先週の続編になります。
回送で高塚駅についてから折返しの長い時間。そのほとんどが勤務時間ではありませんので、出先での無駄な時間になるはずなのに、退屈せずに過ごせる珍しいジョイフルトレイン乗務は楽しいのですが、その間じゅう気にかかることがありました。
それは、この駅での機回し入換作業のことでした。電車や気動車とは異なり、客車列車である「ゆうゆうサロン岡山」が折り返すには、東京方に連結されているEF65を、折返し回送の前に切り離し、反対側(神戸方)に付け替える作業をする必要がありました。「オカママワシ」と言われるその作業は、大きな駅では駅に操車担当がいて、機関車を誘導し信号担当とも連携を取りながら行ったのですが、小駅である高塚駅では操車担当は配置されていませんでしたから車掌が入換作業を行うことになっていました。入換作業そのものは列車掛で貨物列車に乗務していたころに何度でも経験していましたが、貨物列車では無線機を使用していました。高塚駅では貨物の入換作業はしませんでしたので、無線の設備はなく、手旗による入換作業になりました。もっとも列車掛から普通車掌になってからは気動車や電車の転線入換作業を手旗によって日常的に行っていましたし、武豊駅では連結作業もやっていましたから、作業自体は大して難しい内容ではありませんでしたが、このときの私は専務車掌になっていたこともあって、入換作業に携わらなくなってから1年半以上が経過していました。しかもこの駅での入換作業は初めてで、駅との進路要求などのやりとりは、手旗でなくトークバック(構内連絡用のインターホンのような通信機器)を使うことになっており。これは初めてのことでした。高塚駅のように東海道本線上にあって、規模こそ大きくなくても有効長が長く構内は広範囲に及びましたから、手旗による意思疎通が難しくなってくるので、こうした設備があったのでした。
そんなわけで、初めての場所での作業を前にして、私は客室内でのんびり過ごしているほど度胸は据わっていませんでしたので、構内をうろついて分岐器とトークバックのある位置、機関車を停止させるべき位置などの確認をして、実際の作業に備えていたのでした。
時間は過ぎてゆき、交代の機関士が便乗列車で到着しました。パンタグラフを上昇させ手歯止めも除去して、点検を始めました。私の方は駅長事務室で「入換通告券」2通の交付を受けて駅助役と作業内容の打ち合わせです。作業内容の復唱をして、作業全体の把握をしました。そして「ここでは初めての入換作業なのでよろしく」と駅のみなさんに一声かけて、今度は機関車に乗っている機関士のところへ行き、駅で交付を受けた2通のうち1通の入換通告券を機関士に交付し、同様に機関士にその内容を「通告」し復唱してもらう決まりでした。
1532M出発11時13分後開始。(機関士復唱)
単機で中線から上り本線東京方引き上げ。(機関士復唱)
上り線ホーム神戸方西端で一旦停止。(機関士復唱)
下り本線神戸方引き上げ。中線留置車に連結本直り。(機関士復唱)」
機関士にも、「ここでは初めての入換作業なのでよろしく」と一声。
作業は、駅員が機関車のところへ来て客車を切り離す作業から始まります。1532Mが発車していった直後、私はトークバックで駅信号扱所に「中線から上り本線東京方」への進路構成を要求。進路構成がされると、トークバックで駅から、その旨を伝えてきます。それを入換標識で要求どおり進路構成が完了したことを確認。駅員によって切り離し作業が完了したことを確認。そこで機関士に「単機で上り本線引上げ」と通告。機関士は了解の意の汽笛合図を「ピッ」。私は機関車のステップに乗って緑色旗を振ります。無線機での入換には慣れたものでしたが、機関車に添乗しての旗振りは不慣れです。列車掛が常時貨物列車の入換をする駅では、無線機による入換作業があたりまえになった時代でした。怪しい姿勢で右腕を手すりに引っ掛けて手旗を持つ姿は自分でもぎこちないのがよくわかりました。しかし速度が出て、旗を振らずとも風圧でなびくようになると、自分の誘導でヘッドマーク付の大きなEF65が動いていることに、ちょっとうれしい気持ちがしたのを今も覚えています。
単機で上り本線東京方へ引き上げて機関車を赤色旗で停止させ…というと恰好がいいですが、単機ですから機関士は私の赤旗を見るまでもなく、分岐器を過ぎたら止まります。こちらもステップから飛び降りるでもなく、すぐ近くにあるトークバックで信号扱所に、次の進路(上り本線から上り本線)の要求をします。列車密度が高い東海道本線。東京方への引き上げは上り本線をふさぐほか、そのあと神戸方への引き上げでは下り本線をもふさいでの入換作業ですから、初めての作業とはいえ、のんびりやっていたのでは、本線の通過列車に支障が出てしまいます。トークバックはどこにあったかななどと探していられるほどの余裕はないのです。事前にどの分岐器のところまで引き上げて、どこにトークバックがあって、どこに入換標識があるのかを把握しておかないと時間どおりに終われない作業でした。ここでも入換標識を確認し機関士に「上り本線神戸方ホーム終端まで」と通告。「ピッ」。反対側のステップに乗って誘導。ステップにぶら下がるように乗っているとプラットホームの擁壁が自分の体の横を間近に通り過ぎていくのがスリルがあります。ホーム終端でいったん機関車を止めて、こんどは上り本線から下り本線神戸方の進路要求。駅との一連のやりとりと確認を繰り返し、下り本線上へ出て、ここでも同様に確認と通告。
最後は「連結」作業が入りますので「緑色旗と赤色旗を絞って、頭上で根元を突き合わせる」動作で機関士に伝えます。その場合、機関士は「ピッピッ」と短急汽笛二声で確認したことを表わすのです。こんな流れで編成の神戸方へ機関車を連結させ、駅員が空気ホースをつなぎ、緊締していた手ブレーキを緩めると、入換作業は終了で一段落でした。この間、数人の撮り鉄氏がホームで珍しいジョイフルトレインを牽く機関車の入換作業を撮影しておられました。作業中は、自らぎこちない誘導だなあと思いつつ、いつもと立場が逆転して、この日は被写体の一部になっているのが恥ずかしいやら、緊張するやら。
入換作業を終えると、機関士には「ヘンツー」と呼ばれる「旅客車編成通知書」で現車と換算両数を通告し、さらに変更事項等がないことを口頭で相互に確認します。上は旅客車編成通知書の様式です。この列車の場合は6両編成で編成両端のスロフは空車換算3.5。中間のオロは空車換算3.0。
換算両数=3.5×2+3.0×4=19.0
ヘンツーには現車6 換算19.0と書き込むことになります。換算両数1.0=10トンですので、190トンの重量を牽引することになるのです。東海道本線で換算120(=1200トン)で組成される普通貨物列車と比べると、速度的には客車の方が格段に速いとはいえ、客車列車は軽いものだと感じます。EF65には余裕綽々な仕事なのでしょう。
そのあと私は手旗の代わりに乗務員無線機を持って最後部まで歩いてゆき、機関士と無線機の交信をして通話試験とブレーキテストを実施すると発車前の作業はすべて終了でした。電車や気動車だと乗務員室を離れると、緊急時の運転士からの連絡ブザーが聞こえなかったりしましたが、機関車牽引列車の場合は、ブザーや車内電話の設備がありませんでしたので、かならず連絡用の乗務員無線機を携帯していました。展望室にいても、便所にいても、無線機さえ持っていれば、通話ができたのでありがたいことでした。このころの乗務員無線機はあくまでも列車の乗務員相互間と駅での入換の交信くらいしかできず、走行中に列車指令と直接連絡が取れるものではありませんでした。走行中に緊急事態があっても基地局がある主要駅付近で、その駅を呼び出して、たまたま駅員が出れば駅と交信できるくらいの使用法しかないものでした。
ところで、客車列車のサービス機器取扱者は車掌の仕事の範疇で機関士はノータッチでした。電源エンジンの始動も車掌の役目でした。12系や14系客車の冷房エンジンは配電盤のボタン操作一つで自動的に始動しますので、操作自体は簡単でした。基本的に気動車の冷房エンジンと同じで、電源ボタンを押すと自動的に予熱が始まり、しばらくするとエンジンはアイドリングを始め、1分くらいすると轟音が響き渡って本運転が始まり、配電盤の電圧計が440Vまで一気に振り切りました。これで尾灯を点灯させ発車準備完了となりました。
今回は機回し作業の様子を中心に書きましたが、近年は両端に機関車を連結したプッシュプル編成にするなどして、車掌がこうした作業を行うことは少なくなりました。それ以前に機関車牽引列車が激減して、あまり見かけなくなりました。
最後に余談ですが、もしこの日(1986年(昭和61年)2月10日) 東海道本線 回9445列車「ゆうゆうサロン岡山」の入換作業の写真を撮られた方がおいででしたら、ぜひ写真を拝見したく思います。私にとっては11年間勤務した国鉄生活の中で最初で最後のジョイフルトレインの入換作業であり、同時に最後の入換作業になったこの作業中の自分を見たいと思っています。





この記事へのコメント
NAO
慣れない駅での機関車付け替え、お疲れ様でした。リハーサルなしでのぶっつけ本番もすごいですね。
ピッ、ピッピッ、が確認の返答なのですか。初めて知りました。単に走行中の警笛かと思っておりましたので。
ちなみに高塚駅は回送留置があった駅との事ですが、駅員さん自体は機廻しは慣れた作業だったのでしょうか。
主要駅から少し離れた小駅で留置、舞台袖で待機する豪華スターみたいですね。「ひばり」の利府駅、「しらさぎ」の熱田駅、「スーパーはくと」の由良駅、「にちりん」の亀川駅、そんなのを思いだしました。
しなの7号
なにぶん車掌になる前には3か月、列車掛の場合はさらに1か月半の養成期間がありますので、基本的にどこでも作業できることになっていますし、職場でも各駅の要注意点をまとめた資料は貸与されていましたので、ぶっつけ本番は普通、というより車掌たるものは常に不測の事態には見知らぬ駅、見知らぬ場所での適切な判断のもとで作業ができることが求められました。
車掌・操車から運転士への「入換通告合図」に対して、機関士は汽笛により、突放の場合「ピッ」を、連結の場合は「ピッピッ」と応答することとされていました。「ピッピッ」は現在でも貨物列車の組成駅などでは常時聞くことができます。
高塚駅のみなさんは、自分の家の庭での作業と同じでしたでしょうから慣れたものだったはずです。
折り返し列車の留置駅、しらさぎ以外は勉強不足で存じないのですが、しらさぎの場合は東富山駅もありました。これも乗務範囲になっていたので、線路見習で1度だけ行きました。
【134】 専務車掌(乗客扱)3:線路見習
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201102article_3.html
うさお
★乗り物酔いした元車掌
禅昌寺駅で時間待ち、なんて言うのもありました。
禅昌寺駅は特殊な駅で
本線にはホームが無く通過専用。
行き違い線にのみホームがありました。
普通列車どおしでは、行き違いができないのです。
そこに1時間以上停車するけれど影響なし。
それくらいの列車密度でした。
それから、ボクがいた頃は、
関西線のラッシュを終えた213系が、
大垣入区の順番待ちのため
八田へ疎開もありました。
(喫茶「宇奈月」で朝食ってか)
ラッシュの名駅ではおじゃま虫だったですね。
そのほか関西では
次から次へとくる、編成を順番に貨物線へ追いやって、
213系2両×4編成と、211系3両1編成
合計11両という回送もありました。
名駅では他に、
ホームをあけるため、引上線へ逃げたあと、
臨港本線から、なんて言う回送もありました。
また、神領入区の順番待ちで
大曽根に2時間近く停まる回送も。
大垣入区ですと、岐阜(タ)の中線。
そんな頃は回送列車はまだ、
車掌乗務列車でしたし、
泊まり行路の2日目だったこともあり、
眠気との戦いでした。
(目覚ましが必需品)
しなの7号
名鉄局では、列車掛でもヘルメット着用はしていませんでした。ヘルメット着用については、かなり前から組合側に提示されていたみたいですが、妥結に至らなかったのでしょう。大鉄局の列車掛がヘルメット着用されているのが目立っていたような状況でした。
しなの7号
定期列車折り返しに伴い、ホームを占領することを避けて疎開させ、又は転線入換作業を省略する目的と思われる回送については、私が車掌になったころ(55.10改正時)には東海道本線でいくつか例がありました。
前夜から名古屋に留置されている153・155系を早朝蒲郡始発の下り列車に使用する際に、蒲郡を通り過ぎて次駅三河三谷(ホームがない中線使用)まで回送、折り返し蒲郡まで回送後客扱とするもの。
豊橋折り返し(上り→下り)となる113系の列車をいったん鷲津まで1往復回送するもの。
豊橋では局界を越えて次駅西小坂井まで1往復する113系回送もあり、西小坂井ではホームがない下り2番線での折り返し。
これらの例ではの折り返し時間は15~20分程度でした。三河三谷の折り返しだけは受け持ち班が異なり乗務する機会がありませんでした。
★乗り物酔いした元車掌
西小坂井は、おもしろい駅、でした。
豊橋で留置しきれない編成を、
夜間、滞泊させてましたよね。
上1、下1、下2、と3編成。
だから、
ちっぽけな駅にもかかわらず、
乗務員宿泊施設がありました。
カプセルホテル風で、大嫌いでした。
急行ちくま
コメントにあります鷲津往復の回送列車ですが、113系以前の80系時代には14時台と15時台の2本がありました。
当時、豊橋から東には1時間に1本という今では考えられない列車本数で、浜松行(大垣からの快速が各駅停車になる)を待つ私たち(子供)の目の前に到着した普通列車が、無人で東へ出発していくのを指をくわえてみている状態でした。(どうせ行くんなら乗せてくれよ。。。)
今なら豊橋駅で折り返し、引上線待機もありますが、当時は東海道線に加え、飯田線、二俣線の貨物扱いもありホームや引上線が空かなかったんでしょうね。
鷲津駅上り1番には今は上記回送や夜の鷲津折り返し列車は無くなったものの、なぜか下り方向への出発信号機は生きています。
現在は13時台に伊那路2号の373系が浜松へ行く回送がありますが、1時間3本と便利になったこの区間ではもう恨めしい思いをすることはなくなりました。
しなの7号
国鉄時代、西小坂井泊りの行路は長らく他区の受け持ちで、末期になってから移管されたものでしたので、私はここに泊まったことはありません。
しなの7号
80系時代ですと私が普通電車に乗務していたころより前ですが、伝統的?に鷲津回送はあったのですね。今も上1から下りへ出発できるのですか。異常時に活躍するのでしょうかね。
先日の大井川行きでは久しぶりに東海道本線に乗りましたが、反対側の下1廃線跡のほうばかり見ていました。
鷲津駅で思い出すのは、深夜に長時間停車した205系新車回送の乗務です。
【293】臨時列車の乗務(17):205系電車新車回送
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201207article_5.html
貨車区一貧乏
ただいま、通勤のため列車内なんですが局地的な大雨のため抑止中で2時間半足止め中です(ー ー;)
私の入れ替えの経験は、無線による誘導は無く、全てフライキとトークバックでした。自分の指揮で進路構成したり強面の機関士も全て言うこと聞いてくれるので、ちょっと優越感を感じてました。
トークバックは地面設置型と柱設置型がありますが、両方使っておりました。入替標識も斜めの進行現示になり普段と違うので少しだけ興奮状態でした^_^;
入替時のヘルメット着用は、列車掛廃止前1年位前に着用してくださいと言われて、駅のヘルメットで作業しました(東京南局です)
しなの7号
こちらは日中30℃あって晴れてましたが、大雨で抑止中でしたか。お疲れ様です。
同じ局でも、配置された区によって実態はずいぶん違いました。私の場合は貨物列車乗務時の入換駅では、すべて無線機使用で、入換標識もほとんどの入換駅で完備していました。そのあと車掌になってからはすべて電車又は気動車の運転室内での手旗による入換作業ばかりで、この場合も比較的小規模な駅ばかりだったので、駅との通告・応答もトークバックによらず手旗で行い、入換標識がなく転てつ器標識で進路構成を確認する駅もありました。
そんなわけで、機関車のステップに乗って、フライキを振る機会はこのときまでなかったのでした。
無線機は楽です。機関士から見えない位置でもいいし、すべて片手だけで事足りましたから。
北恵那デ2
しなの7号
正式には「入換通告合図」といいますが、いつも入換作業をご覧になっていると、そんな合図も覚えてしまうものなのですね。中津川駅のC12の様子が今脳裏に甦ります。私は小駅沿いで育ったので、そこまで覚えるようなことはできませんでしたが、父親が家で教えてくれた…というよりも車掌になるために家で練習していたのを見ていました。
仕事上で危険と隣り合わせになることは、多くの職種であるもので、自分の身の危険を感じた場面は鉄道退職後にもありました。しかし北恵那デ2様のお仕事でも、鉄道の仕事でもそうですが、自分の仕事のちょっとした過ちで関係のない多数の人命を左右する場面が日常的にありますから、怖い職種だなと感じます。
ちなみに乗務員の誰もが見る悪夢というのは「欠乗」の夢で、これは自分の乗務列車に乗れそうで乗れないといった類の夢です。多くの人は退職後もその夢を見るといいます。
貨車区一貧乏
再コメ失礼します。「欠乗」の夢は確かに退職後も見続けました。必ず寝汗をたっぷりかきながら…
もう一つは車掌弁を引き非常ブレーキをかけるのですが、作動しない!という夢をみていました…双方とも心臓に悪い夢でした。さすがに退職して22年経ちましたら見なくなりました。
しなの7号
欠乗の夢は昨年あたりに見ましたよ。乗務車両がJR車になっていて、機器の使い方がわからなかったりする夢も見たり。
車掌弁を使用する機会は、私ども田舎の車掌と違って、国電区間でしたら使用する機会がたまにはあったでしょうから、そんな夢を見られることもあるのでしょう。私の場合、発車する際の異常事態ではブザーで停めたりする場面には遭遇しましたが、走行中に車掌弁を扱ったのはただの1度だけでした。
おき2号
週末にまたSLやまぐち号に乗ってきて、少し車掌さんとお話ができました。
やまぐち号は終点津和野で車掌が操車を担当していて、車掌さんによると今は日本でここだけだそうです。連結、切り離し、転線、転車台の操作があって内容が濃いから瑞風より楽しいと仰ってました。無線機には「ひろてつしゃしょう」とありやっぱりこれの発車合図が好きなんだよと仰る車掌さんが印象的でした。
やまぐち号の車掌さんはシニア社員の方が多く、もしかしたらしなの7号様のようにかつては国鉄で貨物などの入れ替えもしていたのかなとも思っていました。
しなの7号
ついに車掌が無線機を使って入換作業をするのはここだけになってしまいましたか。多くのギャラリーが見守る中、自分が通告するとおりに機関車が動くのは、模型の操縦をしているみたいで気持ちがよいものだと思います。
国鉄の乗務員無線機の場合、車掌は車掌区から乗務の都度持ちだしましたが、機関車には乗務員無線機が常備されていましたので、下関や広島所属の機関車が牽く列車に乗務したときの通話では、運転している機関士の所属鉄道管理局に関係なく「ひろてつきかんし」と応答があり、我々車掌は所属鉄道管理局の「めいてつしゃしょう」でした。
通話内容は電波法に抵触するといけないので、ここまでにしときます。
ところで、SL現役時代を知る者にとっては、SLの誘導は手旗が自然で、絵になると思ってしまいます。
やくも3号
ちくわ社からついに出ますよ。
12系ゆうゆうサロン岡山 旧塗装 6両セット
ttps://pbs.twimg.com/media/EezdSOmVAAARb77?format=jpg&name=large
『無線機を持った車掌フィギュアつき』かもしれませんね!
ならば一つ買おうかなぁ。
しなの7号
ちくわ社からは以前「12系ゆうゆうサロン岡山・登場時6両セット」が発売されたことがあって、それはうちにもありますが、今回の「12系ゆうゆうサロン岡山 旧塗装 6両セット」との相違点は、貼っていただいたリンク先のポスターにある「車端部床下にトイレタンク部品を取り付け」(旧製品にはない)以外にあるのかが現時点では不明です。
で、大きな相違点を発見! それはお値段が10000円近くもお高くなっていること!
こうなると、「無線機を持った車掌フィギュア」はもちろんのこと、ほかにも「車内でうるさいカラオケを唄う局長さんフィギュア」も付けてほしいところです(*'◇')
やくも3号
あわわわ、すでに製品化されていたのですね。。
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201412article_8.html
で確認いたしました。
最近Nの中華製品高いですね。少し前の16番プラ製品かと思うような価格で驚きます。
でも、国産・海外生産関係なく、趣味のものはあまねく高騰している気もしてきます。★☆のモデルカ―でも¥4,000越えするものもあり、小学生が千円札を握りしめて買いに行けるものではなくなってきました。
しなの7号
模型は高くなりました。子供が手を出せなくなるだけでなく年金生活者にも同じことが言えるでしょう。当該セットのお値段設定であれば、専用牽引機EF65 123が付いていてもいいような…
ちくわ社では10周年記念商品としてEF65の123号機旧色新色2両セットを発売したことがありますが、旧色に限っては単品で発売したことがないみたいですから、今回単品で同時発売してもよさそうに思えたのですが、何か伏線があるのかも?