろん私は行ったことなどありませんが、宮脇氏が行った時には、ここでも怪しいオバサンに、宿泊券付の切符を買わされたようです。そのホテルがとんでもないところだったようで…
もちろん今はそんなことないと思いますが、そういうことも「旅客の自己責任」でしょうからお気を付けくださいませ(^_^)/
鉄道郵便車保存会 会長
【476】後編では荷43列車にスユニ郵便車があった関係でコメントを多く書かせていただきましたので、こちらでも。
225列車に積まれる荷物の中継駅や経路を拝読すると、鉄道郵便とはずいぶん違いがあります。名古屋の時点で、環状線天満、弁天町以南が積まれている、四日市など関西線で積まれる大阪着荷物が亀山中継になる、というあたりに興味を引かれます。
荷物は個々に着駅があり、経路や中継駅の原則に従って運ばれるのでしょうが、郵便車に積まれる郵袋は、個々に宛先局があるにせよ、大阪府内はどの局も大阪中央局、小包局を経由するため、百済駅で降ろされても大阪中央局、鉄郵などにトラックで送られ、ある意味、百済駅は大阪駅と同駅と見なされます。
そういうことから、関西線発大阪駅着荷物は終点百済まで積んで、中継トラック便で大阪駅に届けてもらうほうが自然で、亀草自動車線という、輸送力が小さい経路を通さなくても…と思ってしまいます。もしかすると、大阪駅だけでなく、亀山までの関西線発荷物で、大阪以遠(塚口以北、神戸以西)もすべて亀草線中継なのかな…と想像すると、荷物車との輸送量比較からして百済まで積んだほうがいいように思われるのですが。
また、名古屋駅発大阪以遠着の荷物は(奈良県を除き)、関西線経由とせず、東海道線荷物列車に任せた方がもっと輸送量があり到着も早いと思われます。
関西線発京都駅着と、山陰線着荷物も奈良で中継しないで、亀山中継したものと理解できますが、こちらは奈良中継よりも近道のように思われます。
鉄道郵便の論理は抜きにして考えてはいるのですが、荷物輸送経路の奥深さですね。
しなの7号
郵便輸送のお立場でご覧いただくと、奇異に思われることも多かろうと思います。私も就職直後のことゆえに自動車代行による亀山中継範囲を不自然に思っていました。
こうなった理由は一乗務員に伝えられるわけではありませんから経験から考えるしかないわけですが、草津線を東海道本線側との通過連絡に利用するというのは、最短経路によるという荷物輸送経路の原則どおりとなり自然です。これが草津線の荷物輸送を自動車線の亀草線と事実上統合した上で亀山中継に移行したという背景はご承知いただけると思います。亀山中継範囲は、山陽・東海道の米原までと北陸本線内までの広範囲に及びました。どのみち自動車代行区間を挟みますので、東海道本線側に荷物基地がなかった大阪での中継作業を草津に分散させるメリットもあったのではないでしょうか。名古屋での関西本線の積載範囲指定も同様な意味合いのほかに、輻輳する東海道本線のバイパス線としてのメリットを持つと考えられませんでしょうか。
ところで、この225列車を含めた名古屋口の客荷分離が行われた53.10では中継範囲が一変していますが、この改正で私どもの乗務範囲は亀山以東だけになりましたので、亀山中継を含む亀山以遠のことは仕事に関係がなくなり、よくわかりません。しかし東海道本線の荷物列車で草津が郵便停車になったことからも想像できますように、荷物の中継業務は東海道側が京都に移っており、亀山の自動車中継範囲も大幅に縮小されたようですので、東海道本線と関西本線との荷物の輸送経路はかなりの部分が百済・奈良?・熱田に移管されたと考えられます。
鉄道郵便車保存会 会長
ご説明で大筋の理解はできます。
ここであえて郵便の輸送経路に触れますと、大阪対三重県は、一筋縄ではいかない複雑さがありました。
大阪から三重県各地への鉄道輸送経路は、郵袋の種別にもよりますが、普通郵便物は桑名鳥羽間には近鉄託送が盛んに利用され、国鉄駅に沿う島ヶ原亀山間は関西線荷物列車(亀阪便)で、あと、東海道線荷物列車(東門上り便)が名古屋で下り関西線郵便車と短時間で接続する場合は大阪から東門便へも積載した記憶です。ところが、小包郵袋となると、時間がかかっても亀阪便に積載しました。
さらに不思議なのは、東門上り便に神戸以西から積まれている三重県宛郵便物については、大阪駅~百済駅をトラック中継してまで亀阪便に積み替えるのは、接続がいい時間帯の便だけ、しかも通常郵便物に限られ、その他はすべて名古屋経由だったので大阪では積んだままでした。
このように、郵便物の種別や発送元により経路を変えることは理解が困難でしたが、荷物輸送経路で関西線が東海道線のパイパス、救済の役割があったことを考え合わせると、三重県への輸送は、各線郵便車の輸送能力のバランスをうまく取っていたと考えています。
しなの7号
東海道本線の大阪~名古屋間と三重・奈良・和歌山方面との輸送ルートは何通りもありますから、輸送経路は輸送力に重きを置くか速達性を最優先にするのかによって分かれるところでしょう。荷物と郵便の大きな相違点が大きさや重量であることですから選択肢が変わるでしょうし、国鉄が自前の営業であるのに対し、郵便が国鉄の利用者であるという立場上の違いを考えれば、利用者としてはコスト的に許される範囲であれば、輸送ルートや方法の選択肢は多くなるものと考えます。
鉄道郵便車保存会 会長
おっしゃるとおりで、輸送力があり四日市に早い東門便、小包優先でゆっくり運ぶ亀阪便、早いが輸送費が高い近鉄便で分け合っていた感じです。
郵便車は全室、半室という面積と運行距離で国鉄に契約金を払っていたので、走らせる以上は積まなければ損という考えで、満載となるような積載郵袋数が計画されており、経路は必ずしも最短でなければ一定でもなく、積載便ごとに積み替え駅と結束(荷物で言う中継)する駅も変わりました。
あと、亀草自動車線中継が草津線荷物輸送廃止の代替と理解しますが、草津線の郵便線路(柘植草津線)が廃止されたのは昭和45年10月1日でしたので、荷物輸送廃止と同時ではないでしょうか。草津線郵便輸送がその後も続いていたなら、亀阪便は柘植で草津以遠へのブツを柘草便に多く積み替えたと思われ、京都のみならず、大阪へも近道になるので、早く廃止しなくても良かったのに、と感じています。
しなの7号
荷物の輸送経路は、本社規定のほかに、地域ごとの輸送計画室、鉄道管理局といったローカルルールが存在したことと、昭和50年代の輸送改善でダイヤ改正のたびに朝令暮改のごとく行われた規定の改正があったことで、自分の乗務に関係したこと以外は「こうでした」と断言できないところが多いです。
草津線の客荷分離もおっしゃるような時期であろうと推測しますが、当時の時刻表などからは読み解けませんでした。
鉄道郵便車保存会 会長
関西線亀山加茂間が未電化なのに草津線が電化されていることから、路線の重要性はひけを取らないはずで、荷物郵便輸送の早期廃止は惜しいと感じるところですが、郵便に限れば、亀阪便2往復の柘植駅時刻と接続する列車に郵便車を連結しても、沿線局の配達、収集時間帯と合わないことから、鉄道郵便線路として価値が低いとみなされたのかもしれません。
あと、名古屋職員食堂のトンカツですが、見事な「開き」ですね。火の通りを早くして調理時間を短くしたかったとか…。そば屋の天ぷらそばでエビを開いて面積を倍にしてたたいてから大きな天ぷらに見せる工夫(?)に似ています。
薄いトンカツのお話ですが、高校の食堂でも見事なほど薄切りのトンカツがあり、同級生が肉屋の息子で「冷凍した豚肉の固まりをハムのスライス機にかければ薄く切れる。業者にあらかじめ薄切りを注文して仕入れているのや。原価はええとこ1枚30円やな。」と言ってまして、定食は300円でした。
しなの7号
荷物に限れば、草津線は、京都~亀山を直通して柘植と草津の中継を最小限にすべきだと思いますので、代行化より前は朝晩にあった直通客車列車が荷物輸送に活用されていたのではないかと想像しましたが、時間的には郵便輸送に不向きのようです。どこでも国鉄の電化やDC化は郵便輸送の障害となったのでしょうね。
とんかつの開きは、エビを開いて面積を倍にするのとまったく同じ発想ですね。今はスーパーの安い弁当の世話になることがときどきあり、成型肉のとんかつによく出会います。それよりはホンモノの「開き」のほうが健康的で高級?なのかもしれないですが、安さにこだわりがあっても食にこだわりがないので気にしていません。
鉄道郵便車保存会 会長
電化で郵便気動車の代替車を充当できず、奈良線、和歌山線では自動車化となり、伯備線は115系座席の一部代用で続けましたが、59・2合理化、はたまた61・10廃止を見据えていたため、経費をかけてまで新造、改造郵便車は導入しなかったと考えています。
成形肉のカツは昔からありましたね。肉屋の息子から見分け方を教わっており、その数年後に通った、とある大きな郵便局食堂のトンカツがそれだったような気がします。切れ目を見ると繊維が垂直でなく曲がりくねっていました(笑)
しなの7号
電化は旅客面では非電化区間との直通列車を分断する結果となりました。「自分で乗り換えられない」荷物や郵便には、電化によるデメリットのほうが多かったですね。
昔は成型肉なんて知りませんでしたので、けっこう知らずに食べていたのでしょう。そもそも乗務員時代の食生活は最悪だったと思います。
鉄道郵便車保存会 会長
紀勢線和歌山新宮間など、電化の後も客車列車が生き残った線区は荷物、郵便輸送が続けられたことに気が付きます。ですが、59・2で郵便は全国的にトドメを刺されました。
乗務先の食事に関して、鉄郵の乗務員事務室では世話をしてくれる職員と家族的な関係にあり、食事も良心的な献立で食べさせてくれたので、恵まれていたのかもしれません。
しなの7号
電化と郵便荷物輸送の関係について前回のコメント内容を撤回します。国鉄時代は電化されても、電車化されるのは優等列車だけで普通列車は客車列車のままEL牽引に変更されただけというケースがかなりあって、郵便荷物輸送が影響を受けなかった例は多かったですね。電化とは別に「電車化」が進んだのは、少し時代が後でした。それでも郵便荷物が縮小廃止されたことによって、分割民営を前提にした国鉄末期以降は短距離で折返す電車化がずいぶんやりやすくなったことは確かなようで、文字どおり「荷物輸送がお荷物」だったということになりますでしょう。
乗務員は食事内容以前に早飯が必須なので、体にはよくありません。荷扱行路にそういう例はあまりありませんでしたが、紀勢本線924列車尾鷲停車中の駅前食堂での早飯が思い当たります。早飯とは別に、叩きつけられるような上下振動をする東海道本線のマニ60走行中の食事も胃腸に負担がかかったはずです。
鉄道郵便車保存会 会長
ご指摘の件は、東北本線などで客車は長距離、電車は短距離という役割分担から、荷物郵便輸送を伴う客車列車の存在意義が明確だった気がします。例えば、荷電連結の電車を短距離運転して荷電だけ連結替えしたり積み替えたりは非現実的です。
みのもんた司会のテレビ番組で鉄道郵便の歴史が特集された際に、国鉄が全国の長距離列車を廃止し、郵便車を荷物列車化という説明があり、59・2改正のことと理解しています。これまでの拝読で、荷物車乗務員が乗務中の食事を余儀なくされるのは、乗務距離と時間の長さに起因したと思われます。大阪~汐留とか、名古屋~亀山~百済だと食事時間帯にかかるのは必至で、郵便車は途中で乗務員がよその鉄郵と交替した区間でした。
しなの7号
幹線部分を「電車化」する場合は客荷分離して専用列車化するのが現実的ですね。
前にも書いたことですが、荷物列車の乗務では名古屋~亀山間のような短距離以外は、車内食が必要になることがほとんどでしたので、最下位班の乗務掛は大きな魔法瓶を持たされました。大阪~汐留を通す荷36では二食必要でしたので、熱海でレチ弁を定期購入することになっていました。
【260】レチ弁
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201203article_8.html
鉄道郵便車保存会 会長
郵便車では一部を除き原則は乗務中食事なしでしたので、食べ物を買って持ち込むこともあって、キヨスク、駅弁屋さんと顔見知りになることはありましたが、レチ弁のように鉄道郵便局と弁当業者の割引契約を常時してくれればありがたかったです。
また別のページでコメントさせていただきます。
しなの7号
たかが食糧事情の話ではありますが、労働環境面から申せば、国鉄の乗務員がより長時間にわたる乗務に就かされ、労基法上の休憩時間の例外規定の適用を受けながら勤務時間中に食事をしなければならなかったということは、明らかに郵便事業に比べて労働条件が悪く遅れていたとも言えるのではないでしょうか。それでも少しずつ長距離乗務は改善され、53.10で百済乗務が亀山で分割されたことによって、自分の乗務区間内での「定期購入契約」のレチ弁はすべて廃止に至りました。
ところで、労基法で休憩時間を与えないことができる職種は限定されているわけですが、現行法令のなかに、「荷扱手」などなど今はあり得ない職種や職名が生き続けていることが、郷愁をそそります。
<参考>
現行労働基準法施行規則のコピペ
第三十二条
使用者は、法別表第一第四号に掲げる事業又は郵便若しくは信書便の事業に使用される労働者のうち列車、気動車、電車、自動車、船舶又は航空機に乗務する機関手、運転手、操縦士、車掌、列車掛、荷扱手、列車手、給仕、暖冷房乗務員及び電源乗務員(以下単に「乗務員」という。)で長距離にわたり継続して乗務するもの並びに同表第十一号に掲げる事業に使用される労働者で屋内勤務者三十人未満の日本郵便株式会社の営業所(簡易郵便局法(昭和二十四年法律第二百十三号)第二条に規定する郵便窓口業務を行うものに限る。)において郵便の業務に従事するものについては、法第三十四条の規定にかかわらず、休憩時間を与えないことができる。
2 使用者は、乗務員で前項の規定に該当しないものについては、その者の従事する業務の性質上、休憩時間を与えることができないと認められる場合において、その勤務中における停車時間、折返しによる待合せ時間その他の時間の合計が法第三十四条第一項に規定する休憩時間に相当するときは、同条の規定にかかわらず、休憩時間を与えないことができる。