先日、旧棺桶レイアウト跡地にスチール棚の一段を利用した模型展示スペースを造ったことをお伝えしたところですが、ここに手持ちの編成モノを並べてみました。
これからは、無秩序に車両群を並べるのではなく、何かひとつのテーマを持った展示にしたいと思います。そこで、完成第1回目のテーマは
「国鉄時代に東海道本線を走った列車」
としました。
それでは、「国鉄時代に東海道本線を走った列車 第五回目」は、これまで紹介した残り…といってよくなければ、昭和50年代以降の国鉄凋落期(=私の国鉄在職期間)も活躍していた普段着の東海道本線の列車群を…
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117系電車・荷物電車付111系電車・EF60一般貨物列車
空気のようにいつでも見られたこれらの列車も、今ではその数を減らしていたり、すでに過去のものになっていたりします。
80系電車は準急用としても使用され、急行用153系に発展しました。近郊輸送用としては70系の発展形111系に分流する形で引き継がれました。153系と東海道用の111系は湘南色を継承し、70系から継承された横須賀色とともに、長く国鉄時代の直流電車の装いとして定着しました。一部の電車列車は荷物郵便輸送のクモユニやクモユ、クモニを併結していました。3ドアが国鉄の普通列車の標準になって、2ドアが当たり前の客車列車に代わってゆき、111系は113系に発展し、それが全国に広まっていきました。
そんな近郊形の常識を破ることになったのが117系でした。2ドアで転換クロスシートという同時期に製造されている新特急形185系と比較しても遜色がない装備の近郊形でした。これも首都圏の方々に言わせれば、東海道筋の代表ではないだろうと言われそうですが、個人的に新製時から乗務していちばん身近な快速列車用ということで、今回特別出場です。中京圏に新車投入されたときは驚きましたが、これは国鉄当時117系導入前に名古屋鉄道管理局長を勤めておられ、のちにJR東海初代代表取締役の席に就かれた須田寛氏の置き土産とも言われました。並行する名鉄と勝負にならないほどの惨状だった中京地区の東海道本線への最初のテコ入れであることを感じ取るのでした。
普段着の電気機関車といえばEF60かと思います。これはEF65に発展していくわけですが、大柄のEH10に代わる新性能機として、電気機関車としては比較的地味な気はしますが一時期は500番台機が寝台特急の先頭に立ったこともありました。ここでは地味な黒貨車群を牽かせてみました。
新幹線に長距離客が移った後は、フレートライナーと呼ばれた高速貨物列車が、普通列車を追い越していくことが当たり前に行われ、貨物優先のような東海道本線でしたが、黒貨車群を従えた長編成の貨物列車の本数も多く、東海道本線は物流の大動脈でありました。形態は変わりつつありますが、その役割は今も変わることはありません。
※企画展「国鉄時代に東海道本線を走った列車」は今回をもって終了となります。多くのご愛読ありがとうございました。部屋での展示期間が2ヵ月近く経ちましたので、新しいテーマでの企画展を考えています。
この記事へのコメント
C58364
80系や153系の青や緑色のボックス席に見慣れた私にとって、明るい色の転換シートを装備した117系の登場には衝撃を受けました。特急かと思うくらいの貫禄がありましたね。
名鉄7000系パノラマカーも117系と同じ転換シート・空気バネ台車でしたが、線形の良い東海道本線をパノラマカーよりも一回り大きな車体で、高速で走る117系の乗り心地には敵いませんでした。117系はいつも混んでいて、座れたのは登場してかなり経ってからでした。須田寛氏の狙いが的中したようですね。
なはっ子
鉄子おばさん
しなの7号
まだ急行列車が多く残り、その座席は4人掛けが当たり前だった時代、ほぼ同時期に広島地区の153系置換え用115系3000番台とともに、2ドア&2人掛けを採用した117系は他の在来近郊形より格上で、名鉄パノラマカーを意識していたことは明らかでしたね。
座席の色はこげ茶色で、壁面の内装材も模様入りとなっていて、国鉄らしからぬ雰囲気が漂っていました。ちゃんと経費節減については考えてあって、それまでの153系快速8両編成は117系化で6両編成に短縮されました。その結果として着席チャンスは下がったとも言えます。
しなの7号
職場や乗務員宿泊所の談話室には、そのような書籍や新聞が閲覧できるようになっていたところもあったのですが、私は在職中も含め「国有鉄道」を読んだことはたぶんないですね(^_^;)
交通新聞にはいつも目を通していましたが、その類の新聞さえ読む人は当然ですが稀でした。
一般の駆け出し車掌と鉄道管理局長とは、接点は何一つありません。
しなの7号
117系に限りませんが、国鉄オリジナル色には気品がありますね。スタイリスト117系には、単色化時にせめて正面に何かアクセントをつけてあげれば少しは恰好も付いただろうにと思います。中京地区では乗る機会がほとんどなくなった国鉄型電車ですが、たまには西日本エリアで国鉄車両乗り鉄旅というのもわるくないですね。
中央西線
しなの7号
★乗り物酔いした元車掌
乗務員室の冷房も程良く効くし、
冬は暖かいし、
なにより、
客室との間は「カベ」良かったです。
乗務員室を、のぞき込まれませんので。
田舎から転勤した者にとっては、
「さすが、本線」と思ったモノです。
ただ、4両編成化されたときに登場した
「クハ」でその「カベ」は無くなりました。
クハ117-100、クハ116-200でしたっけ。
それから、
本来6両で性能を発揮できるように作られたため、
4両にしたときに、特にその加速の悪さは、
運転士さんに不評でした。
オリジナル色が大好きで、
白い車体にオレンジ、似合わないなぁ、
そう、感じてました。
さらには、車掌スイッチ、
当初は「カギ」がいらなかったのですが、
改造ですべて、「カギ」が必要になったのも、
いただけませんでしたなぁ。
NAO
私が高校生ぐらいまでは地元関西地区113系のサロが健在で、これが付いているのといないのとでは、時刻表上まで別形式に見えました。関西以外で流れているのかわかりませんが、大阪の持ち帰り中華のCMで、(その商品が家に)有るとき!(出演者家族みんなで大笑い)、無いとき~(全員意気消沈)というのがあるのですが、当時の私には113系はBグの有無でこれぐらいに心境が変わる見方でした。下らないお話しですみません(You Tube検索で、あるときないときで出て来ました)。
東海道関西地区117系新快速は、確か国鉄最後のダイヤ改正で、従来、内側緩行線を快速や各駅停車とひしめき合いながら走っていたのが、それまで本社管轄だった外側列車線を走るようになり、一気に貫禄が出たように思います。、殆ど乗ることのなかった外側線、特に山科付近の丘陵下や西大路駅前後の新幹線高架下シェルターを、急行料金を払うことなく通り抜けたときは本当に嬉しかったです。
EF60は、実車を見た記憶が殆どなく、私にはさっぱりです。
しなの7号
居住性が格段によい広い乗務員室と、新車で故障のない117系は最高でした。4両化されてからは、それほど乗務することがありませんでしたが、これで中央西線に入れるのが新鮮でした。東海色は正面の窓回りの黒に違和感を持ちました。
しなの7号
中京地区の者にとっても、首都圏・近畿圏でBグ付の113系を見るだけで別物に見えましたね。ただいまYouTubeでCM見ましたが、テレビっ子でないので、これは知りませんでした。
自分の場合、乗務では荷物列車・貨物列車とも外側線運転だったので、内側線に乗務する機会は稀で、貨物列車で深夜の工事日に変更されることがあった程度です。ですから西大路前後が下り外側線だけ新幹線高架橋下であることを意識したことがなくて、ワコールの看板のほうに気を取られていました(^_^;)
EH10とEF65に挟まれた貨物機EF60の印象は薄いと思いますが、乗務でも時々ですがお世話になった機関車でした。
4801 急行ちくま
117系の登場は私たち田舎の学生にも斬新なものでした。
木目調の室内デザインもそうですが、特に枕カバーがついたこと、そこに広告(三谷温泉のひがきホテルだったか?)まで入っていました。
あの時代の国鉄でよくここまで・・と今でも思います。
晩年は普通列車での使用が多く、中間駅が追加された中、フルノッチで加速しても最高速度に達する前にブレーキ操作のようなかわいそうな使われ方でした。
今でも湖西線では高速運転が楽しめるので、大阪方面出張の際に、ちょっと寄り道で楽しんでいます。
サンダーバード46号
京阪神圏に117系が投入された時は、国鉄は変わってきたと子供心にも感じたものでした。京都の大学に進学した時、大阪から京都まで117系の新快速で通学できると喜んでいたら、親から阪急が通学定期が安いからと注文がつき、時々帰宅時に京都駅できっぷを購入して117系新快速に乗車したものでした。分割民営化後、新快速の運転時間帯が夜遅くまで拡大された結果、乗客が増えたのはいいが2枚扉という構造で乗降に時間がかかって遅延を慢性的に抱えるようになったために、ほどなく3枚扉の221系に置き換えられ、新快速としての本格的な活躍は10年強で終了したのは残念でした。
余談ですが、国鉄末期に新快速が彦根まで運転区間が拡大されましたが、なぜ米原まで乗り入れないのか不思議でした。
当時は米原駅は名鉄局の管轄でしたが、名鉄局が業務輻輳を理由に乗り入れを拒否したとか、米原まで走らせるには車両数が足りないので止むをえず彦根折り返しになったとか、当時はいろんな噂が囁かれてました。
北恵那デ2
しなの7号
背もたれの広告(ボール紙)入りベージュ色ビニールカバーも私鉄電車を思わせましたね。関西急行色そのままで中京地区へ導入というのが、当時の国鉄らしさと言えますが、正面には快速用に絵入り字幕が用意され「東海ライナー」を名乗りました、中京圏では特急以外で側面字幕を常時使用した最初の車両でもありました。
JR東海車は、晩年いつも日中の熱田駅に留置されていたのが思い出されますが、それも過去のことになってしまいましたので、117系の走りを味わうため西日本エリアに行きたくなります。
しなの7号
私も模型が単品売りが主流のころは、主な形式の先頭車だけ購入して飾ったりしていましたが、セット売りが主流になったのでそれができなくなり、散財する結果になりました(+o+)
運賃が高くても不便でも、国鉄の新型に乗りたいという心理は、一般にはなかなか理解されないところでもありますね。
京阪神の新快速は大鉄局域の列車でしたから、名鉄局管内だった米原へ食い込ませることは、他社に乗り入れるのと同じくらいの困難があったのではないでしょうか。
しなの7号
ありがとうございます。このあたりが自分でもいちばん身近な国鉄東海道本線の姿ですが、117系だけが突出してしまったような?
ホントは「銀河」「東海」「比叡」「ひので」…いくらでも後世に名を残す名列車はありますが、主に手持ちの模型の車種により…加えてスペースにより、この程度の結果になりました。ご意見を参考に、スチール棚の企画展は次のテーマで、いずれ公開の予定です。
中央西線様のコメントでは、言外に「FC列車はもちろんのこと」という前置きがあるものと私は解釈しています。したがってPC列車のほかFC列車も牽引していたということでよいかと思います。じゃあ私が自分でFC牽引の記録がしてあるのかと言われるとそういうわけでもないので、資料の助けを借りますと…
1967年4月1日現在の稲沢第二のEF60 配置両数26両
使用線区と用途
汐留~岡山操(貨)
岡山操~宇野(貨)
名古屋~多治見(客・貨)
とされていました。
(出典:誠文堂新光社刊 '67国鉄新車ガイドブック)
北恵那デ2
北恵那デ2
しなの7号
追伸・訂正承知しました。
'67国鉄新車ガイドブックですが、ご承知のようにEF60はそのときの新車だったわけでもありませんから本文での掲載はありません。巻末にあった「機関車配置・運転区間表」からの転載になります。そのためクイル式の1次車と2次車以降との区分がされていないのが欠点です。しかしよくある配置表の類には見かけない用途の区分があるところがありがたい資料です。
次の企画展は偏ったものになる予定です???
ヒデヨシ
荷電付いていましたね
刈谷駅勤務時代は小荷物扱は扱量も多かったので運輸掛(駅務)として荷物列車の荷扱い補助や最後尾の荷電から鉄道公報を受け取るくらいしか繋がりがなかったですね。
国鉄勤務最後のあたりで共和駅の運転掛(信号・列車扱)していましたが深夜の新聞列車(クモニ2両)が既に共和駅での扱いが無くなっていたにもかかわらず運転停車していました。
停車位置指示のため合図灯を振るのが何だかなぁと思ってました。
しなの7号
荷電へのコメントありがとうございます。
荷電が併結されている電車に乗務すると、夏場は舞阪で「うなぎ」の積込が多くて、よく遅れました。
刈谷では、刈谷着荷物のほか貨物同様名鉄三河線への中継荷物も扱いましたが、荷物はそのうちにトラック便に移行し、荷物列車のほうは通過になったり郵便のみの扱いになったと記憶します。荷電の新聞輸送も国鉄末期には似たような経過をたどっていったのでしょう。荷扱がなくても意味のない停車と意味のない?お仕事ご苦労様でした。
kayo
ご無沙汰していて申し訳ございません。
マロンの話に花が咲いていてうれしく思いました。
シロたちは相変わらずですがいつも応援していたいと思います。
しなの7号
みなさんからのコメント、117系マロンに関する内容が多くって、117系が今も人気者であることを改めて実感しました。個人的にも、新車時点から乗務したことがある車種ですから思い入れがあります。
シロたちの近況報告ありがとうございました。