私が伊勢線の普通列車に定期的に乗務していたのは、1981~1984年の約3年間で、その期間中には、伊勢線関連の乗務行路がだいたい月に1~2回ずつありました。先週、ここが超閑散線であったという話をしました。実際の様子を具体的に言いますと以下のような感じでした。
1~2両編成なのに、ふだんは休日平日を問わず座席が全部埋まったのを見たことがありませんでした。私は、1日たった7往復しかない伊勢線の普通列車の全列車全区間に乗務経験がありますが、最高に混む朝の列車でも、せいぜい乗車人員は30人くらいが普通でした。早朝や日中、夜間は10人に満たないことも当たり前のようにありました。ちなみに、ここでいう乗車人員とは、一列車あたりの延人数ではなく、線内の任意区間における最高乗車人員ですので、一部区間で乗客が0になることも別に珍しいことではありませんでした。
ターミナル駅とも言える津と四日市の発着時点で最高乗車人員を記録することが多いのは当然でしたが、朝は線内の各駅から、津の手前にある東一身田(ひがしいしんでん)駅に近い高校へ通学する女子高生の割合が多くて、朝の列車では東一身田到着時に最高乗車人員を記録する列車もありました。ここの女子高生は皆、品が良くて、私が乗務した乗務範囲内では最高レベルといってもよく、よそではよくあった喫煙や迷惑行為をする学生は全くなく、静かに勉強している子が多かったのが印象に残っています。
その東一身田駅は無人駅で、高校生以外の利用者は少数でした。画像は第三セクター伊勢鉄道線になった後の東一身田駅ホームの様子です。
途中駅での有人駅は南四日市と、鈴鹿(夜間から早朝にかけては無人)だけでしたから、この子たちの大半は無人駅から無人駅への列車通学でした。あまりにも不便な伊勢線では、朝の通学は伊勢線を使っても帰路は他の交通機関を使うためなのか、わざわざ有人駅まで定期券を買いに行くことができないからなのか、あるいはその両方の理由なのでしょうが、定期券を持っている子は多くなく、乗車のたびに片道乗車券を車内で車掌から買って通学していた子が目立ちました。切符を車掌から買って、降りるときも同じ車掌にその切符を渡すのですから、お金だけ渡されて、切符を発行しかけると「切符は持っといて!」と言われるのは女子高生も、ほかの線内利用の大人も同じでしたが、「国鉄職員=悪人」みたいに宣伝され始めた時期でもあり、そのまま現金をポケットに入れたなどと誤解されてもいやでしたから、出来上がった切符を見せて、「もらっときます。」というのが私のやり方でした。上の画像は車内片道乗車券で、運賃も一目でわかります。その上の手書き車内補充券と運賃が異なっていますが、運賃を間違えたわけではありません。この時期にはほぼ毎年運賃改定が行われていましたので、運賃を暗記したころに新運賃に変わっていきました。発行時期が違うので運賃が異なっているというわけです。
回収した切符は、複写の控片とともに乗務が終わって車掌区に帰区するまで持ち歩き、控片は帰区後に車掌区で厳重なチェックが入りましたが、回収した切符そのものは車掌区備付の回収箱に入れておくだけでしたから、入れ忘れても、特別のお咎めはありませんでした。そのため画像の乗車券類は、冊子になった営業キロ早見表などの栞代わりに使用したりして、そのまま手元に残ったものです。特に線内の運賃が書かれた車内片道乗車券は、運賃早見表そのものとしても使えました。
閑散線区であった伊勢線で、私が何度も乗務した伊勢線の普通列車のなかでの最高乗車人員は何人くらいだと思われますか?
各列車の乗車人員は車掌区に帰区後報告することになっていましたので、今でも乗務日誌に記録してあるのですが、最高で65人でした。キハ35の2両編成だと定員は264名ですから、このときの乗車率は25%にも満たない数字です。それでも途中駅での有人駅は南四日市と鈴鹿だけでしたから、定期券がなく乗車券を持たずに乗車されるお客さんはかなりあったので、車内で乗車券の発行をしていれば、暇で困るということはありませんでした。それでもこの線では1年に1度だけ立客が出て混雑する日が必ずありました。たいていそれは1月中ごろで、東一身田駅から近い真宗高田派本山「専修寺」(せんじゅじ)の「お七夜」への参拝客なのでした。
この東一身田駅の近くには、近鉄名古屋線の「高田本山」駅があります。専修寺へ参拝されるお客さんのなかには、「○○から高田本山まで」と、申告される方が多く、伊勢線の「東一身田」という駅名はまったく認知されていないのでした。
話は伊勢線からそれますが、新設線で乗客の方々から駅名が認知されないケースは、国鉄岡多線でもあり、 【252】駅の通称名(乗客編)で紹介しています。ご興味がおありでしたらご覧ください。
画像は専修寺の山門です。私は「お七夜」の日に訪れたことはありませんし、乗務日に当たったことはありませんでしたが、乗務がこの日に当たると、お客さんのすべてに切符を発行できないまま、列車が東一身田に着いてしまうことになりました。ここは無人駅でしたから、車掌は集札とともに、まだ運賃をいただいていないお客さんから運賃をもらわなくてはなりませんが、普段とは違い、一気に降りるお客さんから受け取る現金や切符は、とても両手で受け取ることができない量になるということでした。この日は「帽子を脱いで、それを集札箱代わりにして、ぞろぞろ下車するお客さんに入れてもらなくちゃならないんだよ」という伝説が車掌班で語り継がれていました。私の場合、その当日ではありませんでしたが、専修寺の何かの行事か大祭でもあったのか、三々五々中間駅から乗った乗客30人くらいがまとまって東一身田で降りて行かれたのに出会ったことがありました。そのとき1回だけ、私も伝説の帽子集札箱を登場させたことがありました。参拝に行く方々は比較的高齢の方が多く、「○○から大人二人ね」などと口々に言いながらそれぞれが、集札のためホーム出口階段の直前に立っている私が脱いだ帽子の中に運賃を入れてくれます。賽銭箱のようで、つり銭が必要な方が少ないのはありがたかったのですが、硬貨でズッシリ重くなった帽子は庇が破れて落ちそうで、全員から運賃を受け取った後は、両手で帽子を持って、乗務員室に小走りに戻ったのでした。
この場合、どの駅から何人乗ったのかが正確に解りませんが、とにかく事後に、その売上げ金額分の片道の車内補充券を作成する必要がありました。終点津の乗継詰所で、机の上に広げた硬貨の量を見てこれはすごいなあと言う運転士氏が見ている前で、現金の合計金額を出しました。どの駅から何人乗ったかはさっぱりわかりませんから、その金額で半端な余剰金が出ないような東一身田までの任意区間の車内補充券を何枚も書いて車掌区に提出するしか方法がありませんでした。
国鉄末期になると、乗務員を柔軟に運用するようになり、「お七夜」の多客時には車掌を2人乗務にしたり、余剰人員の活用によって、車掌を東一身田駅に張り付き勤務にして集札や切符の発行業務をさせるようになりました。
(伊勢線の話は、来週も続きます。)





この記事へのコメント
鉄子おばさん
しなの7号
ワンマン化されると、整理券方式を採用する場合が多いので乗車券の様式が変わったり、乗車券そのものを手にする機会が少なくなってきますね。
この線の場合、第三セクター伊勢鉄道に移管されたときに、普通列車はワンマン運転のレールバス化されました。
本文で、もっと強調すべきであったと反省していますが、国鉄伊勢線は普通列車こそ超閑散な路線でしたが、決して人口過疎地帯を走っているわけではありません。頻繁ではないにせよ、ここを通過していく特急急行には多くの乗客が乗車していました。地元の方は比較的近い市街地に駅があって便利な近鉄を利用していたのです。
鉄子おばさん
しなの7号
こちらが反省すべきことですので、勘違いなさらぬよう(^_^;)
挙げていただいたローカル線はすべて乗り鉄したことがございますが、伊勢線はどの線区とも違いますね。強いて言えば芸備線に近い風景かもしれません。高速自動車道があるようなところなのに、鉄道のほうは1両だけの寂しい列車が走ります。
NAO
前回コメントさせていただいた、伊勢線を特急南紀で通過した翌年、亀山経由の急行紀州に乗ろうと、四日市駅で松阪までの乗車券と急行券を買いました。
確か運賃計算上、伊勢線経由の硬券だったのですが、運賃、料金値上げが続いていたからか、写真のように運賃変更や料金変更のゴム印が捺されていました。
多額の集金額に合わせて車補の発券も大変ですね。
参宮線も伊勢市以遠が未乗だったので、松阪からは近鉄で鳥羽まで行き、地元まで直通で帰れる急行志摩の盛夏服レチチさんに、記念にと車補の発券をお願いしたところ、さっき運賃収受だけしたお客さんがいたのでお金はいいヨ、とタダで発券して下さったのにはいたく感謝しました。
この日、名松線を含む伊勢地方国鉄日帰り踏破のために、近鉄特急に3回乗って行程を繋ぎましたが、なかなかこんな地域ってないでしょうね。
なはっ子
ラモス
駅の写真、30年前と全然変わって無いですね~!
当時はハトのフンがひどくて、畑で使う鳥よけがホームにいっぱいぶら下がっていました。
「お七夜」は写真の山門あたりに露店が並び、駅下の道も人の通りが増えました。
でも、その時だけ車掌さんがハッスルするとは知らなかったです。
とにかく地元の人はみんな素通り…踏切も無いから列車はそっと来て、そっといなくなりました。
コンクリートをふんだんに取り入れた、冷たい寂しい駅でしたが、それも今では懐かしいです☆
しなの7号
四日市から松阪まで「わざわざ」国鉄を利用して出かける方は、希少だったはずですので、運賃変更後も旧運賃の硬券が売れ残っていたのかもしれません。おっしゃるように、国鉄では河原田~津間は経路特定区間として亀山経由での乗車であっても伊勢線経由の運賃を適用していました。
急行志摩号の車掌長氏の取り計らいも国鉄ならではですね。今でこそ「快速みえ」が名古屋対鳥羽を伊勢鉄道経由で頻繁に走っていますが、国鉄最末期には、紀勢本線の特急急行に乗れば伊勢線部分がついでに乗れてしまうのに対して、歴史ある参宮線は普通列車オンリーになってしまいました。不便さゆえに、私の場合も参宮線が未乗のままポツンと残ってしまい、JR化後の1988年に初乗り、その帰路は近鉄利用になりました。「快速みえ」の運転が開始される前のことです。
しなの7号
中京地区は東西の中間ですから、方言も関西関東がぶつかり合っていることは、乗務中や職場の方の言葉から感じ取ることができました。関西本線では、木曽三川(西から、揖斐・長良・木曽)を挟んで、まったく言葉が違いました。細かく言うと一番の大河である木曽川が境となっていたようです。関西本線とは言っても旧東海道区間で、江戸時代は宮~桑名は海路によらざるを得ず、これらの川によって行き来が困難だった歴史に照らしわせれば納得できることです。これに対してJR東海道本線筋で言葉の違いを感じる境界は、これらの川よりさらに西の関ヶ原あたりになりました。
赤福のCMは、中京地区でもおなじみですが、愛知県人にとっては三重県は同じ東海地方とは言っても関西系のにおいが非常に強いです。紀勢本線で新宮方面から名古屋に向かう優等列車に乗っていると松阪での下車客が目立ちました。多くは近鉄に乗り換えて関西方面に向かうわけで、対関西との結びつきが大きいのを実感したものです。
しなの7号
この画像の撮影をしたときには、紀勢本線の一身田駅で下車し専修寺に立ち寄った後、いったん東一身田駅と近鉄高田本山を通り過ぎ、昼食で牛丼の松屋「津北店」まで行ってから東一身田駅へ戻りました。ここから伊勢鉄道で帰ったのですが、駅は乗務中に見たのと変わらない佇まいで私を迎えてくれました。おっしゃるように鉄筋コンクリート造の味気ない駅で、新しいのに鳩の棲家になってフンの山ができている駅は他にも見られました。地元の人も、駅の存在を知らないのではないかとさえ思った閑散とした駅でした。
どうでもいいことですが、松屋まで行ったのは、こういうコレクションをしていたからです。
↓
【54】変なコレクション2(松屋の食券 後篇)
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201008article_10.html
松屋津北店は、もうないみたいです。
なはっ子
三重県は関東人には馴染みがありませんが、金宮という焼酎は東京下町では人気があり、小生も愛飲しております。
しなの7号
金宮焼酎は私どもの地域でもスーパーで普通に買えます。昔ながらのラベルがお気に入りですが、どちらかというと日本酒党だったので、飲んだのは1度だけ。しかし最近は沖縄で買った泡盛を飲んでます。
三重県の伊勢言葉は関西系ですので、意味不明で仕事に支障をきたしたことがありました。
「【217】亀山駅の荷扱(゜o゜)業界用語???」の本文末尾で書きましたが、それは「いらう」という言葉でした。
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https://shinano7gou.seesaa.net/article/201111article_2.html
サンダーバード46号
私の中学時代の先生が近鉄大阪線の名張や桔梗が丘から鶴橋まで通勤されてる方が複数名おられましたし、私の通学していた高校も近鉄大阪線の八尾市内にありましたが、文化祭の準備で始発電車に乗ったものの見事に寝過ごし、起きたら終点名張だったこともありました。現在の伊勢鉄道線には20年以上前にキハ58・65時代の快速みえで通過したことがありますが、線形も良好で、これがキハ58か?・・・と疑うような速度で走っていた記憶があります。もしJR東海に引き継がれていたなら、今頃は参宮線と共に電化されて313系電車が走っていたかもと妄想してしまいます。
しなの7号
国鉄全盛時代の時刻表を見ると、線路がつながっている限り首都圏から各県へ直通する長距離列車があったことがわかりますが、同時に中距離直通列車の設定が多彩で、そこから人の流れも読み取れます。参宮線では最後まで残った急行が、こちらの記事のコメントで、NAO様が乗られたという急行志摩で、京都発着の列車でした。この列車は61.11で廃止されていますが、伊賀のみならず三重県地方は関西との結びつきが強かったことが感じ取れます。分割民営化では会社の境界が亀山となり、伊勢・参宮両線ともJR東海管轄になって、伊勢線と一体化して名古屋との直通列車が頻繁になりました。
国鉄伊勢線は伊勢鉄道に移管された後、一部複線化されましたが、非電化複線の高規格線は珍しいと思います。もっとも身近に東海交通事業城北線という例はありますが。
TOKYO WEST
しなの7号
私の場合も、自動車での移動ですと県境はかなり意識しますが、国鉄・JRの場合はTOKYO WEST様と同じです。伊勢線では上り列車乗務中に回収する乗車券は、大阪印刷場の硬券がほとんどで、わかる人ならわかると思いますが、「~から~ゆき」表示の硬券ですと独特の「ゆき」の活字の大きさと、その字体に関西文化圏を感じました。
中央西線
しなの7号
アップしたような矢印式駅名併記硬券は、名古屋印刷場では、昭和59年頃に「○○駅→XX円区間」と表示する金額式に切り替えられました。それより前から大阪印刷場管轄である天王寺鉄道管理局では金額式が採用されていましたので、昭和50年代の伊勢線・関西本線乗務では金額式硬券を目にすることがよくありました。中央西線内では、無人駅が少なくて切符を回収する場面が少なかったため、そうした裏口で発行された硬券乗車券を仕事中に見る機会はほとんどありませんでしたが、仕事以外ではJR化後にわざわざ裏口へ行って硬券入場券を買いに行ったりしています。
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【375】夜の春日井駅旧南口
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201305article_5.html