先週に続きまして、国鉄車両の暖房の話です。今回は気動車です。
私が車掌だったころ、よく乗務していた気動車が急行形キハ58・28・65 通勤・近郊形キハ35、40、48などでした。これらの形式の暖房は編成一括での制御ができませんでした。そのため1両ごとに暖房状態を確認する必要がありましたので、厳寒期には暖房は入れられたままの状態にしていました。気温によっては車両によって暑すぎたり逆に寒かったり各車で車内温度のばらつきがありました。暖房の熱源はエンジン冷却水の排熱利用であって、自動車のヒーターと同じようなものです。(キハ55以前の気動車では温気式であり、特急形80系は発電機による電気式の暖房を採用していましたので、いずれも該当しません。)
この中で、キハ40・48は当時の最新式で、電車のように編成一括での暖房制御こそ不可能でしたが、暖房方式は、エンジン冷却水を熱源としているのは他車と同じながら、温風をダクトで車内に送る温風式になっており、その入切は各車の運転台助士席背面にあるスイッチ操作で行うことができました。温風は外気を導入して熱していましたが、外気を遮断するスイッチも併設されていて、このスイッチを入れると温風は室内循環に切り替わり、厳寒期でも暖かい車内温度を保つことができました。さらに、隙間風が少ないことに加えて自動温度調節方式だったので、スイッチさえ入れておけば室内温度が下がることはなく、また極端に上がりすぎることもなく、安心して乗務できました。ただ、混雑時には暑すぎることがありました。
1982年(昭和57年)1月5日
関西本線 623D
運転区間・乗務区間
名古屋8:39~亀山10:07
キハ48 2 名ミオ
キハ48 525 名ミオ
(太51)
普通列車ではキハ35に乗務する機会が一番多く、これは暖房の効きが非常によくない車両でした。このことは以前にも【104】乗務した車両:キハ35系気動車で最後のほうに書きましたので、その状態や対策について、ここでは書きませんが、最大限に暖房しても暑すぎてしまうことなどないので、暖房温度の調節など気にする必要がないくらいでした。
1982年(昭和57年)1月12日
武豊線 947D
運転区間・乗務区間
武豊16:56~大府17:30
キハ28 2093 名ナコ
キハ35 49 名ナコ
キハ35 117 名ナコ
(名52)
上の例は真冬の武豊線の編成です。通常キハ35ばかりの3両運用にキハ28が紛れ込んだ珍しい編成例です。
キハ35のほかキハ45、キハ28、キハ58、キハ65とグリーン車キロ28は、キハ40や48のような温風式ではなく、温まったエンジンの冷却水そのものを、窓側足元に配した温水放熱管に循環させて、その放熱で車内を暖める方式でした。
特に急行形の場合は出入台が独立していて密閉性が良いことから、暑すぎることがよくありましたので、車内巡回時に各車の中央部座席下にあるバルブを回して温水放熱管に流れる温水の流量を調節したり、場合によっては止めたりすることで、車内温度管理をしていました。気動車に乗務すると、このように各車の座席下にある汚れたバルブを回したりしますし、車体の各部が排煙で汚れていますので、白い手袋を着用してもすぐ真っ黒になってしまったものです。
鉄道ファンですと、キハ58とキハ28はエンジンの数が違い、キハ58はエンジン2基、キハ28のほうはエンジン1基を搭載しているのをご存じの方は多いと思います。キハ58の出力がキハ28の2倍なら、暖房能力も格段に違いました。暖房の温水放熱管は窓側足元左右両側に通っていますが、キハ58のほうは、左右それぞれの暖房放熱管に1基ずつのエンジンから別々に配管されており、温度調節するバルブも当然キハ58では左右2個ありました。キハ58とキハ28は同系車で同じ車体構造であるにも関わらず、キハ28よりキハ58のほうが暖房能力は圧倒的に強力で暑くなりすぎる傾向にあったわけです。
では、大出力機関を1基装備したキハ65はどうかといえば、私が乗務していたのは寒地向の500番台ばかりであったにもかかわらず、キハ28より暖房が効かない傾向にありました。座席下の調節バルブ直径は、他形式車のそれが水道の蛇口程度の大きさだったのに対して、キハ65のバルブは直径が異常に大きく10cm以上あったのを覚えています。
寒い冬の朝、一番列車で、始発駅で発車前に温水放熱管のバルブを各車全開にして発車後、しばらくして車内巡回に行ったときに、中間に連結されていたキハ58の車内に入ってびっくりしたことがありました。車内の床が水浸しになっていたのです。その車両では、列車がブレーキをかければ、慣性の法則とやらで、漏れた水が客室内を前方に流れて前寄りの出入台まで押し寄せてきます。加速すると逆に後寄りの出入台に向かって車内を流れます。最初は洗面所かトイレの漏水かと思ったのですが、原因は暖房温水管からの漏水で、どのあたりから漏れているかだいたいわかったので、そちら側の温水放熱管バルブを閉めてやると、それ以上漏水が増えることはありませんでした。キハ58の場合は前述のように左右2系統の温水放熱管があるので、漏れていなかった片方の温水放熱管バルブは全開にできましたので、暖房がまったく使用できない状態にならずに済みました。また発車してからすぐ気が付き、この間にはほとんど乗客がおらず、ごく少数の乗客を他の車両に誘導しただけでした。朝の通勤時間帯に入って混雑するころには、床の水も出入台から外へ流れたり蒸発していき、「やけに濡れているなあ!」と思われるくらいまでになり、結果的にたいしたトラブルにもならずに済みました。
次週は、キハ58系編成列車の暖房調節の実態を、実際に乗務した列車を例にとり、思い出し書きをしてみます。
この記事へのコメント
C58364
美濃太田以北の寒冷地にも、両開き3扉の新キハ25形が運転を開始したばかりですので、タイムリーなテーマですね。
気動車の暖房方式は同じ方式かと思っていました。
キハ55以前の温気式→キハ58系のエンジン冷却水の循環方式→キハ40系のダクトによる温風方式。こんなに替わっていたとは・・。
普通列車用のキハ17・25などに比べて、急行型キハ58・28は熱いくらい暖房が効いていましたので、さすが急行型は違うな~と感心していました。キハ58は暖房能力が2倍とは知りませんでした。暑いな~と思ったことがありますがキハ58だったかもわかりませんね。
当初、高山本線に投入されたキハ40・48は寒地向けのデッキ付き車でしたので、暖房がよく効いていましたがキハ58との違いには気づきませんでした。何気なく気動車に乗ってましたが暖房方式もずいぶん改良されていたのですね。
名ミオのキハ48が関西本線で働いていたのは知りませんでした。名ナコが車両不足だったのかも・・ですね。
なはっ子
北恵那デ2
門ハイ
しなの7号
鉄道車両の暖房事情は変わってきているのでしょうね。私はJR東海のキハ25にも乗る機会はまだありませんし、今時の鉄道車両のことは、まったく無知なので具体的には何も申せませんけれど。
キハ58は暖房能力が2倍…と実は私も最初本文に書きかけたのですが、車両1台あたりの暖房放熱管の長さは同じですから、エンジン1台あたりの暖房放熱管は半分になり、そのため「格段に違いました」という表現にしました。いずれにしてもキハ58は往々にして車内温度は上がりすぎる傾向にありました。
昭和50年代、名古屋第一機関区所属の気動車は特急急行用が中心で、少数配置されていた普通列車用気動車の運用区間は武豊線だけでした。関西本線名古屋口電化前の普通気動車列車には、名古屋第一機関区所属の普通列車用車両を使用した列車はなく、美濃太田機関区所属車の2両普通列車用車両編成1本が亀山まで毎日運用され、そのほかの気動車列車には天王寺鉄道管理局所属車両が使用されていました。
本文に掲げたキハ48の編成は暖地用0番台と寒地用500番台の混成です。寒地向きは暖地で使用しても可という考え方だったのかもしれません。
しなの7号
私の場合は武豊線の超寒いキハ35に乗務する機会が多くて、窓ガラスに汗をかくような暖かい気動車の乗務は、朝夕の急行間合編成のキハ58系くらいのものでした。その場合は窓ガラスの曇り具合が、外見から暖房状態を判断するための重要な情報になりました。最近の車両で窓が曇らないのは複層ガラスを採用しているからという理由もあるのではないのでしょうか?
しなの7号
気動車の暖房方式の歴史をさらに遡ると、排気熱による暖房があったようです。
子供のころは温気暖房のキハ17など、車内が油臭くて乗り物酔いをしそうで嫌でした。そういう点からも客車の蒸気暖房は好きでした。旧形客車の暖房については過去に少し触れましたが、今回、電車の暖房・気動車の暖房と記事を続けましたので、旧形客車の暖房についても、再来週あたりに過去記事の引用も含めて記事アップする予定でおります。
しなの7号
形式別の暖房の印象。そのとおりだと思います。
キハ58系の暖房はよく効いたので、バルブの開け具合の調節が難しいところでした。その話は来週アップしましょう。
九州北部も気動車の宝庫のような土地柄でしたね。初めて九州へいった高1の夏。初めて見るキハ58の800番台混結の普通列車はじめ、気動車列車の見事な編成美?を見て感動したものです。
NAO
以前、冷房のお話しをアップいただきましたが、早いものでもう暖房の内容の季節ですね。
前回コメントで書かせていただきましたが、キロ28の車内が寒いとクレームをあげる乗客があったとき、さっそくカレチさんは床の蓋を空けてバルブらしきものをひねっておられました。別段それほど寒くは感じなかったので、たぶんジェスチャーではなかろうかと思いましたが。
このとき乗っていた中村夜行のDC、高松発車時は私には心地良い車内温度で、目が覚めたらなんと窪川ループを過ぎた直後でした。
ちなみにキロ80は通路には絨毯が敷かれていなかったと思いますが、これも床面に何かしらの点検口でもあったからなのでしょうか。
しなの7号
そのようなジェスチャーでその場をつくろうことは、私の場合もありました。接客業ならたぶんどこでもありそうですね。グリーン車を担当する車掌長は特別に空調には気を配っていました。
列車内で熟睡できない自分にとっては、快適な温度であっても窪川ループが気になって眠れないような気がします。北斗星に乗って初めて北海道に渡った時の青函トンネルもそうでした。
キロ80の場合は電気暖房でしたから暖房関係のバルブはないと思いますが、その辺の事情はわかりません。
急行 陸中
元国鉄マンのお話楽しみにしてます。
寒冷地の気動車やはりデッキほしいと思います。
高山線の48、40デッキがなくなり
冬は、ドアの開閉のたびとかく寒いの一言です。
しなの7号
豪雪地とか寒冷地を走る列車の車窓から見える家々の玄関前には風除室がありますが、あれは、まさに車両で言うデッキですね。風雨風雪の吹き込みも防ぎ、室温を保つ部分です。鉄道車両でも、暖地と寒地と同じような構造では無理がありますが、コストと乗降にかかる時間短縮を優先した結果で、快適性を犠牲にしたのでしょう。列車旅を楽しむ者からすれば残念ですし、ローカル鉄道の旅の魅力も半減ですね。
ヒデヨシ
今回が予告されていた、気動車暖房編ですね。
これまた随分面倒!
ご苦労が想像できます。
気動車と言えば住んでいた近所の路線、部内通称「お武」こと武豊線です。
国鉄時代はほぼキハ35オンリーで隙間風が半端ない形式で確かに暖房効いてんの?と思ったことがあります。
恐ろしいことに、寒地仕様500番台とか寒地仕様以上の寒地仕様富山地区0番台とかあってありえない‼
武豊線は朝、グリーン車付きのりくら編成が使われていたのを見るのが嬉しかったです。
しなの7号
キハ35の0番台、富山第一にも配置があったのですか!! 輸送力だけあればよしだったのですね。信じられない。「サヨナラ模様」の伊藤敏博車掌も震えながら乗務していたのでしょうか。
オタケの朝にあった、のりくら編成については、いつのことかわかりませんが、実態をご紹介するつもりですが、関連記事は
【94】武豊駅からズームイン!!
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201011article_4.html
にございます。
急行 平田町行
操作が車両毎に必要なのも気動車らしいですね。そういえば、巡回中の車掌さんが時折座席下のバルブを操作されていたのを思い出します。
高校の通学でキハ65とキハ58の列車によく乗りました。私が鈍いのか違いを感じる事は余りありませんでしたが、デッキ存置のキハ65に対し、当地のキハ58は仕切りが撤去されての事ですのでやはり元来は暖房は強力なのかもしれませんね。
キハ35は縁も薄く良くは知らないのですが、同じ温水式暖房なのに効きが悪いのが最初疑問でした。しかし考えてみれば両開き扉が片側3箇所では保温も悪そうですし、扉の分だけ放熱管も短いのでしょうから、納得のいく気もします。外吊ドアですと隙間風も多そうに思うのですが、実際はどうだったのでしょうか?
また、キロ28やキハ35のバルブはどこにあったのでしょうか?ロングシートですと、操作するのに乗客に脚を退けてもらって…という情景を想像してしまいました。
キハ40は熱源は一緒でも暖房方式が違ったのですね。稀に巡り合わせるキハ47、車内は暖房もよく効いているのに、窓下のカバーに手をかざしても暖かくなく「?」となった事を思い出しました。関西本線に名ミオの運用というのも、現在の感覚でいくと興味を惹きますね。どのような事情があったのだろうかと想像してしまいます。
しなの7号
急行形は一般に温度が上がってしまえば、ドアの開閉によって外気が入ることが少ないですから温度は保てます。その適温にするまでが、キハ65では時間がかかりました。
キハ35の外吊扉の隙間風はひどかったです。出区時から暖房は常時全開状態でしたが、それでも寒かったので、バルブ調節をした記憶さえも曖昧なほど「調節」する必要がありませんでした。ですからバルブの位置も記憶のかなたです。車両によっては車外にあったような気もしますが、思い出せません。キロ28は普通車同様に中央部座席下にバルブがありました。
美濃太田区所属普通列車用キハの関西本線運用は、この上のほうにあるC58364様への返信コメントに書いたとおりですが、名古屋鉄道管理局の普通列車用気動車の受け持ち区は、当時武豊線用キハ35を除けば美濃太田区だけでした。名古屋区は特急急行用車両で手狭であったとも思えます。武豊線でもかつて多治見区(のちに美濃太田区に統合)や美濃太田区から中央西線を経由して営業列車として車両送り込みをしていたくらいです。