前夜、四日市で泊まり、翌朝伊勢線で四日市・津間を一往復半する行路がありました。125Dで津へ着いたら事実上仕事は終わりで、名古屋まで便乗で帰ることになっていました。ところが伊勢線にはもう午前中に普通列車は1本もなく、定められた行路表では、遠回りの亀山経由で、新宮夜行で知られる924列車に名古屋まで便乗で戻ることとされていました。(亀山電化の1982年5月改正以降は924列車が亀山止まりとなったので、亀山で普通電車に乗り換え。)
しかし、伊勢線には午前中の普通列車がなくても、本来の建設目的である短絡線という性格上、伊勢線内をノンストップで通過する名古屋行の特急列車はあるわけで、いい時間帯に紀伊勝浦から来る名古屋行「南紀2号」があったのです。当時は特急には「特別急行」というステータスがあったからでありましょうが、プライベートで国鉄の一般職員が特急に乗車する場合には、支給されていた職務乗車証を所持していても、特急券を購入(別に支給される割引証を併用すれば安くはなる。)する必要があったくらいでしたし、乗務でも車掌のうち専務車掌と車掌長だけが特急・急行を受け持った時代です。この行路でも普通列車しか乗務できない車掌を特急に便乗させるような乗務行路は作成されませんでした。今なら逆に特急に乗務させ、車内改札でもさせれば、増収効果も見込めますし、勤務時間が減らせることで、人員削減の効果も期待できますから積極的に特急乗務を作りそうです。それを当時の国鉄がしなかったのは、特急のステータスと、特急乗務が専務車掌以上に限定されていたこと以外にあったと思われる大きな原因は、勤務内容について労働組合との協約が取り交わされていたからだと思いますが、その詳細は私も知りません。とにかく、公にはこの特急に便乗することができませんでしたから、どうしても乗る必要があれば、特急の専務車掌に、一言お願いしますと頭を下げて、どうぞと言ってくれればデッキに小さくなって立って乗せてもらえれば良しとしなければなりませんでした。もちろん正規の便乗列車ではないのですから、頭を下げても「そんなことしてええのか
」とその専務車掌に言われたら乗車できないわけですし、どうしても乗る必要があれば自腹で特急券を購入するしかないわけです。まあこの行路の場合は定められた便乗列車が、オタク的には有名どころの924列車であることですし、あわてて帰らずのんびり亀山経由で行ってもいいのですが、伊勢線のこの行路に限っては、窮屈な思いもせず名古屋行「南紀2号」に便乗できる手段がありました。実は特急「南紀2号」は津で運転士の交代をしていまして、津から終点名古屋まで運転する運転士は誰かというと…これが直前の伊勢線124D~125Dでペアで1往復乗務を共にした運転士氏なのでした。車掌は125Dのあと便乗なのですが、ペアの運転士は名古屋まで特急「南紀2号」を運転する仕業になっていたのです。直前の伊勢線1往復を運転士氏と仲よく仕事をしたあと、こちらから「名古屋まで運転室に乗せてもらっていいですか?」と言うまでもなく、運転士氏はたいてい「帰り、乗って行くんやろ?」とそれが既定のことであるかのように言ってくれるのでした。こう言われては「いえ、私は亀山経由の普通列車でゆっくり帰ります。」などと言えば、「俺と一緒はイヤなんか?」と思われないとも限りません。特急の専務車掌も運転士が運転室内への便乗を認めた者にまで口を出すことはできませんでした。
「南紀2号」に乗務している他区の知らない専務車掌に頼み込んで、嫌味を言われて小さくなってデッキに立っているより、1往復を一緒に仕事をした運転士氏と、仕事の続きのノリで、運転室の助士席に座らせてもらって名古屋まで便乗するほうがいいだろうことは、充分に想像していただけるものと思います。
こんなわけで、特急南紀に私は本務で乗務することは叶いませんでしたが、この行路があった時期だけは、キハ82の大きな曲面ガラスに囲まれた運転室に月に1度は乗車体験ができました。乗客の目もなく広いキハ82の運転室内の助士席で、車内補充券の売り上げ計算をして、車掌扱運賃引継書を書いたりと、車掌区に着いてからすべき仕事まで済ましてしまえましたので、便利でもありました。
伊勢線内には踏切は1か所だけしかなく、ほとんど高架か掘割でカーブも勾配も緩く、時速100㎞走行が可能なキハ80系が快走できる最高の舞台のように思えましたが、当時の伊勢線内の最高速度は、全線時速85㎞に抑えられていました。これは最高速度を抑えることによって伊勢線の線路保守点検の周期を伸ばし、これで経費を抑えているのだと私は聞きました。もちろん現在は並行する近鉄と競うために許容最高速度は上がっており、特急は時速110㎞。普通列車でも時速100㎞だとのことです。線路も一部が複線化されスピードアップ策が講じられています。分割民営化後に「快速みえ」が登場するまでは、伊勢線(伊勢鉄道)は対近鉄という機能はなく、名古屋対東紀州の直通列車だけを対象にした使われ方でしたから、国鉄では短絡化できたことで十分で、さらなる高速化を求めるより経費節減という選択であったのかもしれません。




この記事へのコメント
急行真田丸
キハ82の助士席への便乗、羨ましいです。
運転席からの眺めは、いかがでしたか?
他にも機関車とかに便乗されたことは、ありますか。
それにしても、伊勢鉄道の価値は、高いので、再びJR東海になってくれないかなと期待しているのですが、しなの7号さんは、どう思われますか?
NAO
特急乗務のお話しですが、臨時便ですが、一度183系国鉄特急色「踊り子」グリーン車に乗ったとき、検札に来られたのは若い「車掌」の腕章の方だったことがありました。その数日後、横浜線のゲタ電車両に乗っていて、車内巡回に来られた車掌さんの腕章は「車掌長」で、なんだかチグハグな感じがしました。
運転手さんの行路は、同じ日で特急も普通も混在なのですね。何年も前ですが、鉄道J誌で、東海道151系特急運転士さんの記事を読んだのですが、名古屋-熱海間を2日間往復されたのち、3日めは名古屋-岡崎間の普通電車で往復乗務の行路であったことが書かれていて、当時の花型運転士も特急以外の単独行路があることに、ちょっとオドロキでした。
まったく私的なお話しで恐縮ですが、何人かの方々からのご進言があり、先週末よりブログを開設しました。
http://ameblo.jp/kumagorou-kumako
鉄分薄めの内容ですが、またお時間がございましたら覗いてやってみて下さい。
C58364
伊勢線の普通列車をのんびり運転した後に、今度はキハ82での高速運転は運転士さんにとってどんな感じでしょうね。自転車から自動車に乗換えたくらい違う気がしますが。
キハ82の運転台は、青色ガラスに囲まれた広い運転台でしたので格好よかったですね。
しなの7号
気動車の場合には、車内巡回途中に駅に着いてしまいそうなときや、無人駅の集札位置の関係で、前の運転室でドア扱いすることが多々ありましたから前部運転室でに立ち入ることはふつうにありました。ですから前部の運転室に乗ること自体が珍しいことではなかったのですが、普通車掌でキハ82の運転室に入室できる機会はこういう行路でないとありませんでした。
貨物列車の機関車便乗も経験がありますが、やはりお願いして乗せていただく立場ですので、邪魔にならぬよう、通常は空っぽの後部運転室に乗せてもらいました。運転室は狭苦しいのが普通ですが、EH10の運転台だけは広かったです。
伊勢鉄道は、国鉄時代に特定地方交通線となったため地元出資で第三セクター化されたわけですが、JR転換後の受益者負担の例として、JRの車両や地上設備を地元が出資して更新する例は多くあります。そのほかにも経営形態やその権利関係が複雑な鉄道が多くなり、わかりにくくなったことは確かですが、公共交通機関であるとともに一民間企業であるJRですから、うまく地元と連携して利便性が高い鉄道を実現していただきたいと思います。
しなの7号
キハ82南紀は、伊勢線内では高規格線なのに時速85㎞制限を受けての余裕ある走行でしたから、揺れは問題になりませんでした。普通列車の後部運転室に便乗してその助士席で売り上げの集計をすることはありましたが、狭い運転室内ではドア扱いのとき本務の車掌の邪魔になります。客室に空き座席があれば、そこで集計することもありましたが、乗客の目もある場所で現金を扱うのは好ましくなく小銭が座席の隙間に落っこちたりすると大変でした。キハ82の先頭運転室の助士席には計器類が少ないので机代わりにもなりましたし、自分は立って皿状にくぼんだ助士席座席に小銭をジャラジャラ出して数えることもできました。
私が所属した車掌区では、特急・急行のグリーン車は車掌長行路に乗務する車掌長(チーフ)が専ら担当しました。他区の乗務員運用を調べたことはないので存じませんが、たとえば国鉄本社採用者の現場実習生はチーフの指導で特急にも乗務していました。また車掌長であっても、車掌長行路でない乗務や特別改札で乗務する場合には、腕章は専務車掌だったりしました。特急・急行でも車掌長が車掌長腕章を使わずに専務車掌腕章で統一していた区もありました。運転士も車掌も、局や区によって乗務員運用などはそうとう違っていたと思われます。
ブログ開設おめでとうございます のちほど訪問させていただきます。
しなの7号
たしかに運転される側も、普通列車と特急列車とでは同じ線路でも相当に感触が違うのでしょうが、伊勢線の場合は高規格線なのに全線時速85㎞の制限があっては力をもてあまし気味で、手加減が必要だったようです。線形が悪い関西本線に入ってから最高時速95㎞まで許容されるという不自然さも感じました。
運転室のガラス窓は青色が入ってましたかね?実は色を意識したことはありませんでした。今のキハ85のようなガラス面積には及びませんが、側面まで伸びた曲面ガラスは、普段乗りなれたどの車両よりも開放感がありました。
天鉄竜機
本当に便乗には苦労しました。紀伊田辺時代、紀勢線の夏は多客期です。指定列車は急行でしたが、特急列車で機関士と二人で。後部運転席はクーラーが効きません。ま~機関車は冷房そのものがありませんから。
寮住まいでしたが、実家は大阪。ダイヤ改正の度に急行の特急格上げがあり、専務車掌にお願いして乗ってました。
急行のように止まる特急がありましたね。
割引コード75でしたか?。丸職。
しなの7号
長時間の便乗は大変でしたね。定期行路で一番長かった便乗は、紀伊勝浦~名古屋。多客期は尾鷲~松阪間が一番混むんで、特急だとデッキに立ちましたが、急行だったら中間の運転室へ。なにせ一晩寝てない状態なので今ならとても耐えられないです。
手書きの切符世代の車掌なので割引コードとは無縁でした。
窓口で買うとカタカナ主体で「シヨク割」と印字されていましたね。
鉄子おばさん
しなの7号
キハ181とキハ82、よく似て非なるこの2系列。子供のころ地元でいつも見ていたしなの号で愛着があるキハ181、国鉄で仕事をしていたころ、名古屋駅でいつも見ていたキハ82、どちらも思い入れが強い特急車両です。
私が国鉄に入る前の国鉄全盛期に、トワイライトエクスプレスがあったとしたら車掌長・専務車掌が各1人に乗務掛(列車ボーイ)が各車(あるいは2両に1人)に付いたのではないかと想像します。別に最後部乗務員室には運転車掌と呼ばれる、運転保安要員の車掌が乗務したかもしれないです。
鉄子おばさん
しなの7号
私もトワイライトエクスプレスには乗車する機会がありませんでした。鉄以外の方に豪華長距離列車に乗る楽しみを伝えた功績は大きいと思いますし、乗務員の方々も誇りを持って乗務されたことでしょう。長距離夜行列車ならではの計り知れないご苦労があったものと思いますが、国鉄亡きあとに誕生した数少ない名列車だと思っています。
pod
よそで見かけた貨車の「白票」という言葉がわからず検索してこのサイトを見つけ、以来国鉄時代の現場を知れるサイトとして更新の度拝見しております。国労と鉄労の現場における労労対決など、他で目にすることができない内容を楽しんでいます。
国鉄時代の便乗について、特急には便乗できなかったこと、初めて知りました。伝え聞く限り東日本会社でも前便乗の禁止徹底は5年前ぐらいと記憶しており、国鉄時代は本当におおらかだったのだと思います。これについてぜひ質問したいことがあり、初めてコメントを致しました。
これはいわゆる前便乗に当たり、終業時刻より早く帰区出来たことと思います。更に、点呼前の事務作業も便乗中に行うことが出来、終業時刻よりも相当早く業務終了となったかと思います。
この場合、実際の退勤時刻は作業ダイヤに従ったものだったのでしょうか?
業務終了後も手待ち時間として待機なされていたのならば、往時の国鉄の現場モラルは事実上、必要十分満たされていたと言えるでしょうが、繰り上げて退勤していたのならば空勤務と呼べ、モラルは低下していたと言えます。ぜひ教えていただきたくコメントいたしました。
なお、当然著者の責任どうこうの質問ではありませんし、すでに時効の話であることがブログの趣旨の一つであることは、理解しているつもりです。
しなの7号
実はこの手のご質問はあるのではないか…なかったとしても必ず疑問に思われる方は多々あろうと思っていましたが、あえてわざわざ本文にはそこのところを書きませんでした。
これについては、私はpod様がご想像のとおり?のモラルのなかで勤務していたと理解していただいて構いません。国鉄に制度上にない事由に対する報酬を超過勤務手当として支払うような形で、いわゆるヤミ超勤などが存在したことや、勤務時間中に風呂に入っていたということが当時世間から批判を浴びていたことをご存知かと思いますが、この便乗もまた似たようなものと思います。世間からの批判を受け、いずれも徐々に是正されてゆき、いつ頃だったか定かではありませんが、所定より早い便乗列車で車掌区へ戻っても帰着点呼を受け付けないようになっていきました。また特急紀伊の飲酒激突事故もご存知かと思いますが、あのあたりから、労使ともに目が覚めていき、無理やり正当化するような言動が減っていったように個人的には思っています。
国鉄時代と一言に言っても、父が勤務したころと私が就職したころ、さらに分割民営化が近づいたころでは、職場環境に雲泥の差がありましたし、地方と都市部でも相当の意識の違いがあったようですから、この回答がすべてではありませんので、よろしくご理解くださいませ。
pod
これからも楽しく拝読させていただきます。
しなの7号
これは、人それぞれに見識の相違があろうかと思いますし、私の個人的な言い訳にもなりますが、乗務員の待遇は一般会社員のような日勤者と違うのはもちろんのこと、地上勤務の夜勤者とも違いますので一括りにして語れない特殊な勤務体系です。乗務中に食事時間としての休憩時間がないなど一般には理解しにくいと思いますが、勤務時間中にメシ食っていたとか、出先で民家に宿泊する場合もあるのですが、そこには風呂がないので真夏に終列車の乗務前に車掌区で風呂に入れば、勤務時間中の入浴だと、理不尽なことでマスコミに叩かれてきたのも事実です。 国鉄は私鉄に比べ、かなりの部分で横着がありましたが、昭和時代のモラルの程度は、国鉄だけが低かったわけではなく、鉄道以外の業種や一般社会においても、ユルイものだったと思います。それは私が転職して地上職の日勤という当たり前にある世界に身を置いたとき、シャバではこんなことも許されていたのかということにいくつも出会ったからこそ、そう思うのです。同時に国鉄では安全を重んじるため、一般社会で許されていたことが許されない厳しい規律があったことも感じ取りました。その後、バブル崩壊で社会そのものが変貌し、社会全体のモラルが是正されていったように思っています。
ただ、JR北海道のような信じられない実態が逆に出てきて、かえって不安になったりもします。
管理人しなの7号
労働基準法施行規則第32条
使用者は、法別表第一第4号に掲げる事業(ブログ管理人注:道路、鉄道、軌道、索道、船舶又は航空機による旅客又は貨物の運送の事業をいいいます)又は郵便若しくは信書便の事業に使用される労働者のうち列車、気動車、電車、自動車、船舶又は航空機に乗務する機関手、運転手、操縦士、車掌、列車掛、荷扱手、列車手、給仕、暖冷房乗務員及び電源乗務員(以下単に「乗務員」という。)で長距離にわたり継続して乗務するもの並びに同表第11号に掲げる事業に使用される労働者で屋内勤務者30人未満の日本郵便株式会社の営業所(簡易郵便局法 (昭和24年法律第213号)第2条 に規定する郵便窓口業務を行うものに限る。)において郵便の業務に従事するものについては、法第34条 の規定(ブログ管理人注:休憩時間の規定)にかかわらず、休憩時間を与えないことができる。
○2 使用者は、乗務員で前項の規定に該当しないものについては、その者の従事する業務の性質上、休憩時間を与えることができないと認められる場合において、その勤務中における停車時間、折返しによる待合せ時間その他の時間の合計が法第34条第1項 に規定する休憩時間に相当するときは、同条 の規定にかかわらず、休憩時間を与えないことができる。
天
またまた過去ログへのコメントをお許し下さい。m(v..v)m
「キハ82」この車両は、私の国鉄ひいては鉄道への原点です。小学校2年生のとき、学研の機関車電車という図鑑に載っていてそれこそ一目惚れしてしまいました。私の初恋が小学校5年生
の時なのでそれよりも3年も早いのです。
このキハ82の運転席に、私、乗ったことがあります。
小学校6年生のとき、親にせがんで「特急くろしお号」に一人乗せてもらいました。キハ82は運転席の後ろに発電機が搭載されている機械室があり運転席は全くといっていいほど見えないのですが、小学生の私は亀のように首を伸ばし、必死に覗き込んでいました。
しばらくして本務ではない、通票授受に乗務している補助運転士(このような呼び方でいいのかな。)機械室のドアを開けて客室に入ってきてこうおしゃいました。「ボク、運転席見たかったらこっちへおいない(来なさい)」と言われ、憧れのキハ82の運転席へ入れてもらい、T駅とM駅の一区間に「便乗」させてもらったのです。
その運転士さん達もご存命であれば、70代後半か80代でしょうが詳細を記載すれば、共済年金の受給を剥奪されかねないご時世ですから、これくらいにしときます。
この件から私の国鉄愛はますます大きくなっていきました。キハ82は初恋の「◯◯◯美」さんよりLOVEです。
またまた長文申し訳ございません。
しなの7号
私が小学校6年生になる直前の春休み、父に頼み込んで181系気動車特急しなの号に初めて乗ったときのことを想い出しますが、そのときは食堂車に行ってコーラを飲んだ以外は、席でおとなしくしていました。ふだん乗れない列車に乗れたことに満足しましたが、特急の運転室ともなれば、一生忘れられない思い出ですね。
ボクしか知らないキハ82の運転室のヒミツ♪
ボクしか知らない「◯◯◯美」さんのヒミツ♪
どちらも、十分に少年の男心をくすぐりますね。