津発四日市行の伊勢線上り終列車の話です。終列車と言っても発車時刻はまだ宵の口で20時17分発でした。この列車は、一時間以上も前に着いた列車の折り返し運用でした。車両はその間、紀勢本線下りホームの亀山方にある切欠き行止り式の伊勢線普通列車専用のホームに、ドアを閉めた状態で止められていました。車掌も運転士も、その近くにあった乗務員乗継詰所で発車の10分くらい前までは、くつろいでいましたから、無人状態でホームに留置されていたわけです。
通常使用されていた伊勢運転区のキハ35は、とにかく暖房が効かず寒い車両でした。真冬は早目にドアを開けてしまうと、鈴鹿颪と呼ばれる北風が客室に一気に入り、さらに冷えてしまいます。せめて押しボタンで乗客が自由にドアを開閉できるようになっていればいいのですが、伊勢運転区のキハ35にはそんな設備はありませんでした。
冬場、乗務員が出場する前からホームで待っている乗客としては、列車は目の前に止まっているのだし、多少でも暖かい車内(実際はそれほど変わらないが北風くらいはしのげる)に早く入りたい!なぜ早くドアを開けないのか!と怒りたくもなるものでしょうが、伊勢線の終列車では真冬でもそんなことでトラブルになったり、苦情が出るようなことはありませんでした。
それはなぜかというと、その列車のドアは閉まっているものの、車掌と運転士が来る前に乗客はいつでも「全員が」乗車していたのです。
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よく解らない話だとお考えでしょうが、事実はこういうことです。
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乗客は、乗務員が出場するまえに、ホームに留置してあるキハ35の助士席側の乗務員室扉を、勝手に開けて乗り込み、乗務員室を通って客室へ入って発車を待っているのでした。いくら寒いキハ35であっても吹きさらしのホームでドアが開くまで待つよりは、多少はましというわけです。
実は、終列車の乗客はいつも同じ顔ぶれでした。それもたったの2人だけ。伊勢線の終列車はこの人たちの専用列車のようなものだったのです。
当時の津駅では、列車の運行には車掌のほか駅も関わっていました。列車を発車させるためには、
①ホームに駅の助役氏が出場し、時刻と乗り換え客の有無と出発信号機の現示を確認し、列車が発車するのに異常がないことを確認し出発指示合図を車掌に送る。
②車掌も時刻と出発信号機の現示を確認した上でドアを閉め、列車が発車するのに異常がないことを確認し車内のブザーで出発合図を運転士に送る。
③運転士も時刻を確認し出発信号機の現示を確認した上で発車させる。
こんな規定でしたから、寒い冬場だと、車掌としても駅の助役氏が出てきて発車間際になるまでの間、そのままドアを開けないで寒い車内の温度低下を防いであげるという協力までしてさしあげました。①の間に閉めたままのドアをいったん開けて、②ですぐドアを閉めるようにしていたので、出場してくる駅助役側でも、この乗客のセルフサービス?を知っているはずでした。誰かが「ここから乗って待ってていいよ」と2人に言ったのかどうか知りませんが、この乗車方法?について、車掌も駅も運転士の誰もが咎めるでもなく、普通に行われていたのでした。私も先輩から津の終列車はこういうことになっているからと教えてもらっていました。このセルフサービスは別に冬場に限らず、1年中実施?されていましたが、冬場以外は出場したらすぐドアを開けました。
当時は、乗務員室の施錠もやかましく言われたこともない時期で、盗難やいたずらも少なく、今のように細かいことに目くじらを立てる必要がない実績が職員・乗客の双方にあったのでしょう。
現在の津駅の伊勢鉄道ホームです。今の車両には乗務員室ドアがありません。勝手に乗ってくれた2人の常連さんを乗せたこの列車、途中駅から乗車する乗客を見かけることはほとんどなく、津から乗車した2人が途中駅で降りてしまったあとは、まったくの空気輸送になりました。こうなると駅に着いてもドアの開閉も省略したくなるもので、ドア開閉をせずに運転士に出発合図のブザーを鳴らすということもありました。しかしこれは明らかに手抜きというより運転取扱違反です。
津から四日市までの途中駅で、駅員が配置されている駅は鈴鹿と南四日市だけでしたが、この終列車の時間帯には鈴鹿は無人になっていて、駅員がいるのは南四日市だけでした。ここでは駅員が列車監視のためホームに出場し、発車するときは津駅と同じような取り扱いをする駅でした。
ここでホームに出てきた助役に
「今日も0だわ。ドアはヤメね」
と言ってドアの開閉は省略というのはよくあったことでした。回送状態なので、たいてい早着ぎみになるので、発車時刻までそのまま待ってから、前述の①~③の手順のうちドアの開閉だけを省略して列車を発車させるわけですが、その日は、私が運転士に出発合図のブザー「―」を送りましたが、汽笛も鳴りませんし発車もしませんでした。もう1回出発合図「―」をしたら、逆に運転士氏から「電話機にかかれ」のブザー合図「 ― ・ ・ ― 」がありました。
電話を取ると
「今、ドア開けたか?」
「あ、お客さん0なんで省略したんですけど」
「そんなことしてええのか
」「すいません。ドア開閉してからもう一回出発合図します」
そんなことを、お客さんが誰もいない列車でやり取りしました。
発車した後、早速運転室に行って、すいませんでしたと謝りますと、運転士は
「こっちはお客がいるかどうかわからんのだぞ。駅には助役もいるのだし、あとでチョンボだとかドア開いたこと確認しなかったのかとか言われたらどうするんや。」と…
職人のこだわりでもあったのか、逆に駅から手抜きをしたことで何か言われたことでもあるのか、車掌か駅に恨みでもあるのか、理由はどうあれ、それはおっしゃるとおりなのです。人間は決められたことをついうっかり忘れてしまったりすることはよくあることです。過失は機器でバックアップできるようになってきましたが、故意の違反行為は自分でコントロールすべきでしょう。こういう手抜きをするという心構えが間違いで、ローカルだから何でもアリというのが大きな事故につながる第一歩なのです。
ところで近年、マニュアル化がいろんな場面で行われ、あまりにそのチェック項目が多かったり厳格だったりして時間的にも気持ちの上でも余裕がなくなった結果として過失を招くような場面があるのではないかと思ったりします。




この記事へのコメント
NAO
そうですか、運転士氏によってはドア扱い省略を注意されましたか。助役氏とは「打ち合わせ済み」なのを言い訳されないのが、しなの7号様の立派なところですね。
始発駅で乗務員室から乗るってすごいですね。以前、私の地元の番組で、新型特急車両を紹介する番組があり、
女性レポーターが「行ってきます」の掛け声とともに手近な先頭乗務員室に入り、運転士さんに注意されるシーンがありました。そこまでオンエアされるのも不思議でしたが。
無人になってからは車内放送も省略だったのでしょうか。乗り鉄の私としては、河原田駅到着前に「亀山行きは24分の待ち合わせ、階段を下りて2番線へ~」なんて放送を大いに期待するのですが。
なはっ子
しなの7号
南四日市での運転士とのやりとりについては、違反である以前に、一つの列車を安全運行すべき2人のチームワーク欠如が最もいけないわけです。ひとこと運転士に「今日もお客さん0になっちゃったわ、ドアはヤメ」と事前に言っておけばよかったわけで、私には言い訳の余地がありません。家族に知らせるべきことを隣人にだけ言ったというようなものでしょうか。いくら乗客は無人でも1つの線路上を複数の列車が走る鉄道というシステム上のことですから、規定に反した取扱いによって間違いが起これば他の列車に影響が出てしまいます。それに対して無人の車内に向かっての乗客への放送案内は、自列車だけにしか影響しないことですから、ご期待されるような放送はあいにく致しません。
ただし、無人の回送客車列車でオルゴールを鳴らしてみたりしたことがあることはナイショといいたいですが、すでにバレています。
↓
【158】臨時列車の乗務(4):品川の14系座席車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201105article_2.html
しなの7号
私も車掌をしていたものですから、放送は今でも気に留めて聞いていますが、なはっ子様と同じ思いがします。国鉄時代でも放送マニュアルがなかったわけではないですが、かなり自由度があり、自然に先輩たちから教わったやりかたで放送していましたから、おっしゃるように良きにつけ悪しきにつけ車掌ごとに個性が出てました。
車内放送の録音をしたことが何度もありますが、大あたりと大はずれとの落差が激しかったですね。
鉄子おばさん
しなの7号
国鉄の幹線では、ほとんどの駅でホームに列車の運転に関わる駅員の配置がありましたが列車集中制御化とともに、その姿を見ることが少なくなっていきました。
私が通っていた高校では定時制があり、全日制と同じ教室を使っていたため、教科書など私物を教室に置きっぱなしにすることができず、ペチャンコ鞄にはできませんでした。私物は部室に置くという手をみな使っていましたが、私は帰宅部でした。
ラモス
またまた伊勢線ネタ。ありがとうございます。
写真のホームは昔と同じ場所でしょうか?
確か後ろに引き込み線が何本かあって、バス置き場が見えた気がするんですが。
国鉄の津駅は近鉄に比べて寂しかったですよね。
いつも伊勢線の列車や亀山に折り返す客車がうずくまってる…そんなイメージです。
自分は乗っていた列車が中瀬古駅でオーバーランした事があります。車掌さんが電話で何やら話してバックで戻った事がありました。
今なら新聞沙汰になるのでしょうか…大らかな時代でしたね☆
しなの7号
現況写真は、国鉄伊勢線ホームそのものです。国鉄時代にはもう1本行き止まりの線路が並行していて、旅客ホームからその線路の終端部(駅舎の亀山方)から続いた元の貨物積卸ホームらしきところに乗継詰所兼乗務員宿泊所がありました。私が乗務していたころは貨物は扱っていなかったと思いますので亀山方の引き込み線には何もいなかったような記憶です。同じ駅なのに近鉄ホームにくらべ国鉄ホームの閑散としている様子は、桑名・松阪も同じですね。
中瀬古のオーバーランは私の列車ではありません(*^^)v
その事故?ではないですが、中瀬古~河芸あたりはなにかと思い出があるところなので、再来週あたりに、あったできごとをアップします。