【492】 思い出の乗務列車43:岡多線の貨物列車と東海道本線1771列車

国鉄岡多線は現在、愛知環状鉄道の一部になっています。愛知環状鉄道は国鉄の特定地方交通線の第三次線に指定された岡多線(岡崎~新豊田)を国鉄分割民営化後にJR東海から経営を引継ぎ、同時に岡多・瀬戸線として建設途上にあった未開業区間の新豊田~高蔵寺間の営業を引き受けた第三セクター鉄道です。

私が国鉄で貨物列車の列車掛をしていたころには、岡多線の岡崎~北野桝塚間が乗務区間に含まれていました。北野桝塚は自動車輸送基地がありましたので、東海道本線から直通の自動車輸送専用列車が何本もありました。拙ブログでも【313】思い出の乗務列車4: 直行貨5850列車・5852列車で、取り上げたことがあります。
こうした専用列車の影に隠れて、北野桝塚行の一般貨物列車が一往復(日曜日運休)だけ設定されていました。
その列車は683・684列車で、いつも短い編成でしたが、機関車は本線用のEF65が使用されていました。
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<<昭和55年3月15日>>
岡多線683列車
(運転区間乗務区間とも岡崎~北野桝塚)

 EF65 110 (稲二)
  ハワム 282196(発駅)倉賀野(着駅)北野桝塚
    ヨ   6119 大スイ    (車票なし)

 現車2 延長現車2.2 換算2.4

ちなみにこの日、折り返しの684列車は、往路に乗務した編成からハワムを切り離しただけで「EF65 110+ヨ6119」という編成でした。EF65にとっては力を持て余すような仕事で、また列車掛のほうも、発車前に形どおりに乗務検査をして、貨車解結通知書を機関士に渡し、無線機の通話テストとブレーキテストをすれば、あとは13分間の短い運転区間の短い編成の列車に、ただ乗っていればよいだけの仕事でした。岡崎・北野枡塚とも、構内入換要員が駅に配置されていましたから、到着後の仕事もなく、まったくの気休め仕事でした。ふだんから、この1往復は短い編成で、運休日の日曜日でなくとも、貨物が往復ともないときは、平日でも運休になることがよくありました。

この列車の乗務後には、もう一往復岡多線の列車に乗務する行路になっていました。
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その行先は北野桝塚の一つ手前の北岡崎で、685列車と686列車の1往復でした。
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<<昭和55年4月10日>>
岡多線685列車
(運転区間乗務区間とも岡崎~北岡崎)

 DE10 1502 (稲一)
  ワラ 10637   (車票なし)
  ワラ 15064   (車票なし)
  ヨ   6623 天リウ(車票なし)

 現車3 延長現車3 換算2.8

この列車も乗務時間は片道10分だけで、一段と短いものでしたが、北岡崎行貨物列車は北岡崎駅の裏手にある某工場のための専用列車なのでした。

下の画像は、愛知環状鉄道に移管後の北岡崎駅です。
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この工場へ出入する主な貨車は、タキ24300というテレフタル酸専用ステンレス製タンク車で、だいたい8両単位で北岡崎と黒崎の間を往復していました。この貨車はステンレス製の銀色タンク体が特徴で、私たちは北岡崎へ行く列車のことを「キタオカの銀タン」と呼んでいました。岡崎~北岡崎間の貨物列車は、午前中(681・692列車)と夕方(685・686列車)の一日2往復が設定されており、午前中の681列車でタキ24300を送り込み、夕方の686列車で、工場からタキ24300が出てくるというケースが多く、それ以外の貨物列車(午前中の折り返し上り682列車と、今回編成をお示しした夕方の683列車)は、場合によっては緩急車1両だけのこともあるほど短編成のことが多い列車でした。

その当時、北岡崎へ入る貨物列車の牽引機は、稲沢機関区のDE10又はDE11でした。機関車は「稲沢~岡崎~北岡崎~岡崎~北岡崎~岡崎~稲沢」の行程で一日を過ごし、岡崎駅の入換も兼務する運用でした。列車掛の方は午前中の北岡崎1往復までは機関車運用と同じで、そのあとは便乗で帰区。そして上に示した行路の者と交代しました。北岡崎行きの貨物列車は、北岡崎到着後、非電化の工場専用線に入線し、工場内まで運転されたため、北野桝塚まで往復する683~684列車のように電気機関車は使用できませんでした。そして私ども列車掛は、北岡崎駅到着後は専用線までそのまま入線し、機関車の解結作業まで従事しました。その作業については来週改めてご紹介します。

折返しの686列車は、たいてい「銀タン」タキ24300が8両程度連結されることが多く、往路の685列車とは異なり貨物列車として恰好がつきました。こうして北岡崎を1往復して岡崎に着くと、機関車は北岡崎から牽いてきた686列車に、岡崎駅発送の貨車をその編成に連結し、進行方向を変えて東海道本線下りの稲沢行貨物列車1771列車になりました。列車掛もそのまま通して稲沢まで乗務する行路になっていて、686列車と1771列車は一つの列車のような形態でした。

この1771列車は、途中の刈谷駅で貨車の連結がありました。この列車には、刈谷連結車とともに、刈谷駅で一日の入換作業を終えて稲沢第一機関区へ帰区するDE10又はDE11を、本務機関車の次位に連結して稲沢まで回送することになっていたので、刈谷から先は形の上では重連になりました。

<<昭和55年4月10日>>

東海道本線1771列車
(運転区間乗務区間とも岡崎~稲沢)

 DE10 1502 (稲一)
 DE11 33  (稲一)刈谷~稲沢間次位回送
 ワム  60929 (発駅)美合(着駅)糸崎
 ワム  61579     猿投    有田
 ワム  61287     猿投   浜小倉
 コキ  25705     刈谷   東広島    
 コキ  28145     刈谷    笹島
 コキ  27263     刈谷    笹島
 コキ  28823     刈谷    笹島
 ハワム284764     刈谷   苅田港
 ハワム184696     刈谷    下関   
 トラ  74822     刈谷  周防富田
オトキ  28685     刈谷   加佐登
 ヨ   18154(分オイ) ―    ―
 タキ  24315    北岡崎    黒崎 
 タキ  24330    北岡崎    黒崎
 タキ  24306    北岡崎    黒崎
 タキ  24347    北岡崎    黒崎
コタキ   6627    北岡崎    塩浜
コタキ   6616    北岡崎    塩浜
 タキ  24302    北岡崎    黒崎
 タキ  24303    北岡崎    黒崎
 タキ  24356    北岡崎    黒崎
 タキ  24359    北岡崎    黒崎
コタキ  52616    北岡崎  安治川口
コタキ  42635    北岡崎  安治川口
ハワム  82479     岡崎    下松
 ワム  71273     岡崎   東福山
コトラ  50609     岡崎    塩尻
ストラ  57466     岡崎    塩尻
ストラ  57323     岡崎    塩尻
 ヨ    8735(門モシ) ―    ―

(岡崎) 現車19 延長現車30  換算34.4 
(刈谷) 現車30 延長現車48.4 換算59.2 

この編成の中程、ヨ18154からコタキ42635までが、北岡崎から来た686列車からの継承車両です。
また、当時は刈谷駅では名鉄三河線と貨物の連絡運輸を行っておりましたので、美合、猿投といった名古屋鉄道の駅発送の貨車も連結されていました。

刈谷駅では、ときどき陶器車「ポム」が連結されることがありました。以前、刈谷駅に勤務しておられたヒデヨシ様から過去記事のへのコメントで、「ワム60000形式の中には、ポムの代用にするため、車内に棚を設けて刈谷駅仮常備とした車両があった」との証言をいただいたことがありました。この編成表の列車前寄りに連結された3両のワム60000は、まさにその車両ではないかと推察されます。こうなると、常備駅・積空別・積荷なども記録しておけばよかったと悔やまれます。
ところで、前述の北岡崎駅の工場専用線は、岡多線開業前には名鉄挙母線の大樹寺駅から連絡していたという歴史があります。その頃まで遡ると、刈谷で連結される名鉄からの貨車の中には、この専用線から発送された大樹寺発の貨物も含まれていたのでしょう。

岡多線の「銀タン」列車は、後にDD51の牽引に代わったあと国鉄分割民営化後も運転され、岡多線がJR東海から愛知環状鉄道に移管後も存続していましたが、現在は廃止されています。

この記事へのコメント

  • NAO

    しなの7号様、お早うございます。
    私が名古屋以東で営業に行っていたのは金山、豊田市、東岡崎、西尾などの名鉄、地下鉄沿線ばかりで、刈谷にしても名鉄三河線で知立から別途往復でしたので、東海道線大府~蒲郡間は153、165系時代の大垣夜行4回と寝台特急2回で私用で通って以来です。
    ですので、東海道沿線のお話しをアップしていただいたときは私にはとても新鮮です。
    2014年06月09日 08:23
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    お取引先が名鉄沿線に多いというのも、名鉄のほうが地方都市の中心部を相互に結んでいて、かつ枝線・連絡線が発達しているということになるのでしょう。国鉄在職中、国鉄は長距離と貨物を、名鉄は地域旅客輸送を、という棲み分けを感じていました。そこに一石を投じたのは、当時名古屋鉄道管理局長であり、後にJR東海初代代表取締役に就任した須田寛氏で、その施策の一つが、昭和57年に実現した中京地区への117系投入であったと言われています。
    2014年06月09日 14:57
  • 北恵那デ2

    こんにちは。この貨物列車は、撮影可能時間ですね。しかし残念ながら撮影はおろか見たことも有りません。私は、多分この昭和55年頃は「鉄」にあまり熱心ではなかったと思います。今になって鉄道模型の方で主にターゲットにしておりますのがちょうどこの時期の車輌です。今考えると、それほどにこの時期は興味深い列車がかなりあった時期だと思っております。それからポム代用のワム60000は、それということを知らない者には全く分からなかった存在でしたね。特に私は、発送地や積荷などわざわざ見たこともありませんでしたから。
    2014年06月09日 18:21
  • C58364

    こんばんわ。
    名鉄の美合駅はこの頃に数回行ったことがあります。新岐阜行きの折返し設備はありましたが、貨車はどこにも見なかったので不思議でした。
    ところがこれを書きながら調べていたら、紡績会社の引込線が駅舎と反対方向に伸びていたことがわかりました。何回も通っているのに、まったく気づかず恥ずかしい限りです。
    昭和40年代はじめには犬山線でも黒い電機がゴロゴロ音をたてて数両の貨車を牽いていました。あちこちの駅に名鉄の社紋を書いた古めかしい貨車が留置されていましたね。
    2014年06月09日 19:06
  • 突放職人

    こんばんわ。いつもアップして頂いている編成例は模型で遊ぶ時など非常に役に立っています。2軸貨車の最盛期の時代は全くわからないからなおさらです。編成を組成するにあたり細かいルールがあまり存在しないのはわかりますがいつも悩んでしまうので情報源として常に活用していますので今後とも宜しく御願いします
    2014年06月09日 19:07
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    そうです。このころは自分も人に誘われれば撮り鉄に行くかなという時期でした。(今でもそうですが(^_^;))
    この列車も、刈谷では夜ですが今の季節だったらなんとかDE10の重連くらい撮ることだってできたはずなのに…と思います。ポム1の写真も皆無です(T_T)
    当たり前にあるものが、当たり前になくなっていくこともSLを見ていた頃から、充分わかっていたはずなのですがねえ。
    今から思うと、このころが、不振と言われながらも全国ネットの鉄道貨物の形がどうにか保てていた最終期で、趣味的にも興味深い時期と言えるかもしれません。
    2014年06月09日 20:26
  • しなの7号

    C58364様 こんばんは。
    名鉄の貨物営業の実態を調べたことがないのですが、この昭和50年代中期でも、乗務範囲では刈谷のほか弥富でも名鉄と貨車の授受を行っていました。名鉄の電気機関車には、いろんなタイプが揃っていて好きでしたが、木造で名鉄の社紋入りのワフもお気に入りで、16番サイズのペーパー車体を自作したことがあります。
    2014年06月09日 20:27
  • しなの7号

    突放職人様 こんばんは。
    模型で参考にしていただき、ありがとうございます。
    模型の世界では、これは何を積んでいて何処へ行く車両で…というような設定をしたいものですね。
    ワム60000がポムの代用をしていた事実を知れば、ポムの隣には代用のワム60000を持ってこようとか(我が家にはワム60000の配置はないですが…)知識がふえれば、その楽しみが倍増します。ワラやハワムといった大型の2軸車が入線できなかった社線が結構あって、1771列車でも刈谷連結車のうち、名鉄からの連絡車には、そういう車種はありませんでした。自分でも今、編成を見て納得しています。Nゲージでは、マイナーなポム1も複数メーカーから製品化されているし、いい時代になったものです。
    2014年06月09日 20:27
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★「銀タン」は覚えています。
    緩急車ストーブの燃料入れ作業をしていたとき、
    独特の編成を覚えています。

    それから、見習いだけでしたが、
    実際に乗務して、入換えも経験しました。
    入換えが終わったあと、
    指導担当の先輩と、
    高架(築堤?)下の喫茶店まで
    出かけた記憶があります。

    この列車の緩急車のストーブは確か、
    岡崎到着後、火は消さなければならなかった、
    運悪く石炭ストーブの時は、
    始発からストーブに点火することを禁止されていた。
    そんな記憶があります。
    専用線内は、「火気厳禁」だった記憶です。
    2014年06月09日 21:16
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様
    キタオカの銀タンは入換を中心に来週詳細をアップしますが、作業終了後の喫茶店は恒例の行事でした。
    そう、工場内は火気厳禁でした。
    2014年06月09日 21:49
  • NAO

    しなの7号様
    ご教示有難うございます。
    私が所帯を持ってからいま住んでいる所は、須田寛氏のご出身地と同一行政区画で、私は鉄道事業には従事しておりませんが、何年か前、講演を聴かせていただく機会があり、しなの7号様の氏の名古屋鉄道管理局ご在勤中のお話しも相まって中京圏にますます感銘を受けております。
    近畿圏の、とある私鉄駅の改名の事情など、興味深い講演でした。
    2014年06月09日 23:50
  • しなの7号

    NAO様 
    須田氏は国鉄本社で長くご活躍されていますが、地方勤務では名古屋とのつながりが強い方でした。それで短い管理局長時代に後まで伝えられる功績を残されていますから、さすがです。これまで趣味誌での執筆をいくつか拝見していますが、読んでいない著書がいくつかあるので、これから少しずつと考えています。
    2014年06月10日 08:54
  • 板ばねバス

    しなの7号様、こんにちわ
    ポム代用車ですか、特に前2両目の61579は有田行き…… 何やら怪しいですね。平凡な貨車も常備駅や運用区間等の特殊な標記が記入されていると魅力が格段にアップしてムラムラしてしまうのは私だけではないはず(笑) 市販のインレタを使って模型で再現したくなります。
    2014年06月10日 11:24
  • しなの7号

    板ばねバス様 こんにちは。
    ヒマにまかせて、このほかの日も含めて刈谷連結車(名鉄中継車を含む)のうちワム60000に限って、記録してあった車番を全部拾ってみましたら13両ありましたが、1両も同じ車番がありませんでした。2回3回と同じ車番があれば、それが刈谷駅仮常備車と考えられるかなと思ったのですが、特定できませんでした。
    これらの発着駅については
    刈谷→富山操・江津
    三河広瀬→西八幡・浜小倉
    美合→糸崎・黒井・小国
    猿投→有田・浜小倉・岩瀬浜
    でした。猿投→有田は、今回アップした編成のほか、もう1度遭遇しており、そのときは「67991」。有田行は定期的にあったのでしょう。
    本物のポムは「刈谷→西広島」(ポム62)を連結していた記録があるだけでしたが、西広島行のワム60000は刈谷発には該当なしでした。この列車に乗務した時だけの記録ですので、あまり参考になりませんけれど…
    2014年06月10日 13:10
  • クモユ141

    しなの7号様
    はじめまして。岡多線の貨物大変興味深く拝見させていただきました。
    この年に私は中岡崎と北岡崎の中間にある小学校に入学し毎日岡多線の貨物を眺める生活が始まりました。
    70系、EH10、DE10銀タンなどは鮮明に覚えておりますが北野桝塚一般貨物の存在ははじめて知りました。
    来週の銀タン入替詳細を楽しみにしております。
    よろしくお願いいたします。
    2014年06月10日 23:58
  • しなの7号

    クモユ141様 ご来訪ありがとうございます。
    地元でご覧いただいてたのですか。当時は列車本数が少ないし、高架上を行く列車は学校からも目立ったでしょうね。
    私の場合は小学校で181系DCしなの号を眺めた記憶があります。
    【114】中央西線を走った車両1:181系気動車(1)
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201012article_9.html
    の中で触れています。よろしければご覧ください。

    私が岡多線に乗務するようになったときはEH10は健在でしたが、70系は113系に代ったあとでした。
    2014年06月11日 09:29
  • 4801 急行ちくま

    いつも興味深く拝見しています。学生の頃、日曜日夕方の上り快速(飯田行併結)で岡崎到着前に下の岡多線をDE10+ヨが走行しているのを何度か見ました。今回の686レがその正体だったのですね。休日は銀タキなし?北野桝塚や北岡崎へのワムの中身(荷)が何なのか気になります。両駅とも特定企業に特化した貨物扱いと思っていたので。。またの機会に紹介いただければと思います。
    2014年06月12日 00:27
  • しなの7号

    4801 急行ちくま様 ご来訪ありがとうございます。
    なるほど、時刻を調べましたら2分前に豊橋行3132Mが走ってますね。この3132Mも後に飯田行の併結がなくなってからですが、乗務したことがあります。117系就役後もこの列車は165系のまま存続していましたね。686列車がタラタラと構内に入ってきますから撮り鉄でしたら邪魔になったことでしょう。

    「キタオカの銀タン」は休日だと連結がなかったりしました。タキ24300以外の貨車の積荷を調べたことはないですが、この記事にお示しした編成のワラ2両については、車票がなく換算両数も1両1.0で計算されていることから、空車とわかります。北岡崎は専用線以外の取扱はなかったと思われますので、工場からの製品または副産物の廃棄に係る輸送に使用するために岡崎駅から回送しているように私は想像します。
    北野桝塚駅の貨物取扱範囲も私は知らないのですが、別の日の編成例を後日公開しながら、考察してみたいと思います。
    2014年06月12日 07:40
  • hicky

    この貨車、銀タンと呼ばれていたんですね。59.2改正まで奈良線の宇治駅まで来ていました。民営化後、夕方5時頃京都駅を西浜松行きのレール積みチキ車や南四日市へ返送されるタンク車と一緒に東上して行くのを何度も見ました。
     阪神大震災で東海道線が長期間不通になった時も福知山線経由で運転され朝方5時頃尼崎駅に停車していたのを見たことがあります。平成10年頃、と思いますが、製造元がテレーフタ酸が製造中止になり、あっけなく廃止されてしまいましたね。着駅が北岡崎であることは初めて知りました。
    2014年06月18日 22:06
  • しなの7号

    hicky様
    私たちの職場では、「キタオカの銀タン」で通っていました。南四日市でも純アルミ「タム8000」など銀色のタンク車が連結されることがありましたが、誰も銀タンとは言わず、銀タンといえば、北岡崎に行く2つの行路を指しました。

    宇治にも運用があったことは初めて知りました。宇治にも北岡崎と同じ性格の専用線があったんですね。阪神淡路大震災時の迂回輸送のこともこの記事を書くにあたり、ネット上で初めて知ったことです。特殊な積荷の輸送だけに、代替輸送の方法がなかったのでしょうか。積荷が粉粒体であったこともこれまで知らず、液体だとばかり思っていました。
    昔を回想しながら、いろんな知識を得たりします。ありがとうございました。
    2014年06月19日 05:38
  • 体重は積車

    ワムの積荷、発駅が倉賀野ってことは、ク5000で使う車のカバーだったのでは!?ク5000の床下のケースが使い辛かったので別に貨車輸送したと本で読んだことがあります。
    2014年06月23日 22:36
  • しなの7号

    体重は積車様
    私の意見と一致です。ほぼ間違いないと思います。昨日の記事があまりにも長くなったため、その倉賀野発のハワムの件を含め、後篇として来週月曜日アップ予定です。
    2014年06月24日 06:49
  • ヒデヨシ

    ご無沙汰しております、そして亀レス失礼します。
    1771列車組成表ありがとうございます。
    そうそう、岡崎からの貨車は必ず銀タンが繋がっていて刈谷駅進入時には前緩が付いていたのは、そういう理由があったのですね、非常に懐かしい思いです。
    それから、刈谷駅の入機であるDEはDE11に限定されていたはずです。
    何しろDE10重連の場合の繋ぎかたを先輩に教えてもらってないですから(笑)
    ただし岡崎車はDE10が時々あったのは確かです。
    刈谷駅から1771レ連結貨車は稲沢駅への回送貨車が多かった印象があります。
    2014年07月15日 20:27
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんばんは。
    ご覧いただきありがとうございました。
    刈谷駅の入機はDE11限定でしたか。列車掛が持っていたこの列車の抜すいカードには、本務機は「DE10又はDE11」と明記されていましたが、ただの回送機である刈谷入機には形式すら記入されていませんので、正式な運用がどうなのかわかりませんでした。たしかにいつもDE11でしたが、何回か記録したなかで昭和55年6月27日だけは、刈谷からの次位回送はDE10 1546(稲一)でした。この日は運用変更があったのかもしれません。ちなみにこの時の本務機はDE11 14(稲一)でしたので、DE10の重連にはなりませんでした。もし、どちらもDE10になった場合でも、次位回送機という位置付けでしたので、ブレーキ管の連結だけで構わないものと考えます。
    編成表を見返すと刈谷連結の貨車は、たぶん交番検査で稲沢貨車区に入る空車だと思われる稲沢行も散見されますが、行先はかなりバラエティに富んでいます。
    2014年07月15日 22:00
  • ヒデヨシ

    刈谷駅仮常備のワム60000はポム引退後
    2両だけ改造されました。
    おそらくは刈谷駅発の観葉植物(植木鉢付)に限定使用されていたと思います。
    室内を撮った画像はありますが、車番が特定できる画像が残っていないのが残念です。
    記憶ではかつての急行便の表記が確認出来たと思います。
    2014年07月22日 19:37
  • しなの7号

    ヒデヨシ様
    新情報ありがとうございました。
    名鉄連絡車は該当しないだろうということですね。私が記録した唯一の例も刈谷発西広島行になっていました。
    積荷が陶器製品そのものでなく鉢植えの観葉植物というのも、現場の方でないとわからないことですね。ご教示ありがとうございました。
    2014年07月22日 21:02
  • ヒデヨシ

    あっ!
    急行便の表記が透けて判別出来たのは間違いです。
    その2両とは関係ありません。
    2014年07月25日 10:18
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 補足ありがとうございました。了解です(^_^)/
    2014年07月26日 06:45
  • しげぞう@

    しなの7号様 こんばんは(^∇^)ちょっとご無沙汰です_(._.)_
    国鉄→JRから第三セクターに引き継がれた後も、貨物列車が継続運転された珍しいパターンですね。赤字転換路線に貨物列車が運用されていた方が珍しいですかね^_^;

    貨物列車の編成表に名鉄の駅名が見られますね。まだまだこの頃には、名鉄も貨物営業をしていた証ですね。
    またこれからも宜しくお願い致します_(._.)_
    2016年02月19日 19:02
  • しなの7号

    しげぞう@様 こんばんは。
    岡多線は、他の多くの赤字ローカル線とちょっと違って、地元の自動車製造会社の製品輸送のために建設されたようなところと、貨物輸送もあった旧名鉄挙母線の代替のような側面があり、それが定期的な定型輸送でしたので貨物も簡単に廃止できなかったという事情があったのでしょうか。
    名鉄だけでなく全国の中小私鉄でも国鉄との間であった貨物の連絡運輸も59.2ダイヤ改正でそれも大幅に縮小されました。
    2016年02月19日 19:57
  • 東武鉄道の貨物輸送研究者

    信濃7号様 こんばんわ 名鉄線内から発送される貨物の品目が特定できました。
    三河広瀬から西八幡 浜小倉は多分 珪石粉末(いわゆるタルク)で製鉄原料の一つだと思います。
    猿投から有田 浜小倉 岩瀬浜は恐らく耐火煉瓦か珪石粉末のどちらかと存じております。
    美合から糸崎 黒井 小国(一部枝下駅発送)は珪石粉末
    三河広瀬は珪石粉末の他珪石 陶土を取り扱っており全て発送のみです(それも隣りの藤岡村からトラックで運ばれております)。猿投は耐火煉瓦や珪石粉末の他珪砂 瓦 耐火粘土の取り扱いもあり 美合は珪砂 珪石の発送のみで全て行き先や貨車の運用が決まっている定型輸送でした。
    又名鉄の貨物輸送で特筆すべき事は三河線は重量制限があるので使用できる貨車が限定しておりました。因みにワム8000やトキ車は入線禁止 他に名鉄常滑線 三河線は東武籍や秩父鉄道籍の貨車が定期的に入線しておりました。水島臨海鉄道 有田鉄道 紀州鉄道でも可能性がありました。
    2019年09月27日 20:45
  • しなの7号

    東武鉄道の貨物輸送研究者様 こんにちは。
    積載物はすべて重量物のようで、短距離ならともかく長距離輸送となると、他の交通機関に比べて速達性を考えなければ鉄道輸送がコスト的に優位だったのだろうと思いました。鉄道輸送が当たり前と思っていたセメントなども大部分が鉄道輸送から撤退して久しい時代になり、今となってはなかなか当時の貨物列車の輸送品目など特定しがたい中、ご教示いただきありがとうございました。
    2019年09月28日 15:31

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