【494】 思い出の乗務列車44:岡多線北岡崎駅の入換列車 685列車~686列車

先週、岡多線の2往復の貨物列車についてご紹介したのですが、そのうちの1往復の終点北岡崎駅では入換作業がありました。
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北岡崎駅は岡崎駅の管理下に置かれており、出改札のために業託会社の社員が配置されているだけでした。貨物の取扱いは専用線がある工場だけに限られていましたので、北岡崎駅には貨物要員の配置はありませんでした。そのため、貨車解結通知書は、往路685列車の始発駅岡崎駅で帰路の686列車の分も合わせて1枚で書かれているのが変わっていました。
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685列車が北岡崎駅に到着後は、管理駅である岡崎駅の運転主任兼助役の指示によって、編成ごと工場内まで列車掛が誘導しました。そのため、岡崎~北岡崎を運転する貨物列車の緩急車には列車掛だけでなく、入換作業要員として岡崎駅の運転主任兼助役と構内係が同乗しました。
国鉄時代の北岡崎駅の旅客ホームは上下線共用の1本だけでした。
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実際には、下り一番線はホームに並行してから左に大きくカーブしていました。
ところで、北岡崎への貨物列車は、国鉄分割民営化後に岡多線が愛知環状鉄道移行した後も、JR貨物のDD51牽引で続けられましたが、現在は廃止されています。

国鉄当時の旅客ホーム部分は単線でしたが、その先の岡崎寄りに、行違い用の複線部分が設けられていて、そこには旅客ホームがないという不思議な配線でした。旅客ホームと、その複線になった部分の間から専用線へ通じる線路が分岐しており、その線が下り1番線と呼ばれる着発線でした。これが北岡崎発着貨物列車のためだけの線路で、現在は本線のほうはホーム部分も複線となり、上下線別々にホームがありますが、この下り1番線はありません。数年前、見に行ったところ、下り1番線はもとより、専用線部分は工場内まですべて線路が外され、複数あった橋梁の橋桁も、撤去されていました。
           (下の画像の赤線部分)
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685列車が、この下り1番線に入って停車した時点で685列車としては終点でした。ここからは構内入換として工場内まで編成ごと移動したあと、機関車を切り離し、工場内の奥に組成してある折り返しの686列車になる貨車にその機関車を連結し、今来た専用線で北岡崎駅の下り1番線に戻ってくるという作業がありました。この間、機関士は信号によって運転をするのではなく、列車掛の誘導によって運転しました。
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685列車が北岡崎に到着してから、専用線での一連の仕事を詳しく書くと以下のようになります。
同乗してきた岡崎駅運転主任兼助役は、列車が北岡崎駅の下り1番線に到着すると、工場への連絡電話で工場担当者へ入換作業を始める旨を伝えます。工場側では、工場の門扉を解放し、工場の直前にある手動式の踏切の遮断機を下ろしておく必要がありました。列車掛の私は、事前に運転主任兼助役氏から受領した2通の入換通告券のうち1通を機関士に交付し、入換内容を通告するのですが、内容は毎回同じで、牽引する車両数が異なるだけでしたので、特別難しいことはありませんでした。この入換通告券も発行者は管理駅である岡崎駅長になっていますが、決して岡崎駅での入換作業に係る通告券ではありません。
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工場側の準備が完了したことを運転主任兼助役が電話確認すると、列車掛の私に「一旦停止までオーライ」と口頭通告がありますので、入換作業を開始しました。機関車の先頭デッキに乗り込んでの作業になります。

入換は手旗ではなく、運転主任兼助役及び機関士との通告と誘導はすべて無線交信により行いました。
(よりリアルに作業の様子をご紹介しようと思っていましたが、無線交信は、現在の鉄道でも基本的に同じ手順や内容で行われています。作業中の交信内容等をここに記すと、電波法の規定に抵触する可能性があるので、公開しません。ご了承ください。)
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工場へ向かう途中の橋桁も今は撤去されています。
上の画像の場所はこの航空写真の中央付近になります。航空写真では左へカーブしていく愛知環状鉄道線から分かれて、さらに急カーブを描いて左にカーブしていく廃線跡が確認できます。

自分の指示で機関車が動くのは、気持がよいものです。もっとも、そういう気になるのは陽気がいいときだけであって、寒い日や雨風の強い日などはたまらない仕事ではあります。
一般に、無線機による入換は手旗による入換と違い、音声で交信相手に意思を伝えますから、必ずしも合図者である列車掛は、機関士から見える位置にいる必要がありません。手を抜こうとすれば、軽微な入換作業の場合でしたら、列車掛は雨の日には機関車に添乗せずに、傘をさして地上に立って、無線機に向かってしゃべっていれば、機関車は模型操縦のように動いてくれます。しかし専用線を往復するこの列車の場合は、常に機関車の先頭に長い距離を添乗するため雨合羽が必携でした。ここで雨合羽を使うと、帰りの1771列車の緩急車内で吊るし干しをして、終点の稲沢までの間に乾かすことになります。
駅から工場までの線路は左へ急カーブしており、直前まで手動踏切の遮断機が閉鎖状態が確認できませんから、機関士は長く汽笛を鳴らし、私は前方確認をしつつ、工場の人が踏切を閉鎖していることを示す白色旗を振っているかどうかを確認します。踏切と交差する道路は、交通量は少なかったですが、国鉄が管理しているわけではなく工場側が管理する踏切でしたから、遮断機が下りていない(交通量が少ないから省略?)ことも過去にあったから気をつけろとも聞いたことがありました。

廃線後に、高架上の北岡崎駅から地平に下りきって踏切があった位置の手前あたりから、北岡崎駅方面を振り返ると、こんな状態になっていました。。画像の奥を横切っている築堤上は愛知環状鉄道の線路です。
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上の画像の同じ位置から反対側を見ますと、工場への入口が目前です。手前には踏切がありました。川にかけられていた橋桁はここでも撤去されていて、橋台だけが残っています。
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工場手前に一旦停止の標識があり、そこで一旦停止の指示を出します。

工場内には線路が3本に分かれていました。そのうち専用1番線は到着線。中央の専用2番線は奥の方が発送車両の留置線で、その手前の方が機回り線として機能していました。専用3番線にはいつも貨車が留置されていました。

運転主任兼助役氏が専用1番線への進路を構成し、専用1番線へ編成を持ち込むと機関車だけを切り離します。同乗してきた岡崎駅の構内係が、機関車と最前車両の連結部に向かい、空気ホースの肘コックを閉鎖してホースを切り離し、連結器の開錠をします。
次は、専用2番線の奥に折り返し686列車で発送するため組成されている貨車に、単機で機関車を連結します。連結すると、構内係は切離し作業とは逆の手順で機関車の空気ホースを貨車に連結し、肘コックを開けます。ここからは折返し686列車の入換作業となりますので、機関士は反対側の運転席に移動します。機関車からは、連結した貨車にブレーキ用の空気が定圧の5㎏/㎝になるまで送られますので機関車のコンプレッサ作動音がします。その間に列車掛は乗務検査をしながら貨車の最後尾まで向かいます。最後尾までいったところで、緩急車の圧力計で空気管の圧力が5㎏/㎝になっていることを確認したのち、機関士と協同してブレーキテストを行いました。

ブレーキの状態に異常がないと、今度は列車の反対側を検査しながら機関車のところまで歩いて行き、北岡崎駅の現下り旅客ホームの裏手にあった停止目標まで、移動すると入換作業は終了でした。
このあと、作業に携わった運転主任兼助役・機関士・列車掛・構内係は、必ず駅近くの喫茶店へいく習わしでした。そんなにゆっくりできる時間はないのですが、必ず運転主任兼助役が誘い、もちろん勘定も運転主任兼助役持ちと決まっていたようで、常にご馳走になっていました。
夕方なので緩急車の尾灯を点灯させて、発車時刻になったところで、出発反応標識(出発信号機が車掌から見えない場所に設けて、出発信号機が停止現示以外であれば点灯する標識灯)が点灯していることを確認して、
機関士に発車合図を送り、機関士が汽笛で応答。これでまた3人で緩急車に10分乗っていれば岡崎に着きました。

この記事へのコメント

  • NAO

    しなの7号様 お早うございます。
    キタオカの銀タン、(新宮の)おじいンとこ、(日通職員さんの)よこばいや~、クイチ.....。
    こんな部内用語を見て私が面白がるのも、苦労を積み重ねて勤務された方々からすれば笑止千万だと思いますが、知らない業界用語?を読んでは心のなかで笑ってしまうのです。申し訳ありません。
    ちなみに先週、大垣夜行のことを一寸だけコメントさせていただきましたが、キタオカの銀タンを含む行路表、さりげなく?写真にアップされていましたが、勤務明け?の朝方の便乗?の電車、ひょっとしたら大垣夜行ではないですか? 前夜に帰区出来ず、便乗のために滞泊を余議なくされた行路のような。鉄道業の宿命ですかね。
    2014年06月16日 08:06
  • しなの7号

    NAO様 おはようございます。
    特定の職場でしか通用しない部内用語は、自分にとっては懐かしいですが、こうしてまったくその職場と関係のない方が気に留めてくださることがうれしく思います。
    行路表も細部までご覧いただきありがとうございます。そのとおり、この行路の最後の便乗列車には、大垣夜行が指定されていました。ところが都合のいいことに、笹島到着の6分後に稲沢停車の始発貨物列車がありましたので、これに便乗すれば、大垣夜行を利用することはありませんでした。こうすることで1時には就寝でき、早起きすることなく思う存分寝ることができました。
    2014年06月16日 09:13
  • 突放職人

    こんにちは。雨の日の入換は辛いですよね。私は夏の雨が嫌いでした。雨合羽を着ると蒸し風呂に入っているみたいで。でも着ないと濡れるし。ところでこの入換では緩急車も専用線に持ち込んでいたのですか?となると行きと帰りで別の緩急車に乗っていたのですか?緩急車の位置を変える入換とか番線の少ない専用線では面倒くさそうなイメージが
    2014年06月16日 15:57
  • しなの7号

    突放職人様 こんにちは。
    列車掛をやっていたのは1年半足らずの間だけでしたが、雨の日の入換が一番嫌でした。合羽を持ち歩くのが嫌な人は、この行路の場合は岡崎駅で借りるという裏技を使ったようです。

    北岡崎往復の貨物列車は、常に工場内に緩急車を残す運用?でしたので、往路と復路では必ず別の緩急車になりました。工場内には入換動車があって、専用2番の奥に帰りの編成が組成済でしたので、面倒な作業はありませんでした。
    2014年06月16日 16:27
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★北岡崎の入換えは、
    「ギンタン」で経験したのですが、
    (見習いですが)
    風景はあんまり覚えていません。
    そのあと、旅客列車に乗務したことがあるので、
    ホームと別のところに
    行き違い設備があったこと、
    特殊な設備だったことはよく覚えています。
    ただ、貨物列車の到着線、
    下り1番線が、そこだったことは、
    全然、思い出せません。
    ま、見習いで1回、行っただけですが。

    それから、岡崎駅の人たちが乗り込んできた記憶も、
    実は、ないですね。忘れたのかな。

    雨の入換え、イヤですよね。
    駅の構内係の時に、何度も経験しましたが、
    合羽のせいで?動きにくく、それがイヤなので
    少々の雨なら、濡れて作業に従事してました。
    あるいは、上着だけ羽織って。
    2014年06月16日 20:49
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様 
    下り1番線は銀タンが8両もあると出発信号機が見えませんので、出発反応標識がありました。
    ホームと下り1番線は並行していましたが、ホームには片持ち屋根があり、下り1番線側が壁になっていて、ホームから下り1番線はよく見えませんでしたから、旅客列車乗務の時には、その存在を気にしたことがありません。
    駅の構内係が辛くて乗務員になった人は、多かったと思います。
    2014年06月16日 21:32
  • 4801急行ちくま

    しなの7号様
    北岡崎の入換について詳細な解説ありがとうございました。
    列車がそのまま工場まで入線していたのですね。
    自分は北岡崎駅手前の複線部分がちょっと気になっており、ここが着発+機回し線で工場からスイッチャーが貨車を引き取りに来るのだと思っていました。(引込線に出発信号あること気づかず)
    予想は外れましたが、二度とわかるはずのなかった答えがわかったことで妙にすっきり感あり。
    またこのようなお話楽しみにしております。
    2014年06月17日 00:01
  • 北恵那デ2

    おはようございます。車扱い貨物列車・工場専用線などもほとんど見られなくなってきました。かつてはこういった作業があちらこちらで行われていたという事実すら忘れ去られようとしてます。それにしても北岡崎駅のこの配線は珍しいものですね。割と規格化されていた国鉄駅の構内配線とは異なったものですが、敷地の関係か何かの理由があったのでしょう。また電化路線であるにも関わらずDE10の運用であったのは、ほかにも近隣に例があるように専用線が電化されていなかったということでしょうか。文化遺産的(笑)記事を楽しませていただきました。ありがとうございました。
    2014年06月17日 06:21
  • その近所

    あの工場の専用線は、岡多線になる前は、名鉄大樹寺からの専用線でした。到着線が3番線だったと思います。懐かしい話題をありがとうございます。
    2014年06月17日 12:48
  • しなの7号

    4801急行ちくま様
    北岡崎の貨物列車には、それほど存在感があったとは思えません。もちろん今なら入換作業のためだけに撮影に訪れる方もありましょうが、当時は何処でも見られる日常の姿でありました。今は廃線跡になってしまいましたが、ここでこんな作業が毎日行われたことを偲んでいただければと思います。
    銀タン以外の北岡崎発有蓋貨車にはワムワラとワキ5000がありました。これら有蓋車の行先は鍋島・西唐津といったところが記録にあったことを付け加えておきます。銀タンとは別に、黒いタンク車が安治川口・塩浜から来ていました。
    2014年06月17日 16:41
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんにちは。
    専用線内の配線に着目なさるところは、さすがですね。狭い工場内で取り回しよくするため、両渡りを用いてうまく配置してあると思いました。模型でセクションを作って入換遊びも面白いかもしれません。
    専用線内が電化されてなくELの使用は不可な列車ですが、先週の「【492】思い出の乗務列車41:岡多線の貨物列車と東海道本線1771列車 」で触れていますが、この686列車は、その先稲沢まで行く1771列車(対になる列車は1764レ~681レ)と一体と考えるべきで、岡崎駅入換機であるDE10or11使用というのが自然の流れとも言えそうです。
    2014年06月17日 16:41
  • しなの7号

    その近所様
    名鉄大樹寺から接続されていたころのことを私は存じませんが、門扉のところからまっすぐ線路が敷かれていたと想像します。でも遺構はあまりなさそうですね。
    2014年06月17日 16:43

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