【535】 国鉄伊勢線6:事故後の一番列車

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昭和57年8月3日、雨の日。
車掌区へ出勤して乗務の準備をしているときのことでした。
乗務員のたまり場とはカウンターで仕切られているだけの事務室で、電話を取った助役がとんでもない大きな声で、
「裸足(ハダシ)になったぁ?! お客は大丈夫か!!」
と叫んでいました。
「ハダシになる」というのは、部内用語で「脱線した」を意味します。近くにいた者は、そのやりとりに釘付けになりました。

その事故を伝える翌日の中日新聞です。
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その事故は、伊勢線の中瀬古~河芸間(当時は伊勢上野駅はなかったので、現在の伊勢上野~河芸間)で、下り127Dが崩れた土砂に乗り上げて先頭の1軸が脱線したというもので、車掌が近くの民家の電話を借りて車掌区へ第一報をしてきたのが、その電話だったのでした。
当時は列車無線が整備されておらず、気動車には乗務員無線機すら常置されていませんでした。非常時の連絡手段としては、車両に常備されている「携帯電話機」を使うことになっていました。現在普及している携帯電話を想像してはいけません。回転ハンドルと受話器がついていて、そこからコードが出ている大きな箱状のしろもので、無線通信機能などはありません。これを持ち出して、沿線のところどころ(約500m間隔)に設置してある携帯電話機接続端子箱(TBボックス)があるところまで走って、その端子に携帯電話機のコードを接続して、電話機のハンドルをグルグル回すと、通信線経由で隣接駅が呼び出せるといった原始的なものでした。しかし近くに民家があれば、民家で電話を借りた方が手っ取り早いので、その時の車掌は便宜上、民家で電話を借りて、電話番号がわかっている車掌区へ第一報の電話連絡をしてきたのでした。伊勢線は比較的新しい路線でしたので、最初から中間駅は日中の鈴鹿駅以外はすべて無人駅になっており、途中の列車交換設備があった玉垣駅でさえも南四日市駅からリモートコントロール(RC)制御されていました。このときも約1.5㎞先に河芸駅がありましたが、無人駅でした。現場近くに駅員がいる駅はないと事故後の連絡は取りにくく、その時の車掌も困って民家に駆け込んだものと思います。

さて、事故現場の状況は、脱線したものの大雨で崩れた土砂の量は大量ではなく、転覆するような状況でもなかったようで、乗客・乗務員ともに怪我もないということでした。
このころの国鉄ではワンマン運転など考えられない時代で、乗務員は車掌と運転士がいました。また現場は単線区間だったので、対向列車が来ることはありません。その時の車掌は、乗客と列車は運転士に任せて、連絡のために走ったということでした。新聞によればこの時の乗客は9人。昼下がりの伊勢線では普通の人数でした。その後、車掌は乗客を次の河芸駅まで約1.5㎞ほどを徒歩誘導して、手配されたタクシーで送り届けたとのことでした。

ところでこの日、私は偶然にも伊勢線の乗務予定で、夕方の列車から1往復半して津で泊まる行路なのでした。
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伊勢線の普通列車は、2両編成の気動車2本を使用し、すべての列車が途中で行き違うというダイヤで運転されていました。脱線した編成1本は動けませんが、この事故の約25分前に現場を何事もなく通過して、四日市に夕方までたどりついたほうの2両編成が私のこの日の乗務列車になる編成なので、脱線現場の復旧後は、その私の列車が開通一番列車となるであろうことが想定されており、私は関西本線の所定の列車に乗務して四日市へ向かいました。

伊勢線の下り普通列車はすべて四日市駅が始発です。四日市駅のホームに乗務すべき車両は留置してあるものの、現場復旧まで時間がかかるので発車は見合わせるということでした。そのまま待機しましたが、とりあえず乗務すべき夕方の1往復129D・132Dが運転休止との指令が出ました。この結果その日乗務すべき列車は四日市発20時24分発津行きの終列車133Dだけになりました。
脱線事故現場では順調に復旧作業が進んでいたようで、20時ごろ開通見込との連絡が入り、私が乗務する予定の下り終列車は運転できるという見通しで、津行きの終列車133D以降は所定行路どおりで津で泊まることになりました。一方で脱線した車両については、車両点検が必要になる関係上、所属の伊勢運転区へ回送されてしまいましたので、その車両の折り返しとなる上り終列車134Dが運休になりました。

そして、133D乗務に当たって四日市駅でこんな運転通告券を交付されました。
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「8月3日20時30分から当分の間、中瀬古・河芸間18k175m~18k222mまで30㎞/h徐行 133Dに限り現場一旦停車最徐行」

「現場一旦停車最徐行」とは、いかにも開通初列車らしい内容の運転通告券でした。初列車だけは念のため一旦停車して支障がないか最徐行して事故現場を通過せよということのようでした。
開通後の初列車でありながら四日市発の終列車でもある133Dは、四日市を一人の乗客がない状態で発車しました。この列車も元来、以前にセルフサービス列車として紹介した津発の終列車134Dに負けず劣らず閑散とした列車でしたが、今、乗務日誌のメモを見ると、その前月の乗務のときの乗車人員は3人、前々月に至っては1人ということが書かれています。そんな列車でしたが、この事故の日だけは、その後も中間駅での乗降客は皆無で、ついに終点の津まで1人の乗客もないという全くの空気輸送列車になりました。約6年間の車掌~専務車掌経験の中では、全区間無人を記録した列車というのはこの時だけだったのではないかと思います。

その列車では、現場の状況把握と一旦停止時に現場と運転士と三者ですぐ連絡が取りあえるように、私は中瀬古駅発車後に先頭車の運転室へ行き、運転士とともに前方を注視していました。現場に近くなると運転士は盛んに汽笛を鳴らしてゆっくりと進みました。やがてカーブした掘割区間の向こうに、作業用の照明に照らされた現場が映し出され、大勢の作業員の姿と、流入した土砂でバラストがすっかり埋もれ、黄土色に成り果てた路盤に2本のレールだけが露出してヘッドライトに照らされて光っているのがわかりました。運転士はその手前で慎重に停車したのち、汽笛一声、大勢の作業員全員が注目する中を、歩くよりも遅い速度で通り過ぎたのでした。

そのときの脱線事故現場はこの画像付近でした。画面手前が津寄りです。画面左側の斜面から土砂が線路内に入りました。
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翌日は、伊勢運転区からの代替編成が間に合わなかった四日市発の一番列車が運休したほかは平常運転に戻り、私が乗務する津発の一番列車は所定運転でした。津駅では、また運転通告券の交付がありました。
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最後に「徐行信号」とあり、昨夜はなかった徐行信号機が現場に設置されたようでした。
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【279】武豊駅乗継詰所での思い出で以前書きましたが、この伊勢線の事故の約1年前に、雨による道床が陥没していたと思われるのを知らずに自分の列車が通り過ぎていたことがありました。このようにふだん乗務している線区で災害があると、いつ自分が事故の当事者となってもおかしくないなと思ったものです。

伊勢線の思い出を連続して書き連ねてまいりましたが、来週で最後にします。

この記事へのコメント

  • C58364

    おはようございます。
    そういえばこの新聞記事を見たような気がします。
    JRになってから快速「みえ」で伊勢鉄道線を通った感じでは、高架線というイメージが強いのですがこんな区間もあったのですね。最近の雨の降り方は怖いので、どこで災害が起きても不思議ではなくなってしまいました。
    開通一番列車に乗務された緊張感が伝わってきます。
    2014年11月24日 06:50
  • しなの7号

    C58364様 おはようございます。
    伊勢線は平野部を走っていますが、こうした掘割区間があり、トンネルも1か所あります。最近はゲリラ豪雨がよくありますが、JRは早めの運転規制を徹底するようになりましたね。部外者としては夏の中央西線南木曽の土石流のときも、上手く対応できたものと感じました。
    2014年11月24日 10:02
  • NAO

    こんばんは。
    私も伊勢線を通ったことがありますが、殆どが高架か盛り土で、地平を走る区間があったとは思いませんでした。
    80系時代の特急「南紀」が河原田手前の高架を駆け上り、快調に伊勢線を走り抜けて津駅に着いたと思ったらそこから先は通票閉塞に変わり、窓越しにタブレット授受を見ながら走るのはローカル特急に変身したように思えました。
    一度、名古屋方面への近鉄特急に乗っていると、向こうの方の伊勢線を走る85系「南紀」としばらく並走し、JRになってからは以前にも増して頑張って走っているな、のように見えました。
    2014年11月25日 00:14
  • しなの7号

    NAO様 おはようございます。
    伊勢線は市街地を避けて?近鉄名古屋線より山側に敷設されているので、近鉄沿線とは地形がちょっと違います。

    考えてみると、私は三重県方面に行く場合はJR東海が発売している青空フリーパス(伊勢鉄道もフリー区間に含まれる)を利用することが多くて、近鉄の列車からJR線を走る列車を見たことがあまりないですね(^_^;)
    JRと連携した企画乗車券というソフト面、最高速度向上と一部複線化というハード面、どちらをとっても利用しやすく成長したものだと思います。
    2014年11月25日 07:37

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