今回も、奇しくも脱線事故と同じ区間である伊勢線の河芸~中瀬古間(伊勢鉄道線に転換後に伊勢上野駅が開業しましたので、現在の伊勢上野~中瀬古間にあたります。)での出来事でした。
時は昭和58年○月〇日。あの脱線事故から約1年後の夕方、津から四日市へ向かう130Dに乗務中のことでした。この列車は下校時間にもあたっていましたので、乗客も30人くらいはあったように思います。
列車が伊勢線唯一の短いトンネルの中で非常ブレーキがかかって停車しました。
下の画像はそのトンネルの現状ですが、当時とそれほど変わった感じはしません。複線用として掘られたトンネルですが、今でも単線のままになっています。
運転士から車内電話で
「置石やられたわ~。ちょっと前まで来てくれんか。」
短いトンネルで中瀬古駅寄りの出口付近での出来事でした。レールを見ると、片方のレールだけが砕かれた石の粉末にまみれていました。その範囲は長く続いていて一つや二つの石ではないことが判りました。
車内放送で、
「置石がありましたので、しばらく停車します。」
と放送して、乗務員室ドアからトンネル内に降りて、レールと車輪を気にしながら先頭車両へ向かいましたが、この間、線路は砕かれた石の粉にまみれていましたが、脱線はしていませんでした。そのまま先頭まで行くと、さらに驚くべき光景を見たのでした。
停車した列車の行く先のレール上には、まだ石が並べられ、通信ケーブル埋設用のコンクリート製の蓋までも置いてあったのでした。踏み残してしまうほど多くの石が進行右側のレール上だけに置かれていたことになり、こんな大量の置石は私は初めて見ました。辺りには人影は見当たらず、証拠物件として踏み残した石数個を車内に載せ、残りはレールから取り除き、運転士と2人で、車両に異常がないことを確認の上で、発車したのでした。この間約4分。踏み潰した石やコンクリート片で白っぽくなったレールとその下のバラストが後部運転台から遠ざかっていきました。その現場は、一年前の脱線現場から、わずか1.5㎞しか離れていませんでした。どうやらここは魔の区間と言えそうです。
こういう事故があると、車掌区に帰区してから運転事故報告の提出を求められました。
<<運転事故概要>>
種別:列車妨害
発生:昭和58年○月〇日16時13分 天候 晴れ
場所:伊勢線 河芸駅・中瀬古駅間 南四日市起点16k700m
列車:上り旅客 気第130D列車 現車2両 換算8両 動力車キハ4512号 伊勢運転区
状況:以下のとおり
本列車、河芸駅定発し、時速50㎞/hで惰行運転中、上記地点約60m手前にさしかかったところ、前方進行方向右側レール上に、石 約100個程度(線路バラス)が約60mに渡って置いてあるのと、ケーブル埋設用コンクリート製蓋1個がレールにもたせかけてあるのを運転士が発見。直ちに非常停止手配を取り50m行き過ぎて停車した。約10mに渡り10個ほどの石が残っていた。付近に人影がなく列車に異常がなかったので、直ちにこれを除去して、現場4分停車のうえ発車。中瀬古駅に4分延着した。
死傷人員:なし
本線支障時分:4分
原因:何者かの妨害と認められる。
処置:四日市駅長に状況を通告。犯人の捜査を依頼した。
関係者:気動車運転士 亀山機関区 〇〇 〇才
当務駅長 四日市駅 △△ □才
提出した運転事故報告は、だいたいこのような内容でした。このように速度や状況など、運転士でないとわからないことが多かったので、乗務終了後に機関区の当直に乗務終了後に連絡を取って、機関区側で完成した事故報告を車掌用に文章をアレンジして提出というのが一般的でした。
この事故後に129Dと南四日市駅で行き違いました。南四日市駅は島式のホームなので、私はホーム上でその運転士にこの事故の概要を簡単に説明し、中瀬古駅を発車したら気を付けるよう伝えました。
画像は現在の南四日市駅を出ていく伊勢鉄道への直通列車。そして事故現場ではさらに続きがあったのでした。130Dの事故から約55分後、その129Dがトンネルにさしかかると、また置石が発見されたのでした。その列車の運転士は、南四日市で私が連絡しておいたのであらかじめ徐行していたそうです。そのため置石を踏むこともなく直前で停車し、付近にいた小学生2人を、運転士と車掌との二人で捕まえて、終点の津駅まで列車に乗せて行き、津駅を経由して警察に引き渡したということでした。
2人は近くに住む小学生で、2つの列車に置石をしたのを認めたと聞きました。
それにしても、現在の鉄道車両と比べれば頑丈で重い国鉄車両は脱線せず、列車に異常がなかったのは幸いでしたが、現在は、軽量かつ高速運転をする鉄道車両がほとんどですから、このような置石によって人命にかかわる大事故に発展することは必至です。軽量化高速化は現在の鉄道の弱点でもあり得ますので、ぜったいにこのようなことはしないでください。元鉄道従事者から皆さんへのお願いです。



伊勢線での出来事について、これまで6回に分けて書き連ねてきましたが、今回で終了です。
超ローカル線のくせに思い出すことは、いろいろあって長くなってしまいました。伊勢線で定期列車に乗っていたのは昭和50年代後半で、普通車掌だった約3年間でした。専務車掌になると支線系の乗務がほとんどなくなりましたので、そのあと退職までの約3年間で伊勢線に乗務したのは1回だけでした。それは名古屋局のお座敷列車で紀伊勝浦へ向かう臨時団体列車の乗務で、津で天王寺局の車掌と交代しました。その折り返しは伊勢線普通列車の補助乗務に指定され、それがこの線区最後の仕事になりました。その日、津駅で折り返しの合間に本務の普通車掌氏に撮っていただいたのが、この写真です。1986年2月22日126D列車四日市行でした。そして下はその同じ場所の現況
この記事へのコメント
C58364
キハ45は東海地方では馴染みが無い気動車ですが、重い国鉄型ですし速度も低かったでしょうから難を逃れられたのでしょうね。興味本位では許されないことですので、絶対にやめて欲しいですね。
急行真田丸
置石危なかったですね。乗客や車両に異常が無くて、なによりです。
さて、私も昭和の終わりころに片町線長尾ー大住か大住ー田辺の間で、投石に遭いました。その区間は、丁度、堀切の区間で、堤の上からこぶし大の石が投げ込まれ、ガラスは、当然、粉砕し、石とガラス片が車内に散乱しました。幸いにもボックスタイプのキハ40で、投げ込まれたボックス席には、乗客がおらず、怪我人はなしでした。
堤の上を見ると、子供2人の姿が・・・
この影響で、現場に10分位停車して、車掌さんがガムテープで、仮の修理をしていました。
後一つボックスがずれていたら、自分が当たっていたと思うとぞっとします。
非常時に対応する訓練で、面白い話があれば、また、ブログに載せて下さい。
しなの7号
重量が重く非力な国鉄形車両は、もはや風前の灯になりましたが、新世代の車両たちは軽量化と高速化運転によってこういう列車妨害には弱くなっているのではないかと素人的には思います。ぜったいにやめていただきたい思いも伝えたいです。
しなの7号
キハ40時代の片町線に私も乗ったことがあります。103系への朱色どうしの乗継が印象に残っています。
投石、危ない目にあわれましたね。車掌時代に先輩が投石によって負傷したことがありました。フィリピンでは今でも普通にあるようで、窓に金網が張ってありますし、宮脇俊三氏もフィリピンで投石による被害に遭っています。
国鉄時代の訓練…というより、教育機関での養成期間中のエピソードをいずれご紹介できたらと思いますが、いつのことかは全く不明です。ごめんなさい。
NAO
機関区側で作成した事故報告書と内容が大きく異なってもいけませんから、やはり内容のすり合わせをされるのでしょうね。それにしても小学生が通信ケーブルの蓋まで外すというのが信じられないほどです。脱線しなくてなによりでした。
私だったら普段普通車掌さんが乗務されている線区に、乗客専務さんが乗ってこられたら感動ものだと思います。天が舞い降りた、みたいな。
夏の北海道で、専務さんが白麻盛夏服で普通列車に単独乗務されているのを2回見たことがありました。1回はローカル急行乗務が絡む行路かと思いますが、もう1回は優等列車の無い線区でした。
いつも疑問なのですが、補助乗務を含め、相方が他車掌区の方ということはあったのでしょうか。
しなの7号
このような事故の場合には、速度や、惰行か力行かなど運転状況が車掌には全く分からないので、運転士の乗務終了後に所属区に確認していました。
私のような者は駆け出し専務なので、ローカル線に似合いますが、乗務する優等列車が少なくなった時期だったか、車掌長下位組が103系ローカルに普通車掌と一緒に混雑時の長大編成対応として増乗務するケースが発生し、さすがにあれは不釣合で役不足でした。
私どもが専務車掌になる前でしたので、直接関わってはいませんが、分割併合を伴う関西・紀勢・参宮線関係の定期急行で他区との混乗乗務列車がありました。
北恵那デ2
しなの7号
私はわずか11年で鉄道から足を洗った?人間ですが、それでも10年以上もずっと列車に乗っていると、よく起こりがちな事故にはだいたい当たったようにも思います。
やはりいちばんイヤなのは人身事故ですが、鉄道に限らず誰しも一歩家を出れば事故の危険にさらされるわけですから、なにも認知症でなくても判断を誤ると事故に巻き込まれたり、事故原因を作ってしまったりということはあり得ます。お互いに気を付け、また気をつけてあげなくてはなりませんね。
サンダーバード46号
私が小学生高学年の頃だったかと思いますが、京阪電鉄の急行電車が置石で脱線し、多数の負傷者がでました。この事故も小学生か中学生のグループが補導されて、京阪電鉄から保護者達に損害賠償の民事訴訟が提起されて、最終的には示談となりましたが、賠償金の負担割合で長期にわたり争っていたように思います。当時は子供心ながらに、線路に置石をしたら大変なことになると感じたものでした。
しなの7号
この事故後に国鉄が採った対応を私は知りません。警察沙汰にはなっていることはわかりますが、損害が出るようなケースでは鉄道管理局のそれなりの部署の管轄になると思われます。回答にならず申し訳ありません。
関係ない話ですが、数年前に官報に某鉄道会社が申立人となっている強制執行事件が載っていました。損害賠償の債務不履行があったのでしょうか?その内情を知りたくなってしまいました。
ラモス
それにしても良くぞ小学生を捕まえられたものだと思います。子供の心理としては本数が少ない分、立ち入り易かったのではないでしょうか。あまり大声では言えませんが、子供達にはあのガード下や無人の駅が格好の隠れ場所でした。
自分は廃線の2年前に新潟に越してしまい、最後を見ていません。ですが掲載された写真達の近くで、自分も生活してたんだなと思うと本当に感慨深いです。
あの寂しい伊勢線を、これだけ詳しく取り上げたブログは無いと思います。
本当にありがとうございました☆
しなの7号
129Dの乗務員2人は、事故を未然に防いだことに加え犯人を捕らえたことで、部内で褒賞があったものと思います。トンネルしか逃げ道がないような場所でしたから追い詰められたのでしょうか。おっしゃるように無人の鉄道施設は子供たちにとっては秘密基地的な遊び場にもなっていたことでしょう。その129Dの車掌は同じ職場の先輩にあたりますが、私同様に分割民営化とともに鉄道から離れ転職されました。その後の消息は存じていませんが、職員からも乗客からも好かれる楽しい方でした。
伊勢線の一連の記事ご覧いただきありがとうございました。
私の乗務範囲でいちばんローカルな乗務の中に、これだけの思い出が詰まっています。
鉄子おばさん
しなの7号
本文中にも書いたように今どきの列車ですと、より危険な結末が想定されます。けっしてマネしないでいただきたいものです。
訓練会は国鉄時代にもありました。勤務が職員一人一人異なる職場なので、何日間か連続で開催され、休日や勤務明けに合わせて出席しました。
急行 平田町行
あと、専務車掌になられると伊勢線乗務がほとんど無くなる事が意外でした。支線といえども路線の性格上、優等列車や臨時列車で頻繁に往き来されていたのだろうと勝手に想像していました。
これからも懐かしい東海地区の話題や、私の知らない国鉄時代のお話を楽しみにしています。
しなの7号
子供の感覚というのは、大人にはわからないことが多いものですが、教育するのは大人の役ですから難しいですね。
もっとも大人でも、「むしゃくしゃしてやった」などという理由で大事件を起こす方もありますが、それもまた困ったものです。
伊勢線は新しい路線ですので、特殊性がありました。旧来のローカル線であれば、最寄駅に車掌職場がありましたから、専務車掌になっても車掌長になっても車掌腕章のままでその路線ばかりに乗務したのでしょうが、伊勢線では大車掌区から毎日派遣のようなかたちで普通車掌が来ていましたから、そこで専務車掌になれば本線系乗務が中心になりました。しかも伊勢線の特急急行は、天王寺鉄道管理局管内だった紀勢本線直通列車ばかりでしたから、それらに乗務する専務車掌と車掌長は天王寺局・名古屋局との2局分担していましたから、私どもが伊勢線内を乗務する機会は格段に減りました。