先週の「【476】思い出の乗務列車38:関西本線 225列車~荷43列車(後篇)の続きで、折り返し列車の記事になります。
荷43列車で百済へ着き、ここで宿泊した翌朝は、折り返し荷44列車の乗務でした。
まったくの往路の逆パターンで、天荷4マニに乗務し、亀山までは荷物専用列車でしたが、亀山から名古屋までが普通客車列車に併結される運用でした。私ども乗務員も名古屋まで乗務しました。
こちらの画像は乗務中に撮影した荷44列車です。23分も停車した新堂駅の停車中です。
荷44列車の百済駅発車時刻は9時38分。8時半までに所属車掌区に出勤電話をかければいいので、ゆっくり寝られました。朝になって関西本線を101系電車が行き交うようになると、その音で目覚め、誰ともなくごそごそ起きだすという、今から思うとたいへん優雅な行路でした。
ところで百済という一般になじみがない貨物駅の駅舎はJR移行後に開業した関西本線の旅客駅「東部市場前駅」の近くにありました。上の画像は分割民営化後の1993年に撮影したもので、この付近の現在の様子は変わっているはずです。駅名も「百済貨物ターミナル駅」と変わりました。
私たちが乗務した荷物列車の荷物を扱う部署は、その百済駅舎と正反対の平野駅寄りにありました。その周囲には商店街もなく、朝食は自分たちで前日に菓子パンなどを用意しておくか、近くの喫茶店のモーニングサービスを利用する以外には考えられない立地でした。
このマッチ箱の喫茶店にはよく通いましたが、今見ると「百済駅小荷物センター前」と印字されており、国鉄時代に小荷物輸送があり、ここに「小荷物センター」という部署があったことをマッチ箱が伝えています。収集したマッチ箱のなかで、「小荷物」の文字が出てくるのは、これだけです。
そのうちに少し足を延ばして、地下道で百済駅構内と関西本線をくぐりぬけて南側に出れば、モーニングの内容がよりいい喫茶店があることを誰かが発見し、それが口伝で乗務員仲間に伝わっていきました。
駅舎を撮影した1993年に、この小荷物センター界隈がどうなっているのか気になって見に行ったのですが、空地が広がり、建物はすでになく、喫茶店も見当たりませんでした。
こうなると、私はどこに何があったのかさえわからず、初めて来た場所とまったく変わりませんでした。駅構内跡地と関西本線をくぐりぬけて、南側の喫茶店に行ったうす暗い地下道だけが、当時を思い出させてくれる唯一の遺構でした。
さて、荷44列車が小荷物ホームに据え付けられるころを見計らって私たちは喫茶店から戻り、作業を開始しました。
荷44列車
DD51(亀)+マニ(天荷4)+マニ(天荷3)+スユニ(天郵1)
荷44列車の乗務は、往路の荷43列車より気が楽でした。それは往路と違い夕方になれば家へ帰れるという気分的な原因のほかに、仕事面にもありました。往路では、国鉄私鉄が入り組んで難しい近畿圏の仕分け作業があったのですが、「天荷4」の終点が単純かつ地元で地理的にも明るい中京地区であったことと、この車両の積載方には難しい首都圏着の荷物がないからでした。
乗務車両の天荷4マニの積載方は
1 荷物。ただし大船以遠着を除く。
2 永和、弥富発京都以遠着金魚及び生鳥(名古屋中継)
3 隅田川以遠着 貴重品の積載を認む。(名古屋中継)
と、いうものでした。
この「1」で、大船以遠が除かれることによって首都圏着の難しい着駅の荷物がないわけです。2については、次週アップする記事で後述します。3は、その数が極少でした。
百済の荷物ホームに停車している荷物車内には、荷物が乱雑に投げ込まれていて、その数は決して少ない数ではありませんでした。しかし、それを着駅ごとに仕分けることは、時間的にも余裕があったので困難ではありませんでした。しかも百済駅では王寺あたりまでの着中継荷物については、この荷物列車に載せないで、直行の代行トラック便で直接輸送していたようでしたから、この列車には王寺あたりまでに取卸す荷物が含まれていなかったのです。そのためこの列車は王寺までは通過駅もありました。
発車してから、ある程度まとまった荷物が積みこまれる駅が、奈良駅の手前にある郡山駅でした。ここは金魚の産地として有名です。「水入金魚」と赤く大きな文字が印刷された段ボール箱の中は見えませんが、その中にはビニール袋の中に酸素と水とともに金魚が入れられていました。出荷は常時ありましたが、夏場にはその数がピークになりました。
次の奈良駅では荷物の積卸をしている間に、弁当屋の人が乗務員室までレチ弁を出前してくれました。事前にニレチ(専務車掌(荷扱))に一人100円の代金を渡しておき、乗務員室でニレチ氏が3人分まとめて支払って弁当を受け取りました。前にも書いたことですが、ここの弁当はとにかく御飯の量は足で踏んづけたくらい大量に詰まっていたくせに、おかずの量が非常にさみしく、のちに150円に値上げしたものの、それでもおかずの量も種類も大したことはありませんでした。
荷44列車も、前日往路の荷43列車同様に山間の小駅「大河原」で、昼食に程よい時刻に行き違い待ちで19分停車しましたので、ここが昼食タイムになりました。この駅に着くのが11時56分。行違いの12時07分発の下り列車が出てから荷扱をすることになっていましたので、停車してすぐに弁当を食べ始めると、やがて駅近くでお昼のサイレンが鳴りました。なにぶんにも小駅なので、ここでの積卸個数は少なくて、せいぜい1~2個だけでしたから、卸す荷物があれば、荷物室の大扉は使用せず、事前に乗務員室の出入り口のそばに置いておき、駅の人が来ると弁当を食べるのを中断して、乗務員室の扉から卸すことも多く、積込荷物があるときも、そこから積み込みました。
就職して約半年後の51.10ダイヤ改正時に、この行き違い待ちをする駅が、ひとつ手前の笠置駅に変更されました。当然昼食タイムも変更になり、笠置の停車時間が27分間もあったので、誰かが駅の近くの偵察?に出かけ、コロッケなど揚げている惣菜屋があることを発見したのでした。それからは、奈良の弁当の少ないおかずの足しにする揚げ物などを買いに出かけるということが流行りました。この駅にも8年前に降りてみたことがありますが、その惣菜屋さんはもうありませんでした。この駅も木津川沿いの静かでよい駅です。いずれも今から8年前、乗務していたころから二十数年経過後の画像です。時を刻んだ長いホームに、たった一両の新しい気動車のミスマッチが、時の流れを感じさせていました。
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仕事に全く関係がない話ではありますが、国鉄就職前の高校生の頃に、この荷44列車を撮影したことがありました。それはいつも拙ブログにコメントを下さる北恵那デ2さんとともに、D51重連の臨時客車列車の撮影に出向いたときでした。そのときは伊賀上野から一生懸命に島ヶ原寄りへ歩いたのに、当初決めていた撮影場所までたどり着くことができないまま、その臨時列車の通過時間になってしまいました。まともな写真を撮れずに疲れた足どりで伊賀上野駅に戻ってから、そのころまだD51の牽引だった荷44列車の発車を撮ったのでした。それがこの写真です。D51は燕マーク入りの831号機でした。2枚とも荷44列車で1973年9月2日の撮影です。
DD51牽引に変わっていたとはいえ、2年7ヵ月後に同じ列車に自分が乗務することになろうとは、もちろんその時には想像もしませんでした。編成も3両編成で、全く同じでした。
さて亀山は荷44列車としての終点でした。ホームで荷物の積卸をしたあと、列車は当時西方にあった亀山操車場へいったん引き上げられました。その前に私たちはいったん下車して、車掌区の決められた場所に、奈良のレチ弁の空容器が入った岡持ちを置いてくるのでした。その岡持ちは、この日名古屋を225列車で出て来た乗務員が奈良へ回送してくれるという「運用」になっていたのです。
操車場へ引き上げられると、最後部のスユニは切り離されて、残ったマニ2両が往路同様、名古屋まで224列車(旧型客車7両)に併結され計9両の長編成になって名古屋まで運転されるのでした。













この記事へのコメント
京阪快急3000
これらの乗務体験談を読んでいると、当時の国鉄の「世相」がだんだんと分かるようになりました。
国鉄はたしか、昭和50年代に入ってから「旅客運賃の大幅値上げ」をしたと聞いております。
そういえば、自分が当時国鉄を利用していた子供の頃は、今のJRと異なり「愛想のかけらも無い、ただ乗客を運ぶだけの雑多な感じ」がしていたと、今になってそう思っております。
話は変わりますが、当時しなの7号様が撮影された「荷44列車」はSLけん引だったのですね。
すごく迫力があったのだなと思いました。
しなの7号
「昭和の鉄道員ブログ」と銘打っているのに、なかなかその時代背景が表現できないという能力の限界を感じるのですが、自身でさえも忘れてしまいがちな昭和の世相と、そのなかの国鉄のイメージを正しく伝えられればと思っています。
私が就職したのが、国鉄から現役蒸機が完全撤退(保存機を除きます)した直後でした。
くろしお1号
NAO
私が最初にセールスに就いていたときの営業先受け持ち区域を行路風に記しますと、
静岡、岐阜、富山各県以西(熱海及び近畿二府四県以東の大口顧客を除く)
つまり、四国、九州、沖縄を含む岡山、鳥取以西の大口・小口顧客と近畿二府四県以東~丹那トンネル以西の小口顧客を担当する、というポジションでした。特に近畿~東海道沿線各都市は取引企業の扱いが多く、大口顧客に関しては別の担当者を配置していました。
出張先でお得意さんと夜のお付き合いが出来ない場合ですが、私は一人で飲み屋さんに入るのが苦手で、そんなときは夜に大型スーパーへ行って缶ビールや総菜を買ってホテルで食べることが多かったですし、朝食も手当が出るとはいえ、ホテルで食べずに喫茶店でモーニングを注文することが多かったです。
普段は早朝から会社に出社しないといけないのに、出張先だと朝寝坊出来、それは優雅な勤務で、しなの7号さんの百済の滞泊みたいでした。
全然違うか。
しなの7号
ご覧いただきましてありがとうございました。
私が百済まで仕事で行っていたのは、昭和53年9月が最後でした。翌月のダイヤ改正で、乗務範囲が亀山以東だけになってしまったのです。百済駅の荷物営業はその後も続けられていたのですが、いつごろ機能を停止したのかを把握していません。昭和59年2月には貨物営業の大転換が行われましたので、百済駅そのものの役割は大きく低下したものと考えられます。
この構内を撮影した1993年以降、現地を訪問したことはなく、どのように変わったのか見たいと思っています。
申し訳ありませんが、拙ブログにお越しいただく方で同じHNの方がございます。
判別がつきませんので、今後のご投稿いただく場合には、記号一つ加えていただくだけでもよろしいので、ご協力お願いいたします(^_^)/
しなの7号
国鉄では乗務員で通しましたので、地上職に就くことが一度もありませんでした。転職後も近距離の自動車による出張が多い仕事をした時期もあり、その方が性に合っているような気がしていました。
同じように、受持地区分担がある仕事もしたことがあり、「及び~、ただし~を除く」という文言で規定され、大口小口の区分もありました。
一人で乗り鉄に出かけていたころ、私は一人で飲みに行くことは皆無で、夜の行動はまったくNAO様と同じです。「ただし朝の行動は除く」であって、乗り鉄の場合、翌日は早朝の列車に乗りましたので、食事とは無縁でした。
荷物列車の乗務員時代に朝寝できる行路は、この百済のほか長野と汐留に各1行路ずつありました。
サンダーバード46号
笠置駅は小学生の時に遠足で利用しました。当時の担任が鉄道好きだったみたいで、いつもは近鉄利用で生駒山や奈良公園が多かったですが、行先が笠置と聞かされた時は、クラスの皆がそこはどこ?・・・という印象でした。奈良駅までは113系の快速、奈良から笠置はDCのロングシートの車両だったですが5両か6両も連結していて、今思うともう少し詳しく観察しておけばよかったと後悔しています。
しなの7号
そうでしたか。百済もかつての面影がなくなったようですね。今から36年も前のことですから、仕方がないことですが、笠置の駅は十分に面影が残っているだろうと想像します。桜の名所ですね。乗務中も天気が良い休日だと、車窓から木津川の河原で遊ぶ人たちの姿が目立ちました。こちらは休日も関係なく仕事なのでうらやましい思いがしました。
C58364
荷44列車は1971年8月にその弟とふたりで柘植まで撮影に行った時に初めて出会いました。駐泊所を関西本線と草津線越しに撮影していたら、ノソッという感じの音無しで入構してきました。あまりに突然でしたし、近すぎたので牽引機のD51832(奈良運転所)と荷物車が1両しか写っていませんが、まず荷44列車で間違いないかと思います。荷物車が何両連結されていたか知りたかったのですが、3両だったのですか。奈良~柘植間に急勾配があるとはいえ、荷物車3両だけはD51にとって楽勝の仕業だったでしょうね。
しなの7号
御兄弟そろって鉄をされておられたなんて、羨ましい限りです。そして、拙ブログをそろってご覧いただき有り難く思っております。
本文中のD51882牽引の荷44は1973年の撮影です。C58364様がご覧になった2年後のことになりますので、同じような編成だったかどうかは判りません。しかし、せいぜい3~5両位だったでしょうから、先週「【476】思い出の乗務列車38:関西本線 225~荷43列車(後篇)」で、実際に関西本線でDLを運転されておられた天鉄竜機様からいただいたコメントにもあるように、「荷物列車は結構スジが立っていて運転するのは面白かった」というのも素人ながら判るような気がしますね。
北恵那デ2
しなの7号
いやぁ、あの時はかなり歩いたですよ。荷44を撮ったあと、加太で降りました。
関西本線では中央本線のとは装備もタイプも違うD51が多くて、同じ形式でも育ちの違い?を感じましたが、荷物車も竜華には相当のボロが配置されていましたので、鉄道管理局の力関係なのかなあと思ったりしました。
D51499は現役時代には見る機会がありませんでした(+o+)
北恵那デ2
しなの7号
私は加太駅に降りたことがあるのは1回だけで、それがこの日で、大築堤まで行っていません。あの大築堤で写真を撮ったことすらありません(+o+)
その伝説の地は、乗務中に中在家信号場とともに、必ず気にして車窓を眺めていました。
鉄道郵便車保存会
鉄道郵便車保存会
しなの7号
書き込みありがとうございます。私が百済駅小荷物センター跡地を訪問した1993年からでさえも二十数年が経ち、現況は大きく変わっているようですね。近代的な物流基地として再生されたこの場所に、また立ち寄ってみたいと思います。
車内での作業手順や各駅の取り卸し量の比率なども、手小荷物と通じるところがありますね。名古屋・亀山間が客荷分離され、荷44列車が荷4044列車に変わったのは53.10ダイヤ改正で、そのときから私どもの乗務範囲が亀山→名古屋だけになりました。その時点での亀山(13:50着・14:45発)発時点での編成を当時の資料から読み取りますと、スユニ1両とマニ3両です。スユニは天王寺始発紀勢線経由の車両(天荷13)となっていますので、百済からのスユニは亀山で切り離し、郵便はこの「天荷13スユニ」に積み替えていたものと想像できます。
一方、その後続の荷4046列車の亀山(19:12着・20:00発)発時点では、紀勢本線新宮からの「天郵2スユニ」と百済からの「天郵1スユニ」と両方を連結したスユニ2両とマニ4両となっていますが、車両運用順序や、実際に郵便扱いをしていたか否かについては資料がなく解りかねます。
鉄道郵便車保存会
荷物車との運用の違いをご説明いただき、大変興味深いです。この機会に、当会ホームページ内資料館に同線の時刻表と結束表を掲載しました。トップページからもリンクを貼っていますのでご参照いただけるとありがたいです。荷4044レは「亀阪上一」で、亀山では明和線(名古屋~和歌山)の上り、下りの両方に連絡しています。(結束便があると言います) このうち、名和上一号便が天荷13ではなかったかと思われます。結束表によると亀阪下り一号便が「名亀下締切から直通」と書かれており、亀山ですでに車内に名古屋からの郵袋が積まれてました。郵便でも締切とは乗務員が乗らず郵袋積んで施錠するものです。であれば亀阪便スユニの1両は名古屋に直通しないとつじつまが合わないのですが、荷4046列車の上り二号便も亀山では全部取り降ろし、上下とも結束便がないので名古屋、四日市への自動車便に積み替えたようで、スユニの運用はナゾのままです。
しなの7号
資料館サイト拝見いたしました。スユニの車両運用の全容はわかりませんが、サイトを参考にさせていただいて53.10ダイヤ改正の下り名古屋→亀山間のスユニについても書いておきます。
荷4041列車は、名古屋(6:48)発時点で「天郵2スユニ」紀勢線経由和歌山行と天郵1スユニ」百済行各1両とマニ4両で組成されており、スユニ2両は、前日の荷4046列車の折り返しだと思われます。
「天郵2スユニ」は亀山で切り離し、「天郵1スユニ」百済行は、貴サイト結束表にある「名亀締切便直通」として使用されたと考えられます。
そうしますと、「天郵1スユニ」は、
百済―荷4046(亀阪上2)―亀山―荷4046(回送?)―名古屋―荷4041(締切)―亀山―荷4041(亀阪下1)―百済
という順序で運用されていると思われます。
荷4043列車は、名古屋(13:37)発時点で「天荷13スユニ」紀勢線経由天王寺行とマニ3両で組成されています。「天荷13スユニ」は「名和下2」だと思われます。百済に直通するスユニは連結されていませんので、「亀阪下2」の使用車両は荷4044の「亀阪上1」の折り返しで、車両運用番は不明ながら、
百済―荷4044(亀阪上1)―亀山―荷4043(亀阪下2)―百済
という順序で運用されていると思われます。
鉄道郵便車保存会 会長
当サイトをご覧いただき、ありがとうございます。このたび掲載した亀阪上下4便の結束表とにらめっこしても、スユニの名亀下締切が亀阪下一に直通するのに、亀阪上り便がいずれも名古屋に直通しない疑問が解決できないでいましたが、貴殿の説明で理解しました。亀阪上二である荷4046列車が亀山止まりと思っていたのですが、実は、名古屋直通であったのですね。亀山名古屋間は回送扱いであることに間違いありません。郵便全般に上り下りで輸送量が同じではなく、集中する時間帯も異なります。そのため、上下の本数と車室容積が同じでもなく、乗務員すら偏るので、うまく回すために一部区間を締切とします。荷物車でも「扱い」「締切」があると書かれていますが郵便も同じです。車内区分があるかないかで扱い便、護送便と呼び分けますが、乗務員が乗る意味では荷物車の扱い便に相当します。荷4046ではスユニを回送しておかないと、翌日の荷4041に連結の「名亀下締切」に使えないからと断言できます。亀阪上二の亀山到着時には名和便は上下とも出たあとで結束がないので亀山で降ろせばすべて翌日回しとなります。そこで名古屋中央(名古屋以遠)と四日市局(桑名松阪間)宛に引渡し手続きを取り、亀山駐在員に渡すと、おそらく当日中に名古屋への自動車便に積み替えたようです。そんなことするなら、車内に残して締切便とし、四日市と名古屋で受渡員に取り出してもらえばよかった気もしますが、そうなると名古屋亀山間に半室分の郵便車運賃を国鉄に支払わなければならず、積み替えるトラックが実は津か松阪発で、亀山に寄り道してくれるならそっちに積んで締切便支払いをタダにするという考えがあったのかも…と想像します。車両運用を考えただけで、郵便側の駆け引きが見えてくるようで、例え想像であっても興味深いです。
鉄郵塾
鉄道郵便車 http://oyu10.web.fc2.com/yuubinsya.html
鉄道便について http://oyu10.web.fc2.com/tetsudoubin.html
のところに、このたびの話に関連する話題を含んでおりますので、ご一読下さい。
しなの7号
郵政省が国鉄に支払う運賃はたぶん安く、近鉄は高かったと想像しますが、国鉄の遅さと不便さは、近鉄と並行する関西本線では特別際立ちましたから、一般の乗客同様に近鉄や自動車輸送にシフトするのはわかるような気がします。名古屋を中心に国鉄各線を乗務してきましたが、すべての面で関西本線は近代化が遅れていたのは確かでした。
鉄郵塾拝見しました。
その中で、私の思い当たる経験を2つほど書かせていただくと、
オユ12かスユ13が荷物車代用で運用されていたのに乗り合わせたことがあります。
【229】乗務した車両:その他の荷物車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201112article_6.html
の中に出てきますが、本務ではなかったこともあって記録が取ってなく記憶だけなのですが、繁忙期の臨時運用で、乗務前に「マニをオユ(スユ?)に変更 この組のみ」という伝達があり、たとえば3両で回す運用の中で1両だけが車種変更になるという意味でした。
もう一つが、中央西線でオユ10の運用に護送便用のスユ43が代用された事例です。
【957】中央西線を走った車両16 :旧形客車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201902article_2.html
これは国鉄就職前のことです。
当時の中央西線の郵便輸送はスユニ60または61が2往復、オユ10が1往復という体制だったと記憶しますが、護送便の運用はなく中央本線でスユ43を見たのはこのときが唯一でした。
鉄道郵便車保存会 会長
まず、大阪対三重県で近鉄託送をするのが高等信という優先度が高い郵便物に限っていたのも、近鉄運賃そのものよりも、託送という、郵袋1個あたりいくら、という支払いが、郵便車1両1キロ走行でいくら、という国鉄よりも割高であったからですね。それでも、四日市を筆頭に、橿原(大和八木駅)、桜井、松阪、伊勢(宇治山田駅)などは数量が多くて郵袋個数が何個ずつかあり、大阪中央局のフロアごとに普通、速達、書留と別々の郵袋が差し立てられて発着口に降りて来るので、トラックに積むと相当量あったようです。そのとき奈良県の初瀬局(長谷寺駅)、三本松局(室生口大野駅)なんか、各フロアから降りて来る郵袋はいずれも少量ずつしか入っておらず、これをそのまま近鉄に渡すと1個いくらの支払いになりますので、これらは局ごとに1枚の郵袋に各種別ごとの郵袋を詰め込み、合納という表示を付けた郵袋で各駅1個ずつとなるようにしました。これは全国的にどこの託送でも行われ、用語集の「合納」、隠語集の「マルゴウ」で説明しています。それでも、近鉄では小荷物が下火になりかけていたとかで、郵便と新聞と鮮魚で荷物電車は稼いでいたようです。
【229】には以前書き込みさせていただき、8年間のブランクがありました。実は、護送車といえども、郵政省所有車である全室車を荷物車に転用した話には驚きました。おそらく郵政のどこかに申請して、予備車として待機していた車両を貸与したと思われます。一方でキユニ車、キハユニ車の郵便室を荷物輸送に使用するのはザラにあり、元々国鉄所有車なので、郵便輸送列車でなく、運用上の支障がなければ連結して郵便室を使うのは国鉄の自由とも思えます。当方地元の加古川線厄神からかつて三木線というのがあり、三木鉄道に転換後に廃止されましたが、三木駅は金物の出荷で荷物は活況を呈しており、キハユニ15も加古川線郵便輸送の合間に三木線にも連結され、郵便室にも荷物を積んでいました。また、七尾線輪島まで郵便輸送に使うキユニ26も、郵便を運ばない能登線に穴水から乗り入れて荷物輸送していたので郵便室に積むことも可能だったと思われます。(珠洲まで託送郵袋はありました)
【957】に関してですが、スユ43という護送車は、急行阿蘇に連結されて名古屋から熊本まで往復する運用が主体で、郵便の便名は名門下(上)護送便で、門司駅ではおそらく門熊下(上)護送と名前を変えて直通する運用でした。一方で、名長線でスユニは急行きそと普通、オユ10は塩尻止めの普通列車(名塩)であったと記憶します。このオユ10代用にスユ43が使われた昭和48年の前年に急行阿蘇に連結のスユ43-3が火災で全焼し郵便物が灰になる事故がありましたが他の5両は引き続き使われ、おそらく阿蘇運用の間合いに名古屋にあった予備車を転用したかもしれません。それでも改造ではない新造車で、車体構造はオユ12、スユ13の基礎となった車両で、昭和53年の全廃まで一度は乗ってみたかったです。
しなの7号
近鉄託送のご説明ありがとうございました。
オユ12又はスユ13が荷物車に代用された時期は記憶しておりませんが、たとえば9月、鳥取の梨の収穫期には荷36列車に臨時運用の荷物車が増結されていましたから、年末や中元時期でない時期であれば予備車の転用が可能だったのかもしれません。
自分の乗務範囲でもスユニの郵便室に荷物を積むことが認められた運用はありました。紀勢本線の921・924列車に連結されていた天荷13スユニ郵便室の積載方は
・名古屋~松阪間 郵便
・松阪~多気間 積載禁止
・多気~新宮
921列車=荷物ただし三輪崎以遠着は新宮中継
924列車=多気までの荷物
となっており、郵便室を荷物室として利用指定されていました。
スユニのくせに運用番を「天郵」でなく「天荷」を名乗るだけのことはあります。
(新宮以西はどのような積載方になっていたかは不明です。)
しかし実態はというと、それほどの荷物量はなく、無人の郵便室は、私どもの食事場所として常用していました。
921列車の松阪~新宮間には託送郵便物の輸送がありました。924列車は?です。
中央西線のスユニは夜行急行「きそ」と、名古屋―塩尻間の普通列車で運用され、オユ10のほうは名古屋―長野間の普通列車で使用されていました。
北陸本線のトンネル火災に隠れてしまいがちですが、急行「阿蘇」の郵便車火災がありましたね。名古屋発着の急行阿蘇がなくなってからスユ43の用途は失われたのではないでしょうか。中央西線でスユ43 1を見た翌年4月に、米原で留置されているのを目撃しています。その後も名古屋局管内の駅で疎開留置されているのを見たような記憶もあります。
鉄道郵便車保存会 会長
オユの荷物代用がオフシーズン?そうでしょうね。やはり夏季、年末繁忙期は郵便車総動員でも足らないくらいの輸送量ですから。名古屋からも乗務されたと思いますが、東京門司臨時護送便は臨時荷物列車9041レ、9042レに連結されており、このときスユ43が登場しそうなものですが、スユ42が使われました。本来は、オユ10等が全検で使えないときの予備車で扱い便車両ですから護送に使うと飲み込みが悪く、区分棚も塞ぐように郵袋を積み上げましたが、個人的にはこの味わいがある旧式車両で車中扱いしてみたかったです。隣りにオユ12も連結しており、そちらは臨時締切と言って主要駅だけ駐在員が出し入れするもので、車両の用途を逆にしてくれればよかったと感じます。「扱い車を護送に使うんなら、荷物車借りた方がええのに」とか言ってた人がいましたが同感です(笑)
このたび、紀勢線スユニの荷物、郵便使い分けについて、大変参考になりました。鉄郵の人は計画課でも知り得ないことです。そこで、名古屋和歌山線の時刻表を下記に示しますと共に、ホームページ資料館にも追加しました。
名古屋鵜殿間 名新乗務員 http://oyu10.web.fc2.com/jikoku-meiwa-meishin.jpg
新宮和歌山間 新和乗務員 http://oyu10.web.fc2.com/jikoku-meiwa-shinwa.jpg
路線が長いために、どの便も新宮又は松阪で夜間停泊します。921レのスユニは松阪まで郵便扱い「名和下二」で、その後は郵便室に荷物も積んだという話とも一致します。乗務員は名古屋所属で、松阪事務室に一晩泊まり、翌朝の下二はたいていキユニ26で、便名はそのままで、郵便物は前夜スユニからは全部降ろされ、駅郵便室か松阪局に搬送して保管し、朝に再びキユニに積んだはずです。松阪以南は下二が先に出て下一が後から出るというややこしいことになります。無人の郵便室が食事場所(笑) どうぞお使い下さい(笑) 区分棚の前には出し入れできる丸いすがあったでしょう。食事には好都合かと。郵便車でも持ち込んだ食事を乗務中の仕事がすく区間で食べることがあり、いすの数以上に乗務員がいたら若手は床に座り込んで食べました。「お茶こぼすなよ」とか言われまして、床にも郵袋や郵便物が置かれてましたから気を使いました。今回の時刻表は59・2の直前のもので、921レ松阪新宮託送の記載はありませんが、924レで尾鷲⇒松阪通常託送が記載されています。託送は時刻改正ことに、あるいはその間にも改廃がコロコロあり、新しい道路の完成も関係する自動車便の改廃にも左右されました。言い換えれば、国鉄に荷物を出すかやめるかということで、よほど大口の委託でない限り、国鉄の業務への影響も少なかったようで、鉄郵掲示板の官報にも改廃が書かれていました。荷4046レにスユニが2両あったことで、亀版からの車両は回送、名和上二からの車両は亀山から締切で名古屋までの郵袋が積まれていたことがわかります。亀版上二の亀山で取り降ろした郵袋のうち、名古屋以遠はこつらの締切に積まれ、四日市宛は自動車便に…そんな感じだったかもしれませんが、亀山分局の駐在でなければわからないことです。
中央線の運用、調べると名長下一号便がオユ10とわかりました。なので下二(きそ)と名塩下がスユニですね、訂正いたします。
急行阿蘇(名門下護送)の火災、大阪の乗務区間だったので大変だったそうです。乗務員は警察や監察官室に調べられ、タバコの不始末ではなかったかとか…(過失はなかったのですけど)、郵政大臣は国会で吊し上げを喰らい、なにしろ郵袋1000個が丸焼けだったもので、書留以外は保証無しということでした。急行きたぐに(阪青下便)は金沢の乗務員でしたが、全員救出され郵袋も焼損なしでしたが、乗客に多くの犠牲者が出て痛ましいです。
しなの7号
スユ43でなくスユ42が臨時護送便に使用される理由はわかりませんが、乗務員の発想として思うことがあります。両形式間での冬場の暖房能力は郵便区分室があるスユ42のほうが構造上スユ43よりは上だと思われ、作業環境を優先した結果というのは穿った見方でしょうか。夏のことでなければという条件付きになりますが。。。
荷物車の暖房事情は
【609】 思い出の乗務列車46:中央西線~篠ノ井線 荷5043列車(後篇)
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201508article_1.html
【621】 思い出の乗務列車51:中央西線・篠ノ井線夜行急行「きそ」801・802列車(後篇)
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201509article_2.html
で書いていますが、それは乗務員室のことであって荷物室には暖房はもちろんなく、締切で東北方面や信越方面から直通してくる運用では大扉の隙間から雪が侵入し、寒いので融けずに戸袋回りやその付近の床や荷物に付着していることもありました。
上に紹介した記事で、中央西線でのストーブ運用について書いていますが、スユ43の列車火災後のことですので、ずいぶん危険極まりないことだと改めて思います。
資料館の名古屋和歌山線の時刻表を拝見しますと、921・924両列車ともスユニの郵便車としての役割は名古屋~松阪間だけのようですね。夜行となる新宮以西区間では郵便の締切輸送があったのかと思っていました。昨日書いたように921列車の郵便室の荷物積載方が「荷物ただし三輪崎以遠着は新宮中継」ですので、新宮では郵便室がいったん空っぽになるはずです。新宮から別の用途があるのだろうと想像しますが、郵便扱いではなく、回送か、荷物の締切輸送かどちらかでしょうかね。
上りの924列車の尾鷲、はっきりした記憶ではないですが、託送郵便物があったようにも思います。
私のような下っ端は3人乗務だと、マニ60の一部やマニ50の初期車の乗務員室には座席が2人分しかなく、そういうときは申し訳ないですが頑丈そうな荷物を乗務員室に持ってきて椅子代わりにさせてもらって休憩しました。郵便室の区分棚の前のカウンターと丸椅子は、外から見られることがないし居心地がよかったです。
鉄道郵便車保存会 会長
確かに、扱い郵便車を冬季に使えば暖房の効きはいいです。実際、年末に乗ったので、EF58から届くSGの暖気は眠くなるほど効いていました。ただ、作業環境上は、多数押し寄せる郵袋を詰め込む護送便には不向きで、区分作業室に送り込む郵袋は、扱い便では締切郵袋よりも少ないために、片開き扉の方から出し入れしますので、護送使用だと、狭い扉から入れて、区分室にバケツリレーで送りこまなければなりません。また、区分棚を郵袋で塞ぐので、真ん中の細い通路にいると両側が崖のような、高千穂峡みたいな郵袋の山が不気味に揺れるので崩れないかハラハラしました。その点では、護送車は2箇所とも両開き扉で、入るとすぐ広い郵袋室なので作業しやすく詰め込みもききます。一方で、北陸線荷物列車の阪青下り護送便は通年でスユ16を使ってましたから、区分室に搭載指定の郵袋は送り込みにひと苦労でしたが、真夏でも冷房車なので皮肉にもみんな喜んでいました。荷物車暖房の件も拝読しましたが、荷物室に暖房はNGだったのですね。私の乗務当時は豪雪、極寒というほどではなかったですが、積雪期に郵便扉を開閉すると戸袋内に雪が侵入して固まるので扉が半分しか開かず、たまりかねて駐在員がヤカンの湯を注ぐと扉は一時開くのですが、ドアレールが走行中に凍結して次駅でもっと開かなくなったという笑えない話を聞きました。
名和線の郵便輸送ですが、確かに名列車と呼ばれた921、924レの郵便扱いは松阪以北で、その他は他列車につぎはぎ連結です。ここでは掲載されていませんが、実は924レには重要な郵便輸送があります。それは「阪宮下り託送」と名付けられた、荷物車利用の託送便で、鉄郵はノータッチで大阪中央局が仕切っていました。もともと大阪中央局から和歌山県への送達は、阪和自動車便で和歌山市駅の和歌山分局に運び、そこから名和便、王和便(和歌山線)に積み替えます。しかし、大阪で郵便物が集まる夕刻に大阪を出ると和歌山は夜で、どの便にも積めません。そこで、高等信だけですが、海南、御坊、田辺、新宮という主要駅宛の通常郵袋をことごとく天王寺駅に搬入して、同列車に託送して、翌日配達を確保していました。そして、田辺新宮間の中間駅宛て郵便物は一つの郵袋に詰めて「新宮駅止め名和下一乗務員」として924レに積むと、新宮駅員から逓送員を介して、朝発車の名和下一(121レ)乗務員が区分して各局に届けるという芸当までしました。なので、同託送には大阪中央局から4トン車でいっぱい積んだみたいで、便名も名和線の原則なら「宮阪」となるべきところ「阪宮」と名乗るのは、大阪中央局が仕切っているんだぞ、という自己主張に思えました。こうして924レのスユニは郵袋を満載しながらも国鉄荷物のお得意さんであったという一席です。(拍手!)
郵便室のお食事、休憩はやはり区分棚の前のカウンターでしたか。ぼくらはそう呼ばず「ブツ置き」と称してました。乗務終了後の掃除は床だけなのですが、棚の前にほどいた紙ひもが散乱すると作業しにくいので、ぼくら下っぱに「ブツ置きのゴミ、取ってくれ」と指示がありますので、ここを手のひらですくうと真っ黒に汚れました。入庫すると清掃を委託しているのできれいにぞうきんがけしてくれていましたから、汚れるのは郵便作業中だけでした。
しなの7号
作業環境と用途に合った構造とが両立するのが理想的ですが、なかなかそうはいかないですね。荷物車ですとマニ50では乗務員室の環境は、冷房がないことを除けば画期的に改善されました。さらにオハフ50と同等に、両車端部には駅の連結作業員用の通路を確保するためのデッキが設けられ、その結果乗務員室では走行中の隙間風も激減しました。しかしそういった設備によって肝心の荷物室容積は狭くなり、扱い量が多い時の作業は、車端部まで荷物が積載できる在来のマニ36とかマニ60のほうがやりやすかったです。
一般に大都市圏を出る夜行列車は郵便物、朝刊、雑誌の類を接続駅で効率よく中継して翌日に届けるルートがあるものですが、924列車の託送も、夜行の荷物車をうまく活用していますね。
4トン車で運び込まれるような量の託送郵便物に遭遇したことは一度もありませんので想像がつきません。単純な発想ですが、スユニ61の郵便室は4トン積ですから、重量を基準にすれば郵便室が満載になりますから、郵便輸送スペースを確保する意味でも、スユニの郵便室を託送郵便物専用として運用されていた可能性もありますね。
しかし、その割には食事場所とさせていただいた郵便室内は荷物室に比べればきれいになっていた記憶です。
鉄道郵便車保存会 会長
マニの各形式を写真で見比べました.。なるほどマニ50は両側に乗務員室扉があり、これは車掌室が両方にあると思ってましたがデッキなんですか。マニ36は片方の扉に鉄格子があり、荷物が見えていたので車端ギリギリまで積めたようです。護送用のオユ12も同じで、片側だけ端まで郵袋を積めたのですが、細い扉は塞がれて郵袋を出し入れした記憶はありません。反対側の車掌室に車掌がいたこともなく、仕切り扉は開いていたので、郵袋数が多く積み場所に困ると車掌室にも詰め込みました。もし両側が車掌室であったなら積載郵袋数は100個ほど減っていたでしょう。
大阪中央局の事情は、そこの食堂へ通っていて知り合ったバイトくんにいろいろ教えてもらったのですが、阪宮託送の924レに積むため天王寺駅に向かうとき、エルフ2トンに積むにはきつかったため4トンを使っていたようで、山なりになる程度で天井まで満載というほどではなかったようです。それでも託送にしては多い数です。鉄郵便にして天王寺から締切、和歌山から扱い便という方法もありですが、途中の主要局だけ受渡のために局員を宿直させて運送業者も依頼し、郵便車牽引運賃を払って名和上り便とするよりは託送のほうが経済的との判断だったと思われます。スユニはあくまで全室荷物車とみなされますが、郵便室に荷物を積んでもいいわけで、そちらに託送郵袋が積まれていたなら、それは国鉄側の配慮だったと言えるでしょう。また、郵袋そのものは、雨や雪の日にホームで土が付かない限りは、いくら積んでも車内は汚れませんでした。ただ、乾いた郵袋にホコリを含んでおり、積み降ろしや保管室で空気中に舞うのを吸うせいか、肺疾患になる人もいくらかいました。定期的に巨大洗濯機で洗って乾燥させてはいたようですが…。
しなの7号
両側にデッキを配した構造は、50系客車の緩急車共通の特徴ですね。
スユニ50でもマニ50と同じ構造ですから、スユニ60・61といった車端部まで郵袋室があった在来形式より積載重量は少なくなっているのではないかと思い、調べてみましたら、
スユニ50は郵便4トン、荷物4トン
スユニ61は郵便5トン、荷物5トン
スユニ60は郵便4トン、荷物6トン
とあり、スユニ50では、区分スペースが必要な郵便室はスユニ60並みの積載許容量を維持し、荷物室のほうを縮小して設計されているように思えます。
私はスユニ50が乗務範囲に配置される前に荷扱業務から離れましたので、後の車掌時代に車掌室に乗務した経験はあってもスユニ50で荷扱作業をしたことはありませんので、その荷物室の狭さを実感したことはありません。
スユニ60と61は中央西線で共通運用されていましたので、その両形式に、長野からの上り「きそ」で乗務(下りは朝刊を輸送するマニに乗務)したことはありましたが、上りの夜行列車に関しては荷物量は下りに比べると格段に少なかったので、荷物室の容積が少ないスユニ61でも不便を感じたことはありませんでした。
紀勢本線の921・924列車は全部スユニ61でした。
924列車の郵便室がきれいなのは車内の匂いでも感じられました。郵便室は客車の「匂い」ですが、荷物室は言うなれば、市場の「臭い」がしましたから、埃はすごいことになっていましたし、衛生的にも最低だったと思います。鮮魚や動物も載せますから当然と言えば当然ですが、乗務中に全身がかゆくなって風呂に入ったら治ったなんてこともありました。
肺疾患は聞いたことがないですが、腰を痛める人はときどきありましたし、連結時や走行中に発生する前後にしゃくる振動で、作業中に転倒して公傷となり長期療養という例もありました。
鉄道郵便車保存会 会長
スユニ60と61とで郵便荷物の積載比率が違っていたとは…意識してませんでした。「きょうはスユニ60か…ブツ積めんなぁ」という人も決しておりませんで(笑) スユニ50が末期に置き換えられたことで乗務員が感じたのは、積める量ではなく、夏の暑さが60、61以上にひどく、原因は区分棚が60、61の木製から鉄製に変わったことで、郵便室全体が熱を持って暑さが増したと感じられたものです。温度計で比べたわけではありませんが、なんとなく…です。そのスユニ50乗務も59・2の車中区分廃止と共に、多くの線区で郵便輸送廃止で終わってしまいました。さいわいと言うか、この形式は各地で保存車両があり、当ホームページで紹介しています。
保存鉄道郵便車の仲間たち http://oyu10.web.fc2.com/nakama.html
鉄道郵便局に限らず、郵袋を扱う現場でも腰痛は職業病で、腹巻きの中にサロンパスをペタペタ貼っている人は多くいました。郵袋の重量はおおむね18kg以下となるよう指針がありましたが、一見してそれ以上のもの、あるいは軽過ぎるものも混在するので、取扱は体力的に負担となったものです。それでも護送便に大阪⇒糸崎を乗務すると便長を除く3人で延べ1000個をつかむので、着いたらヘトヘトでしたね。
名和便の時刻に続き、上下4便の結束表を公開しました。URLは8ページに別れますから、トップページの2月9日更新のところに8つのリンクをしましたから順にご覧下さい。
http://oyu10.web.fc2.com/
大阪鉄郵管轄の新宮和歌山間だけですが、受渡局が多く、手元の冊子では1便あたり3ページにも別れていて、つぎはぎになりました。
しなの7号
スユニ61は、オハニ61など他形式からの改造車ですが、在来のスユニ60とは郵便荷物の積載比率が違っているがゆえに別形式にされたと思われます。これに対し、マニ60には新製車と他形式からの改造車とが混在し、改造車は別形式とならず番台区分で処理されています。
スユニ50とマニ50には換気扇が付きましたが、全然役に立たなかったでしょうね。低い鋼製屋根も車内温度に影響しているかもしれないです。スユニ50には保存車が複数あるのですね。小樽へは一度だけ行ったことがあります。自分が関わった車両たちが本線上から消え失せた後に保存され、誰でも見ることができることは大きな喜びです。
郵袋より手小荷物のほうが、一見して荷物の重さがわかりやすいと思います。案外大きい荷物のほうが軽かったりするもので、荷物の角の潰れ具合や梱包の紐のかけ具合から、荷物の重量が判断しやすいですが、予想と違うと、重くても軽くても怪我のもとになりました。一般に田舎から都市部への荷物は小さくて重いですし、その逆は軽かったです。
公開していただいた名和便上下4便の結束表にある列車のように、各駅停車での郵便物の授受は、切れ間がなく大変だったと思います。荷物車の場合は小駅だと積卸ともにないときもありました。まあ、本線の荷物列車は積卸駅ごとに集中して仕事が来るので、これはこれでたまりませんが、本線のほうが好きな人と、ローカルのほうが好きな人とに分かれていたように思います。自分はどちらがいいかわかりませんが、急かされることが少ない普通列車のほうが性に合っているように思います。
鉄道郵便車保存会 会長
【476】ではいろいろお教えいただき、ありがとうございます。引き続きこちらで書かせていただきます。
スユニ50の換気扇ですが、車内作業環境としては意識はしなかったのですが、ホコリを吸い出してくれているなら、よかったかと思われます。オユ10など全室郵便車(扱い車)には、吸塵機というのが、開袋台の上にあり、車軸発電と思われますが、ファンが回って多くの穴からホコリを吸い出していたようです。(目に見えない吸われ方だったもので)
小樽のスユニ50は入られましたか。郵便室には2体のマネキンが郵便制服着て書状を区分している姿でじっと静止してましたが、オユ10公開でも検討はしました。しかし、不気味な感じなのと、見学者が通り抜けるものでケガ防止を考えてやめました。
小さくて重い荷物が田舎から都市部へ、というのは郵袋でもそうです。田舎というより産地と言ったほうがいいようで、エピソードにも書いてますが、姫路や倉敷から積み込まれる小さな小包郵袋でやたら重いのは、そうめんの木箱でした。足に落としてツメが紫に変色したことあります。しかし公傷の申し出はためらいました。荷物にそうめんはあったのでしょうか。逆に大きくて軽そうな荷物は、ふとん袋を想像します。誰が何のためにあんなのを送るのか想像つきませんが。郵便小包では皆無だったはずです。(大きさ制限のため)
各駅停車の郵便受渡は、時として殺人的な忙しさで、高崎⇒大宮間のすごさが全国で語り継がれているようですが、どこの線区でも夕方から夜間に各駅で積まれる「かっさらい便」は繁忙を極めます。米原敦賀間でも昼間の鈍行となる阪金上下便は、長浜以外は郵袋1個を交換する受渡だったりしました。札幌のOBさんから聞いた話では、受渡とも郵袋ゼロの駅もあったそうで、それでも局員は駅に来て、斜線でブツなしを示す送致証を交換したものと思われ、極端に人口が少ない集配局もあったのでしょう。荷物の積み降ろしゼロの駅はあったかもしれません。郵便受渡はハガキ1枚でもあれば郵袋1個有り、となります。私としては、停車駅が少なくても、扱い量が多い、夜行の急行か荷物列車の方が、鈍行受渡よりもプレッシャーを感じたものでした。
名和便の結束ですが、8日に大阪などから924レ託送で新宮に送り、121レ名和下一号乗務員が区分して逆向きに降ろしていくことを書きましたが、逆に名和上二号では、富田下里間各局が窓口を閉めるころに集めたブツで和歌山以遠のものを積み込み、車中で和歌山と大阪宛てに締切り、新宮で921レに託送する指示が書かれており、新宮夜行は往復とも郵便輸送に活躍していたことがわかります。スユニは編成ごと竜華客車区に停泊し、その夜の924レになったと理解していますが、荷物は天王寺で全部降ろさず、竜華でも荷扱いしていたのでしょうか、お教え下さい。
しなの7号
換気扇の主目的は防塵でしょうけれども、気分の問題なので夏場にマニ50が来れば使っていました。効果は目に見えるものとは思えませんでしたが。。。
小樽へ行ったのは23年も前ですので、マネキンがいたか記憶していません。マネキン人形を使った展示方法は賛否分かれるところだと思います。
「そうめん」は関西本線でよく見かけました。三輪そうめんのほか、大矢知そうめんが富田からたくさん積まれました。
春の転勤就職就学時期になるとフトン袋が増えました。フトンの中に他の物がたぶん詰められていて案外重いものがたくさんありました。フトン袋は形状が不安定なので下積みできず、積み上げた荷物の上、天井との間に押し込むように上手に載せますと、下の荷物が安定しました。
荷物車では中継駅や着駅が間近で、時間的に余裕がない場合には焦りましたが、時間的に仕分けが困難が想定される場合には、引き継ぐ乗務員側で予め前途区間の一部を区分積載するよう積載方で指定されることがありました。たとえば、東海道上り列車で、大阪で西からの乗務員から引き受ける場合に、京都・米原間の荷物は西の乗務員が区分した状態で引き継ぐというような指定です。そうしないと、大阪で引き受けた乗務員は、米原到着までに仕分けができず持ち越してしまう危険があったのです。そうすることによって引き受けたらすぐに米原から先の荷物の仕分けに掛かれるわけです。もちろん大阪と京都ではたくさんの荷物が新たに積載されてくるので、その荷物を仕分けしながら同時進行で行うのですが、大阪から米原を出るまでは時間が過ぎるのが早かったです。列車や車両によって荷物量に差はありましたが、地理的に大阪~米原間は主要幹線の中継駅が短時間のうちに連続するので、荷物の入れ替わりが激しくなるのは当然です。
921・924列車の新宮以西のことは運用も荷物室郵便室の積載方も、あいにく存じていません。
921列車では、書いていただいたように逆送する託送郵便物があるくらいなので、スユニが回送ではなかったはずですから、新宮以西では別の積載方が指定されて運用されたと思われますが、自分が乗務していたころとは状況が変わっているかもしれません。すでに私が乗務していたころの荷物輸送方によれば、紀勢本線内対百済以遠の荷物輸送は、和歌山~百済間のトラック便によって輸送されていたと思われますので、竜華で荷扱をすることはないと考えられます。百済駅に手小荷物を集約してからは、天王寺駅での荷扱があったにしても、どうしても百済に集約できない一部の荷物に限られていたものと私は考えています。
鉄道郵便車保存会 会長
三輪そうめんは知っており、亀阪線の小包でもあったのかもしれませんが、目立った数量でなかったから気づかなかったかもしれません。姫路では名ブランド「揖保の糸」、倉敷では鴨方そうめんの小包が、相当数量あったので記憶しています。郵袋室では、出荷時期に意識してそうめん郵袋を見つけ、これを下に敷いてから他の小包をのせると安定します。逆に上に積むと崩れやすくて難儀しました。ふとん袋が下に敷けないのは理解できます。上から押さえるのに好都合というのは、郵袋の場合は「大型」という、定形外郵便物(たいてい大きな封筒)の郵袋で、石垣積みの要領は、角張った小包を下に敷いて基礎を作り、その上に大型郵袋や普通通常のようにさわって整形しやすい郵袋を座布団形にしながら積んでいくと、車内の振動でも崩れにくかったものでした。ただ、大型はくせもので、中には円筒形のブツがあり、建築の設計図やらが巻かれて筒に入っていて、これが郵袋をいびつな形状にしてしまい、石垣積みをやりにくくしていました。そういう私も、オユ10の座席モケットが破れたので新品を手に入れ、カーペットを巻いたようなゆうパックを差し出して地元会員に送ったのですが、輸送中はケースに入らず、パレット内で立てられていたと思われます。
荷物車の乗務員交替で荷物を引継ぐ際の要領を読ませていただきますと、郵便車の車内引継ぎ郵便物にも同様のことがありました。郵袋でも、車内に残した郵便物でも、交替から間もなく着く駅で降ろす分は、遠方のものと区別して積載したり、指定された区分棚に入れておく取り決めをしました。これを引継協定と言い、交替からおおむね1時間以内の区域を最近区域と言います。例えば東門便の上り扱い便車内で大阪糸崎間乗務員が大阪で浜松大阪乗務員に交替する前に、締切郵袋は、京都降ろし、滋賀県を、大垣以東とは別個に積み上げておき、車中郵便物は京都、大津は必ず郵袋を締切って車内にバラを残さず、乗務員はすぐに「その他滋賀県」「大垣以東」を順に処理にかかれるように区分棚で引継ぎしていました。下りでも浜阪乗務員は、神戸宛は郵袋を締め切ってくれており、締切郵袋も神戸降ろしだけはドアのそばに別積み上げしてくれていたので、明石以西兵庫県、岡山県以西の順に処理していました。大阪米原間がバタバタするのは郵便も同じで、米原、京都、大阪で他の線区との積替え、結束をしているので、複雑で煩雑な作業にしてしまいますね。荷物でも「持ち越し」と言っていたようですが、郵便の持ち越しは輸送事故の典型的なものでした。いつも点呼で「持ち越し、早降ろしの絶無を!」と言われてまして…。
荷物車に乗務されていた時期、すでに和歌山~百済がトラック化されていたとは意外です。921レ託送郵袋は、荷札は天王寺宛て、また標札には「天王寺駅降ろし大阪中央局」と表示されており、郵袋だけが、百済に集約できない荷物だったのかもしれません。あと、阪和線貨物列車の末期に、竜華和歌山間の車扱い貨物にマニ50が連結されているのをよく見ました。和歌山操で切り離されて、入換機で和歌山駅に送られ、普通列車に連結されて紀勢線に向かうのではないかと考えられていましたが、運用を知っていたわけではないので、推測に過ぎません。
しなの7号
そうめん、車内の振動にも耐える積み方、引継方法など、郵便と荷物では共通点はたくさんあるものですね。
鴨方そうめんというのは、記憶にないですが、東海地方では大矢知が有名で、三岐鉄道大矢知駅から発送(富田中継)されていました。
荷物車内では、上手い人が積む荷物は、振動によって荷物の壁の最上部が、窓の上の方の壁面(幕板部分)に反り返るようにもたれかかっていって安定しますが、素人が積むと、逆の通路部分に崩れてきます。まさに職人技で、崩れず美しい荷物の壁にこだわりが強い人もおられ、その方が積んだ荷物の壁には凸凹がありませんでした。ただし他人がした仕事を気に入らないとばかりに、わざわざ人が積み付けたところを崩して積みなおす超ベテランがおられ、人間関係に陰を落としていました。たしかに凸凹があると作業のときに引掛けて傷害事故の元になるので、それが理想ではあるのですが。
国鉄の規定関係がわかる資料がないので、推測ばかりで恐縮ですが、昭和50年代初期、すでに和歌山~百済間のトラック便によって荷物輸送されていたと私が思う根拠は、乗務用のマニュアル本にあります。その中にある「百済中継範囲」には「自動車中継」という項目があり、そこに「紀勢線和歌山新宮間各駅」が含まれていたことによります。百済からの「自動車中継」は、そのほかに「柏原~湊町間、阪和線各駅、和歌山線各駅、桜井線各駅、大阪環状線各駅(桜島線を含む)、片町線各駅、東海道線新大阪以西の各駅、山陽四国九州全線」があり、大阪近郊ではかなりトラックによる代行輸送が進んでいたようで天王寺も例外ではなさそうです。天王寺を起終点とする阪和線の荷物車としては921・924列車のほかに、午後の下り急行きのくに併結のキハユニ16が知られていますが、おそらく夕刊に特化したものだと推定します。おっしゃるように貨物列車併結の荷物車が阪和線にあったのは私も知っていますが、運用は知りません。みかん輸送も盛んでしたので、自動車便以外にも、貨物列車に併結して貨物線竜華経由で百済に入る荷物車や貨車代行便が併用されていたかもしれません。それから竜華には操車場機能と車両基地としての機能はありましたが、手小荷物は取り扱っていないはずです。
鉄道郵便車保存会 会長
大矢地駅は、三岐線に何度か訪ねていますので知っていますが、貨物が盛んな印象が強く、荷物輸送をしていたことは知りませんでした。当時、どのような車両で荷物輸送していたのかご存じならお教え下さい。おそらく荷物電車、合造車はなかったかと記憶しています。
他の地方私鉄で貨物列車はあるが荷物車を持たないところでは、有蓋貨車、あるいはワフの貨物室で運んでいたところと、電車座席の一部を区切って積むところも多かったようです。
荷物の積み方には職人芸があったとお見受けしますが、確かに通路側の凸凹はない方が安全なのかもしれません。郵袋の石垣積みは、多少の凸凹はありましたが、程度の問題でひどいと必ず崩れるので、新米が積んでベテランの担務さんが不安だとストップをかけ、いったん崩して積み直しでした。読み上げが2人いて、積み上げる若手1人に渡されることが多く、崩れないようにていねいに積みたいですが、積むのが遅いと隣りに郵袋の別の山ができてしまい、遅いぞぉ~って言われたりしました(大汗)
百済トラック中継の範囲が思っていたより広くて、確かに荷電がちょこまか走り回っていなかったし、阪和間も、託送郵便、新聞に限られていたのかもしれません。キハユニ16のきのくにはよく覚えており、たまに運用で和歌山線、桜井線、奈良線(王和、京王線)にも入り込んでました。あの車両は、荷物ドアがひとつで、側面に「郵便荷物」の文字がある珍車で、両方一度に積んで乗務員が一室に同居することは考えられず、京王線では、郵便だけが使用し、客室を荷物代用しているのを見ました。また、きのくに新聞輸送にキハユニでなくキハ30を連結しているのも見ましたが、いずれにしてもキハ58系の先頭としてはミスマッチでした。「貨車代行便」とは聞き慣れないですが、貨車に小荷物を積んで荷物車代わりにする、ということでよろしいでしょうか。
しなの7号
三岐鉄道での荷物輸送の実態は存じていません。三岐線の旅客列車は近鉄連絡線が開業してからは大多数が国鉄富田駅発着でなく近鉄富田発着になりました。53.10時点では国鉄富田発着列車はわずか1日1.5往復で、荷物輸送のために残したのかもしれません。しかし当時の時刻表を見ると、国鉄富田に入る列車は関西本線の荷物列車の時刻との関係はあまりないように思えました。
荷物車内の仕分作業は、新人が乗務員室の反対側を担当しました。仕分けがされていない締切便を開封して乗務すると、新人は乱雑に積み込まれた荷物の上を乗り越えて車掌室のデッキ側に移動してから作業を開始しますが、荷物が多いとデッキまで天井と荷物の間の狭い空間を這って行くことになります。
キハユニ16の「郵便荷物」表記は珍しかったですね。どう使うのか疑問でしたが、列車によって郵便用または荷物用とどちらでも使えるようにしていたのでしょうね。キハ30は両運転台でもあり、自動ドアがくせ者とは言っても荷物郵便だけでなく多用途に代用できそうで、重宝されたと思われます。国鉄時代の美濃太田にも、なぜか1両だけ通勤型キハ30が配置されていました。(どう使われたのかは知りません。)
「貨車代行便」は表現がまずかったです。申し訳ございません。以前、【476】のコメント欄で書いたのですが、繁忙期には臨時列車の運転や増結だけでなく、コンテナや貨車を拠点駅間で使用していたようです。拠点駅までまとまった量の荷物を、コンテナ又は貨車で直行させることによって、途中の中継が必要なくなります。
鉄道郵便車保存会 会長
三岐線の電車が国鉄富田に発着していた当時、本数が少なかったのは確かです。荷物輸送に使っていたとすれば、客室に積んでいたものと思われます。
荷物の上を「山越え」したとか。郵便では締切郵袋室の奥のほうに天井に届くまで積み上げますが、手前に別の山積みが高くなると、その上に登らなければなりません。ドア付近の郵袋を2人で読み上げて奥のほうへ放り投げると奥で積み上げるのが若手の役目で、例えば東門下り護送便の場合、奥に九州宛て、手前に広島と山口県の山積みを作りますが、手前の山の上にまたがって、投げられてくる郵袋を3つの山のいずれかに積み上げるので、腰が痛くなりました。
キハユニ16ですが、「荷物又は郵便」兼用の設計というのが落としどころではないでしょうか。ほかの国鉄荷物郵便車には、そのような車両は心当たりありません。「ハユニ」の車両は多くありますが、郵便荷物の仕切り扉を開放すれば、郵便扱いがない列車では国鉄は郵便室に荷物を積むのは自由のはずですし、郵便扱いの列車のうち、郵便室だけでは狭くて積みきれない場合は国鉄と契約して荷物室に郵袋を積むケースは全国的にありました。(郵便運賃車室面積係数を0.25から0.5に変更しました)
小荷物の貨車代行の意味、わかりました。確かに荷物車だけでは追いつかない時期もあるでしょうし、生きた動物や食料品でなければ貨車もありかと思われます。(コンテナも利用していたとは知りませんでした) 郵便物はホームページでも解説していますが、日常的にワム貨車やコンテナで小包等を輸送して郵便車を救済していました。
しなの7号
荷物車の場合は、車両ごとの積載方が異なるので、積み付け位置は車両ごとに異なりますが、基本的には遠方で卸す荷物ほど大扉から遠い位置に、取卸駅順にその駅のホーム側に合わせて積み付け、卸す荷物の数が少ない駅の荷物は乗務員室寄りの大扉にまとめました。ランダム状態からそこまでにするのが大変です。
キハユニ16は、おそらくオハユニ63(北海道向はオハユニ64)の構造を基礎に改造されたのだと思います。オハユニ63・64は早い時期にマニ60に改造されて形式消滅していますので、もちろん実車を見たことはありませんが、形式図には窓下に「郵便荷物」の表記があり、平面図からは車内配置がキハユニ16にほぼ同じで、郵便荷物室部分は郵便区分スペースを除いては荷物車同様に通路部分をはさんで両側に桟が横方向にあることが読み取れました。
キハユニ16は、たしか私が百済まで乗務していた時期には荷44列車が王寺駅に着く時刻(午前10時台)に出会った記憶がありますが、和歌山線の列車だったとすると、先日書いたように、和歌山線の荷物は百済から自動車中継に移行していたと思われるので、郵便用途が主体であったと考えられ、荷物車として使われたとすれば事業用品や新聞に限定して使用されていたのかなあと思います。当時は奈良に所属した3両だけだったはずです。
ところで、国鉄に就職する前の1973年夏に亀山を8時前に出る331Dという湊町行普通列車でキハユニ16に乗客として乗ったことがあります。今思うと、これが亀阪下1号便かとも思いましたが、ダイヤを見るとその約1時間後に荷41列車があるので、そうでもなさそうです。時間的には、未明の上り新聞輸送に使った折り返し編成だったようにも思えますが、郵便荷物室が使用されていたかどうかは確認してません。
鉄道雑誌の記事によると、手小荷物の年末繁忙期のコンテナ輸送において、
・東京都区内に配達する贈答品小荷物を発駅で貨車・コンテナに仕分けして輸送し、直接配達業者(日通)に引き渡すことによって、中継業務から配達駅での引き渡し業務まで省略する
・鹿児島発百済宛コンテナを設定することによって大阪中継業務を省略する
という内容の記述がありました。
鉄道郵便車保存会 会長
荷物車の積み方に駅ごとのホーム側に合わせたとのことですが、郵袋の積み位置には考慮はされていませんでした。元々、結束表には、駅ごとに扉が左右どちらが開くかが明記されていましたが、何かの理由で着発線変更もあるので、ヤマ張って、片側の扉を塞いで郵袋積むと、変更があったときに扉を開けられなくなったことから、扉の左右に関わらず出し入れできるように積み方を決めていました。と言っても、東門便に大阪から乗ると、神戸は必ず右扉を開けるので、左扉を塞いで積んだことはあります。
オハユニ63の車体を調べました。確かに荷物郵便兼用構造ですが、あのような構造がキハユニ16以外にもあったと知りました。スユニ荷物室で経験してますが、床にスノコがあると、郵袋扱いでは足元をすくわれるので、あまり心地がよくありません。やはり水ものがある荷物向きですね。
亀阪便の気動車使用ですが、もともと2往復とも客車連結で湊町駅で受渡をしており、時期は不明ですが、気動車化のとき、ひとまず2往復とも「キハユニ車又はキハユ車」とされています。このとき、キハユ15という、103系顔の「魔改造」と言える車両が使われ、私もD51の加太越えの時期に見たことがあり、当時から乗っていた乗務員からも聞いたことがあります。キハユニ16も郵便が使うときは実質キハユですので、使われたかもしれません。ところが43・10の改正で亀阪便1往復(上一と下二)が荷物列車でスユニ使用、百済発着となり、下一と上二がキハユ使用のままとなりましたが、湊町と百済の両駅に郵便室を置き、乗務員も便によってどっちかの駅に行き来するという不便な状態でした。48・10の改正で湊町発着キハユと湊町郵便室を廃止し、2往復とも百済発着のスユニになっていますので、貴殿が乗車したキハユニ16の331Dは亀阪下一の郵便使用だった可能性があります。なお、キハユニ16が和歌山、桜井、奈良線で見られた末期は郵便使用が主体と思われます。各線電化、電車化にあたり郵便車の確保が難しいとして55・3で自動車化されました。
長距離コンテナの荷物利用で中継が省略されたのは大きかったかと思われます。郵便のコンテナ締切便も長距離ばかりですが、首都圏、関西を中心に各地宛が多く、郵便車も北海道や鹿児島に直通していたので、コンテナを活用しても積み替えの手間を省く効果はなく、かと言って九州対北海道でコンテナを設定しても、中の空間を埋め尽くすほどの郵袋がなければ不経済になります。ワムとコンテナは小包輸送の多い区間に活用して、郵便車輸送を救済するのが役目だったようです。
しなの7号
荷物車内での積み付け位置は、前回のコメントで書いたような基本に従いながらも、同じ列車であっても車両ごとに決められている積載可能範囲によって異なり、また列車が変われば停車駅や着発するホーム側の相違によって異なりましたから、ホーム側を覚えておくのは必須でした。車内では前駅での取り卸し作業と積込後の仕分け作業が完了した後に、次駅で取り卸す荷物をホーム側大扉の前へ移動させ、その時点で次駅卸しの個数を確認して、荷扱専務車掌が授受証を作成しました。
百済の小荷物センター開業後も湊町発着の郵便輸送が1往復残されていたとは知りませんでした。国鉄の電化や気動車化、駅の無人化等、荷物輸送に限らず国鉄全体がが大きく変わっていった時期なので、郵便輸送もかなり国鉄の輸送改善(とは名ばかりの改悪…)に振り回され、そして国鉄離れにつながっていったのでしょうね。
そうしますと自分が乗ったキハユニ16では郵便輸送がされていた可能性があるのですね。その日は柘植で下車しましたが、キハ35・36がほとんどだった関西本線の普通列車の中にあって、その列車はキハユニ16+キハ18+キハ17というシンプルで古い車両ばかりの3両編成でした。運転室がないキハ18が挟まっていたのでキハユニまたはキハユ15を含む3両編成での運用だったと思われます。
私が就職したころも和歌山、桜井、奈良線でキハユ15が共通運用されていたのなら、荷44列車の王寺停車中に気が付かなかったことが悔やまれます。関西本線からは近鉄線への中継駅がたくさんあってその駅ごとの近鉄線の中継範囲をマスターしないうちに53.10で乗務範囲が縮小されてしまった感があり、そんな余裕がなかったかもしれません。
荷物車も郵便車同様に北海道や鹿児島に直通していたのですが、繁忙期に拠点間で貨車やコンテナを使えば、その分荷物列車の積載量に余裕ができますから、中間駅から発送する荷物の滞留を最小限に抑えられる効果が期待できます。
鉄道郵便車保存会 会長
国鉄政策の郵便輸送への影響に言及させていただきます。郵便物輸送を鉄道で行うには、その特性、つまり大量に運ぶことが肝心で、全区間満載というのは限られた線区で、繁忙な列車と閑散な列車がありました。その中で、車内に多く積まれる時間帯というのは、各駅停車なら夕方から夜間、つまり、沿線局の窓口が夕方で閉まり、一日に差し出された郵便物が集配局に集まる時間帯です。そして、長距離列車にあっては、夜間から深夜にかけて。大都市拠点駅から地方に向けて走る夜行列車には、さらに郵便物が多く積まれ、種別にもよりますが、翌日には配達されるようにダイヤが組まれ、沿線局の区分や集配業務が列車の到着時間から組まれていました。そうすると、夜行列車が停車する各駅では、沿線郵便局が受渡に来ればいいのですが、各沿線局の業務量から局員を宿直させて、しかも駅への搬送を行うことが予算上で難しい局が多く、深夜に停車しても受渡を行わず、朝の普通列車に積み替えるほか、郵袋に荷物運賃を支払って国鉄に託送して駅員に預かってもらう、あるいは、駅に受渡を代行してもらう等の方法がありました。しかし、地方駅の無人化が進むと、託送や受渡代行ができなくなっていき、さらに鈍行客車列車の連結廃止を国鉄に求められると自動車化に進みました。また、隠語集に「キロ600円」がありましたが、国鉄の重なる値上げで、郵便車牽引代が1車両1キロ当たり600円ほど要るようになりますと、鉄道輸送の経済性も問われるところとなり、荷物輸送廃止と共に鉄道郵便も廃止してJRには引き継がない国策が確立されました。結局のところ、郵政もまた、国鉄民営化に翻弄されたと多くの鉄郵職員は感じています。
キハユニ16ですが、キハユ15ともども関西線の郵便輸送に使われていたことは間違いありません。その後に郵便2往復とも荷物列車になってからは、和歌山、桜井、奈良線に転用されたと思われますが、キユニ車に置き換えられています。
貨車とコンテナの荷物輸送活用のメリットが理解できました。滞留というのは、東京、名古屋、大阪など拠点局はどこでも抱えており、結局運びきれない郵袋は鉄郵に貯まります。隠語集では忘れていましたが、「貯蓄」と皮肉った呼び方もあり、運びきれないうちに、さらに積み上げる郵袋を、当時の郵便定額貯金をもじって「利子」とも言いました。超低金利の今は利子がないに等しいくらいですが、当時は利子が利子を呼んで、置いておくだけで貯金が増えましたが、郵袋の輸送が追いつかないと、送られて来る郵袋が上積みされますので、どれが古いのか新しいのかわからなくなります。穀物サイロみたいに下から抜ければいいのですが、郵袋は上をめくらないと下が出てこなくて困りものでした。こんなときはコンテナが有効で、計画担当が鉄電をかけまくって、どうにか北海道、九州へコンテナ便を確保して小包類をさばいていました。ところが特急の指定席が満席なから指定券が売れないのと同じで、箱が確保できても日本海縦貫線のコキ車の空きがなかったりすると、苦肉の策でコンテナ搬送トラックごとフェリーに乗せて舞鶴から苫小牧だったか、そんなルートで札幌に送るとかいう「水路コンテナ便」を実行していました。小荷物コンテナではフェリー代行はしなかったでしょうか。
しなの7号
そうですね。国鉄の都合による駅の無人化で自らの荷物取扱を廃止するのは勝手ですが、郵便局はそのままなのですから、大切なお得意様にもう国鉄は利用してくれるなと言っているようなものです。この時点で公共性を放棄せざるを得ないほど国鉄財政が危機的だったことがよくわかるわけですが、最終的な改革の概要が見えない間に製造された多くの新しい郵便車や荷物車が無駄になってしまったのは、なんとも解せない結果でした。
ところで、沿線局の区分や集配業務が列車の到着時間から組まれていたとのことですが、東海道山陽本線の荷物列車は汐留を3時間程度の間隔で発着していましたから、その時間差によって、沿線のどの地域でも有効時間帯にかかる列車があって、どこかの区間で夜行区間にかかり、その間はひたすら走って翌日着荷を可能にできました。そのため列車によって繁忙・閑散となる区間がそれぞれ違ってきます。ただし汐留に深夜に発着する列車は設定されず、その時間帯だけ上下列車とも列車間隔が開いてしまいました。汐留駅での荷扱作業ダイヤに合わせた荷物列車は首都圏を中心としたベルトコンベアのように思えます。
荷物の滞留の件では、たとえば亀山駅では時期になるとミカンを山と積んだ台車が滞留していました。車内では仕分けして天井まで積み上げた状態で通路だけ残した状態になって、車内作業に支障が出るとみたら「満載」として積載をストップさせますが、まだ積めるだろう!いや積めない!と駅と争うことはありました。その権限は荷扱専務車掌にありましたが、その先に例えば急送品(弥冨の金魚など)が大量に積まれることがわかっていれば、そのスペースを考慮しておく必要はありましたが、少しでも滞留荷物をさばきたい駅側は、他駅のことや乗務員のことなどお構いありません。
コンテナの実態はまったく知りません。フェリー代行も聞いたことはありません。郵便と違って国鉄は運送する立場ですから、同業他社に応援を求めるには相応の事態がない限りやらないと思います。
鉄道郵便車保存会 会長
荷物郵便輸送の末期に政策されたマニ50、スユ15などの廃車解体は本当にもったいないです。当会保存のオユ10車内で最近、鉄道郵便写真集から選んだ作品の額縁を新しくしましたが、その中の1枚に、スクラップされて車体を切断されるスユ15の作業シーンがあります。見学のお客様には、作って数年の新しい郵便車の解体ですと説明しますが、鉄道車両ファンのみなさんはしんみりとする方が多いです。
東海道山陽本線荷物列車ですが、ほぼ全列車に郵便車も連結してたかと思われます。郵便では「東門便」と呼び、最後は上下5便ずつだったと記憶します。郵便車も走行する時間帯で、どこが夜間になるかで積み込まれる郵袋数は違ってましたが、長距離ゆえ、どこかで必ずピークになりますから、どの便も積み降ろし総数は似たような数になります。また、昼間といっても、東京、名古屋、大阪、岡山、広島、門司の各駅では前日から滞留している郵袋が積まれるので、積んでよい上限の個数、つまり定数がありまして、その定数ギリギリの積み込みがある以上、正月明け以外はほとんど満載と言ってよかったです。沿線局の業務が鉄道ダイヤと密接なのは、亜幹線や地方線で、列車積み込みに合わせた窓口締め(午後5時に閉める前でも列車積み込み準備にかかる)などのやり繰りが必要で、配達時間も、列車ダイヤにより夕方近くになる局もありましたが、住民はそれを知って利用していました。「あの局は3時半までに出さないと明日の汽車になっちゃうよ」なんて。
定数と申しましたが、車内で乗務員が正常に処理できる限度を考え、平素の数量調査結果を踏まえて積んでいい郵袋数が決められますが、夏期・年末繁忙期は定数を増加させ、乗務員も補助員を加えるという対処をします。しかし、車内の容積は変わりませんので、満載の限度を超えた積み込みで作業困難に陥り、ある大きな某駅で便長と駐在幹部とで、これ以上積まれても入らない、いやこちらは定数以下で積み込んでいる、というバトルがなきにしもあらずでした。積み込む数は書類が渡されるので食い違うことはできませんから、しぶしぶ積み込みを受け入れるばかりでした。しかし、前途の駅に、当便はこれ以上積み込み不能という事実と、先々で降ろす予定数を電話で知らせてもらうと、それを考慮して積み込み数の抑制をしてもらうことだけは可能だったようです。
しかし、59・2合理化でオユ10などの扱い便が廃止され、東門便が護送車スユ15とパレットだけの連結になったころから、窓を塞いで天井に届くほどの郵袋が減ってきて、窓から中をのぞけるほどになっていきました。それは、民間宅配の普及で小包が減っていったためで、それまでの車内は小包で占められていたことを実感しました。また、定形外郵便物も多く積まれましたが、これも企業間のファックス普及で、書類を郵送することが徐々に減ったことから郵袋も少しずつ減っていたようです。
しなの7号
自分が現場で見た感触でも郵便車の積載効率はいつもよく、荷物車の乗務員より忙しそうでした。定数みたいなものは荷物にはありませんでしたが、どうしても駅に滞留しやすい行先の荷物を救済するため?なのか「○○発隅田川着中継荷物100個積載特認」というたぐいの積載方指定は存在しました。
荷物は発送される荷物の種類が時期によって変わる(1個当たりの荷物の大きさが変化する)ことがありましたので、荷物には個数による定数があってもあまり意味をなさないことも考えられます。たとえば生花は細長く大きい箱で300も積めば満載になりましたが、年末の荒巻鮭が1000あっても小さく薄っぺらなので余裕です。実際はそんなに新巻鮭ばかりが積まれることはないですが、北海道東北発の荷物車に積載されてくる荷物は小さい(ただし重い)ものが多かったのは事実です。中央西線の上り列車では、夏の終わりから秋にかけて生花ばかりが荷物室内を占有することはありました。
簡単な積載可否基準があるとすれば、積み込む台車の数になりましょうか。「2杯ある」「1杯だけならもらう」というやりとりはありました。
前途の駅への「満載」の連絡は荷扱専務車掌が電話または電報によって行いましたが、宅配便の普及がそうとう影響していたのか、そういうことはめったにありませんでした。
私が荷物列車乗務から列車掛を経て車掌になってから、荷扱乗務員の業託化が始まり、業託荷扱乗務員の乗務確認を車掌がやることになりました。(業託の人が確認用紙を乗務員室に持ってくるので印鑑を押すだけですが。)
鉄道郵便車保存会 会長
なるほど…荷物に各駅◎個以内とか定数を設けても意味がないことがわかります。郵袋は大きなものでも袋の大きさが決まっているので容積はそんなに変化しません。
生け花が荷物輸送されていたとは、想像しませんでした。古い国鉄広報紙で、房総西線のマニに積むのを花列車と呼んで活況だったことが書かれていました。鉄道輸送していたころの郵便は、小包や定形外でソフトなフワフワもの、割れ物だと局で断られていまして、踏まれて投げられてなんぼのものでした。今は手提げ紙袋でもゆうパックで送れますしチルドもありますから隔世の感があります。郵便車に豊橋でメロンを積んだと聞いたときは驚いたほどで、郵袋に入れず箱単位で積んだと思われます。新巻鮭には悩まされました。冬の時期に阪青上り便に北海道発小包で多くあり、車内は塩の香りでムンムンしており、たまにビニールが破れて郵袋から塩水が沁み出し、他の郵袋が濡れないよう隔離したこともあります。ビニールのゴミ袋を持参して包む機転もありました。
荷扱乗務員の業託化も初めて知りました。やはり日通が請け負ったのでしょうか。「マルニ」会社ができたのは国鉄荷物廃止後だったと聞いています。
しなの7号
生花は、細長い箱入りなので、普通の積み方ですと通路にはみ出しますし、箱が潰れやすいので重い荷物の下積にはできなかったのに加えて、梱包の関係上縦積禁止で、一気に積まれると積み付け位置や方法を工夫しなければなりませんでした。踏んだら潰れるのは荒巻鮭と同じ。新巻鮭の悩みは鉄道郵便と共通ですね。北海道や青森から汐留を介さずに首都圏スルーで東海道に入ってくるマニ運用(列車で言うと荷35、のちに荷2033)ではたくさんありました。
荷扱乗務員の業託化は、知っている例では中央西線の急行「きそ」併結のマニと東海道本線のクモニの行路で、1982年から実施されています。いずれも車掌が別にいる旅客列車併結の荷物車でしたから、車掌業務が不要な行路を選んで実施したと考えられます。他の事例は知りませんが、荷物専用列車は車掌業務を兼掌する荷扱専務車掌が最低1名は必要になりますので、荷扱乗務員の仕事すべてを業託化することはできなかったと思われます。
名古屋鉄道管理局では、以前から熱田の荷物基地の荷扱業務や名古屋鉄道管理局管内の自動車便を一手に引き受けていた会社が引き受けました。その会社の頭文字を採って「マルナカ」と通称されていました。
他所の具体例は知りません。
鉄道郵便車保存会 会長
新巻鮭を積んだマニですが、北海道発で荷35などに連結されるといっても、米原までにどこかで切り離されるのではなかったでしょうか。米原以西にまで連結されるなら、北陸経由のほうが近道と思われますが…。
先に「マルニ」という社名を書きましたのは、全国規模の委託会社と思ってましたが、調べると大鉄局を中心に受託していた旧・大阪鉄道荷物でした。マルニというのは通称で正確には
(株)ジェイアール西日本マルニックス(株)
サイト https://www.marunix.com/train
です。今は車両陸送の手伝いや物流業を展開していますが、荷物廃止当時は、JR社員の引っ越しやお祝い返し発送という福利厚生の手伝いなど細かな仕事もしていました。大阪鉄郵跡地を調べていると、駅郵便室はつぶされてしまいましたが、隣の荷物扱い所跡はマルニの事業所として残っているようです。百済荷物センター発着荷物の大阪地区の授受は自動車代行とのことですが、大阪鉄道荷物が請け負っていたのではないでしょうか。
しなの7号
新巻鮭を積んだマニの件ですが、おっしゃるように北海道・青森発東北本線経由の車両は名古屋までで切り離され、そのうち一部は関西本線に直通し百済まで運用されていました。荷35列車の編成は、
【551】思い出の乗務列車47:東海道本線 荷35列車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201501article_6.html
に書いています。53.10で、荷35列車を2つの列車に分割する形で、東北方面から山手貨物線経由で東海道本線に直通する荷2033列車が新設され、その時点から旭川から航送運用で東北本線・東海道本線経由で名古屋まで直通するマニの運用が新設されました。
ご承知かもしれませんが、鉄道荷物会社については、Wikipediaに全国の主要な会社名が列挙されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E8%8D%B7%E7%89%A9%E4%BC%9A%E7%A4%BE
この中にマルナカも出てきて、「旧・中部鉄道荷物(株)」とされていますが、私の認識では「中部国鉄用品輸送(株)」です。想像の域を出ませんが分割民営化で法人名に「国鉄」があってはまずいだろうと商号変更されたのちに現商号「ジェイアール東海物流(株)」になったのかもしれません。マルナカの作業帽には〇の中に「中」の字が描かれ、マルニは〇に「ニ」が描いてあったと記憶します。百済からの自動車代行便を見た記憶がありませんが、おそらくこのマルニに委託されていたのだろうと思います。
鉄道郵便車保存会 会長
荷35列車のページを読ませていただきました。荷物輸送で数多くのページを書いていただいておりながら、当方の読みが浅く、質問して申し訳ないです。青森~百済運用も連結されているなんて想像もつきませんでした。荷35列車はいちど撮影してみたくて、大森で構えたことがありました。さすがに茶ガマは来ませんで青色同士の重連でしたが、ブルートレインも数多く下っていきました。
中部鉄道荷物がマルナカでしたか。マルニのマークはその通り、○にニの字でした。
亀山駅の話ですが、バス亀草線水口方面への中継があったとか。これを運んだのは、どんなクルマだったのかご存じならお教え下さい。お客さんが乗るバスの車掌のそばの荷物台だったのかもしれませんが、荷物が多いと積めないような。福知山線篠山口駅からかつて篠山線があって廃止され、国鉄バス篠山駅ができましたが、乗車券売り場があり、荷物も扱ったそうで、篠山口駅に国鉄と書いた幌付きトラックをたまに見たので、ここではバスでなくこれに積むほどの荷物量があったと推測していました。
しなの7号
EF58が重連になる荷35列車は有名でしたが、撮影可能な時間帯が限られましたので、地元では撮影することはできなかったのが残念でした。
亀山駅の湊町方にあった自動車中継の荷扱所は、いつも行く名古屋方の車掌区とは反対側になりますので、気にして見たことがなく、そこにどんな自動車が止まっていたか、あまり記憶がありません。
私が百済まで乗務していたころ、すでに草津線が亀山からの自動車代行になっており、草津線経由となる荷物は上下線とも亀山中継とされていました。仕事上での草津線接続駅は柘植ではなく、「亀山から分岐」でした。このような実態でしたから、その当時は自動車便が(国鉄直営か荷物会社に委託されていたかはわかりませんが)草津線自動車代行と亀草線の荷物輸送との両方を一体化してトラックで輸送していたと考えたほうが自然だと思います。草津線(荷物取扱駅は甲賀・甲南・貴生川・三雲・石部)、亀草線(荷物取扱駅は近江土山・本水口)とも荷物取扱駅は全部滋賀県内であり、草津線と国道1号線とは近接しています。
国鉄亀草線の国鉄自動車が直営でバスと共に荷物便を運行していた可能性もありますし、亀山駅の荷扱作業が日通に委託されていたのは確かですから、その輸送も日通に委託されていた可能性もあるでしょう。
篠山口でご覧になったという「国鉄と書いた幌付きトラック」は汐留に多数配置されていたのが記憶にあります。昭和50年代にしては旧式のいすゞボンネットタイプが多く、国鉄バスと同様に、正面に動輪マークのエンブレムが付いていたので直営だったと思われ、緑色の車体でした。亀山に緑色のトラックが止まっていた記憶はありませんが、色だけでは判断ができませんし、日通のトラックが止まっていたとしても配達荷物用かもしれないので、何とも断定しかねます。
鉄道郵便車保存会 会長
そうですね、草津線、バス亀草線まとめて亀山中継するなら数量も多かったはずで、バスの隅っこでは無理でしょうか。国鉄トラックか、あるいは日通の黄色のトラックかもしれませんね。しかも、荷室は遠いところを奥に、降ろす場所が近いほど手前のはずで、積む場所も決まっていたかと。郵便局から駅へのトラックで、東門線扱い便と護送便を4トンに積むとき、どちらかを奥に積んだら網をかけて、手前に積むものと混同しないようにしていました。数局立ち寄る自動車便なら、亀山発トラックと同じように車内で立ち寄り順に並べていました。
実は、大昔は草津線も鉄道郵便線路で「柘草線」と呼んでましたが廃止され、沿線に集配局がありますが、米原貴生川便が届く貴生川(信楽)以外は大津局からの自動車便なので、石部、甲西、甲南、甲賀各局宛は「520-××」という郵便番号が振られ、すべて大津局渡しでした。(受渡は草津駅)
なので、原則は亀阪線沿線と大津米原間は、奈良、京都府からは京王線(奈良線)経由、島ヶ原以東からは名古屋経由が原則ですが、そんな中でひと便だけ、柘植経由がありました。
亀阪上一号 結束 http://oyu10.web.fc2.com/kessoku-kamehanue1.jpg
を参照していただけるとわかりますが、大和郡山までに積み込みの大津米原間のブツは奈良で京王便に結束しますが、加茂以東積み込みに関しては柘植局に引き渡す結束です。これは、おそらく大津~甲賀の自動車便が実は甲賀止まりでなく、柘植まで伸びていて大津柘植便だったことをうかがわせます。輸送系統はだいたい郵便番号の3けた5けたで行われ、大津局の子分(俗称)である甲賀まででいいのですが、あと少し走って柘植で折り返せば三重県とつながることから、柘植局経由の輸送も確立されていたと考えるのが妥当です。ですので、この便だけですが、当該ブツは大津柘植自動車に積み替えて大津局から東門便、阪青便に渡されたと思われます。同様の事例はほかにもあり、神戸から北区の子分各局へは道場局止まりでいいものを少し伸ばして三田へ(神戸三田便)、明石からは三木市、加東郡の明石子分各局は社局までなのを、ほんの少しで滝野、西脇へ届くので明石西脇便としていました。滝野、西脇は本来加古川谷川線(加古川線)のキハユニ15で運ばれる区域でした。しかし、草津線沿線の郵便が大津起点であるのに、荷物は亀山起点と正反対のようです。
国鉄幌付きトラックを篠山で見たのはエンジ色というか、スユニ60よりも赤っぽい茶色でした。緑色は見たことがありません。ボンネット車で、郵便にもそういうのがありましたが、逓送さんがハンドルが重たいとぼやいていました。このトラックがバスと同じ車庫から出るのなら、運転手はバス乗務と交互にするのか、荷物専任なのかが知りたいところです。篠山口駅で列車から降りた荷物は駅止めよりもトラックに積む方が多かったと聞きました。なにしろ篠山駅(バス駅)が町の中心部だったので納得です。土山にバス駅があったのでしようか。土山局は水口局の子分ですから米原から米原貴生川線(近江鉄道)で運ばれました。
しなの7号
エンジ色のトラックに見覚えはありますが、それがどこの駅で、どこの会社、あるいは直営であったのか、さっぱり記憶にありません。汐留では車掌支区から外に出るときに、いつも緑色のトラックが並ぶ立体駐車場を通って行ったので、はっきり記憶に残っていますが、確かに緑色のは首都圏以外で見たことはありません。
草津線代行ルート?は郵便でも荷物でも、東海道本線と関西本線間の短絡ルートとして利用されていたのですね。
国鉄草津線代行の自動車便はどのようなルートで、そして積載する荷物をどう区分して運行されていたのか私にはわかりません。近江土山は亀草線の駅です。1975年8月発行荷物事務用鉄道線路図によれば、近江鉄道水口駅では荷物を扱っていません。近江鉄道の荷物取扱い駅は多賀・愛知川・八日市・日野とあります。
荷物輸送の集約化で、全国的に荷物のルートが変化していったことは間違いありません。草津関連では、53.10の前まで、東海道本線の急行荷物列車の大部分が草津駅に停車しましたが、53.10以後の市販の交通公社時刻表をご覧いただくと東海道本線の荷物列車は草津が通過マークになっていることがわかるはずです。
この時点で草津駅の荷物中継業務は廃止されたと思われ、その代わりとして、草津線と亀草線の中継駅が京都に変更されていますので、亀山から京都まで直行する自動車便ができたのではないかと思われます。
ところで、さきほど53.10以降の交通公社時刻表で東海道本線の荷物列車が草津を通過すると書きましたが、実際には郵便取扱いのため停車する列車がありました。(全列車なのか一部なのかはわかりません。自分が乗務した列車のことしかわかりませんので)
この時点で彦根~山科間各駅発着の荷物は下り米原、上り京都中継の自動車代行になりましたので、郵便停車で草津に停車する列車でも荷物の取扱いはやりませんでした。そんな理由で、乗務員の交代や行き違いなどを理由とする運転停車の場合と同様に、草津に郵便停車をしても時刻表上は通過マークが付けられたものだと思われます。
草津駅のような郵便停車は、53.10時点で私が知るだけでも東海道本線では横浜・熱海・富士・岡崎・大垣・彦根・近江八幡で見られました。
荷物輸送の実態はわからないことが多いです。当時の現場で渡されたマニュアル本にしても、本社規定のほかに各地方の輸送計画室・各鉄道管理局などで作成された多くの規定類を根拠として編集され、刻々と変わっていきました。そうした規定類を全部、時代ごとに完備しても、列車や線区に限ったローカルルールまで含めて完備しない限り全容解明は困難です。
鉄道郵便車保存会 会長
このたびお書きいただいたことで、私として今さらながら気づいたことが。
荷物列車に限らず、郵便受渡の駅では荷物も必ず積み降ろししているという先入観がありましたが、それが間違いと気づかされました。59・2改正まで東門便、阪青便は、全便ではありませんが、たぶん半数以上の列車が草津駅で大津局・草津局(又は大津のみ)の受渡をしていました。しかし、不覚にも、自分が受渡をしていながら、荷物は扱われていなかったことに気づくことはありませんでした。郵袋数が多く、停車時間があまりないので、必死で郵袋を数えて積み降ろし、ホームを見る余裕などありませんでした。しかも、これが運転停車のカテゴリになるとは、目からウロコです。彦根、近江八幡でも、受渡する荷物列車があり、鉄郵塾資料館の阪青線各便結束表(1978年)を見てもらえれば、滋賀3駅の受渡が明記されています。ただ、荷物と似ているのは、それら3駅で受渡しない便は、下りは米原分局へ、上りは京都分局に渡し、後続便またはトラックで中継するのが原則でした。ともかく、我々の郵便授受のために、荷物扱いがなかった駅に停めてくれていたとは、ありがたい限りです。
もうひとつの気づきは、近江鉄道の荷物扱いに水口駅がなかったこと。すると米貴便モユニ連結列車は、水口駅では郵便のみ受渡となります。ここでは郵便は2往復ありましたが、下り一号が早朝発で、深夜に米原を発着した便から郵便物を受けましたが、その後も阪青上二号(502レ)や午前の東門上下便で降ろされる郵便物を下二号に積むと当日配達が困難です。そこで午前に下りだけ米水託送便があり、通常郵袋のみ荷物代払って積みました。便名でおわかりのように、水口行ですが、八日市は絶対にあり、あるいは豊郷、五個荘など途中局も積んだかもしれません。すると、水口駅では託送郵袋が降ろされたわけで、郵袋だけ特別扱いだったと推定せざるを得ません。こうして考えると、郵便物の受渡や託送は、荷物輸送との共存の中でも特別な計らいがあったと感じられ、ありがたくもあります。
しなの7号
国鉄の幹線には通過区間着発荷物中継駅という拠点駅があり、東海道本線だと、小田原・沼津・静岡・浜松・豊橋・熱田(名古屋から変更)・岐阜・米原・京都・大阪・神戸が通過区間着発荷物中継駅に指定されていました。急行荷物列車であれば、そのほかの駅は通過してもよさそうなものですが、そうでもなかったのは、郵便、新聞・雑誌・官報など特別な荷物や、定型輸送の急送品が大量にあるといった事情が、特定駅や特定列車に存在したと考えられます。そういう駅でも荷物の授受のため駅の小荷物係が出場するのであれば、他の一般荷物も取扱うことができたのでしょうが、小荷物部門の人員削減や業託化で荷物関係を自動車便に集約した結果、郵便輸送だけが残ったのだと思います。そうなれば一般の荷主に対しては通過と同じですから市販の時刻表に時刻を載せることは適当ではないと思われ、通過の表示にしたのでしょう。この場合、国鉄の立場としては、貸切郵便車でとしての営業上の停車なので、運転停車とはちょっと意味が違いましょうが、市販の時刻表に非掲載になりながら定期客だけのために旅客列車を走らせていた末期の国鉄宇品線の例に近いかもしれません。
草津駅は通過区間着発荷物中継駅ではありませんでしたが、草津線・亀草線方面へ中継する大量の荷物があった関係で、53.10改正前までほとんどの荷物列車を停めていたのでしょう。
そういった省力化は国鉄の一方的な都合であって、荷物列車がある以上は鉄道郵便の取扱いは通過区間着発荷物中継駅以外の駅でも残さざるを得なかったということでしょうかね。
昨日のコメントでの1975年当時の近江鉄道で荷扱をしていた駅の件ですが、私の書き方が不適当でした。列挙した近江鉄道の荷扱駅は、国鉄との連絡運輸をしていた駅として捉えてください。旅客同様荷物でも連絡運輸をする駅は限定されていましたので、水口駅はそれに含まれなかったというだけのことであり、近江鉄道線内のどの駅で乗車しても、同線内のすべての駅までの乗車券が買えるのと同様に、同社線内相互間発着の手小荷物営業は、有人駅であれば残してあってもまったく不思議ではないと思われますので、水口駅でも郵便以外に一般手小荷物の取扱いはあったと考えてもおかしくありません。誤解を招いてしまう書き方で失礼いたしました。
手小荷物の連絡運輸は、旅客同様に縮小傾向にありまして、さらに古い1969年11月発行荷物事務用鉄道線路図によれば、近江鉄道でも、昨日のコメントで書いた駅以外に15駅で連絡運輸が行われていたことになっており、その中には水口・五箇荘・豊郷も含まれています。水口の連絡運輸が廃止されたのは自動車線との競合を避けた結果かもしれません。
鉄道郵便車保存会 会長
詳細なご説明で理解が深まりました。郵便受渡のために、多くの駅で荷物列車を停めてくれていたことがわかり、時刻表で通過と表記しても、荷物利用者のための掲載からはむしろ当然でしょう。
近江鉄道水口駅は線内荷物なら郵袋以外でも扱ったのかもしれませんね。国鉄荷物車における私鉄連絡駅と私鉄線内扱い駅は同一ではないかという先入観がありました。何より、府県をまたぐ近鉄などはともかく、短距離完結の私鉄で線内荷物があるのか?という疑問もあります。その点で、託送郵袋こそ、線内荷物そのものと思われます。(国鉄私鉄連絡で託送される郵袋など考えにくいです)
新聞、郵袋以外で近江線内荷物を差し出し、受け取りをした人がいたかまでは疑問ですが、国鉄連絡の利用が圧倒的に多かったと考えられます。別府鉄道の土山~別府港、加悦鉄道の丹後山田~加悦だけの線内荷物となると、あまりの短距離なのでほぼ皆無でしょうが、国鉄連絡では発送されていました。(加悦線内の郵袋託送は宮津線郵便車に接続して2往復ありました) 水口駅とバス水口とがどれくらい離れていたかはわかりませんが、近江鉄道から国鉄連絡荷物を出せば、近江線運賃がいきらか加算されそうで、国鉄駅から出すより高くなるはずです。国鉄バス駅から鉄道線直通荷物は、国鉄だけの運賃(第一地帯~)でよかったのでしょうか、それともバス線の加算があったのでしょうか。
しなの7号
市販の時刻表に掲載される荷物列車は幹線の一部列車だけでしたが、自分が乗務していた中央西線の荷物列車でも、53.10で自動車代行便ができてからは、新聞と郵便扱いに特化した停車駅が市販の時刻表上では通過マークに変わっていました。
私鉄内の手小荷物輸送の実態についてはまったく存じませんが、近江鉄道としても利用実績に合わせた整理をされたのでしょう。線内完結の手小荷物は昭和50年代には皆無に近かったと思いますが、最低でも託送郵便物がある駅は線内の小荷物扱いが残してあったということでしょうか。
荷扱乗務員には直接の輸送業務の知識しか必要がなかったので、仕事に関係が薄い荷物運賃・料金に関する知識は、時刻表のピンクページに書いてある程度で十分に務まりました。そんなわけで国鉄自動車線の運賃に加算があるか考えたこともありませんでしたが、国鉄自動車線の性格上、運賃は鉄道線と同様に地帯別で扱われるべきだと思います。
鉄道郵便車保存会 会長
時刻表で中央西線の荷5042レ、荷5043レを見ますと、53・10以前は名古屋~中津川間で停車駅がかなり多いのに、53・10以降は多治見以外は停まらないように見えます。しかし、郵便扱い停車がいくつかはあったということですね。
当方も時刻表ピンクページで荷物のところを何冊か見ましたが、バス連絡については明記がなく、やはり鉄道線と一体とみなされていたのかもしれません。
しなの7号
私が乗っていたダイヤ改正前後の荷5043列車の例では、53.10改正前に停車していた勝川~高蔵寺間が改正後にすべて通過となり、名古屋~多治見間無停車になった一方で、多治見~中津川間は従来どおり各駅に停車し、新聞卸しと郵便の扱いをしていました。ダイヤ改正後の時刻表を見ますと、停車駅は名古屋・多治見・中津川の順で、途中駅は全部通過表示になっていますね。
改正後に通過になった勝川~高蔵寺間(愛知県内)は、もともとこの列車では郵便の取扱をしていなかったのだろうと思われますが、確認はできません。夕刊のほうは、ダイヤ改正前から多治見以遠(岐阜県内)だけの輸送だったと記憶していますので、一般荷物の取扱が自動車代行になってしまえば、停車する必要はないでしょう。なお、愛知県内の夕刊輸送は荷5043列車では時間が早すぎるので、もともと後続の普通列車の最後部客室の一部を使って便宜輸送が行われていた記憶です。
国鉄バスの件は、旅客及び荷物営業規則で「国鉄線とは国鉄の経営する鉄道・航路及び自動車線をいう。」と定義されていますので、その考えに基づけば一体化して考えて差し支えなさそうです。
昭和30年代の古い時刻表を見て、国鉄小荷物運賃は対キロ制だったことに気が付きましたが、のちに地帯制に変わっていますね。
鉄道郵便車保存会 会長
確かに53・10前後の時刻表でそのように違います。59・2までの郵便受渡局は名古屋から順に多治見、土岐、瑞浪、釜戸、武浪、恵那、坂本、中津川、(坂下・山口)、(吾妻・三留野)、大桑、上松、木曽福島…となっていました。( )は2局受渡を意味します。吾妻・三留野がどこの駅かはわかりません。つまり、多治見中津川間が通過表示でも郵便は途中6駅で受渡していたことがわかります。名古屋多治見間にも駅近の集配局はいくつもありますが、都市近郊は自動車輸送にして、車内作業に支障しないようにしていました。大昔は途中の受渡があったかと思われますが、昭和40年代までには整理されています。名長上り便の場合、遅くとも多治見あたりで車内を整理にかからないと名古屋到着までに書類と郵袋をまとめきれないからです。大阪近辺へ向かう便でも、伊丹や八尾で受渡していた時代があり、伊丹大阪、八尾湊町の車中で作業を閉めるのは大変だったかと思われますがSL牽引で現在より長くかかったからできたのでしょう。
昭和39年の時刻表で、荷物運賃が急行券みたいに100km/h刻みで上がったのをただいま知りました。最近買ったのですが、編成表で郵便車がどの急行に連結されていたとか、そんなことばかり気にしてしまいます。
しなの7号
荷5043列車の郵便扱駅をお調べいただきありがとうございました。
53.10の資料では、荷5043列車での特別扱夕刊輸送が、土岐市から中津川までの各駅にあり、恵那からは明知線阿木駅へも継送されていることが確認できます。つまり荷5043列車の場合、時刻表上通過マークになっている駅のうち、多治見・中津川間に限って郵便と新聞両方の取扱があって停車したことが確定しました。
坂下駅は岐阜県内に所在しますが、木曽川の対岸は長野県山口村でした。山口村はのちに岐阜県に越県合併し、現在は坂下・山口とも岐阜県中津川市の一部です。
吾妻・三留野の最寄り駅は南木曽駅になります。吾妻・三留野地区とも、合併で現在の南木曽町の一部になっています。南木曽町の誕生後に、旧三留野(みどの)駅が南木曽駅に改称されたという経緯になります。三留野は中山道の宿場町で、南木曽駅から至近です。
列車が大都市に近くなればなるほど郵便物荷物とも扱う数が大量になり、列車の終点までのタイムリミットがある以上、車内での作業は困難を極めるでしょうから、早々と自動車に移行したことには納得です。荷物のほうは、客荷分離で荷物列車が設定された48.7ダイヤ改正時(中央西線全線電化時)から、すでに名古屋市内各駅は時刻表上は通過になっていますので、かなり前から名古屋駅から逆送する自動車代行便に移行していたと思われます。
最近は新しい時刻表を買うことはなくなり、古い時刻表で調べものをしたり、眺めたりすることのほうが多いです。編成表と時刻を見比べ、ネット上の情報も見ながら運用や車種を想像するのはおもしろいですが、郵便・荷物関係はわからないことだらけです。
鉄道郵便車保存会 会長
鉄郵塾の資料館には全国の鉄道郵便線路図を14局に分割して公開していますので、駅名と対比していただければ、参考になるかもしれません。(吾妻・三留野)受渡は南木曽駅でしたか。そう言えば南木曽がなくてなんだかおかしいな…と感じていました。郵便は荷物よりも早く大都市近辺受渡はやめていたようです。首都圏ですと上野の次は大宮、というのは近い部類で、汐留の次は横浜まで、両国の次は千葉まで、新宿の次は八王子まで受渡しませんでした。
時刻表ですが、このところ歴代のを見る機会が増えてまして、新聞記事に「喫茶店に神戸⇔安土のサボが飾られているがこんな電車はない、鉄ちゃん記者も知らないのでだれか情報を」とあったので調べたところ、昭和39年当時は神戸始発京都方面快速が日中に多数走っていたので新聞社に情報提供したところです。東海道線荷物列車は東京発が4往復あったのに、急行や普通にも荷物、郵便車が多く連結されていた時代です。
しなの7号
鉄郵塾の資料館を拝見すると、地元愛知県内は空白に近いですね。少なくとも飯田線沿線はほとんど鉄道郵便によっていたと思っていました。郵便線路図を見ると飯田線内で扱った愛知県内の局はといえば「長岡」(最寄は東栄駅)と「富山」(最寄は大嵐駅)だけのようです。「富山」(とみやま)は現愛知県豊根村の一部で、最寄りの大嵐駅は天竜川対岸で静岡県にあります。
さすがに昭和30年代の時刻表を眺めるときは、懐かしさではなく、新しい世界を見る感覚になりますが、あまりにも列車の運行系統が多いのに対し、掲載されている列車編成表は充実していないので、謎だらけですね。
鉄道郵便車保存会 会長
確かに、鉄道郵便線路図の受渡局数では愛知は全国で最少かと思われます。東門線が普通列車連結の時代は、ほぼ2駅に1局の割合で受渡駅がありましたが、急行荷物列車に連結する特例輸送が実施されたときに、受渡駅を集約して豊橋、岡崎、名古屋だけにしてしまったからです。豊辰線も、豊川あたりは昔は受渡したかと推定されますが、豊橋から時間が短いため自動車輸送にしていました。ほかに、名古屋を中心に東京方以外の各方向がすぐに他県になってしまうことも愛知の受渡駅が少ない理由となっています。
豊辰線車中の作業動画が手元にありますが、郵袋読み上げで「ながおか」「とみやま」と聞いたとき、いったいどこなんだ?と思っていましたが、東栄、大嵐と聞くと、撮影でなじみがあった駅名なので、あそこか…と親近感がわきます。なお、佐久間、水窪は静岡県ながら、当時は郵便番号が「449-06、07」という愛知県の番号が付けられており、豊橋から鉄道で運ばれる区分をさせるためです。現在は「431-39、41」という浜松近郊らしい番号に変わっています。
当方の昭和39年時刻表も編成表は特急、客車列車、長距離列車が重点に掲載されているのは確かで、各地の多層建て気動車急行などもっと見たいですが、時刻ページを読みあさって探しています。
しなの7号
愛知県は自動車王国で道路事情がいいですから、今でも鉄道のシェアは低いです。郵便輸送が早々に鉄道から移行したのもそういう理由があったのかもしれませんが、飯田線が走る愛知・静岡・長野県境地帯の道路事情は、今もさほど変わっていないように思います。
鉄道人間なので、「飯田線=静鉄局」の印象が強く、就職するまでは豊橋を含めて飯田線には愛知県部分がないと思っていたくらいですが、のちに3県にまたがっていることを知ってから、郵便番号帳で郵便番号のからくりに気付き、理由は想像できました。
昔は、各地にあった長距離鈍行客車列車が荷物郵便輸送の使命を担っていたのでしょうから、主要駅の発着時間帯とか主要駅からの接続列車などから輸送実態をある程度特定できないものでしょうか。当時の車両配置表などは参考にならないでしょうか。
鉄道郵便車保存会 会長
前回の訂正ですが、資料館の線路図で受渡駅数が最小の都道府県は大阪でした。大阪、百済の2駅なのですが、百済郵便室は大阪鉄郵の派遣ですから実質、1局とも言えますが…。東京都は汐留、東京、隅田川、上野、新宿、両国とあと八王子ですので、7駅と言えますが、八王子以外は東京中央局の受渡駅が単に分散しているだけ、という論理なら2駅になります。ただ、各始発駅に分局があったので、私個人は7駅と考え、少ない順に大阪、愛知、東京としましょうか。日本の3大都市が最少とは意外です。
いま一つの訂正は、近江鉄道の託送便です。米原貴生川下り一号の後を追いかける託送便は米原貴生川通常託送便でした。扱いは豊郷、五個荘、愛知川、八日市、日野、水口、貴生川です。また、米原水口通常託送は下り一号よりも早く5時半に発車しており、午前中にこれら3便が必要なほど郵便物が多かったわけです。また上りも米原水口通常託送2便と米原貴生川便2便でした。
飯田線の郵便輸送を郵便番号からひもとくと、「449-××」という愛知、静岡県区間、「399-××」という長野県区間に別れます。3桁めが9というのは、郵便番号制定のときに、鉄道乗務員受渡局を意味しており、静岡県である佐久間局あたりも449が付与されたことで、愛知県豊橋から乗務員に運ばれるというのを主張しているかに思えます。
主要駅発着時間帯と輸送実態のことは郵便でも大変密接でご指摘のとおりです。先に書きました名和線でも、長距離列車にスユニを連結し続けているのだからずっと郵便扱いし続ければいいものを、松阪や新宮で一晩止めたり、後続列車に建て替えしたり…これらはみな、配達時間帯を考慮したところはあります。この線では、大阪新宮託送(921レ、924レ)を組み合わせ、逆送したりして、長い全線の配達時間帯を構築していたことが特徴的です。名古屋、京都、大阪で東門線から積み替える各線でも、連結列車の選択肢はいくつかあり、客車列車なら国鉄との交渉で選択の余地はあるので、沿線の配達時間帯に好都合な列車、特に早朝発の列車に連結すれば好都合となります。難しいのは各局の窓口を閉めた後で回収する「かっさらい便」で、これがどうしても昼過ぎから運転して夜に都心に着く列車になりがちですから、一部の局では早く出された郵便物しか間に合いません。かと言って、夕方から夜遅く都心に向かう列車への連結となると、局の執務時間を過ぎて残業させないと列車に渡せないという労務面の問題を伴います。
車両配置を見て郵便輸送実態を見るのは専門的になりますが、長距離便の組数に関係してきます。東門線は形式がおおまかに3タイプあり、区間便も多いので複雑過ぎますが、品川客車区でまかなう車両は何日で戻ってきてまた汐留から使えるかという周期と検査に必要な留め置きを考慮しますから、かなりの両数が要ります。
もう少し単純なところでは
宮原客車区 オユ10運用
http://oyu10.web.fc2.com/unyou-hanseishita-ue2.jpg
を見ていただければ、宮原操から旭川まで5日かかって戻りますから、組数5、つまり最低でも5両が同時にこのスジに乗り走行中となりますので、予備を含め6両は配置しないといけません。53・10までは阪門下便、上便もあって、共通運用されていたと聞きましたので、もっと両数があったはずで、同便の廃止後は阪青線各便に必要な両数がそろっていたと思われます。
さて、スユ44によるパレット締切便を掘り下げようと、ホームページに積載方一覧表ともども解説していますので、ご覧下さい。しなの7号様はパレット荷物車の積み降ろしに駅でかかわったことはあるでしょうか。郵便同様に、積載位置や積み降ろし指定駅が細かく決められていたことと思われます。
鉄道便について (4)パレット締切便
http://oyu10.web.fc2.com/tetsudoubin.html
しなの7号
大都市圏の受渡駅数が少ないのは、国電区間が作られて長距離列車の停車駅が限られたことも一因とも思えますが、愛知県はその理屈には当てはまらないです。
挙げていただいた近江鉄道の託送便の扱い駅、豊郷、五個荘、愛知川、八日市、日野、水口は先に書いた1969年11月発行荷物事務用鉄道線路図にある連絡運輸駅に含まれます。(貴生川は国鉄駅があるので除かれているようです。)
郵便番号3桁めの9が鉄道乗務員受渡局を意味していることは知りませんでした。それだけで郵便輸送があった国鉄線区が見えてきますね。
郵便輸送は24時間勤務の現場が多い鉄道と違い、荷物輸送よりも有効時間帯が限られることを、数々のご教示から学びました。気動車化や電化の進展は郵便輸送にとっては障害となっていったのですね。
昭和30年代の車両運用表があればいいのですが、配置表からの推測はやはり難しいですか。「きたぐに」の大航運用にしても、客車に表示された運用番号「航」を見ない限り青森折返しと思ってしまいますので、昔の郵便・荷物の輸送の実態を解明するのは難しいですね。
パレット荷物車に関しては、仕事上で乗務員が関わることはありませんので何も知りません。駅での作業を見ている限り、ホームページに書かれている郵便と同じような使用方法で運用されていたと思われます。変わった使用方法で、中央西線にワキ8000の運用が始まったときに、パレットを使用せずバラ積みしていたことがありました。私が荷扱から離れてからどうなったか知りませんが、53.10前後には駅ごとに区画を決めて積載し、駅の係員が途中駅(塩尻・松本だったように記憶します)で大扉を開封し、手作業で1個ずつ積卸していたみたいです。
まだ塩尻駅が旧駅でしたし、北長野の荷物基地はこの時期に開業していますので、ホーム高さの関係など設備上の問題や輸送方法の移行期だったことが理由として考えられますが、労使間の問題など別の問題だったのかもしれず、理由は知りません。バラ積は長期達で「当分の間」とされていましたので、当時の規定などには出てこない暫定的な取扱だと思われます。
鉄道郵便車保存会 会長
愛知県の郵便受渡駅で、東門特例を施行する以前は戦前の資料になりますが、二川~木曽川の間は14駅ありました。名古屋鳥羽線(後の名和線)で蟹江と弥富、名長線は不明ですが、多治見まで何駅かしていたはずです。豊辰線は当時は豊中線といって中部天竜止まりのようで、愛知も小坂井から本郷(のちの長岡?)まで7駅ありました。私に言わせれば、昭和50年代に、豊橋から長岡(東栄)までなかったのがむしろ異常で、豊川はともかく新城や槇原など受渡してもよかったと思います。あと、岡崎吉田線というのがありましたが、すでに廃線の鉄道かもしれません。
3けためが9の局は7けたになった現在でも多く残っており、東海道、山陽線沿線局で荷物列車が停まらなかった駅の最寄り局であれば、客車鈍行連結当時は受渡していたと理解できます。
連結列車の自由度が電車、気動車化で失われたのは事実で、客車と気動車が混在していた線区では、郵便車は運転距離と運用の融通を考え、客車で残した事例が多いです。電車になると、釣掛けやカルダン駆動の車種の違いにより荷電との連結が制限されたりで自由度は低下しました。電車化で廃止したのは京都王寺、王寺和歌山線で、続けるなら通年で代用車になり、並行道路がほぼできあがっていたことで決断したようです。一方で岡山米子線はキユニ車から電車化しても、115系の先頭車前半分にカーテンを掛けてボックス席に郵袋を積んで続けました。
ワキ8000に荷物をバラ積み?これは知りませんでした。当然締切便なのでしょうけど、マニ60に乗務員が乗るほと多く積めたのか疑問です。職人技で高く積み上げることがパレット車内ではできないのでは…と思わずにいられません。スユ44に郵袋をバラ積みした話は聞いておりませんで、最後までパレット積みだったせいで、沿線主要局の地下や倉庫には鉄郵廃止後に大量のパレットが残り、トラック内には固定が難しくて使いにくく、業務用品の整理、搬送など彼らにとって不本意な雑用に使われたそうです。
しなの7号
戦前となると道路交通は未発達で、愛知県内でも郵便輸送は鉄道主体だったようですね。飯田線は国有化前で、しかも中部天竜まで部分開通の時代でしょうか。
東栄駅から離れている本郷は現東栄町の中心集落ですから今の東栄郵便局かもしれません。周辺の人口がガクッと減るのがこのあたりですが、飯田線の輸送力は小さいのでクハユニでは量的にも限界があったのかもしれず、山間部の局に限定して郵便輸送していたと考えられないでしょうか。豊橋~本長篠間折返しのクモユニ運用でもあればなんとかなったかもしれませんが。。。
飯田線の手小荷物はというと、東海道本線から豊橋で中継する荷物は飯田線内と辰野駅着荷物に限って中継し、東海道・中央東線間の通過ルートとしての使命はありませんでした。
岡崎吉田線とは名古屋鉄道のことではないでしょうか。吉田は豊橋のことで、旧東海道は吉田宿、お城も吉田城でした。飯田線国有化前の豊川鉄道の駅も吉田駅で、そこへ名鉄の前身である愛知電気鉄道が乗り入れています。名鉄の豊橋~岡崎間は省線とは山一つ隔てた旧東海道沿いに敷設されており、省線の岡崎駅は市街地からかなり離れていますので、競合関係にはならないように思えます。
国鉄の分割民営化で全国一貫した輸送が困難になる以前に、国鉄時代の動力近代化とか新幹線開業にとって中央から地方への直通列車が減っていったことは意識していましたが、全国ネットが命である郵便輸送が、同じ状況で鉄道郵便から離れ寸断されていた事に行きあたると、ちょっと考えさせられます。
中央西線のワキ8000は、扱車の置き換えでなく増車として運用が開始されたと記憶しますので、熱田~塩尻・松本間を通す荷物を扱車から分離することで、扱車では中間駅発着荷物や特殊荷物に限定でき、作業が軽減されるメリットがあったと思われます。ワキの車内では、おっしゃるように構造上通路がなく貨車そのものなので、バラ積では一般の荷物車の常識が通用しませんから、パレット積みのように効率よく積めなかったと思われます。見た限りでは高く積み上げたりせず、そうかといってマニ締切車にあったような、大扉からの投げ込みによる山盛り状態でもありませんでした。
鉄道郵便車保存会 会長
飯田線の開通まで調べますと、先に書きました昭和10年の時点では、豊橋~佐久間(のちの中部天竜)まで開業していたので豊橋中部線とは、当時の佐久間終点で中部局が受渡したと考えられます。国有化はまだで、豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道を直通する郵便線路で、荷物郵便車はサハユニフという客車で直通していたとされており、のちに救援車に改造して長らく中部天竜に置かれていたのを見たことがあります。もし、晩年にまで長篠、新城で受渡していたらクハユニの狭い部屋では積みきれなかった、と考えられなくもないです。(キハユニ各形式よりも狭いと思われます) 豊橋から積み替え荷物の範囲が辰野までとは興味深いです。中央東線への近道?なので積んでもいいように思われますが、車室の狭さでそのようになっていたようです。郵便と申しますと、長野県のうち、郵便番号の上2桁が39の地域は、富士見~塩尻~南木曽、松本、大糸線、飯田線の範囲で、名古屋からの運送は名古屋長野線経由ですが、豊橋に向かう東門便各列車で、豊橋辰野便に短時間で接続する便(結束便)に限り、飯田線内である箕輪(伊那松島駅)以南のみ引渡しました。富士見~辰野間は積まずに、下りは名古屋から名長線、上りは東京経由だったようです。これも車室が狭いことで線内郵便物を優先したということでしょう。
岡吉線について説明不足でしたが、地図では岡崎から南方向で、受渡局は岡崎、福岡、六ツ美、西尾、一色、上横須賀、吉田の順でした。何やら名鉄西尾線に似たルートですが、あちらは安城から本線と分岐しているので、岡崎から東門線と分岐している岡崎吉田線とは違っています。その線区は昭和12年に廃止されており、ほぼ同時に豊橋名古屋線、名古屋岐阜線、名古屋八百津線が開設され、これらは名鉄線と思われますが、10年ほどで廃止されました。どんな郵便車を使っていたのか興味深いです。
ワキ8000の使われ方が思い浮かぶようです。直通荷物をこちらに積んで締切り、扱車で各駅積み降ろしに分離したのは合理的ですが、マニ60グループよりも新しい車両なので廃車がもったいなくて使ったというところでしょうか。
しなの7号
サハユニフ改めサエ9320は、中学生のころに初めて行った中部天竜で見て大変印象に残りました。
飯田線では増結や増発は施設・設備面で不可能だったでしょうから、輸送量は抑えざるを得なかったでしょう。
東海道本線対中央本線(相模湖以西)の各駅相互間の荷物は熱田・身延線・汐留経由のいずれかで、距離を勘案して輸送経路が指定されていたと思われますが、東海道本線の豊橋周辺(幸田~天竜川)各駅と辰野駅相互発着荷物は豊橋中継とありました。
岡崎吉田線の吉田は吉良吉田だったのですね。そうすると省線岡崎から出ていた名鉄旧西尾線で方向違い。そこまでの想像がつきませんでした。
ワキ8000は積極的に進められていた拠点駅間のパレット化・締切化を推進するために、まだパレット化の環境が整っていなかった中央西線にも先行してパレット用ワキが導入されたものと思います。
鉄道郵便車保存会 会長
そうそう、サエ9320でした。単なる救援車と思っていましたがその形から荷物郵便車らしい外観に見えました。これがリニア鉄道館に収蔵されていればよかったのですが惜しいです。
「旧名鉄西尾線」とありましたので調べました。不覚にも、岡崎から西尾まで名鉄があったとは知りませんで…。これが岡吉線に間違いありません。安城からの西尾線すら存続が議論されているそうですね。当地の神鉄粟生線と同じですが、沿線人口、住宅は多くクルマはバンバン走っているのですが…どうにかならないものでしょうか。
中央西線のワキ導入理由はわかりました。最初はバラ積みで、後にパレットで積まれたということですね。スユ44については、積める郵袋数が少なく、1パレットに郵袋15~20個計算で、最大でも500個程度しか積めなくて、護送便の半分以下でした。あくまで、扱い便、護送便に連結して輸送の手助け的な存在と考えています。同様にパレット荷物車はバラ積みマニの手助けになりますが、やはり、マニ60、50と比べると積める個数は少なめではないでしょうか。
しなの7号
サエ9320は実質客車じゃないか…と思ったのですが、伊那電気鉄道の架線電圧が1200Vで他の3社とそろわず、直通する車両は電動車に牽引される付随車だけだったということらしいですね。国鉄が分割民営化されるまえに、国策として民営鉄道が国有化される時代があって、サエ9320はそのころに現地で使用された生き証人ですから惜しいことをしました。
旧名鉄西尾線のように戦時中に廃止された線区ともなると、地元でも知る人は少ないでしょう。私も廃止された旧名鉄西尾線の一部を戦後復活させた「福岡線」跡が東海道本線と交差する地点にあることを知ったときに名鉄廃線跡の書籍を読んでいて、西尾方面に直通していた旧名鉄西尾線のことを知りました。
中央西線のワキ8000は前書いたように、バラ積みは「当分の間」でありましたから、最終的にパレット化されたのかバラ積のまま荷物列車廃止を迎えたのか私は知りません。
パレット荷物車の荷扱はすべて駅対応で、荷扱乗務員との作業上での接点がなかったので、実際に積載できた荷物量がどうだったかは知りませんが、スペック上は一般用マニ36の荷重が14トンとされているのに対して、パレット車スニ40とスユ44の荷重はいずれも17トン(パレット24個)となっています。また、使用されるパレットの形状は他車とは違いますが、マニ37では荷重14トン(パレット17個)となっていますので、理屈の上ではスニ40の積載可能重量は大きくて、効率がよさそうに思えます。しかし、郵便車の場合も荷物車同様にスユ13の荷重が13トンなのですから、荷物や郵袋の大きさが不揃いであるなど、小さなパレットに効率よく積めるとは限らないので、スペック上の荷重は、使用実態とは異なるのかもしれません。
鉄道郵便車保存会 会長
たしか豊橋辰野線の昔話で「オンボロ郵便車を電車が引いて」と聞いたのは、案外サエ(サハユニフ)のことかも知れません。特に郵便車が壊されることが多かった路線で、その原因は土砂崩れと落石です。名古屋鉄郵からも豊橋辰野塩尻中津川回りという循環服務があり、乗務員が土砂に閉じ込められた実話がありますし、国鉄バス高遠線に巨岩が落ちてきたと駅員から聞いたこともあります。数々の防災対策があって、クハユニ56やクモユニ147は被災せずに郵便輸送を全うしたというところでしょうか。
廃線にうるさい知り合いに名鉄西尾線のことを聞くと、岡崎駅から豊橋方向に東側車窓を見ると、鉄道と平行する道路が沈んでJRと交差するようにくぐるのが見えるが、バス専用道路で鉄道の跡だと教えてくれました。それが旧線で、郵便物まで運ばれたとなると、こんど行ったとき絶対見ておきたいですね。
パレット車と従来の荷物車、郵便車の積載トン数を比較するとパレットの方が多いのは盲点でした。郵便車で比較しても、スユ13にあるような乗務員室がスユ44には必要なく、全室が積載室ですから、多く積めて当たり前です。しかし、床から天井まで詰め込める護送車と違って、パレットの床下(車輪)の空間、パレット側柵の高さから天井までの空間を郵袋で埋められないことは、護送車に乗って天井ぴったりまで積み上げた(と言うよりドアから車端に向かって詰め込んだ)者に言わせれば、空間のむだ使いとも言えます。スニ40もパレット24個だったそうで、構造的にはスユ44と同じもので、扉の小さな〒マークでしか見分にくかったですね。(沿線撮影からは) やはり、積める荷物の数量は、バラ積み荷物車よりもいくらか少なかったのではと想像します。積める量が少なくても乗務員が乗らずに駅での出し入れが迅速にできるメリットで存在したと言えなくもありません。
しなの7号
飯田線は自然災害が多かったところですが、脆弱な設備面のほか木造車ということも車両破壊に至る大きな要因だったのでしょうね。あの険しい地形に当時の技術で鉄道が敷かれるには多くの努力と犠牲があったようです。
東海道在来線に乗られる機会は少ないと思いますが、名鉄旧西尾線跡は明らかに鉄道跡とわかるカーブを描いて東海道本線の下をくぐりますので、その気になって見ていればわかると思います。
パレットを人力で積卸し、旅客がいるホーム上を往来させるにはあのサイズ、あの高さがリミットでしょうから、車両積載時の空間に無駄ができるのはやむを得ませんね。どこの駅だったかホーム高さが低く積載時には2人で苦労しながら載せているのを見ましたし、逆にホームに引っ張り出すときなど大変危険だろうなと思いました。パレット輸送の最大のメリットは人件費削減だったと思います。主要駅の小荷物係は乗務員よりかなり早く業託化が進んでいました。
鉄道郵便車保存会 会長
確かに、飯田線被災郵便車は木造とされています。いま秘境駅号が人気ですが、千代、金野などで対岸から撮影すると、天竜川に沿う崖っぷちで、災害がない方が不思議なくらいの線路です。
岡崎旧線跡のバス専用路は4年前に閉鎖されたようです。いかにも廃線としいう舗装道路ですが、これから先はどうなるでしょうか。
パレット積み降ろし、私は駐在では一度もさせてもらったことはありませんが、段差が高い駅ほどやっかいで、特に降ろす方は荷重があるパレットを手前に引くと飛び出てくるから大変危険で、車両から出す瞬間は押しながら引く、というのがコツだったそうです。
しなの7号
国鉄時代の金野駅へは何度か自動車で行ったことがありますが、駅に通じる道路は誰もが駅につながるとは信じないような悪路で、たいへん険しい地形に鉄道が敷設されていることが伝わってきました。その代わり誰もいない山峡に響きわたる発車時のタイフォンと吊掛音は最高でした。
廃線跡は年とともにブツ切り状態になるのでしょう。数年経って再訪すると一変していたということはよくありますね。
パレットを積卸するときに使う渡し板の鉄板をセットするときの金属音が深夜のホームに響いていたのを思い出します。
鉄道郵便車保存会 会長
確かに金野駅周辺はとても静かで、遠くから吊掛音が近づくけれど断続的にトンネルをくぐるたびに音が小さくなり、しかしシャッターチャンスは目の前でトンネルから顔を出す一瞬だったので、とても緊張しました。天竜川の流れもゆったりしていて、また訪れたいです。
パレットの出すサウンドは独特で、扉の開閉と渡り板のセット、パレットの転がる音、固定柵に当たる音は独特でした。動画を撮っていればいい記録になったのですが、機材がなかったので写真記録だけでした。
しなの7号
金野駅付近の撮影スポットはRailguy誌1978年4月号飯田線特集で知り、それから何度か通いました。天竜川沿いの撮影スポットでは、待機中に天竜ライン下りの舟も見られ、乗船客と目が合って手を振る場面もありましたが、乗船客はこんな山中で何をしている奴だろうと思ったことでしょう。
パレット車の荷扱はうるさかったですね。今はスーパーのバックヤードで商品を納入するトラックのパワーゲートを使った車輪付パレットの積卸作業をよく見ることがあるのですが、荷扱作業には隔世の感があり、乗客がいるホームを台車やパレットを牽いてホームを走るターレットがある駅のことなんか、一定の年齢以下の方々には想像もつかないと思います。
はぐれダイバー旅情篇
ところで百済(タ)駅の件ですが、たしかにあの界隈は倉庫に町工場が多くて店がなりたたない(おそらく喫茶店の跡は今のコンビニのある所?)。ガードをくぐって平野区に目を付けた方はエライ、と言いたいとこですが、せっかくなら足を延ばして「大阪市東部卸売市場」の中にある食堂に行ってもよかったのに?と思いました。私も新宮駅辺りの情景のように「朝からいっぱい」とやってる横で町工場、運送会社、そしてJRで働く皆さんが定食を召し上がってます。ま、仕事なのでむつかしかったとは思いますが、更に杭全(はい、あのお店の名前の由来です)まで行けば実に昭和くさい喫茶店が。やはり鉄道の町市場の町に旨いものあり?か。
しなの7号
荷物列車や貨物列車は一般の目には触れにくいものですが、興味を持ってご覧いただきましてありがとうございました。
百済にあった喫茶店跡の特定はちょっと自信がありませんが、その付近ですね。ほかにお店を開拓できなかったのは、前日の百済到着時刻が遅かった関係上、誰もが行動範囲が狭くなってしまったからだと考えられます。物流と市場、いずれも世間一般の勤務形態とは一線を画し、そこで働く人々の食事や遊興の場の営業時間なども一般常識が通用しないものかと思います。
例の喫茶店の屋号はカタカナ書きですが、経営者の名前が由来だと今の今まで思っていました。そう言われてみれば地名が由来で、難読だからカタカナにしたというなら、それもまた納得です。