先日、旧棺桶レイアウト跡地にスチール棚の一段を利用した模型展示スペースを造ったことをお伝えしたところですが、ここに手持ちの編成モノを並べてみました。
これからは、無秩序に車両群を並べるのではなく、何かひとつのテーマを持った展示にしたいと思います。そこで、完成第1回目のテーマは
「国鉄時代に東海道本線を走った列車」
としました。
それでは、「国鉄時代に東海道本線を走った列車 第三回目」は、この中から機関車牽引時代の寝台特急と貨物特急を…
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EF58牽引寝台客車20系「あさかぜ」・EH10牽引コンテナ特急「たから」
時代は昭和30年代ですが、これらの列車のデビュー時、私はまだ幼い時期でしたから「絵本の世界」の列車でしかありませんでした。もし東海道本線沿線に住んでいたとしても、寝台列車も貨物列車も走行時間帯が深夜中心ですから、その姿を見ることは難しかったと思われる両列車です。
こちらの20系「あさかぜ」の模型は、初期形です。ブルトレ色のEF58が牽引します。足回りがグレーになっていまして、後年、幾度となく見た20系とは違って見える、最も輝いていた時代のモデルです。電源車から給電する編成単位での運用を前提に組成され、冷暖房完備固定窓エアサス装備と、これまでの客車のイメージは払拭された新時代の鉄道車両でした。下は1人個室と2人個室の合造車ナロネ20です。20系客車の中でも最上級の寝台車でした。もちろん乗る機会などなく、初めて名古屋駅でその実物を外から眺めたのも高校生になってからのことで、機関車はEF65Pが牽引していた時期でした。
国鉄に就職し専務車掌になったときに、20系寝台客車は団体用として残存していて、「20系のドアは車掌室から一斉施錠・開錠できるけど、自動ドアじゃないから気を付けるんだぞ。自分で閉めてやらないと開けっ放しになるから」と言われていた20系に乗務する機会は一度もありませんでした。中央西線に20系が入線した折に、先輩が乗務中だった回送列車が停車している間に車内を見せていただいたことが1度だけありました。一夜を過ごした乗客が下車したあとの閉め切った空間の寝台車独特の匂いと、写真で何度も見た寝台車のカイコ棚のような構造を覚えています。カメラを持っていたので外観だけ写したものの、室内の写真は1枚も撮っておらず惜しいことをしましたが、今でも鉄道博物館のナハネフ22の窓越しにその室内を見ることは可能です。
一方、地味ながらも、EH10牽引の特急「たから」は貨物列車の特急で、今日のコンテナ直行輸送の始まりとも言うべき列車でした。貨物列車に愛称名を付け、テールマークまで取り付けるという破格の待遇の貨車でした。このデビュー時の淡緑色は、のちに明るい黄緑色に変更されました。後年、列車掛になってからは、この列車の血筋を引いた汐留~梅田間のコキ50000系高速貨物列車に乗務することになりますが、そのときの緩急車はコキフ50000でした、コンテナグリーンのヨ5000は一般のヨ同様に全国の貨物列車で使用されるようになり、車体も黒色に変更されつつあった時期でした。唯一、列車掛見習中に、コンテナグリーンのヨ5091に乗務したことがありました。以後本務で乗務したヨ5000のうち「たから」用だった車両にも乗務の機会はあったものの一般のヨと変わらない黒い外観になってしまっていました。しかし、デッキ部分にヘッドマーク取付ステーがそのまま残っているヨ5000に乗務したことがありました。行灯式のため、デッキ部分の電気配線もそのまま残っていて、かつての栄光を伝えてくれたことがありましたが、車両番号を控えていません。
この列車を牽いた機関車EH10も、EF58ともども東海道本線の代表機関車でした。二車体連結で、黒色の個性ある大型機関車です。
EF58は荷物列車で、EH10は貨物列車で、それぞれ乗務列車の牽引機として何度もお世話になり、両機とも停車中に運転室内に乗せていただいたことがありました。
直接関係ない話ですが、昨年「貨車車票の歴史(戦後編)」という著書の表紙に、私が撮影したコンテナグリーンのヨ5000が連結された写真と、本文中にEH10が牽く貨物列車ほかの写真を採用していただきました。以下の記事をご参照ください。
【365】 貨車車票
こちらの書籍は貨物鉄道博物館で購入できます。
この記事へのコメント
NAO
20系は大阪から大社まで急行「だいせん」で乗り通したのが最初で最後です。永年の運用で車体自体は老朽化していたかも知れませんが、そこは名車の20系、私にはまだまだ新鮮な鯛に見えました。 朝方に展望室へ行ったり、A寝台流れのナハ21に座ったり。大社線に入ったときは、なんだか年季の入った外車で農道を走るような感じでした。
EH10はと言うといちばん印象に残っているのは、小学校5年の夏休み、父の慰安旅行の帰りに冷房付き153系快速で岡山に着き、途中下車しようと車外に出たら、新幹線高架下反対側ホームを貨物を牽いて轟音を反響させながらゆっくりと通過してゆき、みんな耳を塞いでいました。2車体分の機械が詰まっているので無理もないのですが。
そのあと初めて新幹線に乗せてもらった日のことなので、よく覚えています。
なはっ子
C58364
20系客車は近代的な車両なので、電車と同じ自動ドアとばかり思っていました。ドアを手で閉めれば施錠だけできるという開発コンセプトがよくわかりません(笑)。ドアを開閉するためにも各客車内に車掌補さんが必要だったのですね。
「たから」は知りませんが、昔々に購入した33回転のドーナツ盤レコード「奥中山の3重連」に「51列車きたたから」が収録されています。同列車は本州と北海道を結ぶ最速の特急貨物列車で、この区間の三重連列車の牽引定数は1000t牽引が原則のところ、速度向上のため800tで運転されていたとあります。急勾配が続くため三重連でも30km/hしか出ていなかったようでもあります。車掌車の色は書かれていません。
★乗り物酔いした元車掌
東海道スジのいとこの家に遊びに行くと、
普通に止まっていて、
大きな機関車だなって思ってました。
しなの7号
おっしゃるように、20系になって知名度が上がった特急と言えますね。
20系の急行格下げ列車には興味を惹かれました。乗務先の長野では、駅裏の乗務員宿泊所への職員通路の近くに、12系と繋がれた20系ちくま編成が留置されているのを見るばかりで、20系客車を利用する機会は一度もありませんでした。
小学5年生まで非電化区間で過ごした私は、電気機関車には縁がなかったのでEH10を見た確かな記憶は中学生時代以降になってしまいます。しかし16番模型のEH10のショーティ版EB10は小学生時代から家にありましたので、その存在はよく知っていました。
しなの7号
その乗車ルポ、ぜひ拝見したいですね。私は、ええ年こいて意味わからんことを書いてて以前の記事を見返すにつけ、恥ずかしいことこの上ないと思うことが多々あります。旅先での車掌氏とのやりとりは、ほんとうに思い出に残るものですね。私も旅先での車掌氏とのやりとりの思い出はいくつか残っています。
しなの7号
20系は固定編成で、すでに電車では自動ドアが普及していたわけですから、おっしゃるようになぜ自動ドアにならなかったのか、わかりませんね。私自身の考え方としてはC58364様と同じになりますが、20系では、各車に給仕室が設けられていることから推定すると、開発時点では各車に列車給仕が乗務していることを前提としての設計なのだと思われます。ドア開閉とともに車内へ多くの荷物を携えた乗客のお迎えとホームへのお送りは彼らの仕事だったでしょうから自動化は必要がないと考えたのかもしれません。それどころか、無線もない時代に完全自動化することは、給仕が短い停車時間にホームで乗客のタバコを買いに走って飛び乗るとか、電報のやりとりなど駅員との連携を取るにあたっては、むしろ作業に支障をきたすことになったのではないでしょうか。昭和30年代の実態を私は知らないので、まったくの推測で申し訳ありません。
しなの7号
EH10は、引退後多治見機関区に何両か留置されていて、東海道の機関車という感覚でいた自分には不自然極まりない風景に映りましたが、壮観でもありました。ただ、あいにく写真を1枚も撮っていません(T_T)
鉄子おばさん
しなの7号
それぞれの世代や住んでいた地域によって、鉄道へ寄せる想いの対象が変わるものですが、私の場合は絵本にあった20系客車への想いが強いです。乗るとしたら14系以降の寝台客車に比べれば20系の居住性はよくないのでしょうが、特急としての格はどの新型客車にも劣らないと思っています。
ウィキペディアの「あさかぜ(列車)」をご覧いただくと旧形客車時代の使用形式が書いてありますよ。
NAO
子供の頃、私は16番ED58を持っておりました。ただどう思い出しても、あのメーカーさんからは当時は本家EH10とEF58は販売されていなかったような。
小遣いをはたいて買ったカニ21をED58に連結したら、ディテールがあまりにも違い過ぎてビックリ、大人の模型は全然違うなあ、と思いました。
TOKYO WEST
初めて乗った寝台車が特急瀬戸のナロネ21でしたが、その後現在まで乗った寝台車のなかで、20系客車が最も静粛性に優れていことは間違いないと思います。
20系のドアに関しては、当時の客車が手動ドアばかりであり、各車両に列車給仕が乗務していた”1車1”の時代というのも背景にあったのかもしれませんね。元大阪車掌区の坂本衛氏の著書でも触れられておりますが、晩年の「だいせん」では快速運転の区間は停車駅も多く、車掌長、専務車掌のみで駅ごとにドアを閉めてまわるのは相当な負担だったようです。
しなの7号
しなの7号
ナロネ21の静粛性、一度体験してみたかったものです。坂本衛氏の著書は私も拝読しています。末期はさすがにボロ客車で、扱いも大変だったようですね。乗客も自動ドアに慣れてしまっていると、当然勝手に開閉してくれるものという先入観がありますから、自動で開かないドアで降り損ねたり乗り損ねたりということはなかったのでしょうか。オバカな私はつい先日松本駅でJR東海313系1300番台に乗るときに、開かないドアの前で後の方から「ボタン押して」と声をかけられてしまいました(*_*) 私は同車両にはいつも自動ドア区間で利用しているだけに、そういった先入観があって、これは油断でありました。
北恵那デ2
しなの7号
Nゲージをもってしても、1畳の棺桶レイアウトでは長編成は恰好がつきませんが、牽引力は平坦であれば問題なし。内周に急勾配がありますが、内外周の電気系統を分離できるようにしていますので、長編成の場合は外周のみの限定となります。16番しかできないことも多々ありますし、その辺はそれぞれのゲージの特徴を重視しての棲み分けという考えでよいと思います。価格以外の点で、スペース的な制限から16番には手を出すことはできない身です(+o+)
鉄子おばさん
しなの7号
昔は専門書や百科事典をズラッと並べる必要があったのに、便利な世の中になったものです。でも苦労して覚えたことは身に着いて長く役に立つものですよね。